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【4】百鬼夜行……㉔
しおりを挟む朝から診療所へ訪れる患者の車の音を聞いていた。
起き上がる気力もなく、障子の締め切られた部屋で佐加江は横になっていた。
今までの人生で後悔したことと言えば、青藍の側から離れた事だろう。気持ちはすでに決まっていたはずだ。魂が磨り減ったとしても側に置いてもらえば良かった。そうすれば、いろいろな事を知ることも無かった。
首から下げた鬼笛を両手で握りしめ、佐加江は口へ咥えた。そっと空気を吹き込んでも音は鳴らず、もう一度胸いっぱいに空気を吸い込んで吹こうとするが、小さく咳き込んでしまった。
「佐加江」
気のせいだろうか。確かに青藍の声が聞こえた気がした。
「鬼様……」
佐加江は窓辺へにじり寄り、そっと障子紙へ触れた。
「鬼様、ごめんなさい。僕、番になれない」
青藍は、何も言わなかった。ただ気配に抱きしめられている、そんな感覚だった。
「私は幸せでした」
長い沈黙の後、青藍がポツリと言った。
「僕も……、たくさん夢が見られた」
「今日は鬼宿日ですから。私もそろそろ、ここを出ねばなりません」
着ていたパジャマのボタンを外し、肩を抜いて姿見に背中を映してみるが、そこには何もない。うなじにメキメキと根が張るような痛みがあるが、横になっていることが多いせいかも知れない。
「鬼様。今日、僕の命の灯火《ともしび》は燃えていましたか」
「もちろんです。今朝の台帳に佐加江の名はありませんでしたよ。それがどうかしましたか」
青藍は嘘をついた。夜半過ぎに届いた閻魔台帳に佐加江の名があった。明朝、丑の刻に灯火が消えたことを青藍は確認しなければならない。
「死ぬか生きるか、知ってるんだ」
乾いた笑いを浮かべ、佐加江は天井を見上げた。
久しぶりに聞いた青藍の声。
会えなかった時間を、また同じだけ過ごしたようだった。
「佐加江、何を考えているのです」
「なんにも」
ふっと気配がなくなって、下腹部にドクンと血液が流れ込む感覚に襲われた。
(発情だ……)
尻からじんわりと分泌液が漏れ出る感覚が不快だった。
発情し、越乃にうなじを噛まれたら自分もいっそのこと一緒にーー。
それが研究を終わらせるには最善だ、と佐加江の出した結論だった。
「やはり、この臭いはすごいな」
午前の診療を終えた越乃は、診察室にも香って来たフェロモンに気付き、通例どおり家中の窓を開け放つ。仏間に掛けてあった自身の白装束に着替え、佐加江の父の時のような惨事が起こらぬよう仏壇に手を合わせた。
「佐加江」
「おじさん……、来ちゃったよ。噛んで、番になろう」
「佐加江は良い子だ。きっちり鬼宿日に発情を迎えられるなんて」
佐加江の指先は緊張と不安で震えていた。
「ほら着物に着替えよう、佐加江。動けるうちに」
「待って。神事って、今からなの……?僕はおじさんと番に」
「皆さん、首を長くしてお待ちかねだ。佐加江の臭いが村中に広がっているはずだから、神子《みこ》のお前が遅れてはいけないよ」
佐加江の部屋の窓も開け、越乃は鬼治稲荷を眺めた。
外に青藍の姿はない。佐加江が話していたのは幻だったのかもしれない。
「皆、もう老いぼれてるからフェロモンの感受性はそこまで強くないが、それでもたくさん可愛がってもらえるからな」
「良くわからないよ、僕はおじさんの子を」
「――残念ながらおじさんはベータなんだ。越乃家は表向きはアルファと言われてるが、代々ベータが継いでる。神事を冷静に執り行える人間が一人くらいいないといけないからな。佐加江にベータの子供を産ませたって、何の意味もないだろ」
「あんなに……、あんなに嬉しそうに頷いてたじゃないか!」
「そんな未来も悪くないなって、思ったんだ。少しだけ気持ちが揺らいだよ。ありがとうな、佐加江。おじさんは、佐加江のその気持ちだけで嬉しいよ」
越乃が佐加江に白足袋を履かせ、帯をきつく結んだ。おぼつかない足取りを支えるように越乃は佐加江の肩を抱き、外へ向かう廊下へ立つ。
庭には大勢の村人が集まりはじめ、まるで祭りを楽しむような雰囲気だった。が、そこにいる人々はみな一様に白装束を身にまとい、それぞれの家に代々伝わる醜悪な鬼の面をつけている。奇妙な、常軌を逸した光景だった。
「いやぁぁぁ!」
鬼はそんな怖い顔をしていない。
もっと美しいあやかしだ。
到着した神輿《みこし》に押し込まれる佐加江に触れようとする手。尻を触られ、髪を引っ張られもみくちゃにされた。
幼い頃、見た光景と同じだった。
担ぎ手も神輿に群がる面をつけた人々も、よく知った村人のはずなのに誰ひとり分からない。地鳴りのような唸り声とともに神輿は動き始め、雷のような太鼓が鳴った。
鬼治稲荷に向かって続く行列は、若いオメガの発するフェロモンに群がる年老いたアルファで溢れていた。それは花に群がる虫のようだ、と列の最後尾で面をつけて眺める越乃は笑う。
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