やさしく、いじめて。

ハル

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「真鍋くん?」
 22時を過ぎたオフィスはほぼ照明も消え、ガラス窓に映る街の明かりが輪郭をかろうじて保たせるくらいであった。役員フロアの夜は早い。なぜなら、このフロアの持ち主たちは会社を出てからも仕事ということが多い。
 男がこんな時間にここに戻ってきたのは、たまたまであった。
野端のばた社長……」
 真鍋と呼ばれて細い肩の稜線がピクリと動き、振り返ったのは真鍋由郁まなべゆいであった。由郁は、社長秘書という役職であったが、野端に色目を決して使わない、稀有な女であった。
 確か29歳だったはずだと男は彼女の年齢をなぜか思い起こした。毎日一緒にいるのに、今その年齢を強く意識したことに男はほんの少し動揺した。動揺を隠すためにゆっくりと瞬いてから、彼女の全身を眺めた。肩甲骨の辺りまで伸ばされたしっとりとした黒髪の巻き毛。170センチ近い身長はしっかりとケアされた美しいヒールに包まれている。そこからスラリと伸びる若鹿を思い起こすような足を包む細身のパンツスーツ。だが、そんな細身のパンツが彼女の脚線美をよりくっきりと強調している。秘書というのは過剰な装飾は不要とばかりに謙虚なファッションに、強い輝きを持つ少しつり目がちの瞳がそんな演出を裏切る。
 禁欲的なのに、その隙間からひたひたと漏れ出す色香が、いったい何人の男たちの視線をクギ付けにしているのか、彼女は全く気がついていないんだろう。
 しかしあまりに出来すぎていて、自分からは口説こうと思う人間は少ないだろう。そして、長時間共にする自分とのあらぬ噂も。実際、野端は彼女が秘書になってから、社内の女性からのうっとうしいアプローチはほぼなくなった。女というものは、自分より格上と認めた女がそばにいると、そうそう寄ってこないものなのかということを実感したくらいだ。そんな女が今は輪郭さえもあやふやな状態で立っている。
 ――だから珍しく困惑した。
 そう結論付けると男はいつものように柔和な口調で彼女を問いただす。
「こんな時間に何をしているんですか? 今日は緊急の案件もトラブルもなかったと思いましたが?」
「社長こそ、どうなされましたか?」
 声をかけた時のまごつきを一瞬で打ち消して、いつもの強気で艶やかな微笑みを由郁は浮かべた。そうすると野端にとっても安心できる女が闇に浮かび上がる。艶やかな黒の巻き毛が無造作に流れ、艶やかに落ち着いたレンガ色の唇を持つ、彼を最強にしてくれる秘書が。
 その様子に内心少しだけホッとして、野端は由郁に近づいた。
 さきほどの儚げな女は、このフロアの明かりがすでに落ちてしまっているからそんな風に見えたのだと、そう自分にいいきかせた
「実は携帯電話を忘れてしまって会食が終わって戻ってきたんですよ」
 茶目っ気たっぷりに微笑んで、自分の机にたどり着き、キーボード横に置き忘れた携帯電話を取り上げて由郁に振って見せる。
「おっしゃっていただければ会食の場にお持ちしましたのに」
「真鍋くんこそ、今日早めに帰るって言ってたじゃないですか」
 そこまで言って、はたと野端は気がついた。
 彼女は今日は大事な用事があるので早く帰ると、数日前にスケジュール調整していなかったか?
 めったにない自分の用事を優先する女に違和感を感じた自分を思い出し、まじまじと彼女を見る。何か変だと思ったのは気のせいではないだろう。暗がりでも彼女の目元が赤い。ただ素直にそれを指摘して、何かを言うタイプではない。そういうプロフェッショナルなところが気に入ってはいたが、少しだけ寂しい気分になることもあるのは事実だった。
「用事はなくなったんですか?」
 ほろりとさらに穏やかに見えるように野端は微笑んだ。由郁は少しだけ、くっと目を見開いてから微笑みを浮かべる。お互い距離をわきまえた社会人同士の交差しないための微笑みだ。彼女はいったいいつから、こんな微笑みを浮かべるようになったんだろうかと野端は少しだけ寂しく思う。初めて会った時の面接の彼女の緊張を孕みながらも深い意志を感じさせるあの笑顔を向けて欲しい。そんな風になぜか強く思った。だから――。
「真鍋くん、予定がなくなったのなら少しだけ付き合ってくれませんか?」
 磨き上げられたウィングチップのつま先を彼女に向けて進めて、野端はそういった。

 
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