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6話
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凍りついたコリンズ家は、大魔導師のアーノルドと共に、帝都では知らぬ者がいないほど有名だった。
謎の侵入者による時止めの魔法に、突如として発現したアーノルドの魔力。
共鳴で凍りついた館に、その中で時を止めた若き当主。
その全てが人々の好奇心を刺激して、魔力共鳴が起こってしばらくは、コリンズ家に数多の野次馬がおしかけていたそうだ。
オリバーも、何度か自宅を見に行こうとしたのだけれど、未だに実現できずにいる。
機会はいくらでもあったのだが、凍りついた我が家を目にする勇気が出なかったのだ。
それが、今日。とうとう、対面することになる。
オリバーは、いつもより早く起きると、緊張しながらアーノルドの部屋に向かった。
遅刻してはならないと、かなり早めに自室を出たのだが、研究棟の近くまで来ると、入り口の横に目を引く長身の男が立っているのが見えた。
しまった。アーノルドだ。
「コリンズ先生っ……」
まさか、外で待っているとは思わなかった。
あんなに朝の弱かった弟が……いや、徹夜は当たり前な生活をしているようだし、昨晩は寝ていない可能性もある。
慌てて駆けていくと、形良い眉がぐっと寄せられた。
「遅い」
「すみませんっ。お待たせしました」
不満そうな漆黒の目に見下ろされて、オリバーは肩を縮こまらせた。
――アーニー……思ったより背か高い……。
成人したアーノルドの立っている姿は初めて見た。
こうして並び立つと、予想以上の身長差に驚いてしまう。
すっかり年上の男になった弟を見上げて、十五年の時の流れを改めて感じた。
「これから向かわれるのは、コリンズ家の館ですよね?」
何も言わず、足早に歩き始めたアーノルド。
オリバーは、半ば駆け足になって後を追った。
「それが目的で来たんだろ」
「えっと、その……そういう、わけでは……」
気持ちを見透かされていて、オリバーはしどろもどろに言葉を返した。
どうしても、一人では見に行くことのできなかった我が家。
アーノルドとなら、勇気を出せると思ったのだ。
――怖いけど、しっかり現実と向き合わないと……。
背丈と歩調が全く違うアーノルドに小走りでついていきながら、オリバーはざわつく心を落ち着かせようとした。
魔法省とコリンズ家は、徒歩圏内にある。
我が家は、貧乏男爵家とは思えないほど、一等地にあった。
建てたのは五代前の当主で、彼もまた突然変異により強大な魔力を持って生まれた人だった。
この世の常として、魔力のある人々は、より高い魔力を持つ家系との婚姻を求める。
となると、コリンズ家のような弱小魔力の家系は、ずっと弱小のまま生きていくことになる。
そんな中で生まれたのが、五代前の当主だ。
彼は、コリンズ家ではありえないぐらいの強い魔力持ちだった。
弱い魔力の家系から、強大な魔力を持った人間が生まれることも、アーノルドの場合と同様に、突然変異と言われている。
我が家に訪れた変異は、神のいたずらか気まぐれか。
突然の強力な魔法使いの誕生に、コリンズ家は一代だけ隆盛を極めた。
この時の豊かさを、先祖は継続させたかっただろうが、突然変異は総じて、次代にはその魔力が継承されない。
コリンズ家も、すぐに弱小魔力に戻ってしまい、過去の一時に蓄えた財産をけずりながら、少しずつ貧しくなっていった。
凍りついている館は、コリンズ家が一番裕福だった時に建てたもので、間取りも立地も素晴らしかった。
その分、エリオットが当主の時には、維持管理が悩みの種でもあったのだけれど。
――あ……どんどん、家が近くなる……。
魔法省の敷地から、通り慣れた道に出て、オリバーはわずかに足を震わせた。
アーノルドは大股でずんずんと進んでいき、馴染みの景色が周囲に広がる。
この辺りは閑静な住宅街だ。
古い邸宅が並んでいて、十五年経っても、街並みはそんなに変わっていなかった。
――やだな。思った以上に、怖くなってくる――
コリンズ家が近づくにつれて、不安と恐怖が心を重くする。
変わり果てた家を見るのも怖いが、その中には自分自身がいる。
――十五年前から凍りついて、時を止めた僕が――……
胸の中で不安が膨れていくが、アーノルドの歩みは止まらない。
弟と共に、ついに家が見えるところまで来てしまった。
この角を曲がれば、すぐだ。
オリバーは、背中を向けたい衝動を我慢して、大股で歩く大魔導師についていく。
現実を直視するのが、こんなに恐ろしいとは思わなかった。
けれど、きちんと自分の目で見て確かめなければ。
――アーニーにだけ辛い現実を押しつけてるなんて、兄として最低なんだから――……
角を曲がって、我が家の前に歩み出た。
震える胸を服の上から押さえて、オリバーは静かに顔を上げる。
そして、勇気を出して視線を向けると、目の前に、とてつもなく異様な館が現れた。
眩しい太陽の光の中。
二階建ての古い館がきれいに全て凍りつき、氷の塊となって輝いていた。
エリオットが生まれ育ち、アーノルドと暮らしていた家。
沢山の思い出が詰まった大切な場所。
それが、美しい青空の下で凍りついている光景は、気持ちの悪い夢のようだった。
――覚悟はしてたけど……辛い……。我が家の、こんなひどい姿を見るのは――……
顔色をなくして衝撃を受けているオリバーの横で、アーノルドは手早く門扉を開けて、前庭を進んでいく。
「早く入れ」
「……は、はい……」
オリバーは重い心を引きずるようにして、門をくぐった。
敷地内に入った途端に、気温がぐっと下がる。
突然の気温差に鳥肌が立ち、無意識に二の腕をさすった。
分かっていたはずなのに、コリンズ家の変わり果てた姿が胸を貫く。
心の準備をしていた自分でも辛いのだ。
十五年前、突然凍った家を目の当たりにした九歳のアーノルドの絶望は、どれだけのものだっただろうか。
オリバーは、二十四歳のアーノルドを見つめた。
彼は、全く感情の読めない表情で、持ってきた手書きの研究書を広げている。
この十五年間、自分は時間を止めていて、苦しみも悲しみもなかった。
けれど、アーノルドは違う。
凍りついた家と兄を突きつけられ、毎日毎日、深い悲しみと向き合わされていた。
受け止めるには、残酷すぎる現実だ。
初めてアーノルドを見た時、彼は痩せこけて傷だらけだった。
エリオットは、絶対にこの子を幸せにしようと心に誓って、養子に迎えた。
――だけど……アーニーは、コリンズ家に来たことで、不幸を背負ってしまった……。
十五年の時の流れはあまりに長く、アーノルドが心に負った深い傷は、もう取り返しのつかないものだ。
オリバーの見つめる先で、アーノルドが小さく呪文を唱える。
それと同時に、凍りついた家が一瞬だけ光った気がした。
大魔導師は何度も多様な呪文をつむいで、実験のようなことをしている。
自分が側にいても邪魔なだけだろうと、オリバーは静かにその場を離れた。
改めて、凍りついた我が家に視線を巡らせると、開いたままの窓に目が止まる。
――この窓は――……
オリバーは、吸い寄せられるように、中途半端に開いている窓の前に立った。
魔力共鳴が起こった時、ここからアーノルドを外に放り投げた。
迫ってくる氷の恐ろしさも、苦しむ弟の体の重さも、昨日のことのように覚えている。
本当に昨日の出来事ならば、どんなにいいか。
もう二度と独りにしないと約束して、悲しむ弟を強く抱きしめることができるのに。
切なげに瞼を伏せながら、オリバーは窓の縁に手を伸ばす。
指先が冷たい氷に触れた瞬間、手首を強くつかまれた。
「ただの氷じゃない。魔力がない奴が触るな」
「ご、ごめんなさいっ」
いつの間にか側に来ていたアーノルドが、厳しい表情をしてこちらを見下ろしている。
オリバーは再度謝りながら、窓から手を離した。
触れたのは一瞬なのに、指先には冷たい感触が不自然に残っている。
魔力共鳴で生成された氷は、刺激が強いようだ。
「ここだけ開いているから気になったのか?」
「……はい」
頷くと、今度はアーノルドが窓の縁に触れた。
オリバーと違って、魔力の高い大魔導師には悪影響がない様子だ。
「十五年前、この窓から男二人がうちに侵入してきた。そして、魔力共鳴が起こった時……俺は、ここから外に放り出された。家が凍りつく寸前に、俺だけが……」
指先で窓の奥の氷をなぞりながら、漆黒の目が苦しげに細められる。
「この奥に、兄がいる……。自分の身を犠牲にして、俺を助けたまま……時を止めているんだ」
氷の奥は白く不透明で、エリオットの姿は見えなかった。
自分の体が、ここで凍っている。
実感はなく、不思議な気持ちだった。
「……先生は、お兄様を救うために、ずっと研究をしていらっしゃるのですよね」
「それしか、俺の生きる意味はない」
即答された短い言葉の中に感じる、十五年間の深い想い。
「この十五年、何度も想像した。共鳴が起こった時、兄にしがみつくんだ。俺だけ助かることがないように……」
「先生……」
息が止まりそうになるほど、胸が苦しくなる。
あの時、アーノルドを助けたことに後悔はない。
弟が氷に飲み込まれなくて、本当によかったと思っている。
けれど、アーノルドは十五年間、ずっと苦しんでいた。
そして、今も、辛い想いを抱え続けている。
「……先生は……お兄様と一緒に凍っていた方がよかったですか……?」
オリバーは、震える声で聞いた。
「何があろうと、俺が望むのは、兄の隣にいることだけだ」
――アーニーは……僕のことを、そんなにも――……
断言するアーノルドを前に、オリバーはぎゅっと下唇を噛みしめた。
こらえきれなかった想いが、涙となって頬を流れていく。
貧しくて、我慢ばかりさせていた自分の隣で笑ってくれるのが嬉しくて。
この家で、一日一日をゆっくりと重ねて、兄弟で手を取り合って生きていこうと思っていた。
賢く優しいアーノルドは自慢の弟で、幼い彼の成長を見守っていくことが、何よりも勝る喜びだった。
十五年前に弟を助けた時。決して、孤独の中に置き去りにするつもりなんてなかった。
傷だらけの七歳のアーノルドを抱きしめた時に、二度と悲しい思いはさせないと固く決意したのに……。
「同情は不快だ」
涙で頬を濡らすオリバーを、アーノルドは冷たい視線で見下ろした。
「あ……ち、違いますっ。これは――っ」
オリバーは、慌てて袖で涙を拭った。
つい、我慢できずに泣いてしまった。
こんな所でシチュー係に泣かれても、迷惑に決まっているのに。
アーノルドは不機嫌そうに顔を背けると、再び呪文を唱えながら館の裏手に歩いていって、すぐに姿が見えなくなった。
やってしまった。
これまでに散々、同情や哀れみの感情を向けられて、アーノルドは嫌気がさしているだろう。
泣くなんて、彼にとっては一番わずらわしい行為に違いない。
オリバーは深呼吸をして、心を落ち着かせた。
せっかく自分のことを話してくれたのに、嫌な気持ちにさせてしまった。
すぐに謝りにいかないと。
湿っている目元と頬をもう一度しっかり拭うと、急いで家の裏手に向かった。
「コリンズ先生っ。先ほどは失礼しました……先生?」
巨大な氷と化した家を回り込んで駆けていくと、アーノルドが不自然な場所に立って、地面を見下ろしていた。
「どうかされました?」
「ここに掘り返した跡がある」
「え……?」
大魔導師の視線をたどって足元を見ると、部分的に土が柔らかくなっていた。
誰かが大きく穴を掘って、埋めなおしたようだった。
「誰がしたのかは分からないが、魔法で掘り返したんだろう。土の戻し方が甘くて、跡が残っている」
オリバーは、柔らかい土を足で何度か踏みしめた。
「掘られたのは、そんなに前ではなさそうですね」
「先月に来た時には、こんな跡はなかった」
「では、この一か月の間に……」
オリバーの頭の中は、疑問でいっぱいになった。
何もない、家の裏。
掘った者も、掘る理由も、全く見当がつかない。
アーノルドも思い当たらないようで、足元を見下ろしながら考え込んでいる。
「とりあえず、復元させるか」
復元?
一体、何をする気なのか。
問う間もなく、アーノルドが短く呪文を唱える。
すると、目の前に光の玉が現れた。
「わ……っ!?」
不思議な玉は、すぐに猫ぐらいの大きさの異形に変化した。
白い毛むくじゃらの球体のようなそれは、空中でふわふわ浮いている。
これは……従魔だ。
「す、すごい……。私、従魔を初めて見ました」
魔物を異界から召喚して従属させる行為は、高い魔力と知識を要する。
大型の魔物だと、何人もの強い魔法使いの協力が必須となるほどだ。
この魔物は小型だが、それでもかなりの魔力がないと無理だろう。
「普段は、外の倉庫や俺の部屋にいる」
「え!? 常時、顕現させていらっしゃるのですか?」
「この程度の魔物なら何でもない」
こちらの世界に顕現させておくと、常に魔力が大量消費される。
アーノルドの魔力は、一体どれだけのものなのか。
「ダリル。スティーヴン・バンフィールドを呼べ。至急だ。魔法省の転移魔法を使わせろ」
そう命じられると、ダリルと呼ばれた従魔は、一瞬で姿を消した。
謎の侵入者による時止めの魔法に、突如として発現したアーノルドの魔力。
共鳴で凍りついた館に、その中で時を止めた若き当主。
その全てが人々の好奇心を刺激して、魔力共鳴が起こってしばらくは、コリンズ家に数多の野次馬がおしかけていたそうだ。
オリバーも、何度か自宅を見に行こうとしたのだけれど、未だに実現できずにいる。
機会はいくらでもあったのだが、凍りついた我が家を目にする勇気が出なかったのだ。
それが、今日。とうとう、対面することになる。
オリバーは、いつもより早く起きると、緊張しながらアーノルドの部屋に向かった。
遅刻してはならないと、かなり早めに自室を出たのだが、研究棟の近くまで来ると、入り口の横に目を引く長身の男が立っているのが見えた。
しまった。アーノルドだ。
「コリンズ先生っ……」
まさか、外で待っているとは思わなかった。
あんなに朝の弱かった弟が……いや、徹夜は当たり前な生活をしているようだし、昨晩は寝ていない可能性もある。
慌てて駆けていくと、形良い眉がぐっと寄せられた。
「遅い」
「すみませんっ。お待たせしました」
不満そうな漆黒の目に見下ろされて、オリバーは肩を縮こまらせた。
――アーニー……思ったより背か高い……。
成人したアーノルドの立っている姿は初めて見た。
こうして並び立つと、予想以上の身長差に驚いてしまう。
すっかり年上の男になった弟を見上げて、十五年の時の流れを改めて感じた。
「これから向かわれるのは、コリンズ家の館ですよね?」
何も言わず、足早に歩き始めたアーノルド。
オリバーは、半ば駆け足になって後を追った。
「それが目的で来たんだろ」
「えっと、その……そういう、わけでは……」
気持ちを見透かされていて、オリバーはしどろもどろに言葉を返した。
どうしても、一人では見に行くことのできなかった我が家。
アーノルドとなら、勇気を出せると思ったのだ。
――怖いけど、しっかり現実と向き合わないと……。
背丈と歩調が全く違うアーノルドに小走りでついていきながら、オリバーはざわつく心を落ち着かせようとした。
魔法省とコリンズ家は、徒歩圏内にある。
我が家は、貧乏男爵家とは思えないほど、一等地にあった。
建てたのは五代前の当主で、彼もまた突然変異により強大な魔力を持って生まれた人だった。
この世の常として、魔力のある人々は、より高い魔力を持つ家系との婚姻を求める。
となると、コリンズ家のような弱小魔力の家系は、ずっと弱小のまま生きていくことになる。
そんな中で生まれたのが、五代前の当主だ。
彼は、コリンズ家ではありえないぐらいの強い魔力持ちだった。
弱い魔力の家系から、強大な魔力を持った人間が生まれることも、アーノルドの場合と同様に、突然変異と言われている。
我が家に訪れた変異は、神のいたずらか気まぐれか。
突然の強力な魔法使いの誕生に、コリンズ家は一代だけ隆盛を極めた。
この時の豊かさを、先祖は継続させたかっただろうが、突然変異は総じて、次代にはその魔力が継承されない。
コリンズ家も、すぐに弱小魔力に戻ってしまい、過去の一時に蓄えた財産をけずりながら、少しずつ貧しくなっていった。
凍りついている館は、コリンズ家が一番裕福だった時に建てたもので、間取りも立地も素晴らしかった。
その分、エリオットが当主の時には、維持管理が悩みの種でもあったのだけれど。
――あ……どんどん、家が近くなる……。
魔法省の敷地から、通り慣れた道に出て、オリバーはわずかに足を震わせた。
アーノルドは大股でずんずんと進んでいき、馴染みの景色が周囲に広がる。
この辺りは閑静な住宅街だ。
古い邸宅が並んでいて、十五年経っても、街並みはそんなに変わっていなかった。
――やだな。思った以上に、怖くなってくる――
コリンズ家が近づくにつれて、不安と恐怖が心を重くする。
変わり果てた家を見るのも怖いが、その中には自分自身がいる。
――十五年前から凍りついて、時を止めた僕が――……
胸の中で不安が膨れていくが、アーノルドの歩みは止まらない。
弟と共に、ついに家が見えるところまで来てしまった。
この角を曲がれば、すぐだ。
オリバーは、背中を向けたい衝動を我慢して、大股で歩く大魔導師についていく。
現実を直視するのが、こんなに恐ろしいとは思わなかった。
けれど、きちんと自分の目で見て確かめなければ。
――アーニーにだけ辛い現実を押しつけてるなんて、兄として最低なんだから――……
角を曲がって、我が家の前に歩み出た。
震える胸を服の上から押さえて、オリバーは静かに顔を上げる。
そして、勇気を出して視線を向けると、目の前に、とてつもなく異様な館が現れた。
眩しい太陽の光の中。
二階建ての古い館がきれいに全て凍りつき、氷の塊となって輝いていた。
エリオットが生まれ育ち、アーノルドと暮らしていた家。
沢山の思い出が詰まった大切な場所。
それが、美しい青空の下で凍りついている光景は、気持ちの悪い夢のようだった。
――覚悟はしてたけど……辛い……。我が家の、こんなひどい姿を見るのは――……
顔色をなくして衝撃を受けているオリバーの横で、アーノルドは手早く門扉を開けて、前庭を進んでいく。
「早く入れ」
「……は、はい……」
オリバーは重い心を引きずるようにして、門をくぐった。
敷地内に入った途端に、気温がぐっと下がる。
突然の気温差に鳥肌が立ち、無意識に二の腕をさすった。
分かっていたはずなのに、コリンズ家の変わり果てた姿が胸を貫く。
心の準備をしていた自分でも辛いのだ。
十五年前、突然凍った家を目の当たりにした九歳のアーノルドの絶望は、どれだけのものだっただろうか。
オリバーは、二十四歳のアーノルドを見つめた。
彼は、全く感情の読めない表情で、持ってきた手書きの研究書を広げている。
この十五年間、自分は時間を止めていて、苦しみも悲しみもなかった。
けれど、アーノルドは違う。
凍りついた家と兄を突きつけられ、毎日毎日、深い悲しみと向き合わされていた。
受け止めるには、残酷すぎる現実だ。
初めてアーノルドを見た時、彼は痩せこけて傷だらけだった。
エリオットは、絶対にこの子を幸せにしようと心に誓って、養子に迎えた。
――だけど……アーニーは、コリンズ家に来たことで、不幸を背負ってしまった……。
十五年の時の流れはあまりに長く、アーノルドが心に負った深い傷は、もう取り返しのつかないものだ。
オリバーの見つめる先で、アーノルドが小さく呪文を唱える。
それと同時に、凍りついた家が一瞬だけ光った気がした。
大魔導師は何度も多様な呪文をつむいで、実験のようなことをしている。
自分が側にいても邪魔なだけだろうと、オリバーは静かにその場を離れた。
改めて、凍りついた我が家に視線を巡らせると、開いたままの窓に目が止まる。
――この窓は――……
オリバーは、吸い寄せられるように、中途半端に開いている窓の前に立った。
魔力共鳴が起こった時、ここからアーノルドを外に放り投げた。
迫ってくる氷の恐ろしさも、苦しむ弟の体の重さも、昨日のことのように覚えている。
本当に昨日の出来事ならば、どんなにいいか。
もう二度と独りにしないと約束して、悲しむ弟を強く抱きしめることができるのに。
切なげに瞼を伏せながら、オリバーは窓の縁に手を伸ばす。
指先が冷たい氷に触れた瞬間、手首を強くつかまれた。
「ただの氷じゃない。魔力がない奴が触るな」
「ご、ごめんなさいっ」
いつの間にか側に来ていたアーノルドが、厳しい表情をしてこちらを見下ろしている。
オリバーは再度謝りながら、窓から手を離した。
触れたのは一瞬なのに、指先には冷たい感触が不自然に残っている。
魔力共鳴で生成された氷は、刺激が強いようだ。
「ここだけ開いているから気になったのか?」
「……はい」
頷くと、今度はアーノルドが窓の縁に触れた。
オリバーと違って、魔力の高い大魔導師には悪影響がない様子だ。
「十五年前、この窓から男二人がうちに侵入してきた。そして、魔力共鳴が起こった時……俺は、ここから外に放り出された。家が凍りつく寸前に、俺だけが……」
指先で窓の奥の氷をなぞりながら、漆黒の目が苦しげに細められる。
「この奥に、兄がいる……。自分の身を犠牲にして、俺を助けたまま……時を止めているんだ」
氷の奥は白く不透明で、エリオットの姿は見えなかった。
自分の体が、ここで凍っている。
実感はなく、不思議な気持ちだった。
「……先生は、お兄様を救うために、ずっと研究をしていらっしゃるのですよね」
「それしか、俺の生きる意味はない」
即答された短い言葉の中に感じる、十五年間の深い想い。
「この十五年、何度も想像した。共鳴が起こった時、兄にしがみつくんだ。俺だけ助かることがないように……」
「先生……」
息が止まりそうになるほど、胸が苦しくなる。
あの時、アーノルドを助けたことに後悔はない。
弟が氷に飲み込まれなくて、本当によかったと思っている。
けれど、アーノルドは十五年間、ずっと苦しんでいた。
そして、今も、辛い想いを抱え続けている。
「……先生は……お兄様と一緒に凍っていた方がよかったですか……?」
オリバーは、震える声で聞いた。
「何があろうと、俺が望むのは、兄の隣にいることだけだ」
――アーニーは……僕のことを、そんなにも――……
断言するアーノルドを前に、オリバーはぎゅっと下唇を噛みしめた。
こらえきれなかった想いが、涙となって頬を流れていく。
貧しくて、我慢ばかりさせていた自分の隣で笑ってくれるのが嬉しくて。
この家で、一日一日をゆっくりと重ねて、兄弟で手を取り合って生きていこうと思っていた。
賢く優しいアーノルドは自慢の弟で、幼い彼の成長を見守っていくことが、何よりも勝る喜びだった。
十五年前に弟を助けた時。決して、孤独の中に置き去りにするつもりなんてなかった。
傷だらけの七歳のアーノルドを抱きしめた時に、二度と悲しい思いはさせないと固く決意したのに……。
「同情は不快だ」
涙で頬を濡らすオリバーを、アーノルドは冷たい視線で見下ろした。
「あ……ち、違いますっ。これは――っ」
オリバーは、慌てて袖で涙を拭った。
つい、我慢できずに泣いてしまった。
こんな所でシチュー係に泣かれても、迷惑に決まっているのに。
アーノルドは不機嫌そうに顔を背けると、再び呪文を唱えながら館の裏手に歩いていって、すぐに姿が見えなくなった。
やってしまった。
これまでに散々、同情や哀れみの感情を向けられて、アーノルドは嫌気がさしているだろう。
泣くなんて、彼にとっては一番わずらわしい行為に違いない。
オリバーは深呼吸をして、心を落ち着かせた。
せっかく自分のことを話してくれたのに、嫌な気持ちにさせてしまった。
すぐに謝りにいかないと。
湿っている目元と頬をもう一度しっかり拭うと、急いで家の裏手に向かった。
「コリンズ先生っ。先ほどは失礼しました……先生?」
巨大な氷と化した家を回り込んで駆けていくと、アーノルドが不自然な場所に立って、地面を見下ろしていた。
「どうかされました?」
「ここに掘り返した跡がある」
「え……?」
大魔導師の視線をたどって足元を見ると、部分的に土が柔らかくなっていた。
誰かが大きく穴を掘って、埋めなおしたようだった。
「誰がしたのかは分からないが、魔法で掘り返したんだろう。土の戻し方が甘くて、跡が残っている」
オリバーは、柔らかい土を足で何度か踏みしめた。
「掘られたのは、そんなに前ではなさそうですね」
「先月に来た時には、こんな跡はなかった」
「では、この一か月の間に……」
オリバーの頭の中は、疑問でいっぱいになった。
何もない、家の裏。
掘った者も、掘る理由も、全く見当がつかない。
アーノルドも思い当たらないようで、足元を見下ろしながら考え込んでいる。
「とりあえず、復元させるか」
復元?
一体、何をする気なのか。
問う間もなく、アーノルドが短く呪文を唱える。
すると、目の前に光の玉が現れた。
「わ……っ!?」
不思議な玉は、すぐに猫ぐらいの大きさの異形に変化した。
白い毛むくじゃらの球体のようなそれは、空中でふわふわ浮いている。
これは……従魔だ。
「す、すごい……。私、従魔を初めて見ました」
魔物を異界から召喚して従属させる行為は、高い魔力と知識を要する。
大型の魔物だと、何人もの強い魔法使いの協力が必須となるほどだ。
この魔物は小型だが、それでもかなりの魔力がないと無理だろう。
「普段は、外の倉庫や俺の部屋にいる」
「え!? 常時、顕現させていらっしゃるのですか?」
「この程度の魔物なら何でもない」
こちらの世界に顕現させておくと、常に魔力が大量消費される。
アーノルドの魔力は、一体どれだけのものなのか。
「ダリル。スティーヴン・バンフィールドを呼べ。至急だ。魔法省の転移魔法を使わせろ」
そう命じられると、ダリルと呼ばれた従魔は、一瞬で姿を消した。
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あとはたのしみにしている北海道への修学旅行。
だがそんな彼は飛行機が苦手だった。
電車バスはもちろん、ひどい乗り物酔いをするのだった。今回も飛行機で乗り物酔いをおこしトイレにこもっていたら、いつのまにか気を失った?そして、ちがう場所にいた?!
あれ?身の危険?!でも、夢の中だよな?
急死に一生?と思ったら、筋肉ムキムキのワイルドなイケメンに拾われたチアキ。
さらに、何かがおかしいと思ったら3歳児になっていた?!
変なレアスキルや神具、
八百万(やおよろず)の神の加護。
レアチート盛りだくさん?!
半ばあたりシリアス
後半ざまぁ。
訳あり幼児と訳あり集団たちとの物語。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
北海道、アイヌ語、かっこ良さげな名前
お腹がすいた時に食べたい食べ物など
思いついた名前とかをもじり、
なんとか、名前決めてます。
***
お名前使用してもいいよ💕っていう
心優しい方、教えて下さい🥺
悪役には使わないようにします、たぶん。
ちょっとオネェだったり、
アレ…だったりする程度です😁
すでに、使用オッケーしてくださった心優しい
皆様ありがとうございます😘
読んでくださる方や応援してくださる全てに
めっちゃ感謝を込めて💕
ありがとうございます💞
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【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます
夏ノ宮萄玄
BL
オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。
――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。
懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。
義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。
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