血を吸うかぐや姫

小原ききょう

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母のヒステリー

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◆母のヒステリー

 家に帰ると、さっきまでの衝動・・血を吸いたいという欲望は何とか鎮まった。
 家にはその対象がいない。
 さっきは、傘の中だった。
 神城との距離が近すぎた・・だから、欲望を抑えることができなかったのだ。
 女の子と近くにいてはいけない。女子とは距離をおかないとダメだ。
 近くにいなければ何とかなる・・そう僕は肝に銘じることにした。

 僕はリビングのソファーで、疲れた体を深く沈み込ませた。
「和也、服が濡れてるでしょ。着替えてから座りなさいよ」とキッチンから母に小言を言われた。
 言われた通りジャージに着替えたが、しばらく自分の部屋に行く気がせず、
「お母さん・・何か、食べる物ある?」と訊いた。
「パンケーキ、作ったんだけど」
 僕は有難く「うん、それでいい。食べる」と応えた。
 僕は自分で紅茶を入れ、温かいパンケーキを口にした。
 パンケーキは今まで通りの味がしたが、紅茶は今までとは違った味に思えた。苦くも酸っぱくもなく、飲んだことは無いが、土を水に溶かすとこんな味がするのか・・そんな風に感じた。
 コーヒーもそうだった。嗜好品の味が変化している。

 そう思った時、遠くで鳴るピアノの音が聞こえた。
 隣の家の景子さんだ。
 夕方には、時折、こうして音が流れてくる。僕はそんな時間が好きだ。
 しかし・・
「また、あのピアノだわ」そう母がぼやいた。
 それほど、気になる音でもないのに、母はピアノの音を耳にする度にそう言う。まるで、第三者に聞かせるように文句を言う。
 ピアノの音は夜に聞こえることもないから、僕も父も気にしない。おそらく、誰も気にしないと思う。
 母だけが、異常なくらいに気にするのだ。
 ある時などは、テレビに映るピアノ演奏を見ただけでチャンネルを変えたくらいだ。
「ああ、鬱陶しいっ!」
 キッチンで母は、包丁を使いながらそう言った。
 僕がいなくても母はそう言っているのだろうか? まるで何かの仇のように。

 僕が「そんなにうるさくないじゃないか」と言っても、
「隣の子、嫌いなのよ」
「隣の子って・・全部で5人いるけど・・」
「長女のことよ・・ピアノを弾く女のことを言っているのよ」
 何かヒステリーみたいな口調だな。
 母は景子さんのことを名前で呼ばず、「隣の長女」あるいは「隣の女」と言う。
 父との会話では必ずそう呼ぶ。
 僕が物心ついた時から、そんな呼び方が耳に入っている。他の子供は、「誠一」「幸彦」「道弘」「美也子」と名前で呼ぶのに、景子さんだけ扱い方がひどい。
 そして、父と母が、「女の子と話すものでない」と言っていた訓戒めいた言葉も、今思い返せば、景子さん限定だった気がする。
 だが僕は、隣の家族の中では景子さんが一番好きだし、もっと話したい。
 そんな気持ちを切ってしまったのは、母のような気がする。

 ピアノの音が止んだ・・

「あっ・・痛っ!」
 キッチンから母の小さな声が聞こえた。見ると、母は、指を押さえている。
 僕が「指を、切ったの?」と尋ねると、
「ええ・・でも、大したことはないわ」と母は答えた。「ピアノの音のせいで、注意がそれたのよ」
 何だよ、その言い訳・・
「本当にイヤあね・・あのピアノの音」
 母がそう言った次の瞬間、
 僕の視界に母の指が入った。いや、正確には、母の指から流れる血に目がいったのだ。

 もうダメだった。抑えられなかった。
 ああ、家には血を吸いたくなる対象がない・・
 それは大きな間違いだった。
 家には母という女性がいた。どうしてこんなことに早く気がつかなかったのだろう。

「お母さん!」
 母を呼ぶ自分の声をまるで誰かの声のように聞いていた。
 心と言葉は別なのだと、この時、初めて知った。
 気がつくと、僕はキッチンにいた。そして、母の腕を掴み上げ、ぐいと引き寄せていた。

「和也! 何をするのっ」
 母の引き攣った顔が目に飛び込んできた。これまでに見たことのないような母の表情だ。
 そんな表情を見ながら、なぜか、母に悪い、とは思わなかった。
 僕は母の血が出ている指を咥えてしまっていたのだ。
 初めて自分以外の人間の血を吸った瞬間だった・・
 味のしなくなったコーヒーや紅茶より、数段に味覚が感じられた。体が取り込んだ血を吸収していくのが感じられた。
 しかし、僕の力よりも、母の逃れる力が勝っていたのか、
「よしなさいっ、和也!」
 母の二度目の怒号で、僕はどうにか正気に戻った。
 不幸中の幸いだったのは、母の指を吸っただけで、歯を立てたり、噛んだりしなかったことだ。
「ごっ、ごめん。お母さん・・」
 ひたすら謝る僕を見て、
「いったい、なんなのよ。子供みたいにお母さんの指を吸ったりして・・」
 荒い息を鎮めながら母は言った。
「勉強のし過ぎ? それとも、学校でなんかあったの?」
 幸いにも、母は僕の突発的な行動を別の意味に解釈してくれたようだった。
 僕の異常な行動を母は許してくれたのだろうか?
 母の偉大な心を意識し、安心したのはほんの一瞬だけだった。
 体の中に母の血が・・下降していく。まるで食べ物を消化するみたいに。
 すると・・
 ・・もっと母の血を吸いたい。さっきの指の血を。
 更なる欲求が高まった。ダメだ・・もう抑えきれない。
 このままでは、母の肌に歯を立ててしまう。そして、気の済むまで、血を吸い上げてしまいそうだ。
 何とか、理性を呼び戻さないと、再びまた・・

「お、お母さん・・外に行ってくる」
「えっ・・まだ、雨が降ってるじゃないの・・それにこんな時間に何しに外に行くのよ」
 母には納得できないことばかり続く。
「ボールペンを・・買いに」僕はそれだけを言い残し、ジャージの格好のまま外に飛び出出した。
 しまった・・傘も持たずに出た・・
 まあ、いい。雨に濡れた方が、欲望を抑えることができそうだ。

 その時、聞き覚えのある声が聞こえた。
「あれえ・・和也兄ちゃんじゃない?」
 目の前に傘を差した少女がいた。
 景子さんの妹。美也子ちゃんだ。僕より三つ下の中学生だ。静かで大人びた印象の景子さんとは正反対のイメージの子だ。活発で明るい。

 久々の対面にどう言葉を返していいかわからない。
 女の子と遊ぶものではない・・そんな父母の戒めから、景子さんだけではなく、その妹の美也子ちゃんとも話さなくなった。
 更に高校生になってからは、隣の家とはいえ、他の男兄弟の三人とも縁遠くなっている。
 目の前の美也子ちゃんも、道で出会って挨拶を交わす程度だ。
 そんな美也子ちゃんが声をかけてきたのは、よほど僕の格好に目が留まったからだろう。
 家を出たばかりなのに、傘も差さずびしょ濡れになっているのだから。

「和也兄ちゃん・・ジャージがびしょ濡れだよ」
「それに・・すごい顔・・何かあったの?」美也子ちゃんはそう言って「傘、貸してあげようか? 私は家に帰るところだから」と傘を僕に向けた。
「ありがとう・・でも、いいよ」と丁寧に断った。
 そんな僕の態度がげせないような顔をした後、
「和也兄ちゃんと話すのって、久々だよね」
「そうだな」
 その瞬間、彼女の首、腕、足へと、肌の露出している部分に目がいった。
 このままだと、美也子ちゃんに襲いかかってしまう。
 僕は久しぶりに会話を交わした美也子ちゃんを置いて再び駆け出した。
「和也兄ちゃん!・・」美也子ちゃんの僕を呼ぶ声が背中で聞こえた。

 どこへ行く? これからどこへ行く?
 このまま、雨に濡れ、どこに行くというのだ。
 どこに行けば、血を吸いたい欲望を抑えることができる?

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