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4話
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「コリンズ先生……」
「…………」
「あの……何か、ちょっとした雑用でもあれば……」
「…………」
「……窓を開けて、空気を入れ替えましょうか?」
「…………」
今日も、だめだ。
本と紙と埃まみれな研究室の奥。
壁のような背中は、微動だにせず。
完全無視も相変わらずで、オリバーはこみ上げてくる落胆に視線を下げた。
助手になって一週間。
初日に、きっぱりと拒絶されてからも、諦めずにアーノルドのもとに通っていた。
何か手伝えることはないか。
掃除、洗濯、身の回りの些細なこと。
何でもいいから。
そう言って、毎日のように顔を出して声をかけているが、アーノルドからの反応は全くなかった。
「……私にできることがあれば、すぐにおっしゃってくださいね。今日も、お邪魔しました」
オリバーは動かない背中に頭を下げると、本と書類の隙間を引き返した。
こうして、落ち込んで部屋を出るのが日課になっていて悲しい。
分厚い扉を閉めると、胸を満たす重苦しいものが、ため息となって口から漏れていった。
アーノルド・コリンズの評判は、誰に聞いても、あまり良いものではない。
大魔導師としての社交は一切拒否で、驚くことに皇帝との謁見さえも断っているらしい。
大丈夫なのかと心配になってしまうが、アーノルドは大魔導師になる時、魔力共鳴の研究しかしないという条件を提示したのだという。それを帝国側が了承しているのだから、そんな極端な条件をのんでまでも、アーノルドに大魔導師になってもらいたかったということだ。
二十代にして、おそるべき才能である。
アーノルドは条件通り、研究棟にある自室に引きこもって、魔力共鳴だけを見つめる生活をしている。最低限の身の回りのことは従魔にさせて、本人が部屋から出ることはほとんどなく、稀に顔を見せても、周囲の人間は完全無視。
過去の助手も全て無視で、数日で誰もが辞めたという話だ。
激しい人嫌いは学生の頃からで、この十五年の間に、アーノルドと交流を深めた人間はいないようだった。
大魔導師は、凍りついている兄としか話す気がないのだというのが、帝都民の共通認識だった。
――その兄が、僕なんだけど……上手くいく気がしないな……。
兄のエリオット、いや、オリバーは、研究棟の廊下をとぼとぼと歩きながら、幼い弟の笑顔を思い出して、傷ついた心を癒していた。
アーノルドの無視は、思った以上に精神を蝕んでくる。
来るなと言われているのに、何度も顔を出しているこちらが悪いのだけれど……。
このまま声をかけ続けても、アーノルドとの距離は縮まらないように思う。
完全に助手を辞めさせられるのは時間の問題だ。
――でも……諦めたくない。アーニーの助手でいたいんだ。僕を助けようとして、ずっと研究をしてくれているんだから……。
十五年ぶりに時が動きはじめた土人形のエリオットは、ヘンリーの提案通りに、オリバー・イートンという別の人間になった。
年齢も体格も自分と同じぐらいなので、生活をする上で違和感はないが、まだ鏡を見ると驚いてしまう。
金色の髪は、褐色の髪に。
紺碧の瞳は、飴色の瞳に。
顔立ちは、エリオットよりも芯が強そうで、今までよりも積極的に行動できる気がしてくる。
この容姿は、レイとヘンリーが土人形の生成時に創作したものだが、オリバー・イートンという人間は、きちんと実在している。
ヘンリーの遠縁で、帝都近郊のシビカの街に住んでいたが、数年前に出奔して異国で暮らしているらしく、彼の名前を借りて身分審査を通り抜けていた。立派な犯罪だが、この体が土人形だと誰にもバレずにアーノルドと会うには、この方法が一番だった。
レイとヘンリーには、随分と無理を聞いてもらった。
そんな二人のためにも、助手を続けていきたい。
せめて、無視をされる状況からは抜け出したいが、どうすればいいのか。
壁のような背中を見つめただけで助手が終わってしまうのは、あまりにも不甲斐ない。
完全に辞めさせられてしまう前に、何か少しでも抵抗したかった。
――アーニーの気を引けるような……何か――……
オリバーは、兄弟で過ごした日々を思い返しながら、思考に沈んだ。
二十四歳のアーノルドを振り向かせるには……。
――そうだ……! クロエのシチュー!!
頭の中に、十五年前の夜に交わした約束がよぎった。
果たされることはなかったが、次の日にクロエの作ったシチューを食べようと話していた。
アーノルドの一番の好物だった、たっぷりの根菜と塩漬け豚のシチュー。
クロエの十八番料理でもあり、コリンズ家の食卓によく並んでいた。
この懐かしいシチューを食べれば、アーノルドは口をきいてくれるかもしれない。
弟の好物は自分で作れるようになっておきたくて、退職が決まっていたクロエから、作り方は教わっていた。
何度か、一緒に作ったこともある。
材料や作り方を細かく記した紙が家の中で凍ってしまっているのは残念だが、大体の流れは忘れていない。
何年も不規則な生活を続けて、無理をしているだろうアーノルド。
好物を食べて、少しでも気晴らしをしてほしかった。
――よし。明日、さっそくシチューを作って持っていこう……!
おいしそうにシチューを頬張る幼いアーノルドを思い出して、オリバーは口元を緩ませた。
十五年前の約束を果たせるかもしれないと思うと、嬉しくて足取りが軽くなる。
―― 一人で作るのは初めてだけど、おいしいって思ってもらえるように頑張ろう!
助手になってから一番明るい心持ちで、オリバーは廊下を進んでいった。
研究棟にある広い炊事場は、魔導師や研究員の助手たちが共同で使用している。
高級料理店も驚くほど立派な厨房があり、かなり本格的な料理が作れるようになっていた。
食材や調味料も豊富な品揃えで、魔法で管理されている冷凍室まである贅沢ぶりだった。
初めて案内された時には、野鳥の丸焼きがどんと調理台の上に乗っていて、度肝を抜かれた。
――そういえば……。いつか、贅沢なご馳走を、お腹いっぱい食べさせてあげたいと思ってたけど……。そんな夢を叶えるどころの話じゃなくなってしまったな。
アーノルドがコリンズ家に来たばかりの頃、彼は食事に興味のない様子だった。
何を用意しても、少量を機械的に口に運ぶだけで、このまま何も食べなくなってしまうのではと不安に思うぐらいだった。
しかし、一緒に過ごす時間が増えていくにつれ、少しずつ食事を楽しむようになってくれた。
あれから十五年。大人になった弟は、しっかりと食べているようには見えなかった。
――顔色……悪かったもんな……。隈も濃かったし……。
怒りの表情を浮かべた二十四歳のアーノルドが脳裏をよぎり、オリバーは胸が苦しくなった。
ずっと独りで、誰にも頼らずに。
十五年もの間、どんな思いで生きてきたのだろうか。
考えるだけで、目頭が熱くなってくる。
――こんなところで泣いてはだめだ。
オリバーは、ぎゅっと目元に力を入れた。
どれだけ悲しんでも、十五年前に戻れるわけではない。
深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、オリバーは慣れない手つきで、シチューの材料を調理台に並べた。
今日は早朝から、この炊事場に来ている。
失敗しないように長い時間をかけてシチューを作って、昼前にはアーノルドの部屋へ持っていく予定だった。
カブ、タマネギ、ニンジン。
それから、たっぷりの塩漬け豚肉。
コリンズ家の食卓に並んでいた時は、食費の関係で肉が少なめだったので、今回は沢山入れてしまおうと思う。
クロエも、肉が多めの方が味にコクが出ると言っていた。
――アーニーのことで頭がいっぱいになってたけど……クロエにも随分と心配をかけたよな……。
エリオットが小さな頃から世話になっていた家政婦のクロエ。
コリンズ家が突然あんなことになって、彼女も悲しんだに違いない。
当時、あと十日ほどで退職予定だった。
その後は、帝国東部に住んでいる娘夫婦のところに身を寄せると言っていた。
思わぬ形で退職が早まってしまったが、予定通り、家族のもとへ引っ越していっただろう。
今も元気にしているといいのだけれど。
クロエの丁寧な説明を思い出しながら、野菜と肉を切って、軽く炒めていく。
調理の経験が浅いので、どうしても時間がかかってしまうが、シチューの作り方はそう難しくはない。
食材に火が通るぐらい炒めると、あとは水を入れて煮ていくだけだ。
塩漬け豚肉から出る濃厚な肉汁で、ほとんど味が決まるので、追加の味つけは少しばかりの香辛料とハーブでいい。
そして、隠し味に、ひとかけらのバター。
とろみをつけるために小麦粉を振りかけて、しっかりと混ぜれば出来上がりだ。
なんて、頭では分かっていても、実際には逐一もたついてしまう。
他の助手も近くにいるので、自分の要領の悪さがちょっと恥ずかしい。
皆、テキパキと動いて、簡単な軽食から、とんでもなく豪華な料理まで、何でも完璧に仕上げている。
まるで熟練の料理人のようで、つい感心して見入ってしまう。
何なら、煮炊きのコツなんかも聞いてみたいのだが、朝から誰かと目が合っても、顔を逸らされてしまっていた。
実は、助手になった初日に彼らにも挨拶をしたのだが、ほとんど反応がもらえなかった。
大魔導師にも助手にも無視をされている悲しい現状を、あえて直視しないようにしている。
――……アーニーも助手のみんなも、どうせ僕はすぐにいなくなるって思ってるんだろうな……。
心をいじけさせつつ、味つけを終えると、煮込まれていくシチューをじっと見守った。
勢い余って、かなり大きな鍋で作ってしまった。
アーノルドが食べなかったら、これを全て自分の胃におさめないといけなくなる。
少しだけ不安になるが、弟が口にしてくれることを信じて、オリバーは鍋の中身を一匙すくった。
軽く味見をすると、口内に馴染みのある味が広がった。
――これは……ちゃんとクロエのシチューの味だ!!!
塩漬け豚肉の味がしっかりと溶け込んで、ほろほろの野菜にしみている。
アーノルドが大好きな味だ。
これを食べてくれさえすれば、少しぐらいの会話は発生するはず。
オリバーは味に満足すると、魔法かまどの火を切った。ここのかまどは魔力がなくても扱えるので、非常にありがたい。
大きめの木の皿に肉と野菜をたっぷりと盛って、パンとサラダも添えて盆に乗せると、初心者にしては上手く作れたような気になってくる。
どうか、一口だけでも食べてくれますように。
そう願いながら、オリバーはシチューの乗った盆を持ち上げた。
そして、日課になっている、細く長い廊下を進んでいく。
大魔導師の部屋は、研究棟の奥の奥。
まるで隔絶されているような場所が、どれだけ人を嫌っているのかを物語っている。
「コリンズ先生。イートンです」
奥の奥に到着すると、盆を片手で支えて、分厚い扉をたたいた。
もちろん、返事はない。
「先生。失礼しますね」
勝手な入室は不躾だと気にするのは、もうやめている。
オリバーは、埃が舞わないように静かに扉を開けて、そっと室内に足を踏み入れた。
シチューをこぼさないように気をつけながら、本や書類の横を忍び足で通り抜ける。
危険な山々を超えると、アーノルドは変わらず机に向かっていた。
「お疲れ様です。今日は雲一つない晴天ですよ」
「…………」
「もう、昼食はとられました? 今日は、シチューを持ってきたんです。よかったら、召し上がっていただけませんか?」
「…………」
「料理は始めたばかりなのですが、このシチューは上手く作れたんですよ」
「…………」
早速、心が折れそうだ。
アーノルドの中で、助手が全く存在しないものになっている。
オリバーは、萎縮しそうな心を奮い立たせて、言葉をつむいだ。
「私は……先生の助手になれたことがすごく嬉しかったんです。ご迷惑だとは分かっているのですが、何か一つでも助手として役に立ちたくて……」
動かない背中を、オリバーは一心に見つめる。
「食事なら用意できると思って、作ってみました」
「…………」
「シチューが苦手でなかったら、どうか一口だけでも……」
切実な声音で願うと、一週間ぶりに、アーノルドが振り返った。
漆黒の瞳が、鋭い視線をこちら向けてくる。
「食べたら助手をやめろ。いいな」
「え……」
乱暴な命令に驚く間もなく、アーノルドにシチューが乗った盆を奪われた。
――そんな……。どうしよう。アーニーに会えるのが、これで最後になってしまう……!
助手を辞めたくない。
口封じの魔法を緩めてもらって、アーノルドに自分のことを話せるようになるまでは、側にいたいのに。
助手を続けていくのは、どうしても無理なのか。
アーノルドは、嫌そうにスプーンを皿に突っ込むと、荒っぽい仕草でシチューを口に入れた。
これで、短い助手生活は終わりかと、オリバーは落胆しかけたが……。
「……これは、お前だけで作ったのか?」
シチューを一口食べたアーノルドの動きが止まった。
「そ、そうですっ」
「誰かに習ったのか?」
「えっと、祖母に……」
とっさに嘘をついてしまったが、幸いにも、それ以上の質問は飛んでこなかった。
アーノルドは、こちらのことはお構いなしの様子だ。おそろしい速さでシチューを食べている。
作ってよかったと心から思えるほどの、いい食べっぷりだった。
十五年ぶりだが、クロエの味だと気づいてくれたのだろうか。
アーノルドは、無言でシチューをたいらげると、他は一切手をつけずにスプーンを置いた。
「食べてもらえて嬉しいです。気に入ってくださいましたか?」
ぐるりとアーノルドがこちらに振り向く。
九歳の時とは別人のような、冷たい漆黒の目に、じっと見つめられる。
少し前まで、弟の視線に緊張する日が来るとは、想像すらしていなかった。
「毎日、シチューを作れ」
「えっ……シチューを……ですか?」
予想外の命令に、目を丸くする。
しかし、この言葉は、オリバーにとって嬉しいものだった。
「助手をやめなくていいのですか?」
「助手じゃない。シチュー係だ」
「シチュー係……」
何というか……斬新な響きだ。
「毎日、シチューを作って持ってこい。鍋ごとだ」
「そんなに沢山――」
「保存魔法をかければ腐らない」
すごい……。
大魔導師の魔力に、改めて感動してしまった。
保存魔法は、夢物語ではと思うほどの高度な魔法だ。
そんなものを、当たり前のように使えるなんて。
魔法省の炊事場でさえ、保存は魔法による冷蔵や冷凍だというのに。
「このシチューは、まだあるのか?」
「は、はいっ」
「すぐに全部持ってこい」
おかわりが、まさかの鍋ごとで驚いてしまう。
そんなに、お腹が減っているのか。
「早くしろ」
「はいっ」
オリバーは慌てて体の向きを変えると、部屋を出て炊事場に向かった。
小走りで廊下を進みながら、思わず笑みを浮かべてしまう。
――よかった……アーニーが食べてくれた……!
鍋ごと要求するほど気に入ってくれたのだと思うと、喜びが胸の奥から湧きあがってくる。
どうすれば助手が続けられるのかと悩んでいたけれど。
クロエのシチューが、希望をつないでくれた。
大魔導師のシチュー係。
その響きがおかしくて、笑い声を漏らしてしまう。
魔力も知識もない自分には、ちょうどいい役割かもしれない。
これで、もう無視をされることはないだろう。
―― 一歩前進した……かな?
贅沢を言えば、今のアーノルドのことをもっと知りたい。
それで、レイたちを説得できるほど仲を縮めることができたら……。
口封じの魔法を緩めて、アーノルドにだけでも本当のことを話せるように、頼みに行こうと思う。
――これからの課題は山積みだ。頑張らないと……!
まずは、アーノルドの顔色を少しでも改善したい。
あの濃い隈を薄くしなければと、兄としての使命感にかられるのだった。
「…………」
「あの……何か、ちょっとした雑用でもあれば……」
「…………」
「……窓を開けて、空気を入れ替えましょうか?」
「…………」
今日も、だめだ。
本と紙と埃まみれな研究室の奥。
壁のような背中は、微動だにせず。
完全無視も相変わらずで、オリバーはこみ上げてくる落胆に視線を下げた。
助手になって一週間。
初日に、きっぱりと拒絶されてからも、諦めずにアーノルドのもとに通っていた。
何か手伝えることはないか。
掃除、洗濯、身の回りの些細なこと。
何でもいいから。
そう言って、毎日のように顔を出して声をかけているが、アーノルドからの反応は全くなかった。
「……私にできることがあれば、すぐにおっしゃってくださいね。今日も、お邪魔しました」
オリバーは動かない背中に頭を下げると、本と書類の隙間を引き返した。
こうして、落ち込んで部屋を出るのが日課になっていて悲しい。
分厚い扉を閉めると、胸を満たす重苦しいものが、ため息となって口から漏れていった。
アーノルド・コリンズの評判は、誰に聞いても、あまり良いものではない。
大魔導師としての社交は一切拒否で、驚くことに皇帝との謁見さえも断っているらしい。
大丈夫なのかと心配になってしまうが、アーノルドは大魔導師になる時、魔力共鳴の研究しかしないという条件を提示したのだという。それを帝国側が了承しているのだから、そんな極端な条件をのんでまでも、アーノルドに大魔導師になってもらいたかったということだ。
二十代にして、おそるべき才能である。
アーノルドは条件通り、研究棟にある自室に引きこもって、魔力共鳴だけを見つめる生活をしている。最低限の身の回りのことは従魔にさせて、本人が部屋から出ることはほとんどなく、稀に顔を見せても、周囲の人間は完全無視。
過去の助手も全て無視で、数日で誰もが辞めたという話だ。
激しい人嫌いは学生の頃からで、この十五年の間に、アーノルドと交流を深めた人間はいないようだった。
大魔導師は、凍りついている兄としか話す気がないのだというのが、帝都民の共通認識だった。
――その兄が、僕なんだけど……上手くいく気がしないな……。
兄のエリオット、いや、オリバーは、研究棟の廊下をとぼとぼと歩きながら、幼い弟の笑顔を思い出して、傷ついた心を癒していた。
アーノルドの無視は、思った以上に精神を蝕んでくる。
来るなと言われているのに、何度も顔を出しているこちらが悪いのだけれど……。
このまま声をかけ続けても、アーノルドとの距離は縮まらないように思う。
完全に助手を辞めさせられるのは時間の問題だ。
――でも……諦めたくない。アーニーの助手でいたいんだ。僕を助けようとして、ずっと研究をしてくれているんだから……。
十五年ぶりに時が動きはじめた土人形のエリオットは、ヘンリーの提案通りに、オリバー・イートンという別の人間になった。
年齢も体格も自分と同じぐらいなので、生活をする上で違和感はないが、まだ鏡を見ると驚いてしまう。
金色の髪は、褐色の髪に。
紺碧の瞳は、飴色の瞳に。
顔立ちは、エリオットよりも芯が強そうで、今までよりも積極的に行動できる気がしてくる。
この容姿は、レイとヘンリーが土人形の生成時に創作したものだが、オリバー・イートンという人間は、きちんと実在している。
ヘンリーの遠縁で、帝都近郊のシビカの街に住んでいたが、数年前に出奔して異国で暮らしているらしく、彼の名前を借りて身分審査を通り抜けていた。立派な犯罪だが、この体が土人形だと誰にもバレずにアーノルドと会うには、この方法が一番だった。
レイとヘンリーには、随分と無理を聞いてもらった。
そんな二人のためにも、助手を続けていきたい。
せめて、無視をされる状況からは抜け出したいが、どうすればいいのか。
壁のような背中を見つめただけで助手が終わってしまうのは、あまりにも不甲斐ない。
完全に辞めさせられてしまう前に、何か少しでも抵抗したかった。
――アーニーの気を引けるような……何か――……
オリバーは、兄弟で過ごした日々を思い返しながら、思考に沈んだ。
二十四歳のアーノルドを振り向かせるには……。
――そうだ……! クロエのシチュー!!
頭の中に、十五年前の夜に交わした約束がよぎった。
果たされることはなかったが、次の日にクロエの作ったシチューを食べようと話していた。
アーノルドの一番の好物だった、たっぷりの根菜と塩漬け豚のシチュー。
クロエの十八番料理でもあり、コリンズ家の食卓によく並んでいた。
この懐かしいシチューを食べれば、アーノルドは口をきいてくれるかもしれない。
弟の好物は自分で作れるようになっておきたくて、退職が決まっていたクロエから、作り方は教わっていた。
何度か、一緒に作ったこともある。
材料や作り方を細かく記した紙が家の中で凍ってしまっているのは残念だが、大体の流れは忘れていない。
何年も不規則な生活を続けて、無理をしているだろうアーノルド。
好物を食べて、少しでも気晴らしをしてほしかった。
――よし。明日、さっそくシチューを作って持っていこう……!
おいしそうにシチューを頬張る幼いアーノルドを思い出して、オリバーは口元を緩ませた。
十五年前の約束を果たせるかもしれないと思うと、嬉しくて足取りが軽くなる。
―― 一人で作るのは初めてだけど、おいしいって思ってもらえるように頑張ろう!
助手になってから一番明るい心持ちで、オリバーは廊下を進んでいった。
研究棟にある広い炊事場は、魔導師や研究員の助手たちが共同で使用している。
高級料理店も驚くほど立派な厨房があり、かなり本格的な料理が作れるようになっていた。
食材や調味料も豊富な品揃えで、魔法で管理されている冷凍室まである贅沢ぶりだった。
初めて案内された時には、野鳥の丸焼きがどんと調理台の上に乗っていて、度肝を抜かれた。
――そういえば……。いつか、贅沢なご馳走を、お腹いっぱい食べさせてあげたいと思ってたけど……。そんな夢を叶えるどころの話じゃなくなってしまったな。
アーノルドがコリンズ家に来たばかりの頃、彼は食事に興味のない様子だった。
何を用意しても、少量を機械的に口に運ぶだけで、このまま何も食べなくなってしまうのではと不安に思うぐらいだった。
しかし、一緒に過ごす時間が増えていくにつれ、少しずつ食事を楽しむようになってくれた。
あれから十五年。大人になった弟は、しっかりと食べているようには見えなかった。
――顔色……悪かったもんな……。隈も濃かったし……。
怒りの表情を浮かべた二十四歳のアーノルドが脳裏をよぎり、オリバーは胸が苦しくなった。
ずっと独りで、誰にも頼らずに。
十五年もの間、どんな思いで生きてきたのだろうか。
考えるだけで、目頭が熱くなってくる。
――こんなところで泣いてはだめだ。
オリバーは、ぎゅっと目元に力を入れた。
どれだけ悲しんでも、十五年前に戻れるわけではない。
深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、オリバーは慣れない手つきで、シチューの材料を調理台に並べた。
今日は早朝から、この炊事場に来ている。
失敗しないように長い時間をかけてシチューを作って、昼前にはアーノルドの部屋へ持っていく予定だった。
カブ、タマネギ、ニンジン。
それから、たっぷりの塩漬け豚肉。
コリンズ家の食卓に並んでいた時は、食費の関係で肉が少なめだったので、今回は沢山入れてしまおうと思う。
クロエも、肉が多めの方が味にコクが出ると言っていた。
――アーニーのことで頭がいっぱいになってたけど……クロエにも随分と心配をかけたよな……。
エリオットが小さな頃から世話になっていた家政婦のクロエ。
コリンズ家が突然あんなことになって、彼女も悲しんだに違いない。
当時、あと十日ほどで退職予定だった。
その後は、帝国東部に住んでいる娘夫婦のところに身を寄せると言っていた。
思わぬ形で退職が早まってしまったが、予定通り、家族のもとへ引っ越していっただろう。
今も元気にしているといいのだけれど。
クロエの丁寧な説明を思い出しながら、野菜と肉を切って、軽く炒めていく。
調理の経験が浅いので、どうしても時間がかかってしまうが、シチューの作り方はそう難しくはない。
食材に火が通るぐらい炒めると、あとは水を入れて煮ていくだけだ。
塩漬け豚肉から出る濃厚な肉汁で、ほとんど味が決まるので、追加の味つけは少しばかりの香辛料とハーブでいい。
そして、隠し味に、ひとかけらのバター。
とろみをつけるために小麦粉を振りかけて、しっかりと混ぜれば出来上がりだ。
なんて、頭では分かっていても、実際には逐一もたついてしまう。
他の助手も近くにいるので、自分の要領の悪さがちょっと恥ずかしい。
皆、テキパキと動いて、簡単な軽食から、とんでもなく豪華な料理まで、何でも完璧に仕上げている。
まるで熟練の料理人のようで、つい感心して見入ってしまう。
何なら、煮炊きのコツなんかも聞いてみたいのだが、朝から誰かと目が合っても、顔を逸らされてしまっていた。
実は、助手になった初日に彼らにも挨拶をしたのだが、ほとんど反応がもらえなかった。
大魔導師にも助手にも無視をされている悲しい現状を、あえて直視しないようにしている。
――……アーニーも助手のみんなも、どうせ僕はすぐにいなくなるって思ってるんだろうな……。
心をいじけさせつつ、味つけを終えると、煮込まれていくシチューをじっと見守った。
勢い余って、かなり大きな鍋で作ってしまった。
アーノルドが食べなかったら、これを全て自分の胃におさめないといけなくなる。
少しだけ不安になるが、弟が口にしてくれることを信じて、オリバーは鍋の中身を一匙すくった。
軽く味見をすると、口内に馴染みのある味が広がった。
――これは……ちゃんとクロエのシチューの味だ!!!
塩漬け豚肉の味がしっかりと溶け込んで、ほろほろの野菜にしみている。
アーノルドが大好きな味だ。
これを食べてくれさえすれば、少しぐらいの会話は発生するはず。
オリバーは味に満足すると、魔法かまどの火を切った。ここのかまどは魔力がなくても扱えるので、非常にありがたい。
大きめの木の皿に肉と野菜をたっぷりと盛って、パンとサラダも添えて盆に乗せると、初心者にしては上手く作れたような気になってくる。
どうか、一口だけでも食べてくれますように。
そう願いながら、オリバーはシチューの乗った盆を持ち上げた。
そして、日課になっている、細く長い廊下を進んでいく。
大魔導師の部屋は、研究棟の奥の奥。
まるで隔絶されているような場所が、どれだけ人を嫌っているのかを物語っている。
「コリンズ先生。イートンです」
奥の奥に到着すると、盆を片手で支えて、分厚い扉をたたいた。
もちろん、返事はない。
「先生。失礼しますね」
勝手な入室は不躾だと気にするのは、もうやめている。
オリバーは、埃が舞わないように静かに扉を開けて、そっと室内に足を踏み入れた。
シチューをこぼさないように気をつけながら、本や書類の横を忍び足で通り抜ける。
危険な山々を超えると、アーノルドは変わらず机に向かっていた。
「お疲れ様です。今日は雲一つない晴天ですよ」
「…………」
「もう、昼食はとられました? 今日は、シチューを持ってきたんです。よかったら、召し上がっていただけませんか?」
「…………」
「料理は始めたばかりなのですが、このシチューは上手く作れたんですよ」
「…………」
早速、心が折れそうだ。
アーノルドの中で、助手が全く存在しないものになっている。
オリバーは、萎縮しそうな心を奮い立たせて、言葉をつむいだ。
「私は……先生の助手になれたことがすごく嬉しかったんです。ご迷惑だとは分かっているのですが、何か一つでも助手として役に立ちたくて……」
動かない背中を、オリバーは一心に見つめる。
「食事なら用意できると思って、作ってみました」
「…………」
「シチューが苦手でなかったら、どうか一口だけでも……」
切実な声音で願うと、一週間ぶりに、アーノルドが振り返った。
漆黒の瞳が、鋭い視線をこちら向けてくる。
「食べたら助手をやめろ。いいな」
「え……」
乱暴な命令に驚く間もなく、アーノルドにシチューが乗った盆を奪われた。
――そんな……。どうしよう。アーニーに会えるのが、これで最後になってしまう……!
助手を辞めたくない。
口封じの魔法を緩めてもらって、アーノルドに自分のことを話せるようになるまでは、側にいたいのに。
助手を続けていくのは、どうしても無理なのか。
アーノルドは、嫌そうにスプーンを皿に突っ込むと、荒っぽい仕草でシチューを口に入れた。
これで、短い助手生活は終わりかと、オリバーは落胆しかけたが……。
「……これは、お前だけで作ったのか?」
シチューを一口食べたアーノルドの動きが止まった。
「そ、そうですっ」
「誰かに習ったのか?」
「えっと、祖母に……」
とっさに嘘をついてしまったが、幸いにも、それ以上の質問は飛んでこなかった。
アーノルドは、こちらのことはお構いなしの様子だ。おそろしい速さでシチューを食べている。
作ってよかったと心から思えるほどの、いい食べっぷりだった。
十五年ぶりだが、クロエの味だと気づいてくれたのだろうか。
アーノルドは、無言でシチューをたいらげると、他は一切手をつけずにスプーンを置いた。
「食べてもらえて嬉しいです。気に入ってくださいましたか?」
ぐるりとアーノルドがこちらに振り向く。
九歳の時とは別人のような、冷たい漆黒の目に、じっと見つめられる。
少し前まで、弟の視線に緊張する日が来るとは、想像すらしていなかった。
「毎日、シチューを作れ」
「えっ……シチューを……ですか?」
予想外の命令に、目を丸くする。
しかし、この言葉は、オリバーにとって嬉しいものだった。
「助手をやめなくていいのですか?」
「助手じゃない。シチュー係だ」
「シチュー係……」
何というか……斬新な響きだ。
「毎日、シチューを作って持ってこい。鍋ごとだ」
「そんなに沢山――」
「保存魔法をかければ腐らない」
すごい……。
大魔導師の魔力に、改めて感動してしまった。
保存魔法は、夢物語ではと思うほどの高度な魔法だ。
そんなものを、当たり前のように使えるなんて。
魔法省の炊事場でさえ、保存は魔法による冷蔵や冷凍だというのに。
「このシチューは、まだあるのか?」
「は、はいっ」
「すぐに全部持ってこい」
おかわりが、まさかの鍋ごとで驚いてしまう。
そんなに、お腹が減っているのか。
「早くしろ」
「はいっ」
オリバーは慌てて体の向きを変えると、部屋を出て炊事場に向かった。
小走りで廊下を進みながら、思わず笑みを浮かべてしまう。
――よかった……アーニーが食べてくれた……!
鍋ごと要求するほど気に入ってくれたのだと思うと、喜びが胸の奥から湧きあがってくる。
どうすれば助手が続けられるのかと悩んでいたけれど。
クロエのシチューが、希望をつないでくれた。
大魔導師のシチュー係。
その響きがおかしくて、笑い声を漏らしてしまう。
魔力も知識もない自分には、ちょうどいい役割かもしれない。
これで、もう無視をされることはないだろう。
―― 一歩前進した……かな?
贅沢を言えば、今のアーノルドのことをもっと知りたい。
それで、レイたちを説得できるほど仲を縮めることができたら……。
口封じの魔法を緩めて、アーノルドにだけでも本当のことを話せるように、頼みに行こうと思う。
――これからの課題は山積みだ。頑張らないと……!
まずは、アーノルドの顔色を少しでも改善したい。
あの濃い隈を薄くしなければと、兄としての使命感にかられるのだった。
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