罅割れた月

朝日奈徹

文字の大きさ
上 下
3 / 6

日常-料理◆「まったくもう!冷蔵庫のなか、ビールしか入ってなーい!」

しおりを挟む
 事務室兼応接間でタイプライターを叩いていたガッシュは、横目でソファの方を眺めた。
 この家で一番座り心地の良いソファは、今、迷い猫に占領されている。
 あろうことかそいつはガッシュの軍用コートにくるまって、くうくう寝息を立てているのだった。
 もう少しで報告書が仕上がる。
 煙草に火を点け、両脚を机の上にあげて、椅子にうんと体を預けた。少し疲れが溜まっているようだ。
 ゆっくりと煙草が灰になっていくのを眺めてから、灰と吸殻を灰皿に落とし、目をしばたいた。
 探偵業に不満はないが、報告書だけは、いつも骨だ。
 最後の一文を仕上げて、紙をタイプライターから抜き取る。
 机の中から、請求書を一枚取りだした。
 こちらは定型文を、簡易印刷してもらったものだ。
 ここに、請求金額と簡単な内訳を記入し、報告書と、奪還した書類と一緒に、茶色の封筒に入れた。これで仕事のひとつが終わる。
 そこそこの金額が手に入るはずだが、あともう一件くらいこの手の仕事がないと、財布がだいぶ寒い事になるだろう。
 ソファの上のコートがもぞっと動いた。
 金髪の頭が顔を出す。
「おはよー」
 少し寝ぼけた声で言うと、リドリがコートの下から這い出してきた。
「ああ。おはよう」
「おなかすいたよー」
「好きなもんを喰え」
「うんー」
 素直に返事をして台所へ入っていったリドリが、ぱたぱたと戸棚を開けたり冷蔵庫を開けたりしている音が、なんとはなしに耳に入ってきた。
「食べるものがなーいっ」
「は?」
 報告書も書き終わった事だし、自分も少し小腹がすいているのを感じて、ガッシュは立ち上がった。
 台所へ入ってみればあちこちの戸棚が開いたままだ。
「おまえ、目はついてんのか。あるだろうが。ほれ」
 ガッシュは棚からカップ麺を二つ取り出すと、キッチンテーブルに置いた。
 薬缶に適当に水を入れ、ガス焜炉にかける。
 ついでに冷蔵庫を開けると、ビールを二本取り出した。
「そら。飲むだろ」
 リドリがじっとりとガッシュを睨む。
「なんだよ」
「こんなもの、いつも食べてるんだ」
「いいだろうが。料理の手間がはぶけて」
「だめー」
「はあ?」
「お買い物に行こう」
「なんだと?」
「食べるものを買いに行こう」
「なんだ。テイクアウトのがいいのか? 贅沢なやつだな。ま、たまにはいいか」
 ビールをもう一度冷蔵庫にしまい、焜炉の火を消す。
「そこ、ビールしか入ってないね」
「他に入れるもんがない」
 リドリは、ガッシュのシャツと軍用パンツを借り着していたが、どちらもサイズは十ほど違って、清潔でさえなければ、貧民街にいる浮浪児のようだ。
 やれやれ、サイズの合う服も買ってやらなければならないんだろうか。とんだ物入りになったものだ。
 俺はどこまで人が好いんだ、と述懐しながら、ガッシュはリドリを連れて近所の雑貨屋に足を向けた。
 それが運の尽きだった。

 古着屋に寄って、リドリに合うサイズの服を調達する。
 そのあと雑貨屋で幾ばくかの食料品を買い込む。
 リドリに言われるままに、米や脂や野菜を買い、その足で肉屋にまわって、挽肉を少しと卵も仕入れる。
 ところが、帰り道の酒屋から、いきなり銃声が聞こえてきた。
 通りを行き交う人が悲鳴をあげる。
 こういった事件はあっという間だ。
 酒屋から、覆面帽の男がふたり、飛び出してきた。
 まずいことに、こちらへ向かってまっすぐにだ。
 舌打ちすると、ガッシュはリドリを後ろへ押しやり、さっと拳銃お抜いた。
 ほとんど流し打ちで、一発ずつ銃弾を撃ち込む。
 硝煙のきな臭い煙が青く流れた。
 ほどなく、巡邏の車がやってきた。
 通行人の誰かが通報したのだろう。
 車から降りてきた鬼人の警官が、ぎろりと黄色い目をガッシュに向けた。
「とうとう酒屋強盗したか、ガッシュ?」
「俺じゃあない」
「ならその荷物はなんだ」
「買物だよ」
 相棒の方が酒屋をのぞく。
「その中から銃声がして、俺が通りかかった時にこいつらが飛び出してきたんだ。こっちへまっすぐにな。俺にどうしろっていうんだ?」
「気質の人間みたいに、逃げるか道路に伏せてりゃいいだろうが」
「いやだね。服が汚れる」
「気取るような服装かよ」
 じろじろと自分を見つめる警官に、ガッシュは肩をそびやかした。
「携行許可証」
 ガッシュは溜息交じりに財布を抜き出し、拳銃の携行許可証を見せた。退役した時、車の免許証ともども、民用のライセンスに書き換えたものだ。
 何度も見た事があるくせに、警官はそれを念入りにチェックしてから返してよこした。
「あとで詳しい話を聞くからな」
「詳しいもなにも、本当にさっきので全部だ」
「いつかその許可証を取り上げてやる」
 やっと放免だと見なして、ガッシュはリドリをせかすと、家に戻ろうとした。
「ちょっと待て、ガッシュ」
「なんだ。まだ用があるのか」
「その子供は?」
 ひやりと背中に冷たい汗が流れた。
 何か、感づかれたのだろうか?
「遠縁の子を預かっているんだ。親が離婚争議中でね」
「子供の身元を証明できるものはあるんだろうな」
 まずい。
 その時、にこにこしながらリドリが抱きついてきた。
「ぼく、リドリっていうんだ。ガッシュはおじさんなんだ。パパやママのとこには当分帰らないからねっ。喧嘩ばかりしていて、こっちまでぎすぎすしてきちゃうんだ」
 警官はまだガッシュとリドリをじろじろと見ていた。
「……ほんとかどうか怪しいもんだ。が、まあいいだろう。おかしなまねをするんじゃないぞ」
 冷や汗を三筋も垂らしながらその場を離れると、少ししてリドリがガッシュを見あげた。
「警官と仲悪いんだ?」
「探偵だからな」
「ふうん」
「そういうもんだ」
 警官と探偵の仲が余り良くないのはほんとうだ。
 特に、ガッシュのように荒事専業の探偵は、警官に目を付けられやすい。
 法律違反すれすれの事もやるからだ。
 けれども、リドリの事は大丈夫だろうか。
 児童拉致とは思われなくてすんだはずだが、リドリにまともな出生証明書があるとは思えない。
 用心しなくてはなるまい。
 あとで、リドリとも口裏をあわせておかねば。
 家に帰るとさっそくリドリが買い物袋を抱えて台所を占領した。
「ビール、邪魔なんだけど」
 冷蔵庫に食糧を入れ要としたリドリが文句を言う。
「少し場所を空かせてやるよ」
 缶ビールを一本だけ取って、口をあけた。
 ぷしゅっと炭酸が散り、ビールのほのかな香りが顔にあたる。
 冷えたビールを喉に流し込みながら、手際よく料理するリドリをガッシュは眺めていた。
 埃まみれだったフライパンをきれいに洗い、棚の隅から塩や胡椒を探し出し、これだけは綺麗に研いであったキッチンナイフを使って、野菜を幾つか刻んでいく。
 ほどなく良い匂いが漂い始めた。
 美味しそうなピラフを差し出されて、ガッシュは舌なめずりした。
「器用だな、おまえ」
「千年も生きてれば、料理くらいできるようになるよ」
「そんなもんか」
「うん、そんなもん」
 ピラフを口に運びながら、テーブルの対面でピラフを頬張っているリドリをガッシュは眺めた。
 どう見ても、細っこいミドルティーンの少年にしか見えない。
 これが、破滅の呪文を頭の中に抱えた齢千年の魔法使いとは。
 やっぱり、相当厄介なものを背負い込んだような気がする。
 しかし、今は美味なピラフに懐柔されてやろう、とガッシュは思うのだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】愛も信頼も壊れて消えた

miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」 王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。 無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。 だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。 婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。 私は彼の事が好きだった。 優しい人だと思っていた。 だけど───。 彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。 ※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。

【完結】忘れてください

仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。 貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。 夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。 貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。 もういいの。 私は貴方を解放する覚悟を決めた。 貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。 私の事は忘れてください。 ※6月26日初回完結  7月12日2回目完結しました。 お読みいただきありがとうございます。

やり直すなら、貴方とは結婚しません

わらびもち
恋愛
「君となんて結婚しなければよかったよ」 「は…………?」  夫からの辛辣な言葉に、私は一瞬息をするのも忘れてしまった。

婚約者を想うのをやめました

かぐや
恋愛
女性を侍らしてばかりの婚約者に私は宣言した。 「もうあなたを愛するのをやめますので、どうぞご自由に」 最初は婚約者も頷くが、彼女が自分の側にいることがなくなってから初めて色々なことに気づき始める。 *書籍化しました。応援してくださった読者様、ありがとうございます。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません

ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは 私に似た待望の男児だった。 なのに認められず、 不貞の濡れ衣を着せられ、 追い出されてしまった。 実家からも勘当され 息子と2人で生きていくことにした。 * 作り話です * 暇つぶしにどうぞ * 4万文字未満 * 完結保証付き * 少し大人表現あり

私は心を捨てました 〜「お前なんかどうでもいい」と言ったあなた、どうして今更なのですか?〜

月橋りら
恋愛
私に婚約の打診をしてきたのは、ルイス・フォン・ラグリー侯爵子息。 だが、彼には幼い頃から大切に想う少女がいたーー。 「お前なんかどうでもいい」 そうあなたが言ったから。 私は心を捨てたのに。 あなたはいきなり許しを乞うてきた。 そして優しくしてくるようになった。 ーー私が想いを捨てた後で。 どうして今更なのですかーー。 *この小説はカクヨム様、エブリスタ様でも連載しております。

【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?

アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。 泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。 16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。 マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。 あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に… もう…我慢しなくても良いですよね? この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。 前作の登場人物達も多数登場する予定です。 マーテルリアのイラストを変更致しました。

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」

音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。 本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。 しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。 *6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。

処理中です...