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37話
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「この様子だと、しばらく移動を見合わせた方がいいだろう」
フレデリクが、苦々しく眉根をよせる。
人々が四方八方に散っていく中での移動は危険だ。
護衛の騎士の多くは、兄と共に火事現場に向かった。
残った騎士も、逃げ惑う人々の避難誘導に苦心している様子だった。
「あっ……火がっ……!」
たちのぼる煙の向こうに炎が見えて、僕は迫りくる不安から逃れるようにして、恋人の体に抱きついた。
「フレッドっ。僕たち、どうしよう……っ」
恐怖を抱えながらアクアマリンの瞳を見つめると、フレデリクは僕の背中をゆっくりと撫でてくれた。
「テオ、落ち着こう。近隣の建造物に木造はないから、俺たちがすぐに火の手に飲まれるようなことはない」
「うん……」
「もう少し様子をみて、周囲の人が減ったのを見計らってから、残った騎士たちと一緒に移動しよう」
僕を安心させるように、フレデリクは穏やかな笑みを浮かべた。
「大丈夫だ。何が起こっても、テオは俺が守る。絶対にだ」
強く抱きしめられて、僕は愛する人の温もりに、心からの安堵を覚えた。
「ありがとう、フレッド……」
そうして、逞しい胸に頬をよせていると、人の流れに逆らって、一人の若い男がこちらに向かってきた。
身なりからして、造船場内のギルド職員だろう。
僕たちの前までくると、血色をなくした顔で唇を震わせている。
一見して、火事に怯えているだけではなさそうだ。
「何用だ」
フレデリクが、鋭い声音で問う。
「殿下……こ、このような緊急時に、申し訳ありません……。あの、私とイネスの館へ……ご足労ねがえませんでしょうか。専属騎士さまも、ご一緒に……」
イネスの館とは、造船場内にある公共施設で、社交や会議等で様々な人が利用している館だ。
何で、こんな時に――?
突然の異様な要望に、嫌な予感が背筋を走る。
「す、すみませんっ……わ、私など、殿下に声をおかけする身分ではないのですが……妻が……っ」
若い男から嗚咽がもれ、言葉がかすむ。
「……人質にでもとられているのか?」
フレデリクの端的な問いに、若い男は泣きながら頷いた。
「え!? 人質って!?」
物騒な言葉に驚いていると、彼は袖で涙を拭って話を続ける。
「今朝……気づいたら妻がいなくなっていて……突然のことで訳も分からず捜していると、知らない男が声をかけてきました」
その男は、妻を返して欲しかったら、進水式で火事が起こった後に、第三王子と専属騎士を、イネスの館の広間に連れてこいと言ったという。
「今も見張られていて……誰にも知られずに殿下を館にお連れできなかった時点で、妻に手をかけると……っ」
彼は再び嗚咽に埋もれるようにして、顔を伏せた。
フレッドの言う通り、僕は狙われていたんだ……。
そして、この人の奥さんは、僕を誘い出すためにさらわれてしまった。
「フレデリク……イネスの館に行こう」
厳しい表情のフレデリクに、僕はしっかりと言いきった。
僕のせいで若い夫婦が辛い思いをしているかと思うと、いてもたってもいられなくなる。
「テオドール様。お気持ちは分かりますが、どうか第三王子として然るべきご判断を」
「分かってるよ。王子として感情的に動いてはいけないって、でも――」
「この人質の話自体、虚言かもしれません」
「違いますっ」
涙でぐしゃぐしゃになった顔をあげて、彼が否定する。
「本当にエマは連れ去られて……っ。家の裏手に血の跡もあったんですっ。お願いします。どうか、どうかイネスの館に――」
叫ぶように願う姿を見ていると、こちらまで胸が苦しくなってくる。
「僕には、彼の姿が演技だなんて思えないよ」
「だとしても、罠に自ら飛び込むことはできません」
騎士の容赦のない拒絶に、彼は絶望的な声をあげて両手で顔を覆った。
ああ……僕には、この夫婦を見捨てることなんてできないよ――
「……今、我が身を優先したら、僕はずっと後悔しつづけるよ。お願い……フレデリク」
僕は専属騎士の目をまっすぐに見上げながら続けた。
「一緒にイネスの館へ行って。これは命令だよ」
「……残酷なご命令ですね」
フレデリクはつぶやくように言うと、若い男に鋭い視線を向けた。
「イネスの館まで案内を」
「あ……ありがとうございますっ」
彼は涙ながらに何度も礼を言うと、イネスの館へ足を向けた。
「ごめんね、フレッド……」
周りに聞こえないように声をかけると、碧い目が苦しそうに細められる。
「俺にとっては辛い選択だ」
「うん……」
危険な場に自分から出向いているのだ。
恋人としても専属騎士としても、フレデリクの心を深くえぐる行為でしかない。
本当にごめん、ごめんね……フレッド……。
フレデリクは僕の腰を抱くと、若い男の背を追いはじめた。
周囲の喧騒はおさまる気配もなく、流れてくる煙と共に人々は混乱の中にいる。
その隙間を縫うようにして、僕たちはイネスの館へと向かう。
「すぐ側にありますので」
彼の言う通り、イネスの館は、賓客エリアから見えるところにあった。
そうか。こんなに近いと、他の騎士たちから怪しまれないんだ……。
この場にいる護衛の騎士たちは、混乱している人々の誘導に尽力しているが、僕のこともきちんと目に留めている。
僕が一人でどこかに行こうとすれば何事かと止められるだろうが、近くの石造りの建物に、職員やフレデリクと共に移動すれば、喧騒から離れて避難したのだと思うはず。目に届く範囲の建物に入ったのならば、尚更だ。
「相手のもくろみ通りに進んでいるのが、悔しいですね……」
僕と同じようなことを考えたであろうフレデリクが、硬い声音で言う。
「私たちをどうする気かは分かりませんが、このような場所で何を企もうとも、すぐに露見します。どういうつもりなのか」
「……確かに、そうだよね。騎士のみんなも、少し落ち着いたら来てくれるだろうし」
僕に対して、自棄を起こして復讐しようとしているのか。
先の見えない不安が膨らんでいく中で、肩を丸めて歩いている若い男と共に、イネスの館へと足を踏み入れる。
それと同時に、フレデリクが静かに剣を抜いて、意識を研ぎ澄ませるのが分かった。
石造りの館内にはひと気が無く、混乱した人で溢れている外とは、別世界のようだった。
「……こちらが広間です……」
少し廊下を進むと、一際大きな扉があった。
「フレデリク……」
僕は愛する人を静かに見上げた。
恐怖と緊張と不安と。
あらゆるものが心を壊さんばかりに渦巻いている。
人質をとられていたとはいえ、フレデリクを巻き込んでまで、ここに来ることを選んだのは僕だ。
選択に後悔はない……でも、もし、フレッドの身に何かあったら……どうしよう、僕は――
「テオドール様」
フレデリクが優しい声で僕を呼ぶ。
「二人で乗り越えましょう。私たちに、できないことはありません」
ぎゅっと手を握られて、優しい温もりが乱れた心を包んでくれる。
「うん……そうだね……。フレデリクと一緒なら、何でもできるね」
僕たちは微笑み合うと、若い男が開けた扉の向こうを強く見すえた。
フレデリクが、苦々しく眉根をよせる。
人々が四方八方に散っていく中での移動は危険だ。
護衛の騎士の多くは、兄と共に火事現場に向かった。
残った騎士も、逃げ惑う人々の避難誘導に苦心している様子だった。
「あっ……火がっ……!」
たちのぼる煙の向こうに炎が見えて、僕は迫りくる不安から逃れるようにして、恋人の体に抱きついた。
「フレッドっ。僕たち、どうしよう……っ」
恐怖を抱えながらアクアマリンの瞳を見つめると、フレデリクは僕の背中をゆっくりと撫でてくれた。
「テオ、落ち着こう。近隣の建造物に木造はないから、俺たちがすぐに火の手に飲まれるようなことはない」
「うん……」
「もう少し様子をみて、周囲の人が減ったのを見計らってから、残った騎士たちと一緒に移動しよう」
僕を安心させるように、フレデリクは穏やかな笑みを浮かべた。
「大丈夫だ。何が起こっても、テオは俺が守る。絶対にだ」
強く抱きしめられて、僕は愛する人の温もりに、心からの安堵を覚えた。
「ありがとう、フレッド……」
そうして、逞しい胸に頬をよせていると、人の流れに逆らって、一人の若い男がこちらに向かってきた。
身なりからして、造船場内のギルド職員だろう。
僕たちの前までくると、血色をなくした顔で唇を震わせている。
一見して、火事に怯えているだけではなさそうだ。
「何用だ」
フレデリクが、鋭い声音で問う。
「殿下……こ、このような緊急時に、申し訳ありません……。あの、私とイネスの館へ……ご足労ねがえませんでしょうか。専属騎士さまも、ご一緒に……」
イネスの館とは、造船場内にある公共施設で、社交や会議等で様々な人が利用している館だ。
何で、こんな時に――?
突然の異様な要望に、嫌な予感が背筋を走る。
「す、すみませんっ……わ、私など、殿下に声をおかけする身分ではないのですが……妻が……っ」
若い男から嗚咽がもれ、言葉がかすむ。
「……人質にでもとられているのか?」
フレデリクの端的な問いに、若い男は泣きながら頷いた。
「え!? 人質って!?」
物騒な言葉に驚いていると、彼は袖で涙を拭って話を続ける。
「今朝……気づいたら妻がいなくなっていて……突然のことで訳も分からず捜していると、知らない男が声をかけてきました」
その男は、妻を返して欲しかったら、進水式で火事が起こった後に、第三王子と専属騎士を、イネスの館の広間に連れてこいと言ったという。
「今も見張られていて……誰にも知られずに殿下を館にお連れできなかった時点で、妻に手をかけると……っ」
彼は再び嗚咽に埋もれるようにして、顔を伏せた。
フレッドの言う通り、僕は狙われていたんだ……。
そして、この人の奥さんは、僕を誘い出すためにさらわれてしまった。
「フレデリク……イネスの館に行こう」
厳しい表情のフレデリクに、僕はしっかりと言いきった。
僕のせいで若い夫婦が辛い思いをしているかと思うと、いてもたってもいられなくなる。
「テオドール様。お気持ちは分かりますが、どうか第三王子として然るべきご判断を」
「分かってるよ。王子として感情的に動いてはいけないって、でも――」
「この人質の話自体、虚言かもしれません」
「違いますっ」
涙でぐしゃぐしゃになった顔をあげて、彼が否定する。
「本当にエマは連れ去られて……っ。家の裏手に血の跡もあったんですっ。お願いします。どうか、どうかイネスの館に――」
叫ぶように願う姿を見ていると、こちらまで胸が苦しくなってくる。
「僕には、彼の姿が演技だなんて思えないよ」
「だとしても、罠に自ら飛び込むことはできません」
騎士の容赦のない拒絶に、彼は絶望的な声をあげて両手で顔を覆った。
ああ……僕には、この夫婦を見捨てることなんてできないよ――
「……今、我が身を優先したら、僕はずっと後悔しつづけるよ。お願い……フレデリク」
僕は専属騎士の目をまっすぐに見上げながら続けた。
「一緒にイネスの館へ行って。これは命令だよ」
「……残酷なご命令ですね」
フレデリクはつぶやくように言うと、若い男に鋭い視線を向けた。
「イネスの館まで案内を」
「あ……ありがとうございますっ」
彼は涙ながらに何度も礼を言うと、イネスの館へ足を向けた。
「ごめんね、フレッド……」
周りに聞こえないように声をかけると、碧い目が苦しそうに細められる。
「俺にとっては辛い選択だ」
「うん……」
危険な場に自分から出向いているのだ。
恋人としても専属騎士としても、フレデリクの心を深くえぐる行為でしかない。
本当にごめん、ごめんね……フレッド……。
フレデリクは僕の腰を抱くと、若い男の背を追いはじめた。
周囲の喧騒はおさまる気配もなく、流れてくる煙と共に人々は混乱の中にいる。
その隙間を縫うようにして、僕たちはイネスの館へと向かう。
「すぐ側にありますので」
彼の言う通り、イネスの館は、賓客エリアから見えるところにあった。
そうか。こんなに近いと、他の騎士たちから怪しまれないんだ……。
この場にいる護衛の騎士たちは、混乱している人々の誘導に尽力しているが、僕のこともきちんと目に留めている。
僕が一人でどこかに行こうとすれば何事かと止められるだろうが、近くの石造りの建物に、職員やフレデリクと共に移動すれば、喧騒から離れて避難したのだと思うはず。目に届く範囲の建物に入ったのならば、尚更だ。
「相手のもくろみ通りに進んでいるのが、悔しいですね……」
僕と同じようなことを考えたであろうフレデリクが、硬い声音で言う。
「私たちをどうする気かは分かりませんが、このような場所で何を企もうとも、すぐに露見します。どういうつもりなのか」
「……確かに、そうだよね。騎士のみんなも、少し落ち着いたら来てくれるだろうし」
僕に対して、自棄を起こして復讐しようとしているのか。
先の見えない不安が膨らんでいく中で、肩を丸めて歩いている若い男と共に、イネスの館へと足を踏み入れる。
それと同時に、フレデリクが静かに剣を抜いて、意識を研ぎ澄ませるのが分かった。
石造りの館内にはひと気が無く、混乱した人で溢れている外とは、別世界のようだった。
「……こちらが広間です……」
少し廊下を進むと、一際大きな扉があった。
「フレデリク……」
僕は愛する人を静かに見上げた。
恐怖と緊張と不安と。
あらゆるものが心を壊さんばかりに渦巻いている。
人質をとられていたとはいえ、フレデリクを巻き込んでまで、ここに来ることを選んだのは僕だ。
選択に後悔はない……でも、もし、フレッドの身に何かあったら……どうしよう、僕は――
「テオドール様」
フレデリクが優しい声で僕を呼ぶ。
「二人で乗り越えましょう。私たちに、できないことはありません」
ぎゅっと手を握られて、優しい温もりが乱れた心を包んでくれる。
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