黒獣ダンジョン殺人事件

Sora Jinnai

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インフェルノ

嘆きの河の中心へ

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グノートス遺跡 第8階層 20:10 p.m.(推定) フランチェスコ
 フランチェスコと傭兵たちに対し、食後は特に指示がなされなかった。ほかの者は自室で休んだり、世話話に興じたりと思い思いに過ごしていた。

 フランチェスコは部屋の水溜に腰掛けた。何をするでもなくファルシオンを抜くと腰の清め布で刀身を磨く。何度も何度も、無心でストロークさせる。フランチェスコの頭は段々と平静を取り戻してきていた。
 瞳を閉じ、思い出す。今日起きた出来事を。昨日倒したモンスターを。船の上の会話を。そして布団の上に横たわる母親の姿。
 自然と首が垂れ、腹筋に力が入る。取り戻しかけた平静は霧散した。

 目を開けると頭を抱えてため息をついた。水さえあれば人間は1週間は生きていけるという。だからこの閉鎖空間に籠ること自体はさほど問題には思っていない。フランチェスコが気になるのは自らの処遇だ。護衛として与えられた仕事は完全に失敗した。どのような処遇が下るか、それが彼にとって最も憂慮すべきことだった。

 不安に駆られながらふと顔を上げると、部屋の外、左斜め前。レアンドロの部屋にベアトリーチェが入っていく姿が見えた。何か用があるのだろうか。フランチェスコは思わず彼女の後を追った。

「ベアトリーチェ卿、何をしてらっしゃるんです」
 背後から名前を呼ばれ、ベアトリーチェは肩をはねた。振り返ってため息をつくと声を荒げてまくしたてる。
「急に大きな声を出さないでくれるかしら、びっくりするじゃない」
「え、はあ、失礼しました」
 そこまで怒ることだろうか。困り顔でいると彼女はムッと眉をひそめた。

「レアンドロさんは下の石室にいらっしゃるはずですが」
「あたしがいつレアンドロに用があると云ったの」
 強い語気で否定された。思わずフランチェスコはたじろいだ。

「それでは、何の用でこの部屋にいらしたのですか」
「私は……井戸を調べるのよ。飲み水は少しでも多くあった方がいいわ」
「リュディガーは水は無いと云っていましたが」
 2人してろうそくを掲げ、井戸の中をのぞきこむ。

「それは見えないってだけでしょう。目に見えるものがすべてじゃないわ、実際に確かめないと」
「それまたどうやって」
 ベアトリーチェは得意げに鼻を鳴らすとポケットから鈍く光る銀貨を取り出した。フランチェスコは彼女が何をしようとしているか察した。

「それを使うのはもったいないんじゃないですか」
「いいのよ、減るもんじゃないし。ここにいたってどうせ使いどころがないでしょ」
 いや減るものだろう、と言い終える前にベアトリーチェは銀貨を井戸に投げ込んだ。思わず額に手を当てる。

 ポチャン。

 投げ込むと一弾指いちだんしおいて確かな水音が2人の耳に届いた。驚いて井戸に乗り出す。
「やっぱり水があるじゃない」
「そんな、本当にあるなんて。でもどうやって水を汲むんですか」
「どうしようかしら」
 無計画さを得意げに言われ、呆れてフランチェスコは頭をかいた。

 ベアトリーチェはしばらく考え込んでいたが、突然思い立つと服を脱ぎ始めた。
「ちょっと、何やってるんですか」
「何って、これをロープの代わりにするのよ」
 ベアトリーチェは下着姿になると、高級そうな純白の服をビリビリと細長く破いていく。しばらくすると布片同士を結び合わせた2メートルほどのロープが完成した。

「あとは汲むための釣瓶つるべね。あなた、桶みたいな形状の壺を持ってきなさい」

 彼女に促されるまま部屋を出て壺のあった部屋へ向かう。突然の来訪者に部屋を割り振られていたエーレンフリートは目を丸くしていた。部屋にはちょうどロミーが居て、フランチェスコは邪魔しないからと断って部屋に入れさせてもらった。
 水をくむのに適した壺。ちょうどこんな感じだろうか。
 フランチェスコは部屋の奥からひとつを持ち上げて値踏みする。青い魚の模様が入った装飾壺だ。自分の頭がすっぽり入りそうな大きさで、外に向けて口が広くなっている。それを持って足早に井戸へ引き返した。

「上出来ねあとはこいつを結んで…」
 壺の取っ手にロープを通すと、輪っかを作りその中を行ったり来たりさせてたちまち結び付けた。たしかもやい結びというのだろうか。

「よし、いくわよ」
「投げ込まないでください。届いても割れちゃいますから」
 フランチェスコは慌てて彼女の手をつかんで抑える。
 ロープを奪い取ると慎重に井戸の底へおろしていった。

 手で握れるロープはのこりわずか。しかし壺は水面につかなかった。長さが足りなかったのだ。
「ベアトリーチェ卿、ロープが足りないみたいです」
 フランチェスコは壺を引き揚げて床に置いた。

「そう……あ、じゃああなたの服も使って」
「僕まで下着姿にするつもりですか」
 キョトンとしたあと彼女は自分の姿を顧みた。名画の女神のように胸元を手で押さえるとフランチェスコに背を向けた。

 フランチェスコは茶色の革製の上着を脱ぐと彼女の肩にかけた。
「あなたがこんなに行動力のある人だとは思いませんでした。少し意外です」
袖を通したベアトリーチェはまじまじと襟部分を眺めた後、鼻先に近づけた。

「…さすがに恥ずかしいので嗅ぐのはやめてください」
 フランチェスコは思わず赤面する。ベアトリーチェはなんでもないような様子だった。

「意外ね。大人っぽいと思ってたけれど、案外年相応な反応だわ」
「ほっといてくださいよ」
 フランチェスコはますます顔が赤くなる。耐えきれなくなってそっぽを向いた。
「ふふ、ほらそういうところ。あなたって敬語が似合ってないのよ」
「……そうかもですね」

 フランチェスコはその場に座り込んでファルシオンを抜く。自分の深緑色のズボンの裾に切り込みを入れると、膝のあたりまでブチブチと破いた。もう片方の裾にもやってロープが完成した。
 これを結び付けて何十センチか延長し、再び壺を下におろす。

 ちゃぷ。
 壺が水面まで届いた音だ。嬉々として引き上げていく。のぞき込むと見事に壺には水が溜まっていた。
「これで飲み水の問題は解決ね」
 彼女は手を突き出す。フランチェスコは恐る恐るハイタッチした。

「まだ安心できませんよ。これがちゃんと飲める水かわからないんですから」
「そうね。じゃあお願い」

 お願い? フランチェスコは首を傾げた。彼女は後ろ手に組んで上目遣いで見上げてくる。しばらく意図が分からず固まっていた。

「もしかして、僕に飲めっていうんですか」
 ベアトリーチェは大きくウンウンとうなずいた。フランチェスコは思わず苦笑してしまう。
 飲んだら死んでしまう可能性もある。だが一週間ここに籠ることを考えれば、飲み水がないことは大きな問題だ。背に腹は代えられない。
 フランチェスコは意を決してぐいっと飲み込んだ。

 口に入れた瞬間、えずいて含んだ水を吐き出した。ベアトリーチェは慌てて距離を取る。
 しょっぱい。漬けニシンの塩を払わず口に入れたときような、とげとげしい塩味が舌を襲う。
「うげぇ」
「くく、ふふふ」
 顔を見合わせるとベアトリーチェは口元をおさえて笑っていた。

 思わずドキリと鼓動が高鳴るのをフランチェスコは感じた。突如沸いた感情に戸惑いを隠せなかった。
 ゲホゲホと咳きこむと彼女はさらに笑う。気づけば破顔した彼女を見つめていた。

「おそらく井戸の塩水化現象ね。地下水をくみすぎると水面の高さが海水面を下回ってしまうの。それで井戸水に海水が流れ込んでしまうというわけ。元の水質に戻すには何十年と時間がかかると言われているわ」
 ベアトリーチェはひとしきり笑うと一転して冷静に戻った。治水学にも秀でているのか、流石は領主様だ、とフランチェスコは感心した。

「それじゃあ、この水は使えませんね」
「そうみたい。悪かったわね、こんなことに付き合わせてしまって」
「そんなことないですよ。お役に立てて光栄です」

 ベアトリーチェは井戸の淵に腰掛ける。決心したようにつばを飲むと、上目遣いで訊く。
「ねえ。あなたはなぜここに来たの」

 フランチェスコはしばらく黙っていた。何を見るでもなく目を泳がせると口をとがらせて云った。
「どうして、そんなことを聞くのですか」
「そうね……理由はあなたのことが知りたいから、かしら?」
 ベアトリーチェが疑問を呈するように言うため少し違和感を持った。

「僕もベアトリーチェ卿のことを知りたくなりました。逆にお聞きしてもよろしいですか」
「あたしは仕事、っていうのは建前ね。理由は、くだらないけれど、ただ逃げ出したかったのよ」
 ベアトリーチェは井戸に背を預けて座り込んだ。

「父親が死んで、あたしはその容疑者なの。裁判ではお前がやったんだろって詰められて、心がどうにかなっちゃいそうだったわ」
 ベアトリーチェは首元に手を置いて云った。
「あたし、ダメな人よね」
「そう自虐することでもないですよ。困難に直面して辛くなるのは、誰だってそうですから」
 彼女の横に腰を据える。
「僕が短い人生で分かったことは、人生は後悔の連続ってことです。辛いことからは、富める者も貧しき者も逃げられません」
 結婚の口上をもじってフランチェスコは云った。

「僕は小さいころに辛いことがありましたけど、その後は流れに身を任せてできることを全力でやってきたつもりです。過去の自分を肯定しても、いいんじゃないですか」
 フランチェスコの言葉に返事することはなく、彼女は黄昏るように黙した。
 それからしばらく会話はなかった。お互いの顔を見ず、静寂の中で隣から伝わってくる息遣いを感じていた。

「今日はもう遅いですしお開きにしましょう。僕がここに来た理由はまた今度に」
 そう切り出しフランチェスコが立ち上がろうとすると、後ろ手に袖を引っ張られる。

「今度っていうのは、いつ」
 ベアトリーチェは上目遣いで云った。

「……もうちょっと仲良くなってから」
 彼女の右手を優しく払い、フランチェスコは部屋を後にした。
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