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38話

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「来てくださると信じていましたよ」

簡素だが品のある広間に、澄ました低い声が響く。
武装した屈強な男を数人従えて、僕たちを待っていたのは、ガディオ伯爵だった。

「どうして……ガディオ伯爵が……」

僕は瞠目どうもくしながら、かすれた声を出した。

「逃亡してどこかに身を隠しているはずなのに。と、おっしゃりたいのですか?」

ガディオ伯爵は口角をあげて楽しそうに笑う。

「前から、進水式で騒ぎを起こす計画は立てていたのでね。逃亡後、すぐにその計画の残骸を利用するのは、容易たやすいことでしたよ。金さえ積めば、ある程度のことは何とでもなりますから。最後に金を派手に使うのも悪くないでしょう? ここにいる男たちも、庶民には目のくらむような額の金をチラつかせれば、事の詳細など聞きもせずに飛びついてきましたしね」
「なら……この火事や人質を画策したのは、ガディオ伯爵なのですか……?」
「ええ。ご心配なさらずとも、私以外に残党なんてものはおりませんよ」

警戒しながら広間の中ほどへ進むと、伯爵は笑みを深めた。

「まず、ここに案内してくれた方の奥方を返してください」
「相変わらずお優しいですね。ソレル商会と殿下の一件を見抜けなかったことが悔しいですよ。慈愛に満ちた殿下ならば、側近を怒りにまかせてボネリーへやることなどありえないというのに。まぁ、ソレル商会の話に乗ったのは、私ではありませんが」

伯爵が合図をすると、屈強な男の一人が、広間の隅で小さくなっている若い男の方へと歩いていく。
そして、無造作に腕を振りあげたのを見て、僕は驚きに息をつめる。
止める間もなく、若い男は殴られて、声もなく倒れ伏した。

「なんてことを……っ」

口もとを両手で覆って、突然の暴力に衝撃を受けている僕に、伯爵は優しく声をかける。

「失神しただけですよ。さすがの私も無益な殺生は好みませんから。彼の妻も同様ですのでご安心ください。怪我をしたまま放置しているので、安全は保証いたしかねますが」
「モーリス……」

軽やかに話す伯爵の名を、フレデリクが地を這うような声で呼ぶ。

「こんな愚策……露呈するのは時間の問題だ。自棄を起こし造船場に火を放ってまで、殿下方に報復したかったのか」
「愚策? にわか作りの策にしては上手くいっただろう? 現に火事で造船場は混乱し、第三王子殿下はこちらにおいでくださっている。全てが順調で、逆に恐ろしいぐらいだ。それと、私の目的は殿下方ではない……これは自分への最後のはなむけだ」

伯爵が一歩、また一歩と、こちらに近づいてくる。
フレデリクは僕の体を抱きよせながら、剣先を伯爵に向ける。
騎士の鋭い敵意に、彼は嬉しそうな表情を見せた。

「ガディオ家が罪に濡れて終わる前に。フレデリク、お前の人生も破り捨ててやろうと思ってな」

え――?
伯爵の目的は、僕じゃなくてフレッドなの……!?

予想外の言葉に、僕とフレデリクは驚きに顔を強張らせた。

「何故、今更私を――」
「今更だと?」

伯爵の顔が憎々しげにゆがむ。

「長い間、私がテュレンヌ家やお前に、どれだけの苦汁を飲まされたと思っている! お前の父に敗れてから、我が家は私にとって地獄だった。父は暴力で私を支配し、お前に勝つことだけを求めてきた……。騎士への道から外れると、ガディオ家での私の居場所は完全になくなった」

フレデリクを睨みつけながら、伯爵は吐き捨てるように一笑した。

「だから、父が死んだ時には嬉しくて仕方がなかったよ。これで自由になれると、葬儀では喜びの涙が流れたな」
「……自由になって、この地で新しい生活を始めたのなら、どうしてお父上と同じように悪事に手を染めたのですかっ。大罪である火事まで起こして――」
「過去の愚行などなかったかのように、清く正しく人生を謳歌おうかなさっている殿下には、私の気持ちは分かりませんよ」

伯爵は懐からダガーを取り出すと、これみよがしに刃先を光らせる。

「フレデリクが、稀代のバカ王子である、あなた様の専属になったと聞いた時には、非常に清々しい気持ちになりました。やっと、この男にも泥水をすする時がきたかと。しかし、私の前に現れたのは、別人のように美しくなった殿下の隣で、幸せそうに微笑むフレデリク……っ」

伯爵はダガーの切っ先をフレデリクに向けた。

「私はお前が憎い……いつ何時も輝かしい道を歩むお前がっ」
「伯爵……」

ガディオ家での日々は、僕が想像できないほど辛い物だったんだろうけど――

「そんなの、フレデリクからすれば、理不尽な恨みじゃないですかっ」
「ええ。そうですよ。ですが、私はその男を恨まないと、生きてはいけませんでした」

伯爵はダガーをフレデリクに向けたまま、僕に手を差し出してきた。

「語らいはこれぐらいにして、本題に入りましょう。さぁ、殿下。こちらへおいでください」
「僕を……人質にするつもりですか?」
「そんな大層なものではありませんよ。私は、フレデリクの人生を汚してやりたいだけですから。殿下、あちらをご覧ください」

伯爵が指差す方向に視線をうつすと、窓の向こうにレンガ造りの鐘楼が見えた。
立派な鐘の側には、一人の男が立っている。

「殿下が拒めば、鐘を鳴らさせます。そうすれば、造船場の各地で新たに火が放たれる」
「そんな……っ」

衝撃の発言に、胸がぞっと冷たくなった。

「もちろん、こんなずさんな作戦、すぐに崩壊するのは分かっていますよ? しかし、殿下さえいてくだされば、全てが終わる前に、私はフレデリクに復讐できる」
「ふざけるなっ!!」

フレデリクが、すさまじい怒気をまとって一喝する。

「私が憎いというのなら、直接私のもとに来ればいいだろうっ。放火をしたあげく、王子殿下まで巻き込んで」

激高するフレデリクに、伯爵は心底楽しそうな顔をした。

「曲がりなりにも共に修業をしていたんだ。多少はお前の人となりを理解している。お前は自分が傷つくより、主君が傷つく方が辛いだろう? 随分と大切にしているようだしな」
「……腐った性根だな」
「褒め言葉として受け取っておくよ。ああ、少々前置きが長くなりましたね。早くしないと護衛が来てしまう」

伯爵はもう一歩踏み出て、僕に催促をする。
フレデリクは僕を抱く力を強くして、伯爵を鋭く睨みつけた。

「殿下。早くご決断くださいませんか? よろしければ、すぐにでも火をつけますよ? 次は大きな施設や船置き場もありますので、損害はとてつもないものになりますね。本意ではありませんが、死人も出るかもしれません」
「……っ」

騎士の腕の中で言葉をつまらせる僕を見て、伯爵は口角をあげる。

「分かりました。では――」

そう言って、伯爵は鐘の側にいる男に向かって合図をしようとした。

「待って、やめてっ!!」
「では、どうぞこちらへ」
「……僕が言うことを聞けば、絶対に火をつけないと約束してもらえますか?」
「テオドール様! いけませんっ」

伯爵に従おうとしている僕に、フレデリクが声を荒くする。

「でも……新たな火事が起きると、大変なことになるよ。伯爵は脅しじゃなく、本気で火をつける気だ」

必死の思いでアクアマリンの瞳を見上げると、フレデリクが僕の手を強くにぎった。

「たとえ、どれだけの犠牲をはらい、深い後悔に襲われようとも、私は絶対に手をはなしません」
「フレデリク……」

愛する人の強い覚悟を感じて、胸が震えた。
伯爵に従うことは、フレデリクを深く傷つけてしまうことだ。

けれど――

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