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「えへへ、お兄ちゃん、来てもらって、ごめんね」
運動会の日はお店が忙しくなる日曜日なので、お父さんもお母さんも来られない。
去年はお母さんが来てくれたのだけれど、今年はお兄ちゃんが代わりに来てくれた。
 お兄ちゃん、迷惑だろうな。日曜日は家でゆっくりしたいだろうな。
 サッカーの練習で疲れてるのに、私なんかのために。
 お兄ちゃんはサッカーをやってるけど、そんなにスポーツマンには見えないそうだ。
 体も華奢だし、どっちかというと本ばかり読んでそうな男の子に見える。
 でもサッカーのレギュラーだ。
 お兄ちゃんは運動会の冊子を見ながら、さっきからずっと、ぶすーっとしている。
 きっと私のこともブスだと思っているんだ。
「お兄ちゃん、うしろの父兄席に座ってていいんだよ」
「あとで行く」お兄ちゃんはいつも一言しか返ってこない。
 お兄ちゃんの座っている横にはお母さんの作ったお弁当と水筒が置いてある。
 お昼、お兄ちゃんと二人で食べるのかあ。
 お兄ちゃん、ブスとお弁当を食べるなんてイヤだろうなあ。
 加奈ちゃんは結局、来ないことになった。また何かあるといやだから、その方がよかった。
「智子、何か、飛んできたぞ」お兄ちゃんがぽつりと言う。お兄ちゃんの手には紙くずが握られている。
「ど、どこから?」私が訊くとお兄ちゃんは「あっち」と無愛想に指差す。
 川田さんや赤坂さんがいる方だ。
「な、何だろうね?」私はそう言って誤魔化した。
 私は体育座りをしたまま両腕の中に顔を埋めた。
「今度は石や」お兄ちゃんは小さな石を持っていた。
 私はすぐに振り返ると川田さんと赤坂さんがこちらを見て笑っていた。
 イヤな顔だ。
 お兄ちゃんの背中が少し汚れている。
「お兄ちゃん、石、当たったの?」
「当たったけど、別にかまへん」
 もう許せない。お兄ちゃんは関係ないじゃない!
「おまえ、いじめられてるんか?」
 私は小さく頷いた・・隠せなかった。

 トイレに行くのだろうか?川田さんたちが立ち上がって校舎の中庭の方に向かうのが見えた。
「お兄ちゃん、私、トイレに行ってくる!」そう言うとお兄ちゃんは「さっき行ったばかりやんか」と言って私の目をじっと見た。
「ごめん、お兄ちゃん、一年生の競技、見てて!」
 そう言い残して私は中庭に向かって駆け出した。
 今度こそ、ちゃんと川田さんに言おう。もう家族に迷惑はかけられない。
 二人に追いついた。息が荒くなっている。
「川田さん、ちょっと待ってよ!」
 私の声に二人が振り向く。
「川田さん、言いたいことがあるんやったら、私に言ってよ!」
 行きかう生徒や父兄に混じって立っている私は邪魔なだけだ。
「私の家族、お兄ちゃんには関係ないでしょ!」
 私と二人の間に人が時々無神経に通り過ぎる。
「あんた、ブスのくせに生意気なのよ!」
「そうよ、ブスのくせに長田さんの押し花、断ったりして」
 二人の口からブス、ブスと何度も発せられる。
 運動会の太鼓や笛の音がやかましく、私たちのやり取りを誰も聞いていない。
「さっきもお兄ちゃんに石を投げたでしょ!」
 二人は、それがどうした、というような顔をしている。
「危ないじゃない!お兄ちゃんが怪我したらどうするのっ?責任とってくれるのっ」
 私の大声にさすがに周りの人も振り向いているようだったけど、私には周りの人がもう見えなくなっていた。
「なによっ。生意気なっ」川田さんの右手が振り上げられた。
 叩かれる!そう思った瞬間、
 振り上げた川田さんの手が宙で止まった。
「お兄ちゃん!」
 背後からお兄ちゃんが川田さんの手をしっかりと掴んでいた。
「何すんのよっ、いったい誰よっ」
 川田さんはすごい剣幕だ。
 お兄ちゃん、いつのまに来ていたのだろう、私の後をつけてきたの?
「おまえ、俺の妹に何しよるんや!」
 妹って言葉、久しくお兄ちゃんの口から聞いていない。
「お前らか、妹のことをブス、ブスって言ったのは!」
 お兄ちゃんは川田さんの手を戻すと川田さんの体操着の胸の辺りを掴み上げた。
「あの紙切れもお前らやろ!」
 川田さんは爪先立ったままカクカクと頷いている。
「妹のことをなあ、ブスって言ってええんわなあ、兄貴の俺だけなんや!」
 赤坂さんは怯えているのだろうか、すごく震えている。
「ご、ごめんなさい」川田さんは小さな声を震わせながら出している。
 お兄ちゃん、私のことを人前でブス、ブスって言ったりして。やっぱり、私はブスなんやね。でも今はお兄ちゃんのこと腹が立たなかった。
「よく覚えておけ!今度、妹に何かしたら、俺が承知せえへんぞ!」
 不思議な光景だった。いつも家でぶすーっとしてるお兄ちゃんが立て続けにしゃべってる。そばの人の何人かが気づいてこちらを見ている。
「お兄ちゃん、もうやめてっ」
 言うだけ言ってスッキリしたのか、お兄ちゃんは川田さんの体操着から手を離した。
 解放された川田さんは赤坂の方にすがるように駆け寄った。
「赤坂さん、芦田さんにこんなお兄さんがいるの聞いてないわよっ」
「そんなの私だって知らなかったわよっ」
 二人が言い争いをはじめた。
 私と加奈ちゃんはこんなことで言い争ったりはしない。
 この二人は私をいじめていてずっと楽しかったのだろうか?
 二人は一緒に遊んだりしていたのだろうか?
 二人の争う声は運動会の喧騒の中に消え入っていった。
「智子、席に戻るぞ」お兄ちゃんは私の手を強く引いた。
「お兄ちゃん」そう言おうとしたけれど、上手く声に出ていなかった。
「おまえ、トイレ、せんでよかったんか?」
「お兄ちゃんのバカ」ようやく私は小さな声をだした。

「智子、私、やっぱり見に来た」
 加奈ちゃんが微笑みながら立っていた。ブルマを穿いている。
「見学だけならいいかな、って」
 さっき、すごいことがあったんだよ、って加奈ちゃんに言おうと思ったけどやめた。
「そちら、お兄さん?」
 お兄ちゃんはそう訊かれてこくりと頷いた。
「うん、私のお兄ちゃん」
 私の自慢のお兄ちゃんだ。
 加奈ちゃんは私の横に座った。右側にはお兄ちゃんがいる。
 私は「両手に花」状態だった。

「よっ、智ちゃん!」
 私の背後から藤田さん、藤田くんのお父さんが声をかけてきた。
「藤田さん、こんにちは。いつもお世話さまです」
「相変わらず、智ちゃんは元気やなあ」
 おじさんの大きなお腹が目の前にあった。少し揺れている。
「はい。私はいつも元気です」
「お兄ちゃんはいつもだんまりやな」
「お兄ちゃんは黙っている方が格好いいんです」
 私がそう言うとお兄ちゃんの手が伸びてきて私の腕をつねった。
「次は100m走や。わしの息子は早いでえ」
「ひろちゃんも出るんですね」藤田さんの息子さん、洋くんは小さい時から足が速い。
 ドーン、ドーンと太鼓の音が運動場に響き渡る。
「智子、村上くんだ」加奈ちゃんが一組の方を指差した。村上くんがいる。
「ほんとだ。村上くんも出るんだ」
 入場口から五年生の生徒が並んで出てきた。
 一組の観客席から「陽ちゃーんっ」と呼ぶ女の人の声が聞こえた。

 お昼の時間には私とお兄ちゃんはお母さんの作ってくれたお弁当を食べた。
 私は大きなお握りを頬張った。
「んっ」私は頬張りすぎて喉を詰まらせた。
 お兄ちゃんは私のおでこをごつんと小突いて「あわてんぼ!」と言いいながら、水筒のお茶をコップに移して私の方に差し出した。
 なんだか泣きたくなったけれど、苦しくて泣けなかった。
 私のお兄ちゃんは口が悪いけどとても優しい。

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