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序章1
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表紙と挿絵にAIイラストを使用しています。ご留意ください!
「俺……もう学校には行かない。ずっと兄さんと一緒にいる」
夜の静かな闇の中。
十二歳ほど年の離れた弟が、決意をにじませた声で言う。
ぎゅっとしがみつかれて、兄は幼い体を優しく抱き返した。
「アーニー……。学校は好きじゃない?」
エリオット・コリンズは、並んでベッドに横になっている弟の黒髪を、優しく撫でる。
九歳の弟、アーノルド・コリンズは、今年から学校に通い始めた。
成績は非常に良いと聞いているが、本人の様子からすると、馴染めているとは言えないようだった。
「うん……つまんない。それに、魔力がない俺が学校に行ったって、意味がないし……」
魔力至上主義の世の中で、魔力がない者の人生の選択肢は限られている。
貴族社会では、それは特に顕著であり、どれだけ努力しても覆らない絶対的なものだ。
しかし――
「無意味じゃないよ。魔力の有無に関わらず、学ぶことは大切だからね」
「じゃあ……学校をやめて、兄さんの仕事を手伝いながら、貴族について勉強する」
コリンズ家は、このグランスター帝国で、古くから男爵位を賜る歴史ある貴族だ。
と言っても、その実態は、家系図の長さだけが自慢の弱小貧乏貴族である。
一人息子のエリオットが十七歳の時に、父が事故で亡くなり、母の後見のもとで爵位を継いだのが四年前。
自分なりに試行錯誤を重ねたが、我が家の貧しさは加速する一方で。
二年半前には流行り病で母まで亡くなり、一人になったエリオットは、孤独と不安に押しつぶされそうになっていた。
そんな時にコリンズ家に来たのが、アーノルドだ。
「アーニーの気持ちは、すごく嬉しいよ。一緒にコリンズ家を盛り上げていきたいしね。でも……先生から色んな学問を教えてもらえるのは、とても貴重なことなんだよ。僕の側で勉強するよりも、いっぱい学べるんだ。アーニーが本当に嫌じゃないなら……僕は、学校に行ってほしいな」
アーノルドが本気で嫌がるなら、家庭教師を雇うのも一つの手だ。
それも難しければ、頼りないが、自分が教師になるのもありだと思う。
けれど、できることなら、学校で豊富な学問に触れてほしかった。
魔力がないからこそ、学はあるに越したことはない。
弟の将来の選択肢を一つでも増やすためにも、何としても学費だけは捻出する心構えでいた。
――コリンズ家に来たことが、アーニーの人生にとって、喜びであってほしいから……。
アーノルドを、養子として我が家に迎え入れたのは約二年前。長い紆余曲折を経てのことだった。
弟に初めて出会った日は、今でもよく覚えている。
遠い親戚の家へ、家族で出かけた帰り道。
偶然、目をやった路地裏の奥に、幼いアーノルドが力なく佇んでいた。
満足に食事が与えられずにやせ細った体に、暴力にさらされて痣だらけの肌。
小さな男の子のむごたらしい姿に、コリンズ家の三人は言葉を失った。
後から知ったことだが、アーノルドは生まれてからずっと、家族からひどい虐待を受けていたという。
あまりの仕打ちに衝撃を受けた両親は、アーノルドの家族を叱責して、彼を引き取ると申し出た。
正直、貧乏男爵であるコリンズ家に、家族を増やす余裕はない。
養子の件は、周囲から強く反対された。
それでも、両親は傷ついた幼子を捨て置けぬ、自らの手で育てたいと、養子の話を進めようとした。
しかし、人とも思えぬ行為をしておきながら、アーノルドの両親は、息子を決して手放そうとはしなかった。
父は、虐待をやめるようにと何度も忠告し、養子の意思を示しつづけた。
それから、数えきれない話し合いの末に、やっとアーノルドをコリンズ家に迎えることになった直後。
父は、不慮の事故で亡くなった。
突然の不幸に、コリンズ家は混乱と悲しみの渦中に放り込まれて、養子の話は先送りとなってしまった。
心の整理がつかないまま爵位を継いで、やっとの思いで母と暮らしを整えて。
これで、アーノルドとの生活を具体的なものにできると親子で話していた矢先に、今度は母が流行り病で逝ってしまった。
全てを失ったと思った。
生きる意味がなくなり、エリオットの世界は暗闇に染まりかけたが、それを止めたのはアーノルドだった。
むごたらしい幼子の姿は、ずっと瞼の裏に焼きついている。
劣悪な環境にいる彼を、一刻も早く救い出さねばならない。
それは、亡き両親の遺志でもある。
塞ぎこむ己の心を奮い立たせて、エリオットは弟になる少年を迎えに行った。
七歳のアーノルドは、年齢から考えると驚くほど小柄で痩せていた。
ボロボロの服からのぞく肌には無数の痣があり、直視できないほどで……。
名前を呼んでも、真っ黒な目で静かに見返してくるだけで、その顔には何の感情もなかった。
この世の全てを諦めているような姿に胸が苦しくなって、エリオットはその場でアーノルドを強く抱きしめた。
自分の人生に絶望している暇はない。
絶対に、この子を幸せにしなければ。
エリオットの人生に、新たな希望の光が灯った瞬間だった。
「嫌じゃないけど……先生の話は退屈。もっと難しい勉強がいい」
唇を尖らせて、弟は不満そうな表情をする。
「退屈……。そうか。アーニーは賢い子だもんね」
コリンズ家に来てからのアーノルドの成長は、とても嬉しいものだった。
無表情だった顔が少しずつ動くようになり、口にする言葉も増えていって。
体の痣が消えていくと共に体重は増えていき、初めて笑顔を見せてくれた時には、感激して泣きそうになった。
今ではすっかり甘えん坊になって、ずっと側にいたがるほどだ。
そんな喜び溢れる穏やかな生活の中で、エリオットが一番驚いたのが、アーノルドの明晰な頭脳だった。
物覚えの良さは舌を巻くほどで、つたなかった言葉遣いも、瞬く間に大人顔負けになっていった。
そんな天才肌のアーノルドにとって、近所の学校は物足りないのだろう。
「上の学年に飛び級できたら、勉強も楽しくなるかな」
「そんなこと、できるの?」
「今の学校だと難しいけど、飛び級できる所もあるよ」
ただ、そういった学校は学費が高い。
本音を言うと、今の学校でも金銭的にはギリギリだ。
しかし、アーノルドには、できる限り自由に学ばせてやりたい。
金銭を理由に、弟の未来の可能性を手折るのは、兄としては絶対に避けたかった。
――もっと、仕事を増やさないとな……。
コリンズ家の現状は、決して弟に話せるようなものではない。
社交界に必死にしがみついて、上位の貴族たちから小さな仕事を回してもらいながら、どうにか生きている。
情けない生き方だが、貴族社会は残酷なほどの魔力至上主義だ。
エリオットが持つ少ない魔力では、ちょっとした仕事一つですら、獲得するのは難しかった。
けれど、アーノルドのためには、生ぬるいことは言っていられない。
「飛び級できる学校へ見学に行ってみようか。アーニーが通いやすそうな雰囲気なら、転校を考えてみよう」
「うん……。ありがとう。兄さん」
ぎゅっと強く抱きついてくる弟が愛しくて、その分だけ、コリンズ家の貧しさが申し訳なくなっていく。
今まで、高い魔力があればと思ったことは数えきれない。
コリンズ家は、風魔法の家系だ。
もちろん、エリオットも風魔法を使える……のだが。
強く念じると、前髪がそよぐ程度の風が起こせるだけ。
魔力がないも同然だった。
魔力があるだけマシだという考え方もできるが、貴族社会では底辺を這うことになる。
――やっぱり、爵位を手放した方がいいのかな……。
爵位を維持するだけでも、それなりの金がかかる。
アーノルドは魔力がないのだし、貴族籍から抜けた方が生きやすいかもしれない。
だが、コリンズ男爵家を懸命に守る両親を、エリオットはずっと見てきた。
両親だけではない。
先祖代々、家を存続させる苦労は、どれほどのものだったか。
沢山の人の思いが詰まったコリンズ男爵家を、自分の手で終わりにするのは、ひどく勇気がいることだった。
――だめだ。あれもこれも中途半端で……。
エリオットは、愛する弟の背中をそっと撫でた。
一番大事なのはアーノルドだ。
爵位を返上することも、真剣に考えないと。
とりあえず、明日からは仕事探しだ。
「さぁ、アーニー。もう寝よう。明日は、僕が起こさなくても起きられるかな?」
「……無理」
朝が弱い弟が、ぐりぐりと頭を胸に擦りつけながら言ってくる。
エリオットは小さく笑って、柔らかい黒髪に口づけた。
「朝はいつもの時間に起こすからね」
「うん……。あっ! ティムを書斎に忘れた!」
寝る準備が万端だったアーノルドが、勢いよく身を起こした。
ティムは、うさぎのぬいぐるみだ。
エリオットが贈ったもので、九歳の男の子には少し幼すぎたかと思ったが、アーノルドはとても気に入ってくれて、家の中では、どこに行くにも持ち歩いていた。
今日は寝る直前まで書斎で読書をしていたので、置き忘れてしまったようだ。
「僕が取りに行ってくるよ」
「俺も行くっ!」
「じゃあ、一緒に行こうか」
大きく頷いた弟に、ガウンを着せかける。
自分も色違いのものを羽織ると、小さな手を引いて部屋を出た。
月明かりのおかげで、照明がなくても移動はできそうだ。
兄弟で住むには広すぎる館の中。
静かな廊下を、二人でゆっくりと歩いていく。
「兄さん、明日シチューが食べたい」
握った手を楽し気に振りながら、アーノルドが言う。
コリンズ家に来た時は食が細かった弟だが、今は好物をねだるほどになっていた。
「クロエが来たら、すぐに頼もうね」
「……クロエのシチュー、あと何回食べられるかな? 今月で終わりなんだよね……」
「うん……」
「本当に辞めるの?」
「寂しいけどね……」
クロエは、通いの家政婦だ。
かつて、この館にも、沢山の使用人が住み込みで働いていた時があったという。
しかし、財政難により少しずつ減っていき、とうとう通いのクロエだけになってしまっていた。
そして、彼女も今月で辞めることになっている。
退職は、こちらからお願いした。
断腸の思いだったけれど、彼女の給金を払い続けるだけの力が、エリオットにはなかった。
元々、決して裕福な家ではなかったが、父から爵位を継いで以降、輪をかけて貧しくなっている。
自分の当主としての器量のなさは明白だった。
「アーニー……。ごめんね。苦労をかけるけど」
来月からは、全て自分たちで家事を行わなければいけなくなる。
少し前から、クロエに色々と教わっているのだが、なかなか上手くいかなかった。
「俺、兄さんと二人きりの生活も楽しみだよ。掃除は得意だから、隅々まできれいにするっ」
「ありがとう……。一緒に掃除しようね」
アーノルドを幸せにしたい。
けれど、こんな貧しい男爵家にいるのが、この子の幸福となりえるのだろうか。
魔力はないが、こんなに賢い子なのだ。
もっと裕福な家で育った方が――……。
しかし、エリオットにとって、アーノルドは両親からの最後の贈り物だった。
何よりも大切な宝物であり、輝く希望。
できることなら、兄弟で支え合って生きていきたかった。
――でも……二人でコリンズ家を守りたいだなんて、自分勝手な願望なのかもしれない……。
固い決意が、強い願いが、貧しさで濁っていく。
握った手から掛け替えのない温もりを感じながら静かに視線を下げると、月明かりに照らされた廊下に、自分の影がないことに気づいた。
優しさがカンストしているエリオットお兄ちゃん
一日おきぐらいの更新予定です。
めちゃくちゃに暑い日が続いていますね。
灼熱のひと夏、今作にお付き合いただければ、とっても嬉しいです!!
「俺……もう学校には行かない。ずっと兄さんと一緒にいる」
夜の静かな闇の中。
十二歳ほど年の離れた弟が、決意をにじませた声で言う。
ぎゅっとしがみつかれて、兄は幼い体を優しく抱き返した。
「アーニー……。学校は好きじゃない?」
エリオット・コリンズは、並んでベッドに横になっている弟の黒髪を、優しく撫でる。
九歳の弟、アーノルド・コリンズは、今年から学校に通い始めた。
成績は非常に良いと聞いているが、本人の様子からすると、馴染めているとは言えないようだった。
「うん……つまんない。それに、魔力がない俺が学校に行ったって、意味がないし……」
魔力至上主義の世の中で、魔力がない者の人生の選択肢は限られている。
貴族社会では、それは特に顕著であり、どれだけ努力しても覆らない絶対的なものだ。
しかし――
「無意味じゃないよ。魔力の有無に関わらず、学ぶことは大切だからね」
「じゃあ……学校をやめて、兄さんの仕事を手伝いながら、貴族について勉強する」
コリンズ家は、このグランスター帝国で、古くから男爵位を賜る歴史ある貴族だ。
と言っても、その実態は、家系図の長さだけが自慢の弱小貧乏貴族である。
一人息子のエリオットが十七歳の時に、父が事故で亡くなり、母の後見のもとで爵位を継いだのが四年前。
自分なりに試行錯誤を重ねたが、我が家の貧しさは加速する一方で。
二年半前には流行り病で母まで亡くなり、一人になったエリオットは、孤独と不安に押しつぶされそうになっていた。
そんな時にコリンズ家に来たのが、アーノルドだ。
「アーニーの気持ちは、すごく嬉しいよ。一緒にコリンズ家を盛り上げていきたいしね。でも……先生から色んな学問を教えてもらえるのは、とても貴重なことなんだよ。僕の側で勉強するよりも、いっぱい学べるんだ。アーニーが本当に嫌じゃないなら……僕は、学校に行ってほしいな」
アーノルドが本気で嫌がるなら、家庭教師を雇うのも一つの手だ。
それも難しければ、頼りないが、自分が教師になるのもありだと思う。
けれど、できることなら、学校で豊富な学問に触れてほしかった。
魔力がないからこそ、学はあるに越したことはない。
弟の将来の選択肢を一つでも増やすためにも、何としても学費だけは捻出する心構えでいた。
――コリンズ家に来たことが、アーニーの人生にとって、喜びであってほしいから……。
アーノルドを、養子として我が家に迎え入れたのは約二年前。長い紆余曲折を経てのことだった。
弟に初めて出会った日は、今でもよく覚えている。
遠い親戚の家へ、家族で出かけた帰り道。
偶然、目をやった路地裏の奥に、幼いアーノルドが力なく佇んでいた。
満足に食事が与えられずにやせ細った体に、暴力にさらされて痣だらけの肌。
小さな男の子のむごたらしい姿に、コリンズ家の三人は言葉を失った。
後から知ったことだが、アーノルドは生まれてからずっと、家族からひどい虐待を受けていたという。
あまりの仕打ちに衝撃を受けた両親は、アーノルドの家族を叱責して、彼を引き取ると申し出た。
正直、貧乏男爵であるコリンズ家に、家族を増やす余裕はない。
養子の件は、周囲から強く反対された。
それでも、両親は傷ついた幼子を捨て置けぬ、自らの手で育てたいと、養子の話を進めようとした。
しかし、人とも思えぬ行為をしておきながら、アーノルドの両親は、息子を決して手放そうとはしなかった。
父は、虐待をやめるようにと何度も忠告し、養子の意思を示しつづけた。
それから、数えきれない話し合いの末に、やっとアーノルドをコリンズ家に迎えることになった直後。
父は、不慮の事故で亡くなった。
突然の不幸に、コリンズ家は混乱と悲しみの渦中に放り込まれて、養子の話は先送りとなってしまった。
心の整理がつかないまま爵位を継いで、やっとの思いで母と暮らしを整えて。
これで、アーノルドとの生活を具体的なものにできると親子で話していた矢先に、今度は母が流行り病で逝ってしまった。
全てを失ったと思った。
生きる意味がなくなり、エリオットの世界は暗闇に染まりかけたが、それを止めたのはアーノルドだった。
むごたらしい幼子の姿は、ずっと瞼の裏に焼きついている。
劣悪な環境にいる彼を、一刻も早く救い出さねばならない。
それは、亡き両親の遺志でもある。
塞ぎこむ己の心を奮い立たせて、エリオットは弟になる少年を迎えに行った。
七歳のアーノルドは、年齢から考えると驚くほど小柄で痩せていた。
ボロボロの服からのぞく肌には無数の痣があり、直視できないほどで……。
名前を呼んでも、真っ黒な目で静かに見返してくるだけで、その顔には何の感情もなかった。
この世の全てを諦めているような姿に胸が苦しくなって、エリオットはその場でアーノルドを強く抱きしめた。
自分の人生に絶望している暇はない。
絶対に、この子を幸せにしなければ。
エリオットの人生に、新たな希望の光が灯った瞬間だった。
「嫌じゃないけど……先生の話は退屈。もっと難しい勉強がいい」
唇を尖らせて、弟は不満そうな表情をする。
「退屈……。そうか。アーニーは賢い子だもんね」
コリンズ家に来てからのアーノルドの成長は、とても嬉しいものだった。
無表情だった顔が少しずつ動くようになり、口にする言葉も増えていって。
体の痣が消えていくと共に体重は増えていき、初めて笑顔を見せてくれた時には、感激して泣きそうになった。
今ではすっかり甘えん坊になって、ずっと側にいたがるほどだ。
そんな喜び溢れる穏やかな生活の中で、エリオットが一番驚いたのが、アーノルドの明晰な頭脳だった。
物覚えの良さは舌を巻くほどで、つたなかった言葉遣いも、瞬く間に大人顔負けになっていった。
そんな天才肌のアーノルドにとって、近所の学校は物足りないのだろう。
「上の学年に飛び級できたら、勉強も楽しくなるかな」
「そんなこと、できるの?」
「今の学校だと難しいけど、飛び級できる所もあるよ」
ただ、そういった学校は学費が高い。
本音を言うと、今の学校でも金銭的にはギリギリだ。
しかし、アーノルドには、できる限り自由に学ばせてやりたい。
金銭を理由に、弟の未来の可能性を手折るのは、兄としては絶対に避けたかった。
――もっと、仕事を増やさないとな……。
コリンズ家の現状は、決して弟に話せるようなものではない。
社交界に必死にしがみついて、上位の貴族たちから小さな仕事を回してもらいながら、どうにか生きている。
情けない生き方だが、貴族社会は残酷なほどの魔力至上主義だ。
エリオットが持つ少ない魔力では、ちょっとした仕事一つですら、獲得するのは難しかった。
けれど、アーノルドのためには、生ぬるいことは言っていられない。
「飛び級できる学校へ見学に行ってみようか。アーニーが通いやすそうな雰囲気なら、転校を考えてみよう」
「うん……。ありがとう。兄さん」
ぎゅっと強く抱きついてくる弟が愛しくて、その分だけ、コリンズ家の貧しさが申し訳なくなっていく。
今まで、高い魔力があればと思ったことは数えきれない。
コリンズ家は、風魔法の家系だ。
もちろん、エリオットも風魔法を使える……のだが。
強く念じると、前髪がそよぐ程度の風が起こせるだけ。
魔力がないも同然だった。
魔力があるだけマシだという考え方もできるが、貴族社会では底辺を這うことになる。
――やっぱり、爵位を手放した方がいいのかな……。
爵位を維持するだけでも、それなりの金がかかる。
アーノルドは魔力がないのだし、貴族籍から抜けた方が生きやすいかもしれない。
だが、コリンズ男爵家を懸命に守る両親を、エリオットはずっと見てきた。
両親だけではない。
先祖代々、家を存続させる苦労は、どれほどのものだったか。
沢山の人の思いが詰まったコリンズ男爵家を、自分の手で終わりにするのは、ひどく勇気がいることだった。
――だめだ。あれもこれも中途半端で……。
エリオットは、愛する弟の背中をそっと撫でた。
一番大事なのはアーノルドだ。
爵位を返上することも、真剣に考えないと。
とりあえず、明日からは仕事探しだ。
「さぁ、アーニー。もう寝よう。明日は、僕が起こさなくても起きられるかな?」
「……無理」
朝が弱い弟が、ぐりぐりと頭を胸に擦りつけながら言ってくる。
エリオットは小さく笑って、柔らかい黒髪に口づけた。
「朝はいつもの時間に起こすからね」
「うん……。あっ! ティムを書斎に忘れた!」
寝る準備が万端だったアーノルドが、勢いよく身を起こした。
ティムは、うさぎのぬいぐるみだ。
エリオットが贈ったもので、九歳の男の子には少し幼すぎたかと思ったが、アーノルドはとても気に入ってくれて、家の中では、どこに行くにも持ち歩いていた。
今日は寝る直前まで書斎で読書をしていたので、置き忘れてしまったようだ。
「僕が取りに行ってくるよ」
「俺も行くっ!」
「じゃあ、一緒に行こうか」
大きく頷いた弟に、ガウンを着せかける。
自分も色違いのものを羽織ると、小さな手を引いて部屋を出た。
月明かりのおかげで、照明がなくても移動はできそうだ。
兄弟で住むには広すぎる館の中。
静かな廊下を、二人でゆっくりと歩いていく。
「兄さん、明日シチューが食べたい」
握った手を楽し気に振りながら、アーノルドが言う。
コリンズ家に来た時は食が細かった弟だが、今は好物をねだるほどになっていた。
「クロエが来たら、すぐに頼もうね」
「……クロエのシチュー、あと何回食べられるかな? 今月で終わりなんだよね……」
「うん……」
「本当に辞めるの?」
「寂しいけどね……」
クロエは、通いの家政婦だ。
かつて、この館にも、沢山の使用人が住み込みで働いていた時があったという。
しかし、財政難により少しずつ減っていき、とうとう通いのクロエだけになってしまっていた。
そして、彼女も今月で辞めることになっている。
退職は、こちらからお願いした。
断腸の思いだったけれど、彼女の給金を払い続けるだけの力が、エリオットにはなかった。
元々、決して裕福な家ではなかったが、父から爵位を継いで以降、輪をかけて貧しくなっている。
自分の当主としての器量のなさは明白だった。
「アーニー……。ごめんね。苦労をかけるけど」
来月からは、全て自分たちで家事を行わなければいけなくなる。
少し前から、クロエに色々と教わっているのだが、なかなか上手くいかなかった。
「俺、兄さんと二人きりの生活も楽しみだよ。掃除は得意だから、隅々まできれいにするっ」
「ありがとう……。一緒に掃除しようね」
アーノルドを幸せにしたい。
けれど、こんな貧しい男爵家にいるのが、この子の幸福となりえるのだろうか。
魔力はないが、こんなに賢い子なのだ。
もっと裕福な家で育った方が――……。
しかし、エリオットにとって、アーノルドは両親からの最後の贈り物だった。
何よりも大切な宝物であり、輝く希望。
できることなら、兄弟で支え合って生きていきたかった。
――でも……二人でコリンズ家を守りたいだなんて、自分勝手な願望なのかもしれない……。
固い決意が、強い願いが、貧しさで濁っていく。
握った手から掛け替えのない温もりを感じながら静かに視線を下げると、月明かりに照らされた廊下に、自分の影がないことに気づいた。
優しさがカンストしているエリオットお兄ちゃん
一日おきぐらいの更新予定です。
めちゃくちゃに暑い日が続いていますね。
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