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娘であるということ

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 私は自然と仁美ちゃんのことを「お姉ちゃん」と言って叫んでいた。
 だって、仁美ちゃんはあの男に突き飛ばされて、いつもしっかり者の仁美ちゃんがあんな風に突き飛ばされて、私はもうたまらなくなって、気がついたら叫んでいた。
 どうしてだろう? 誰かにそう言え、と言われた気がする。
 お母さんは仁美ちゃんの擦り剥いた膝と私の肘を丁寧に消毒して、絆創膏を貼った。救急箱に赤チンや風邪薬、お腹の薬が入れてあった。
 それから仁美ちゃんはお母さんの長い話を聞いていた。
 お母さんは仁美ちゃんに何度も「こんな汚いところでごめんなあ」と言っていた。
 家の中は散らかっていて、お酒や煙草の匂いがして恥ずかしかったから、私は二人の話を聞かないふりをして片付けをはじめた。
 あの男はまた帰ってくるのだろうか? 不安はあるけれど、私は前より強くなっている気がした。私には守ってくれる人が大勢いる。
 私はお母さんに貼ってもらった絆創膏が嬉しくて、しっかりと肘を絆創膏の上から押さえた。仁美ちゃんも両膝に絆創膏を貼ってもらっている。
 仁美ちゃんはお母さんの話を聞きながら部屋の中を眺めまわしている。
 部屋にはもちろんあの男の物や敏男の物があったけれど、私の物もたくさんある。
 ランドセル、教科書にノート、筆箱、壁に貼られた時間割、給食袋、体操着、替えのワンピース。
 見られて恥ずかしいけれど、少し嬉しかった。私のことをもっと知って欲しいという気持ちもある。
 仁美ちゃんは家には何と言って出てきたのだろう? 家の人は心配していることだろう。
 私はある程度片付けると台所に行ってお湯を沸かしてお茶の用意をした。
 卓袱台に湯呑みを二つ置くと仁美ちゃんに「悠子、そんなんええのに」と言われたけれど、私は「お母さんが飲みたいやろ思って一緒に出しただけ」と答えた。するとお母さんはお母さんで「私に気を使って、どないすんねん」と笑った。
 お母さんはあの男が仁美ちゃんの家に押しかけようとした経緯を話し、その事がお母さんが男のことを吹っ切れさせる要因になったことを話した。
 話の途中、「私は心の弱い人間や」とか「心に隙があった」という言葉が何度も繰り返された。
 きっとお母さんは仁美ちゃんのお父さんのこと、まだ好きなんだと思う。
 信じられないことだけど、私には嬉しい。
 私はお茶を出したあと流し台で食器を洗い始めた。
「私、おばさんにお願いがあります」
 お母さんの話が終わると仁美ちゃんが話を切り出した。
 何だろう?
「十月に私の誕生日会があります。私、こんなんするの、あまり好きやないけど、家でします。今年は悠子に来て欲しい。それがお願いです」
 私の家の時間が止まった。
 仁美ちゃんの家って、仁美ちゃんのお母さんがいるし、もしかして、お父さんも?
「家には父がいます」続いて仁美ちゃんは言った。
 お父さんがいる!
 お母さんの顔が少し、緊張したように見えた。
 ダメや、絶対、あかん。仁美ちゃん、私、そんなん行かれへん。
 それに、お母さんだって、許してくれへんに決まってる。
「他にお友達も呼ぶつもりです」
 村上くん? ちょっと行きたくなってきた。でも、あかん。
 私は食器を洗う手を止めて二人の方を見た。
「条件があるけど、かまへんか?」
 お母さんが静かに言った。深呼吸しているのか胸を上下させている。
「何ですか? 条件って」
 条件があることが仁美ちゃんには不服なようだった。
「悠子にはつらい思いさせるやろけど、あの人の娘やと言わんといて欲しい」
 あの人の娘・・お母さんの口から初めて聞く言葉だった。
 私は「あの人の娘」なんだ、と改めて思った。
「どういうことですか? 私の父も母も悠子が父の娘やっていうのん知ってます」
 仁美ちゃんは口調を荒げた。
「私は静かに暮らしたいんや。それに、あの人にこれ以上迷惑かけたくないんや」
 お母さんはそこまで言うとお茶を一口飲み「あの人も家でごたごたが起きるのはイヤやと思う」と続けて言って静かに湯呑みを置いた。
「本当に父もそう思っているのでしょうか?」
 仁美ちゃんは間を挟みながらもお母さんに話を促している。
「香山のお嬢さん、あの人は家では立派なお父さんやろ? あの人はあんたを立派なお嬢さんに育ってもらうために、たぶん、あんたを悠子に近づけんようにしてたはずや」
 仁美ちゃんはこくりと頷いた。
「知らんですんだら、こんな楽なことはないもんなあ」
 みんな、辛い思いをしてるんだ。私はそんな人たちに守られている。
「あの人はあんたを気にかけるのと同じように、悠子のこともいつも気にかけてた」
 私は聞くのが辛くなって流し台の方を向いた。
「何で知ってはるんですか?」
 仁美ちゃんは全然わからない様子だった。私もわからない。
「お金と手紙や・・」
 仁美ちゃんは一瞬びっくりした表情を浮かべた。
「悠子が生まれた時からずっと毎月、振り込みでお金を私はあの人から頂いていた。これ以上くれんでもええいうくらいに頂いた。悠子が小学校に上がると振り込んでくれるお金も増えた」
 私が小学校に入学した時もお父さんは知っていたんだ・・嬉しい・・なんだか泣きそうになってきた。
「お金は何となく気づいてましたけど、手紙も出していたんですか?」
 お母さんの表情がどんどん変わってくる。私が小さい頃、今よりもっと優しかった頃の顔になっていく。
「あの人から手紙、ようさんもろうた。『悠子は元気にしてるか、体を壊してへんか』とか、いっつも内容が一緒やったけどな」
 私はもう泣いていた。
「このアパート、私と悠子が出る気あるんやったら、その資金を援助するとも書いてあった」
 そうだったんだ・・でもこのアパートを出たら、仁美ちゃんの家と離れてしまう。
「私はあの人の会社が危ないのを噂で知ってるんや。でもあの人はそれを手紙でも言わへん。私は知ってるから、つらかった」
 手紙はよくお母さん宛に来てたのは知ってるけど、氏名が違ってた。
 あれはお父さんだったんだ。お父さんの字だったんだ。
 お母さんはお父さんに返事を書いていたのかな?
「アパート出るための援助どころか、あの人には、もう毎月のお金を振り込む余裕もないはずや」
 お父さんの会社、そんなに危ないの?
「ほんまは私がここから出て行って、あの人のそばから消えた方が一番ええんやけどな」
 お母さんの顔はもうあの男といる時の顔をしていなかった。
「でもなあ、香山のお嬢さん、あんたには悪いけど、私はこのアパートから離れられへんのや」
 お母さんはスカートの裾を絞るようにギュッと掴んでいる。
「外に出て高台を見上げたら、いつも安心できるんや。そやからこのアパートから、いつまでも離れられへん。情けないけど、私はそういう女なんや」
 そうだったんだ・・
 お母さんにとっても高台の家は、私にいつも言っていたように「特別の国」だったんだ。
 現実には他の男の人に優しさを求めていたけれど、ここから離れることはなかった。
 けれど、高台からは絶対に誰もやって来ないことをお母さんは知っていた。
 私はお母さんのことを何も知らなかった。知ってあげようとしなかった。
「ごめんなあ、二人とも、私、これから働くからなあ、勘弁してなあ。いつまでも、あの人に甘えておられへんもんなあ」
 お母さんが泣いている。
「あの、おばさん、ひとつ訊いていいですか?」
 お母さんがこくりと頷く。
「悠子が生まれてから、私のお父さんに会ったことあるんですか?」
 仁美ちゃんは静かに聞いたけど、お母さんは声に出さず首を横に振るだけだった。
 それから仁美ちゃんに「もう遅いから帰り」とだけ言った。
 私は手提げの中からお祭りでもらった二本のサイダーを出して冷蔵庫に入れた。
 もうお母さんはあの男を家に入れないだろうから、もう盗られることはない。なぜかそんな気がした。
 ビー玉もあの男の息子に盗られない。いや、もう絶対に盗らせない。
 そして、私はもう決めていた。
「お母さん、私、仁美ちゃんの誕生会に行く・・行かせてください。お父さんに何も言わへんから・・お母さん、安心して」
 私は濡れた手をタオルで拭きながら二人のいる居間に入って言った。
 お母さんは私の顔を見上げて「行ってき」と言った。
 お母さんの表情は、ずっと昔、私が幼かった頃の顔に戻っていた。

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