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島本由美子の長い話②

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 そして、島本さんの話が始まった。

 島本さんは若い頃、この町の小さな喫茶店で働いていた。夢の多い年頃・・島本さんは自分の若い頃のことをそう表現した。
 そんな少女は都会の生活に憧れ、夢を抱き出てきた。だが、現実はそんなに甘くはなかった。少ない収入で、親に仕送りもしていると、手元に残るのはほんの僅かなお金だった。
 それでも夢を捨てられなかった。島本さんは、童話作家になるという夢を持っていた。
 暇を見ては小さく暗い部屋で童話を書いていたらしい。
 今の島本さんを見ても、そんな姿は想像できないが、誰にしもあったような夢のある頃だったと想像する。
 
 そんな頃だったらしい。
 島本さんは今でも綺麗だが、若かった頃は、更に若さゆえの美貌が備えられていたと思う。そんな島本さんに目を付けた陰湿な客がいた。店の中でしつこく言い寄られ、更には自宅を突きとめられたりしたらしい。
 そんな島本さんを救ってくれたのが、たまたま店に来ていた男・・それが、島本さんが恋した男性だった。
 それが最初で、最後の恋・・島本さんはそう言って微笑んだ。ありふれた歌みたいな言葉だが、なぜか、真実味を帯びて聞こえた。
 島本さんは自分で、「田舎出の私には、ドイツ人とのハーフだった彫りの深い顔と澄んだ碧い瞳は眩しすぎた」と言って遠くを見るような目をした。
 その男は、この町にずっといるわけではなかった。
 男は貿易関係の仕事で、海外、神戸、東京・・と渡り歩いていた。家系も巨大な財閥系、その直系の御曹司だったらしい。
 そして、島本さんが夢中になるほどには、相手は島本さんを見なかったらしい。
 相手の男と、島本さんは「身分が違い過ぎた」と言った・・そう、あえて島本さんは「身分」と言った。
 
「お二人は、つき合っていたのですか?」
 僕がそう訊くと、
「そんな偉い人が、私のような女とつき合うと思う?」
 と島本さんは自嘲的に微笑んだ。
「偉いとか・・そんなこと、恋愛に関係があるのですか?」
「関係あるのよ」

 おそらく、男にとっては、遊びだったと推測する。たまに訪れる港町神戸での休息の地として、その店、島本さんの存在があった。
けれど、島本さんは、それでもよかった・・そう思っていた。
 辛い日々が続いていた頃に、ようやく差した光・・そんな人だったと島本さんは言った。

 何度か、会ううちに島本さんの想いが伝わったのか、男は島本さんを見るようになったという。
 神戸に来るのは、月に一回あるかないかだったが、それでも男は、時間を見つけては島本さんと逢瀬を交わすようになった。

 デートのようなものをした際、男はよくこう言った。
「どんなに、僕が君を好きになっても、君と一緒になることはできないし、君が僕を愛してくれても、君の気持ちを受け入れることはできない」
 島本さんの小さな幸福に鋭い楔を打ち込むように繰り返し言った。

 つまり、島本さんが言う「身分」というのはこのことだった。こんな時代にでも、そんなおとぎ話めいたことがある。
 いや、時代とは関係なく人間社会にはずっとあるのかもしれない。

 島本さんは、そんな男の言葉を受け入れながらも、男と過ごす時間の一瞬一瞬を楽しんでいた。

 けれど、どんな言葉があっても、矛盾は生じたりするものだ。
 島本さんは既に子供を宿していた。
 そして、島本さんの残酷な運命は始まった。
 島本さんは、やがてこの世に誕生する新しい命を男が絶対に受け入れることはない、と確信していた。
 その確信通り、男は、島本さんの懐妊を知ると、その事実の口外を伏せることを約束させ、ある程度の金を渡した。だが、島本さんはそれを断った。
 そして、男は親が決めた女性との結婚を既に進めていた。

 島本さんは覚悟していた。この子はひっそりと自分が育てていこう、と。
 生まれた子は女の子だった。名前は「みちる」
 幸福に「満ちる」・・そんな願いを込めた名前だ。
 小さなアパートの部屋に小さな幸福・・島本さんはそう願っていた。

 だが、運命の神さまはそう簡単には島本さんと娘さんを幸福にさせてくれなかったらしい。
 赤子が、「ママ」と言いかけるか、言いかけない頃、
 もう現れるはずのなかった男が、アパートの扉を叩いた。
 島本さんは心躍った。理由がどうであれ、もう会えないと思っていた自分の愛した男性だ。
 だが、そんな喜びとは正反対の話を男は切り出した。
 話は簡単だ。
 島本さんの娘さんを「寄越せ」・・そういうことだ。
 そこまで一気に話すと、島本さんの嗚咽が洩れだした。

 男は、その夫婦は・・子供に恵まれなかった。相手の女性に問題があったらしい。
 男は普通の家系ではない。子供がいない、というのは致命的だ。
 かといって、離婚などできるはずもないし、側室も許されなかった。
 そこで考えたのが、既に生まれていた島本さんの娘だった。男子ではないのは残念だが、家系を絶やすよりはましだった。
 養女として引き取る・・と言えば聞こえはいいが、実際には子供を盗られた・・ということだ。
 少なくとも僕にはそう聞こえた。

 そして、実際に、「盗られる」ような感じだったらしい。
 泣いても喚いても、すがりついても、物事は確実に進んでいく。
 島本さんはそう言った。

「それって・・法律的に問題があるのではないですか?」と僕は訊いた。
 島本さんは、「秘書のような人が数人来て、書類を見せられ、問題はない、と言われたわ」と答えた。「それに、私は・・それで、あの人の人生が上手くいくのなら、あの子がアパートにいるよりも幸せになるのなら、それでいいと思った」
「それって・・諦めた・・そういうことですよね」
「そういうことかな・・」と島本さんは寂しく言った。

 更に島本さんにとって残酷だったのは、島本さんに男が残していった言葉だった。
「いつか、時が来たら、君を迎えに来るよ」・・だ。
 そんなことは絶対に起こりえない・・そう思った。
 それは、適当で安易な、その場まかせの言葉だ。相手を突き放すための言葉だ。
「そんなこと・・島本さんは、その人が言った言葉を本当に信じているんですか?」
 そう僕が訊ねると、島本さんは頷いた。
「信じないと・・私は、何を支えに生きていけばよかったの?」
 その言葉は、僕にではなく、自身に向けて放った言葉のように思えた。

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