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3章
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「水族館、イルカさんとシャチさんいるねぇ」
ふふ、と賢がイルカのイラストをタブレットで描いている。夏休みに水族館に行こうと拓海が賢に告げたら、賢はすごく嬉しそうに笑った。それからは楽しみなのか、よくイルカや魚を描くようになった。
「ね、賢くん?」
賢がなんだろうと首を傾げた。
「お願い賢くん、絵を描いて欲しいの」
「いいよ」
賢は二つ返事で了承してくれたが、拓海は改めて個展のことを話した。
「僕の絵を飾る?」
やはり賢にはピンときていないようだ。拓海はどう説明したらいいものか考えた。
「賢くんは自分の絵が売れたら嬉しいかな?」
「売れないよ」
賢が困ったように表情を曇らせる。
「この前したお仕事、覚えてる?」
賢は俯いたまま頷いた。そして呟くように言う。
「猫さん描いたねぇ」
「そうだよね。賢くんは絵を描くことが好き?」
「うん」
拓海にも分かっている。これは単なるエゴイズムの押し付けだ。賢が絵を描くのは、ただ純粋に好きだからで、金儲けをしたいわけじゃない。拓海はどうしたものか考えた。
「賢くん、こんなこと言ってごめんね。僕を含めて、周りの大人たちが君を振り回してるよね」
それでも、と拓海は続けた。
「賢くんのイラストの良さを広げられたら、もしかしたら君の将来に繋がるかもしれない」
拓海の言葉に賢がキョトンとした。
「大人になっても絵が描けるの?」
「描けるよ!沢山描ける!!」
拓海の力強い言葉に賢はしばらく考えていた。
「1枚でいい?」
「うん」
拓海はそのあたりの話をギャラリー側とうまく付けている。
「いつまでに描けばいい?」
賢が通学カバンから取り出したのは夏休みの日程表だ。そこは毎度おなじみである。賢は日程通りに動くのが得意だ。今からスケジュールに組み込むつもりなのだろう。
「描いてくれるの?」
「ん」
賢が笑った。
「絵、描きたい」
賢の描きたいという気持ちを大切にしよう、と拓海は思った。賢の将来に関して少し光が見えてきたような気もする。だが、絶対に押し付けるのはやめようと決めていた。
「賢くんは描きたいもの決まってる?もふくんかな?」
いつもならもふくん一択の賢である。少し考えた賢は笑った。
「シャチさん描く!」
賢はそう言って自室に戻り、また居間にやって来た。抱えてきたのは大きな画用紙である。前に文房具屋で珍しく欲しいとねだられて、数枚買ったのだ。
「これに描く」
「え、すごいね。賢くん」
「シャチさん、図鑑に載ってるよ」
賢が取り出したのは海の生き物というタイトルの図鑑だ。この間、拓海の両親と一緒に出掛けた時に買ってもらったものだろう。賢が拓海の隣に座ってシャチのページを見せてくれた。フルカラーのそれはなかなかの迫力である。
「あ、CDが付いてる」
賢が最後のページを捲って言った。どうやら気がついていなかったらしい。拓海は隣から覗き込んだ。
「賢くん、多分それDVDじゃないかな?」
「え!見れるの?」
「見れるよ。今、見てみる?」
賢が嬉しそうに頷く。拓海は慎重にディスクを取り出し、プレイヤーに入れた。
海の動物たちの自然の姿がありありと映っている。賢は真剣な表情で眺めていた。
(これは賢くんのお気に入りになるな)
拓海が内心で苦笑していると、賢が立ち上がる。
どうしたのかと思ったら、タブレットとペンを手に戻ってきた。
「もう一度見ていい?」
「いいよ、スケッチするんだね」
「ん。シャチさん泳ぎ方かっこいい」
「うん、大きいしかっこいいよね」
賢が映像を眺めながらサラサラとスケッチしていく。時折巻き戻しをかけながら見ていたので、拓海もどんな映像か覚えてしまった。
「もふくんも大好きなんだけど、シャチさん描いていい?」
どうやらもふくんに申し訳ないという気持ちがあるようだ。拓海は笑って言った。
「大丈夫。賢くんがもふくん大好きなこと、もふくんには分かっているもの」
「本当?」
「本当だよ。コンサートだって見に行ったでしょ?」
「行ったねぇ」
「また行こうね」
「ん!」
拓海たちの暮らすマンションはもちろん賃貸なので、不用意に汚すことは許されない。それに、そこまで広くないのだ。賢の作業スペースも当然限られてくる。
当然一番広い居間が賢の作業スペースだ。拓海は時折慎吾が買ってくる競馬新聞を床に並べ、その上に画用紙を敷いた。
「賢くん、紙が動かないようにマスキングテープで留めとくね」
「ありがとう」
賢が取り出したのはもちろん鉛筆と消しゴムだ。こんな大きな紙にどんな絵を描くのだろう、と拓海もドキドキしていた。
「賢くん、ちゃんと休憩してね。約束」
賢が顔を上げて笑う。
「約束は大事だねぇ」
拓海は今日、野菜スープとパエリアを作ろうと先程からレシピを探していたのだ。賞味期限間近で割引になっていたシーフードミックスを使おうと考えている。ちらっと賢の方を見ると、迷いなく鉛筆を動かしている。
(賢くんの観察眼すごいな)
拓海は再び料理に取り掛かった。
「ただいまー。お、賢は作業タイムか」
慎吾が帰ってきた。手には白い紙箱を持っている。
「お帰りなさい!」
賢が弾けるように笑う。
「お帰り、慎吾。それなあに?」
拓海は慎吾の手元を指差した。
「んー?たまにケーキもいいかなって」
「嬉しい」
「賢は何描いてんだ?」
「シャチさん」
「シャチかぁ。でかいよなー。あ、だからでかい紙に描いてるのか」
「そう」
賢が至極真面目な顔で頷いたので、拓海はそうだったのか!と内心で驚いてしまった。
「賢くん、そろそろ片付けようか。お腹空いたよね?」
「ん」
「賢、疲れたろ」
「うん」
今日も課題と自習をかなり頑張った賢である。疲れていないはずがなかった。
「いっぱい食べてよく眠ったら元気になるから」
「いっぱい食べるねぇ」
賢は宣言通りたっぷり食べたのだった。
✢
「賢、よく寝てる」
そーっと慎吾が自分たちの寝室に戻ってきた。慎吾は時折心配して、賢の寝室を訪問する。
「良かった。疲れがたまらなければいいんだけど」
「賢、毎日結構勉強するもんな?」
「うん、しかも休みないし」
「やらないと爆発するかな?」
賢に急なスケジュール変更は難しい。
「…僕たちはブレーキだよね」
「あぁ」
「うまく切り上げられるように言ってみる」
「…そうだな。難しいかもだけど、絵も描くなら尚更元気じゃないとな」
「過労になりそうで心配だったんた」
「あぁ。そうだよな。倒れて救急車なんかに乗せられてみろ。賢のやつ、ますますパニック起こすぞ」
「本当にそう」
2人でこうして日々のことを話すのはもう習慣だ。お互いに今日あったことを報告し合う。
「ねえ、慎吾?僕たち間違ってるのかな?」
拓海は言ってしまってから、しまったと思った。
慎吾が拓海を抱き寄せてくれる。拓海もしがみついていた。
「間違ったらやり直しゃいい。間違ったっていいんだよ」
「賢くん、傷付かないかな?」
「傷付かないまま生きられる人間なんていないよ。拓海だって俺だって、いや、人類がみんなふいに傷付くんだから」
「避けられないんだね」
「大丈夫、賢はよく分かってるよ」
「うん」
もう寝ようと慎吾に頭を撫でられて、拓海は頷いた。ふっと気を抜いた途端、意識は落ちていった。
✢
「おにぎり美味しい」
「賢くん、よく噛んで食べてね」
「ん」
とうとう水族館に行く日になった。前日まで賢はかなり興奮しており、なかなか寝付けなかったようだ。深夜を回って困ったように、眠れないと2人に訴えてきた。拓海は甘いホットミルクを淹れ、賢と一緒に飲みながら、当日の日程を確認した。話しているうちに賢は安心したのか、だんだん眠たくなってきたらしい。拓海は歯磨きをさせておやすみと賢を部屋に送り出した。そして、拓海が今日の朝食と昼食の弁当を作り始めた頃、賢は起きてきたのだ。一緒におにぎりを握り、弁当箱におかずを詰めた。
「シャチさん会えるかな」
賢はシャチのショーが楽しみでしょうがないらしい。しかも夏限定の特別サービスという単語にかなり惹かれたようだ。なんだろう、と先程から楽しそうに一人で呟いている。前までならお山に捨てられに行くのかなと寂しそうに呟いていたので、その変化は拓海にとって嬉しかった。
「賢くん、もうすぐ着くよ」
拓海の言葉に賢は急にぴんとした。荷物を慌てた様子で何度も何度も確認している。
「賢くん、すぅはぁって出来るかな?」
「ん、すぅ…はぁ。ドキドキしてる」
賢が胸を撫でながら言ってきたので拓海は笑った。
「賢くん楽しみだね。落ち着いていられるかな?」
「いられる!」
「賢、先に休憩して何か飲もう。トイレも行こうな」
「ん」
慎吾の言葉に賢は真剣な表情で頷いた。
✢
「お、ここ空いてるな」
「晴れて良かったよ。賢くん、座ろうか」
「ん」
館内に入り、拓海たちはトイレを済ませ屋外の休憩スペースにいる。賢は既にカチコチになっていた。予想はしていたものの、どうしたらいいだろうと拓海は先程から色々考えている。
「賢、何飲む?ソフトクリームはいるか?」
慎吾もカチコチな賢の緊張を解そうと優しく声を掛けてくれていた。
「ソフトクリーム食べる」
賢がなんとかといった様子で答える。
「拓海は?」
「僕は烏龍茶がいい」
「了解、買ってくるな」
慎吾は颯爽と行ってしまった。
「賢くん、緊張するよね」
「ん、ドキドキする」
拓海は賢の冷たくなった手を握り優しくさすった。
「怖くなった?」
「ん、大きいよね」
「そうだよね。確かに大きいかも。でもシャチさんは賢くんに見に来て欲しくて頑張るんだよ」
「シャチさん、すごいねぇ」
「賢くんもシャチさんが見たいでしょ?他にもお魚さんがいっぱいいるし、楽しいよ」
「たの…しい」
賢がふうむ、と考え出す。拓海は賢の手を握りぶらぶらと揺さぶった。
「賢くん、ショーまでまだ時間があるし、ゆっくりしようか」
「ん、シャチさん描いてていい?」
「いいよ」
賢が鉛筆を握り、シャチを描き始める頃、慎吾が商品をトレイに載せ戻ってきた。
「お待たせ。やっぱりソフトクリーム人気でかなり並んだ」
「暑いもんね、慎吾ありがとう」
「いや。お、賢はシャチを描いてるのか」
「頑張ってるシャチさん、いい子いい子だねぇ」
「あぁ、シャチさんも賢もいい子だぞ」
賢は自分が褒められるとは思っていなかったらしい。ぽかん、となって、はにかんだ。
「ほら、賢。ソフトクリーム溶けちまう」
「ありがとう」
賢がソフトクリームに齧り付く。
「美味しい」
「良かった」
慎吾がガイドマップを開いて時間を確認している。
「食べ終わったらショーの席を取りに行こう。賢、すごく楽しみにしてるもんな」
「うん、行こう」
賢はあっという間にソフトクリームを食べ終わった。どうやら腹が減っていたらしい。まだまだ食べ盛りだ。ショーが行われる会場に向かうと、まだ誰もいなかった。当然、最前列に座る。
「賢くん、先にカッパ着ようか?」
賢が首を傾げる。
「カッパ?」
拓海に促されるまま、賢はカッパを着てフードを被った。拓海と慎吾も同じようにカッパを着る。
「さ、賢くん。ショーまでお絵描きする?図鑑読もうか?」
「ん」
賢は先程の続きを描き始めた。そんなことをしている間に、どんどん客が集まってくる。拓海たちと同じようにカッパを着ている者もいた。
「賢くん、荷物は僕が預かるね」
「ん」
そしていよいよ、ショーは始まった。
シャチが悠然と水槽の中を泳いでいる。賢は完全に固まっていた。
「賢、シャチさんだぞ」
「シャチさん、泳ぐの早いねぇ」
「見てて、あのボールまでジャンプするって」
慎吾と拓海がそれとなく説明してやる。賢がジャンプ?と首を傾げた瞬間、水飛沫を上げながらシャチが跳んだ。バシャァァと水が観客席に飛んでくる。
「わぁ、跳んだねえ!」
「賢、大丈夫か?」
「ん!」
シャチがヒレを振っている。飼育員がやってきてこう言った。
「では、最後に夏の大サービス!シャイナちゃん!皆さんに最後のご挨拶!」
シャチがすう、と客席前まで泳いでくる。そしてバシャバシャとヒレで水を飛ばした。もちろん最前列にいる拓海たちはびしょ濡れである。それを見越してのカッパだ。
「シャイナちゃん、可愛かったねぇ」
賢は満足したらしい。ニコニコ笑っている。
「夏の大サービスも受けられたしな」
濡れたカッパの水気を払って、畳んで袋にしまった。
「賢くん、楽しかった?」
「ん!シャチさんの絵に描けるねぇ」
どうやら、今ギャラリーに飾るために描いている絵に活かせると思ったらしかった。
「賢は本当にすごいな」
「さ、賢くん。他のお魚さんも見よう。ここにはラッコさんもいるんだよ」
「ラッコさん!」
賢の瞳がキラキラしだす。そしてたっぷり展示を楽しんだのだった。
「賢、眠ってるな」
「昨日なかなか眠れなかったしね」
車に乗るなり賢は寝てしまった。拓海がシートベルトを締めたのだ。
「賢くん、どんな絵を描くんだろう」
「そうだな。賢のことだから、きっといい絵を描くさ」
「うん、僕たちが見守らないとね」
「拓海も疲れたろ?」
「それは慎吾もでしょ。気を付けて帰らなくちゃね」
「あぁ、そうだな」
夕方の6時過ぎ、拓海たちは家に戻ってきた。賢は眠ったからか元気いっぱいで、早速絵を描いている。拓海は少し横になることにした。慎吾も早速風呂を沸かして入っている。
今日の夕飯はデリバリーにしようと満場一致で決まっている。拓海はウトウトとしていた。
「わぁ!!」
賢の声に拓海は飛び起きた。何事だろうと思い起き上がる。
「賢くん?どうしたの?」
そして拓海は固まってしまった。賢の絵が素晴らしかったからだ。大きなシャチが紙いっぱいに描かれている。賢は困ったように絵の具のチューブを手渡してきた。それは青色である。
「出なくなっちゃった」
拓海はチューブをぐっと丸めながら押してみた。
一応出たのでそれはパレットに置く。賢はそれにホッとしたらしい。ぱっと顔を輝かせた。
「賢くん、紺色はある?」
「あんまり出ない」
それはそうである。シャチは青系統でグラデーションを付けて塗られている。賢の絵の具のストックはいつもギリギリだ。
「賢くん、明日、絵の具を買いに行こう。必要な色を確認出来るかな?」
拓海はメモを取ろうとスマートフォンを掴んだ。
ふふ、と賢がイルカのイラストをタブレットで描いている。夏休みに水族館に行こうと拓海が賢に告げたら、賢はすごく嬉しそうに笑った。それからは楽しみなのか、よくイルカや魚を描くようになった。
「ね、賢くん?」
賢がなんだろうと首を傾げた。
「お願い賢くん、絵を描いて欲しいの」
「いいよ」
賢は二つ返事で了承してくれたが、拓海は改めて個展のことを話した。
「僕の絵を飾る?」
やはり賢にはピンときていないようだ。拓海はどう説明したらいいものか考えた。
「賢くんは自分の絵が売れたら嬉しいかな?」
「売れないよ」
賢が困ったように表情を曇らせる。
「この前したお仕事、覚えてる?」
賢は俯いたまま頷いた。そして呟くように言う。
「猫さん描いたねぇ」
「そうだよね。賢くんは絵を描くことが好き?」
「うん」
拓海にも分かっている。これは単なるエゴイズムの押し付けだ。賢が絵を描くのは、ただ純粋に好きだからで、金儲けをしたいわけじゃない。拓海はどうしたものか考えた。
「賢くん、こんなこと言ってごめんね。僕を含めて、周りの大人たちが君を振り回してるよね」
それでも、と拓海は続けた。
「賢くんのイラストの良さを広げられたら、もしかしたら君の将来に繋がるかもしれない」
拓海の言葉に賢がキョトンとした。
「大人になっても絵が描けるの?」
「描けるよ!沢山描ける!!」
拓海の力強い言葉に賢はしばらく考えていた。
「1枚でいい?」
「うん」
拓海はそのあたりの話をギャラリー側とうまく付けている。
「いつまでに描けばいい?」
賢が通学カバンから取り出したのは夏休みの日程表だ。そこは毎度おなじみである。賢は日程通りに動くのが得意だ。今からスケジュールに組み込むつもりなのだろう。
「描いてくれるの?」
「ん」
賢が笑った。
「絵、描きたい」
賢の描きたいという気持ちを大切にしよう、と拓海は思った。賢の将来に関して少し光が見えてきたような気もする。だが、絶対に押し付けるのはやめようと決めていた。
「賢くんは描きたいもの決まってる?もふくんかな?」
いつもならもふくん一択の賢である。少し考えた賢は笑った。
「シャチさん描く!」
賢はそう言って自室に戻り、また居間にやって来た。抱えてきたのは大きな画用紙である。前に文房具屋で珍しく欲しいとねだられて、数枚買ったのだ。
「これに描く」
「え、すごいね。賢くん」
「シャチさん、図鑑に載ってるよ」
賢が取り出したのは海の生き物というタイトルの図鑑だ。この間、拓海の両親と一緒に出掛けた時に買ってもらったものだろう。賢が拓海の隣に座ってシャチのページを見せてくれた。フルカラーのそれはなかなかの迫力である。
「あ、CDが付いてる」
賢が最後のページを捲って言った。どうやら気がついていなかったらしい。拓海は隣から覗き込んだ。
「賢くん、多分それDVDじゃないかな?」
「え!見れるの?」
「見れるよ。今、見てみる?」
賢が嬉しそうに頷く。拓海は慎重にディスクを取り出し、プレイヤーに入れた。
海の動物たちの自然の姿がありありと映っている。賢は真剣な表情で眺めていた。
(これは賢くんのお気に入りになるな)
拓海が内心で苦笑していると、賢が立ち上がる。
どうしたのかと思ったら、タブレットとペンを手に戻ってきた。
「もう一度見ていい?」
「いいよ、スケッチするんだね」
「ん。シャチさん泳ぎ方かっこいい」
「うん、大きいしかっこいいよね」
賢が映像を眺めながらサラサラとスケッチしていく。時折巻き戻しをかけながら見ていたので、拓海もどんな映像か覚えてしまった。
「もふくんも大好きなんだけど、シャチさん描いていい?」
どうやらもふくんに申し訳ないという気持ちがあるようだ。拓海は笑って言った。
「大丈夫。賢くんがもふくん大好きなこと、もふくんには分かっているもの」
「本当?」
「本当だよ。コンサートだって見に行ったでしょ?」
「行ったねぇ」
「また行こうね」
「ん!」
拓海たちの暮らすマンションはもちろん賃貸なので、不用意に汚すことは許されない。それに、そこまで広くないのだ。賢の作業スペースも当然限られてくる。
当然一番広い居間が賢の作業スペースだ。拓海は時折慎吾が買ってくる競馬新聞を床に並べ、その上に画用紙を敷いた。
「賢くん、紙が動かないようにマスキングテープで留めとくね」
「ありがとう」
賢が取り出したのはもちろん鉛筆と消しゴムだ。こんな大きな紙にどんな絵を描くのだろう、と拓海もドキドキしていた。
「賢くん、ちゃんと休憩してね。約束」
賢が顔を上げて笑う。
「約束は大事だねぇ」
拓海は今日、野菜スープとパエリアを作ろうと先程からレシピを探していたのだ。賞味期限間近で割引になっていたシーフードミックスを使おうと考えている。ちらっと賢の方を見ると、迷いなく鉛筆を動かしている。
(賢くんの観察眼すごいな)
拓海は再び料理に取り掛かった。
「ただいまー。お、賢は作業タイムか」
慎吾が帰ってきた。手には白い紙箱を持っている。
「お帰りなさい!」
賢が弾けるように笑う。
「お帰り、慎吾。それなあに?」
拓海は慎吾の手元を指差した。
「んー?たまにケーキもいいかなって」
「嬉しい」
「賢は何描いてんだ?」
「シャチさん」
「シャチかぁ。でかいよなー。あ、だからでかい紙に描いてるのか」
「そう」
賢が至極真面目な顔で頷いたので、拓海はそうだったのか!と内心で驚いてしまった。
「賢くん、そろそろ片付けようか。お腹空いたよね?」
「ん」
「賢、疲れたろ」
「うん」
今日も課題と自習をかなり頑張った賢である。疲れていないはずがなかった。
「いっぱい食べてよく眠ったら元気になるから」
「いっぱい食べるねぇ」
賢は宣言通りたっぷり食べたのだった。
✢
「賢、よく寝てる」
そーっと慎吾が自分たちの寝室に戻ってきた。慎吾は時折心配して、賢の寝室を訪問する。
「良かった。疲れがたまらなければいいんだけど」
「賢、毎日結構勉強するもんな?」
「うん、しかも休みないし」
「やらないと爆発するかな?」
賢に急なスケジュール変更は難しい。
「…僕たちはブレーキだよね」
「あぁ」
「うまく切り上げられるように言ってみる」
「…そうだな。難しいかもだけど、絵も描くなら尚更元気じゃないとな」
「過労になりそうで心配だったんた」
「あぁ。そうだよな。倒れて救急車なんかに乗せられてみろ。賢のやつ、ますますパニック起こすぞ」
「本当にそう」
2人でこうして日々のことを話すのはもう習慣だ。お互いに今日あったことを報告し合う。
「ねえ、慎吾?僕たち間違ってるのかな?」
拓海は言ってしまってから、しまったと思った。
慎吾が拓海を抱き寄せてくれる。拓海もしがみついていた。
「間違ったらやり直しゃいい。間違ったっていいんだよ」
「賢くん、傷付かないかな?」
「傷付かないまま生きられる人間なんていないよ。拓海だって俺だって、いや、人類がみんなふいに傷付くんだから」
「避けられないんだね」
「大丈夫、賢はよく分かってるよ」
「うん」
もう寝ようと慎吾に頭を撫でられて、拓海は頷いた。ふっと気を抜いた途端、意識は落ちていった。
✢
「おにぎり美味しい」
「賢くん、よく噛んで食べてね」
「ん」
とうとう水族館に行く日になった。前日まで賢はかなり興奮しており、なかなか寝付けなかったようだ。深夜を回って困ったように、眠れないと2人に訴えてきた。拓海は甘いホットミルクを淹れ、賢と一緒に飲みながら、当日の日程を確認した。話しているうちに賢は安心したのか、だんだん眠たくなってきたらしい。拓海は歯磨きをさせておやすみと賢を部屋に送り出した。そして、拓海が今日の朝食と昼食の弁当を作り始めた頃、賢は起きてきたのだ。一緒におにぎりを握り、弁当箱におかずを詰めた。
「シャチさん会えるかな」
賢はシャチのショーが楽しみでしょうがないらしい。しかも夏限定の特別サービスという単語にかなり惹かれたようだ。なんだろう、と先程から楽しそうに一人で呟いている。前までならお山に捨てられに行くのかなと寂しそうに呟いていたので、その変化は拓海にとって嬉しかった。
「賢くん、もうすぐ着くよ」
拓海の言葉に賢は急にぴんとした。荷物を慌てた様子で何度も何度も確認している。
「賢くん、すぅはぁって出来るかな?」
「ん、すぅ…はぁ。ドキドキしてる」
賢が胸を撫でながら言ってきたので拓海は笑った。
「賢くん楽しみだね。落ち着いていられるかな?」
「いられる!」
「賢、先に休憩して何か飲もう。トイレも行こうな」
「ん」
慎吾の言葉に賢は真剣な表情で頷いた。
✢
「お、ここ空いてるな」
「晴れて良かったよ。賢くん、座ろうか」
「ん」
館内に入り、拓海たちはトイレを済ませ屋外の休憩スペースにいる。賢は既にカチコチになっていた。予想はしていたものの、どうしたらいいだろうと拓海は先程から色々考えている。
「賢、何飲む?ソフトクリームはいるか?」
慎吾もカチコチな賢の緊張を解そうと優しく声を掛けてくれていた。
「ソフトクリーム食べる」
賢がなんとかといった様子で答える。
「拓海は?」
「僕は烏龍茶がいい」
「了解、買ってくるな」
慎吾は颯爽と行ってしまった。
「賢くん、緊張するよね」
「ん、ドキドキする」
拓海は賢の冷たくなった手を握り優しくさすった。
「怖くなった?」
「ん、大きいよね」
「そうだよね。確かに大きいかも。でもシャチさんは賢くんに見に来て欲しくて頑張るんだよ」
「シャチさん、すごいねぇ」
「賢くんもシャチさんが見たいでしょ?他にもお魚さんがいっぱいいるし、楽しいよ」
「たの…しい」
賢がふうむ、と考え出す。拓海は賢の手を握りぶらぶらと揺さぶった。
「賢くん、ショーまでまだ時間があるし、ゆっくりしようか」
「ん、シャチさん描いてていい?」
「いいよ」
賢が鉛筆を握り、シャチを描き始める頃、慎吾が商品をトレイに載せ戻ってきた。
「お待たせ。やっぱりソフトクリーム人気でかなり並んだ」
「暑いもんね、慎吾ありがとう」
「いや。お、賢はシャチを描いてるのか」
「頑張ってるシャチさん、いい子いい子だねぇ」
「あぁ、シャチさんも賢もいい子だぞ」
賢は自分が褒められるとは思っていなかったらしい。ぽかん、となって、はにかんだ。
「ほら、賢。ソフトクリーム溶けちまう」
「ありがとう」
賢がソフトクリームに齧り付く。
「美味しい」
「良かった」
慎吾がガイドマップを開いて時間を確認している。
「食べ終わったらショーの席を取りに行こう。賢、すごく楽しみにしてるもんな」
「うん、行こう」
賢はあっという間にソフトクリームを食べ終わった。どうやら腹が減っていたらしい。まだまだ食べ盛りだ。ショーが行われる会場に向かうと、まだ誰もいなかった。当然、最前列に座る。
「賢くん、先にカッパ着ようか?」
賢が首を傾げる。
「カッパ?」
拓海に促されるまま、賢はカッパを着てフードを被った。拓海と慎吾も同じようにカッパを着る。
「さ、賢くん。ショーまでお絵描きする?図鑑読もうか?」
「ん」
賢は先程の続きを描き始めた。そんなことをしている間に、どんどん客が集まってくる。拓海たちと同じようにカッパを着ている者もいた。
「賢くん、荷物は僕が預かるね」
「ん」
そしていよいよ、ショーは始まった。
シャチが悠然と水槽の中を泳いでいる。賢は完全に固まっていた。
「賢、シャチさんだぞ」
「シャチさん、泳ぐの早いねぇ」
「見てて、あのボールまでジャンプするって」
慎吾と拓海がそれとなく説明してやる。賢がジャンプ?と首を傾げた瞬間、水飛沫を上げながらシャチが跳んだ。バシャァァと水が観客席に飛んでくる。
「わぁ、跳んだねえ!」
「賢、大丈夫か?」
「ん!」
シャチがヒレを振っている。飼育員がやってきてこう言った。
「では、最後に夏の大サービス!シャイナちゃん!皆さんに最後のご挨拶!」
シャチがすう、と客席前まで泳いでくる。そしてバシャバシャとヒレで水を飛ばした。もちろん最前列にいる拓海たちはびしょ濡れである。それを見越してのカッパだ。
「シャイナちゃん、可愛かったねぇ」
賢は満足したらしい。ニコニコ笑っている。
「夏の大サービスも受けられたしな」
濡れたカッパの水気を払って、畳んで袋にしまった。
「賢くん、楽しかった?」
「ん!シャチさんの絵に描けるねぇ」
どうやら、今ギャラリーに飾るために描いている絵に活かせると思ったらしかった。
「賢は本当にすごいな」
「さ、賢くん。他のお魚さんも見よう。ここにはラッコさんもいるんだよ」
「ラッコさん!」
賢の瞳がキラキラしだす。そしてたっぷり展示を楽しんだのだった。
「賢、眠ってるな」
「昨日なかなか眠れなかったしね」
車に乗るなり賢は寝てしまった。拓海がシートベルトを締めたのだ。
「賢くん、どんな絵を描くんだろう」
「そうだな。賢のことだから、きっといい絵を描くさ」
「うん、僕たちが見守らないとね」
「拓海も疲れたろ?」
「それは慎吾もでしょ。気を付けて帰らなくちゃね」
「あぁ、そうだな」
夕方の6時過ぎ、拓海たちは家に戻ってきた。賢は眠ったからか元気いっぱいで、早速絵を描いている。拓海は少し横になることにした。慎吾も早速風呂を沸かして入っている。
今日の夕飯はデリバリーにしようと満場一致で決まっている。拓海はウトウトとしていた。
「わぁ!!」
賢の声に拓海は飛び起きた。何事だろうと思い起き上がる。
「賢くん?どうしたの?」
そして拓海は固まってしまった。賢の絵が素晴らしかったからだ。大きなシャチが紙いっぱいに描かれている。賢は困ったように絵の具のチューブを手渡してきた。それは青色である。
「出なくなっちゃった」
拓海はチューブをぐっと丸めながら押してみた。
一応出たのでそれはパレットに置く。賢はそれにホッとしたらしい。ぱっと顔を輝かせた。
「賢くん、紺色はある?」
「あんまり出ない」
それはそうである。シャチは青系統でグラデーションを付けて塗られている。賢の絵の具のストックはいつもギリギリだ。
「賢くん、明日、絵の具を買いに行こう。必要な色を確認出来るかな?」
拓海はメモを取ろうとスマートフォンを掴んだ。
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