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3話
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大帝国グランスターの帝都ウォルマスは、堅固な結界と高位の従魔に守られる、世界有数の魔法都市だ。
かつて、争いと侵略が続いた時代。守備が脆弱であったこの都市は、敵国の連合軍により攻め入られて、壊滅状態にまで追い込まれた。
その後、幾度かの戦いを乗り越えながら復興していく中で、人々はウォルマスを、二度と誰にも侵略されぬ世界一の堅剛な都市にしようと決起し、強い都市づくりに心血をそそいだ。長い苦労の末に、彼らの熱意は実を結び、ウォルマスは強大な帝都として名をとどろかせていった。
現在、そんな世界最大級の魔法都市を維持管理しているのが、省庁の中では一番古い歴史を持つ魔法省である。
国中から集まった高い魔力と知識を持った魔法使いが仕官し、広大な国土と権力を有するグランスター帝国の揺るぎない政の要となっている。
当然だが、魔法省で働くには厳しい審査があり、仕官しているのは、非常に高度な能力を持つ魔法使いだ。
そして、その優秀な者たちの中で、飛びぬけた実力と功績を積んだ人物に与えられるのが、大魔導師の位だ。
この位は、そう簡単に授与されるものではなく、ここ二十年近くは空位だった。
しかし、三年前。
帝国の歴史を揺るがすような人物が、大魔導師の位に就いた。
アーノルド・コリンズ。
二十一歳の若き魔法使いに授与されたという衝撃の事実に、帝国の人々は驚きに沸いた。
アーノルドは、帝国の特別奨学金と飛び級制度を利用して、十五歳でアップルビー魔法学園を主席卒業後、魔法省に入省。学術開発課の研究員となると、本人が強く希望していた魔力共鳴の研究に取り組み、その過程で様々な魔法術を確立していった。
彼の功績はすさまじいもので、たった数年で皇帝に認められると、二十一歳で大魔導師となった。
一躍有名になった若き天才は、生い立ちも非常に劇的なもので、悲劇と奇跡の大魔導師と呼ばれたアーノルドの話は、瞬く間に帝国の隅々まで広がっていき、人々の関心をさらっていった。
虐待を受けていた幼少期、そして、養子として迎えられたコリンズ家で起こった魔力共鳴。突然変異で得た高い魔力と明晰な頭脳。二十一歳という若さで得た大魔導師の地位。
まるで物語の主人公のような彼に、周囲は様々な感情を向けた。
同情、憐憫、羨望、嫉妬。
特に帝都の人間は、容赦なく好奇の視線を浴びせたが、そんなものは意にも介さず、大魔導師アーノルド・コリンズは、魔法省にある研究棟の奥深くで、今日もひたすらに魔力共鳴と向き合っていた。
この奥で合っているのだろうか。
オリバー・イートンは、心細い足取りで研究棟の廊下を進んでいた。
今日は、助手として初めて大魔導師に会う、とても大事な日。
先程から、緊張で心臓がものすごい音をたてて鼓動している。
色んな感情が胸の中で渦巻いていて、わずかに膝も震えていた。
大魔導師の研究室は、事前に場所を教えてもらっている。
説明された通りの道筋を進んでいるのだけれど、近づくにつれて周囲が薄暗くなってきている気がした。
泣く子も黙る大魔導師の研究室が、まるで封印されたかのような、こんな最奥にあるなんて。
――これは、想像以上だな……。
オリバーは、大魔導師について知り得た情報を頭の中に巡らせた。
若き天才、アーノルド・コリンズは、気難しい男で有名だった。
異常なほどの人嫌いで、協調性は皆無。
普段は誰とも関わろうとせずに、自室で研究に没頭している。
彼の研究室の周辺は、まるで立ち入り禁止になっているかのように静かだという話だった。実際、全くひと気がなくて、この廊下を進むことを許されているのだろうかと心配になってくる。
――助手なんだから、大丈夫……だよね……?
魔法省で働く魔導師には、助手を置く決まりがあるそうだ。
研究の補佐から、日常の家事手伝いまで。
だいたい、一人の魔導師につき、五人ぐらいの助手を抱えるのが常らしい。
しかし、大魔導師のアーノルドは、全てを拒否。
それでも、過去に何人か助手を置いたことがあったようだが、全て数日で辞めてしまったという。
話を聞けば聞くほど、そこまで気難しい人の助手が、自分に務まる気はしなくなる。
けれど、バンフィールド家とメリアム家の両方に推薦してもらい、どうにか助手として、ここまで来られたのだ。
――精一杯、頑張ろう……!
アーノルド・コリンズの助手である、オリバー・イートンとして。
決意のこぶしを握りながら廊下を曲がると、奥に扉が見えた。
ここが、大魔導師の研究室……。
まだ本人に会えていないというのに、緊張がものすごいことになってきた。
カラカラに乾いた口の中。
高鳴る鼓動は激しすぎて、もはや全身が心臓になったようだ。
――いけない。少しは落ち着かないと……。
扉の前に立つと、オリバーは深呼吸をした。
何度も、何度も。
しかし、緊張は少しも去らず、しまいには呼吸が震えてきた。
もちろん、呼吸だけではない。
全身が、緊張で震えている。
年期の入った扉を見ているだけで、色々な思いで心が爆発しそうになってしまう。
この向こうには、大魔導師がいる。
二十四歳のアーノルドが――……。
オリバーは体の芯に力を込めると、震える手で扉をたたいた。
すぐに耳を澄ませて返事を待つが、物音一つしない。
ためらいながら何度かたたくが、全く返答がなかった。
おかしい。
新しい助手が来るのは、伝えてあるはずだ。
オリバーは勇気を出して、声を発した。
「コリンズ先生……いらっしゃいますか?」
静寂。
「今日から助手として参りました。オリバー・イートンです」
静寂。
「先生……」
どうしよう。
外出はしていないと思うのだけれど。
「お返事をいただけませんでしょうか。コリンズ先生……」
……静寂。
「……あの、ご挨拶だけでも……」
静寂に次ぐ静寂。
――そんな……。会えずに終わることだけは、絶対に避けたいのにっ。
礼を欠くが、こうなれば強硬手段だ。
「コリンズ先生、入りますよ……!」
オリバーは扉を開けて、静寂が続く室内に足を踏み入れた。
――うっ……暗くて、ほこりっぽい……。
目の前に現れたのは、山のように積まれた本や資料。
それらは、もれなく埃にまみれて、窓からの光をほとんど遮断していた。
オリバーは、むせそうになるのをぐっとこらえた。
こんなところで、本当に研究をしているのか。
乱雑に置かれた本や資料と埃の山を前に、思わず顔を引きつらせた。
正直、この部屋に人間がいるとは思えない。
長年放置された資料室だと言われた方が納得がいく。
けれど、確かに大魔導師はここにいると教えられた。
「奥にいらっしゃいますか……? 失礼しますね……」
……静寂!
いるのかいないのか分からないが、オリバーは奥に進むことにした。
静かに、静かに。
資料の山を崩さないように、踏まないように、慎重に足を進める。
これは……誰もいないのではないだろうか。
やはり、部屋を間違えてしまったかと思った瞬間。
「……あっ、書類が――」
腕が積まれた書類にぶつかってしまい、紙の山が盛大に崩れた。
「え、わぁっ……!!」
足元に広がった紙を拾おうとして膝をつくと、今度は本の山に腰があたって、盛大に崩れた。
「あ、ああ……っ!!!」
慌てるオリバーをあざ笑うかのように、周りの山々が連鎖して派手に崩れ落ちていく。
「えっ、待って……っ。そんな――」
足元に雪崩のように広がった、数多の本や書類たち。
瞬く間に起きた大惨事に、目の前が暗くなる。
絶望的な気持ちになっていると、辺りを舞っている埃で、思いきりむせてしまった。
――僕は、何をしてるんだ……。
まだ大魔導師に会えてすらいないというのに。
オリバーは何度もむせながら、資料と本を再び積んでいく。
こんなに大きな物音をたてているのに、部屋の奥からは何の反応もない。
本当に、別の部屋なのだろうか。
――けど、一番奥の研究室って、どう考えてもここなんだけどなぁ……。
ぐずぐずと考えながら、どうにか本たちを積み終えた。
重ねる順番までは、もう悩まないでおく。
とにかく、部屋の奥まで見てみようと、オリバーはそっと腰を上げた。
今度は、細心の注意をはらって、資料と本の隙間を歩いていく。
一際高く本が積まれている横をゆっくりと通り過ぎると、紙に埋もれた木製の机の端が視界に現れた。
そして、身を乗り出すようにして、もっと奥をのぞくと……。
――いたっ――!!!!!
書類や本が乱雑に積まれた机で、一人の男が書き物をしていた。
オリバーには気づいているだろうに、完全無視だ。
今にも崩れそうな本の山の間で、黙々と万年筆を走らせ続けている。
彼の前には、様々な魔法理論や魔法陣の図解が貼られて、壁を埋め尽くしていた。
大魔導師の八年間にわたる研究の軌跡だ。
「コリンズ先生、あの――」
「帰れ」
オリバーの声が、低く尖った声に遮られた。
端的でいて強い拒絶に、身がすくむ。
こちらに向いている背中は、少しも動かなくて、分厚い壁のように感じた。
「せ、先生……ご挨拶だけでも――」
「助手は不要だ」
「ですが……」
「無駄だ」
取りつく島もない。
しかし、顔も見ていないのに、これで諦めるわけにはいかない。
「私、オリバー・イートンといいます。魔力も知識もないので、研究のお手伝いはできませんが、雑用係として頑張りますので――」
「聞こえなかったのか?」
怒りがにじんだ声と共に、大魔導師がこちらを向いた。
オリバーの飴色の瞳に、不機嫌な男の顔が映った。
洗いざらしの、無造作な黒髪。
いかめしく寄せられた形よい眉。
不愉快そうに細められた、切れ長の漆黒の目。
男らしく、しっかりと通った鼻筋に、薄めの唇。
端正でいて精悍な青年を前に、オリバーは目をみはった。
彼が、二十四歳のアーノルド・コリンズ。
高い魔力と、明晰な頭脳を持つ、史上最年少の天才大魔導師。
そして、エリオット・コリンズの弟。
半ば呆然と見つめていると、大魔導師の怒りが深まったのが分かった。
「今すぐ帰れ。ついでに、二度と助手を寄こすなと、上の人間に伝えておけ」
大魔導師は再び背を向けて、書き物を再開した。
「コリンズ先生……」
呼びかけても、当然ながら返事はない。
「……私は、少しでも先生のお役に立ちたくて……」
「…………」
無視に、心が痛くなる。
もう、何を言っても、大魔導師が振り返ることはないだろう。
オリバーは、失意を心に宿しながら、そっと顔を伏せた。
「研究のお邪魔をしてしまって、申し訳ありませんでした……」
壁のような背中に頭を下げると、本と資料の山の間を静かに戻っていく。
――アーニーに会えた……会えたけど――……
オリバーは部屋から出ると、閉じた古い扉にすがりつくようにして、体を震わせた。
目頭が熱くなり、漏れそうになった嗚咽を、必死に我慢する。
胸の苦しみは身を引き裂くようで、土人形は、心の造りまで精巧だ。
オリバー・イートンのふりをしている土人形のエリオット・コリンズは、ぐっと下唇を噛みしめた。
まだ、どこか現実味がなかったのだと思う。
幼いアーノルドと過ごした日々から、十五年も経っているなんて。
でも、確かに時は流れていた。
この部屋の中にいたのは、紛れもなく二十四歳の弟だった。
驚くほど端正な青年だったが、エリオットが知っているアーノルドの面影がしっかりと感じられて……。
甘えん坊で可愛らしい弟は、立派な成長をとげていた。
けれど、顔色は悪く、目の下には濃い隈が刻まれていた。
きっと、不規則な生活をしているのだろう。
そして、誰も寄せつけようとしない、拒絶に満ちた漆黒の目。
エリオットは、兄弟で暮らした時間に思いをはせた。
十七年前。共に暮らし始めてから、感情が全くなかった瞳に、少しずつ柔らかい光が宿っていった。
それと同時に、色々な表情を見せてくれるようになって、毎日がどれだけの喜びで満たされていたことか。
しかし、今の弟からは、攻撃的なまでの拒絶しか感じなかった。
誰も寄せつけず、何にも頼らずに。
アーノルドは魔力共鳴を解こうと、ただひたすらに一人で研究を進めている。
「アーニー……」
兄は、弟の愛称を小さく口にした。
アーノルドをコリンズ家に迎えた時、絶対に幸せにしようと心に誓っていた。
それなのに、自分は弟を裏切ってしまった。
――僕は……アーニーを凍りついた家の前に置き去りにしてしまったんだ……。
オリバーの頬を、幾筋もの涙が伝った。
史上最年少の天才大魔導師、アーノルド・コリンズ。
誰もが羨む、高い魔力と明晰な頭脳を持った、伝説級の魔法使い。
けれど、彼の姿はひどく荒み、拒絶と孤独に満ちていた。
十五年前のあの夜。
弟だけでも救おうと放り投げた先にあったのは、幸せではなかった。
――窓の外は、終わりの見えない闇だったんだ……っ。
「ごめん、ごめんね……。アーニー……」
オリバーは、泣きながら小さくつぶやいた。
その言葉は、誰にも届くことはなく。
分厚い扉にぶつかって、あとかたもなく消えていった。
拒絶と孤独の中にいるアーノルド
荒んだ弟の姿に涙するオリバー(エリオット)
かつて、争いと侵略が続いた時代。守備が脆弱であったこの都市は、敵国の連合軍により攻め入られて、壊滅状態にまで追い込まれた。
その後、幾度かの戦いを乗り越えながら復興していく中で、人々はウォルマスを、二度と誰にも侵略されぬ世界一の堅剛な都市にしようと決起し、強い都市づくりに心血をそそいだ。長い苦労の末に、彼らの熱意は実を結び、ウォルマスは強大な帝都として名をとどろかせていった。
現在、そんな世界最大級の魔法都市を維持管理しているのが、省庁の中では一番古い歴史を持つ魔法省である。
国中から集まった高い魔力と知識を持った魔法使いが仕官し、広大な国土と権力を有するグランスター帝国の揺るぎない政の要となっている。
当然だが、魔法省で働くには厳しい審査があり、仕官しているのは、非常に高度な能力を持つ魔法使いだ。
そして、その優秀な者たちの中で、飛びぬけた実力と功績を積んだ人物に与えられるのが、大魔導師の位だ。
この位は、そう簡単に授与されるものではなく、ここ二十年近くは空位だった。
しかし、三年前。
帝国の歴史を揺るがすような人物が、大魔導師の位に就いた。
アーノルド・コリンズ。
二十一歳の若き魔法使いに授与されたという衝撃の事実に、帝国の人々は驚きに沸いた。
アーノルドは、帝国の特別奨学金と飛び級制度を利用して、十五歳でアップルビー魔法学園を主席卒業後、魔法省に入省。学術開発課の研究員となると、本人が強く希望していた魔力共鳴の研究に取り組み、その過程で様々な魔法術を確立していった。
彼の功績はすさまじいもので、たった数年で皇帝に認められると、二十一歳で大魔導師となった。
一躍有名になった若き天才は、生い立ちも非常に劇的なもので、悲劇と奇跡の大魔導師と呼ばれたアーノルドの話は、瞬く間に帝国の隅々まで広がっていき、人々の関心をさらっていった。
虐待を受けていた幼少期、そして、養子として迎えられたコリンズ家で起こった魔力共鳴。突然変異で得た高い魔力と明晰な頭脳。二十一歳という若さで得た大魔導師の地位。
まるで物語の主人公のような彼に、周囲は様々な感情を向けた。
同情、憐憫、羨望、嫉妬。
特に帝都の人間は、容赦なく好奇の視線を浴びせたが、そんなものは意にも介さず、大魔導師アーノルド・コリンズは、魔法省にある研究棟の奥深くで、今日もひたすらに魔力共鳴と向き合っていた。
この奥で合っているのだろうか。
オリバー・イートンは、心細い足取りで研究棟の廊下を進んでいた。
今日は、助手として初めて大魔導師に会う、とても大事な日。
先程から、緊張で心臓がものすごい音をたてて鼓動している。
色んな感情が胸の中で渦巻いていて、わずかに膝も震えていた。
大魔導師の研究室は、事前に場所を教えてもらっている。
説明された通りの道筋を進んでいるのだけれど、近づくにつれて周囲が薄暗くなってきている気がした。
泣く子も黙る大魔導師の研究室が、まるで封印されたかのような、こんな最奥にあるなんて。
――これは、想像以上だな……。
オリバーは、大魔導師について知り得た情報を頭の中に巡らせた。
若き天才、アーノルド・コリンズは、気難しい男で有名だった。
異常なほどの人嫌いで、協調性は皆無。
普段は誰とも関わろうとせずに、自室で研究に没頭している。
彼の研究室の周辺は、まるで立ち入り禁止になっているかのように静かだという話だった。実際、全くひと気がなくて、この廊下を進むことを許されているのだろうかと心配になってくる。
――助手なんだから、大丈夫……だよね……?
魔法省で働く魔導師には、助手を置く決まりがあるそうだ。
研究の補佐から、日常の家事手伝いまで。
だいたい、一人の魔導師につき、五人ぐらいの助手を抱えるのが常らしい。
しかし、大魔導師のアーノルドは、全てを拒否。
それでも、過去に何人か助手を置いたことがあったようだが、全て数日で辞めてしまったという。
話を聞けば聞くほど、そこまで気難しい人の助手が、自分に務まる気はしなくなる。
けれど、バンフィールド家とメリアム家の両方に推薦してもらい、どうにか助手として、ここまで来られたのだ。
――精一杯、頑張ろう……!
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決意のこぶしを握りながら廊下を曲がると、奥に扉が見えた。
ここが、大魔導師の研究室……。
まだ本人に会えていないというのに、緊張がものすごいことになってきた。
カラカラに乾いた口の中。
高鳴る鼓動は激しすぎて、もはや全身が心臓になったようだ。
――いけない。少しは落ち着かないと……。
扉の前に立つと、オリバーは深呼吸をした。
何度も、何度も。
しかし、緊張は少しも去らず、しまいには呼吸が震えてきた。
もちろん、呼吸だけではない。
全身が、緊張で震えている。
年期の入った扉を見ているだけで、色々な思いで心が爆発しそうになってしまう。
この向こうには、大魔導師がいる。
二十四歳のアーノルドが――……。
オリバーは体の芯に力を込めると、震える手で扉をたたいた。
すぐに耳を澄ませて返事を待つが、物音一つしない。
ためらいながら何度かたたくが、全く返答がなかった。
おかしい。
新しい助手が来るのは、伝えてあるはずだ。
オリバーは勇気を出して、声を発した。
「コリンズ先生……いらっしゃいますか?」
静寂。
「今日から助手として参りました。オリバー・イートンです」
静寂。
「先生……」
どうしよう。
外出はしていないと思うのだけれど。
「お返事をいただけませんでしょうか。コリンズ先生……」
……静寂。
「……あの、ご挨拶だけでも……」
静寂に次ぐ静寂。
――そんな……。会えずに終わることだけは、絶対に避けたいのにっ。
礼を欠くが、こうなれば強硬手段だ。
「コリンズ先生、入りますよ……!」
オリバーは扉を開けて、静寂が続く室内に足を踏み入れた。
――うっ……暗くて、ほこりっぽい……。
目の前に現れたのは、山のように積まれた本や資料。
それらは、もれなく埃にまみれて、窓からの光をほとんど遮断していた。
オリバーは、むせそうになるのをぐっとこらえた。
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乱雑に置かれた本や資料と埃の山を前に、思わず顔を引きつらせた。
正直、この部屋に人間がいるとは思えない。
長年放置された資料室だと言われた方が納得がいく。
けれど、確かに大魔導師はここにいると教えられた。
「奥にいらっしゃいますか……? 失礼しますね……」
……静寂!
いるのかいないのか分からないが、オリバーは奥に進むことにした。
静かに、静かに。
資料の山を崩さないように、踏まないように、慎重に足を進める。
これは……誰もいないのではないだろうか。
やはり、部屋を間違えてしまったかと思った瞬間。
「……あっ、書類が――」
腕が積まれた書類にぶつかってしまい、紙の山が盛大に崩れた。
「え、わぁっ……!!」
足元に広がった紙を拾おうとして膝をつくと、今度は本の山に腰があたって、盛大に崩れた。
「あ、ああ……っ!!!」
慌てるオリバーをあざ笑うかのように、周りの山々が連鎖して派手に崩れ落ちていく。
「えっ、待って……っ。そんな――」
足元に雪崩のように広がった、数多の本や書類たち。
瞬く間に起きた大惨事に、目の前が暗くなる。
絶望的な気持ちになっていると、辺りを舞っている埃で、思いきりむせてしまった。
――僕は、何をしてるんだ……。
まだ大魔導師に会えてすらいないというのに。
オリバーは何度もむせながら、資料と本を再び積んでいく。
こんなに大きな物音をたてているのに、部屋の奥からは何の反応もない。
本当に、別の部屋なのだろうか。
――けど、一番奥の研究室って、どう考えてもここなんだけどなぁ……。
ぐずぐずと考えながら、どうにか本たちを積み終えた。
重ねる順番までは、もう悩まないでおく。
とにかく、部屋の奥まで見てみようと、オリバーはそっと腰を上げた。
今度は、細心の注意をはらって、資料と本の隙間を歩いていく。
一際高く本が積まれている横をゆっくりと通り過ぎると、紙に埋もれた木製の机の端が視界に現れた。
そして、身を乗り出すようにして、もっと奥をのぞくと……。
――いたっ――!!!!!
書類や本が乱雑に積まれた机で、一人の男が書き物をしていた。
オリバーには気づいているだろうに、完全無視だ。
今にも崩れそうな本の山の間で、黙々と万年筆を走らせ続けている。
彼の前には、様々な魔法理論や魔法陣の図解が貼られて、壁を埋め尽くしていた。
大魔導師の八年間にわたる研究の軌跡だ。
「コリンズ先生、あの――」
「帰れ」
オリバーの声が、低く尖った声に遮られた。
端的でいて強い拒絶に、身がすくむ。
こちらに向いている背中は、少しも動かなくて、分厚い壁のように感じた。
「せ、先生……ご挨拶だけでも――」
「助手は不要だ」
「ですが……」
「無駄だ」
取りつく島もない。
しかし、顔も見ていないのに、これで諦めるわけにはいかない。
「私、オリバー・イートンといいます。魔力も知識もないので、研究のお手伝いはできませんが、雑用係として頑張りますので――」
「聞こえなかったのか?」
怒りがにじんだ声と共に、大魔導師がこちらを向いた。
オリバーの飴色の瞳に、不機嫌な男の顔が映った。
洗いざらしの、無造作な黒髪。
いかめしく寄せられた形よい眉。
不愉快そうに細められた、切れ長の漆黒の目。
男らしく、しっかりと通った鼻筋に、薄めの唇。
端正でいて精悍な青年を前に、オリバーは目をみはった。
彼が、二十四歳のアーノルド・コリンズ。
高い魔力と、明晰な頭脳を持つ、史上最年少の天才大魔導師。
そして、エリオット・コリンズの弟。
半ば呆然と見つめていると、大魔導師の怒りが深まったのが分かった。
「今すぐ帰れ。ついでに、二度と助手を寄こすなと、上の人間に伝えておけ」
大魔導師は再び背を向けて、書き物を再開した。
「コリンズ先生……」
呼びかけても、当然ながら返事はない。
「……私は、少しでも先生のお役に立ちたくて……」
「…………」
無視に、心が痛くなる。
もう、何を言っても、大魔導師が振り返ることはないだろう。
オリバーは、失意を心に宿しながら、そっと顔を伏せた。
「研究のお邪魔をしてしまって、申し訳ありませんでした……」
壁のような背中に頭を下げると、本と資料の山の間を静かに戻っていく。
――アーニーに会えた……会えたけど――……
オリバーは部屋から出ると、閉じた古い扉にすがりつくようにして、体を震わせた。
目頭が熱くなり、漏れそうになった嗚咽を、必死に我慢する。
胸の苦しみは身を引き裂くようで、土人形は、心の造りまで精巧だ。
オリバー・イートンのふりをしている土人形のエリオット・コリンズは、ぐっと下唇を噛みしめた。
まだ、どこか現実味がなかったのだと思う。
幼いアーノルドと過ごした日々から、十五年も経っているなんて。
でも、確かに時は流れていた。
この部屋の中にいたのは、紛れもなく二十四歳の弟だった。
驚くほど端正な青年だったが、エリオットが知っているアーノルドの面影がしっかりと感じられて……。
甘えん坊で可愛らしい弟は、立派な成長をとげていた。
けれど、顔色は悪く、目の下には濃い隈が刻まれていた。
きっと、不規則な生活をしているのだろう。
そして、誰も寄せつけようとしない、拒絶に満ちた漆黒の目。
エリオットは、兄弟で暮らした時間に思いをはせた。
十七年前。共に暮らし始めてから、感情が全くなかった瞳に、少しずつ柔らかい光が宿っていった。
それと同時に、色々な表情を見せてくれるようになって、毎日がどれだけの喜びで満たされていたことか。
しかし、今の弟からは、攻撃的なまでの拒絶しか感じなかった。
誰も寄せつけず、何にも頼らずに。
アーノルドは魔力共鳴を解こうと、ただひたすらに一人で研究を進めている。
「アーニー……」
兄は、弟の愛称を小さく口にした。
アーノルドをコリンズ家に迎えた時、絶対に幸せにしようと心に誓っていた。
それなのに、自分は弟を裏切ってしまった。
――僕は……アーニーを凍りついた家の前に置き去りにしてしまったんだ……。
オリバーの頬を、幾筋もの涙が伝った。
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誰もが羨む、高い魔力と明晰な頭脳を持った、伝説級の魔法使い。
けれど、彼の姿はひどく荒み、拒絶と孤独に満ちていた。
十五年前のあの夜。
弟だけでも救おうと放り投げた先にあったのは、幸せではなかった。
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「ごめん、ごめんね……。アーニー……」
オリバーは、泣きながら小さくつぶやいた。
その言葉は、誰にも届くことはなく。
分厚い扉にぶつかって、あとかたもなく消えていった。
拒絶と孤独の中にいるアーノルド
荒んだ弟の姿に涙するオリバー(エリオット)
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親友と仲良すぎな主人公と、別れたはずの恋人とのお話。
⚠️趣味で書いておりますので、誤字脱字のご報告や、世界観に対する批判コメントはご遠慮します。そういったコメントにはお返しできませんので宜しくお願いします。
大晦日あたりに出そうと思ったお話です。
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