過去改変の霊薬

尾藤イレット

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過去改変の霊薬

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 朝、いつもの時間。
 その貴婦人は、夫である騎士を送り出す。

「行ってくる。」

「行ってらっしゃいませ。」

 むっつりとした表情のまま一言だけ残すと、騎士は、その貴婦人を振り返る事もせず、通りを王城へと歩いて行く。
 
 貴婦人はため息を一つつくと、家の中へと戻った。

 彼女の名前はオリヴィア。
 騎士ウィリアム・オルコットと結婚して十七年になる。
 貴族としても騎士としても優秀な彼の妻として、順風満帆な人生を送っていると周りからは思われていた。

 彼とは一男一女を設けたが、二人とももう学院の寄宿舎に行っており、日中の屋敷は、使用人以外は彼女一人だけになる。
 それに、ほとんど会話も無い夫との暮らしが、オリヴィアの心を芯から寒々しいものにしていた。

 屋敷の中に戻ると、女中メイドたちが甲斐甲斐しく働いている。
 その女中メイドたちは、オリヴィアが命じるままに、コルセットを絞め、クローゼットの中に並んでいるドレスから彼女が選んだものを着せた。
 腰から上が全部映るような、真っ白な大きな鏡台に座ると、三十を少し越えた彼女自身が見返している。
 オリヴィアは、再びため息を吐く。
 そして、化粧を直し、出掛ける準備を始めた。

 彼女は、過去を変える事の出来る薬を買いに、魔法使いに会いに行くつもりだったからだ。

 その魔法使いの存在は、友人でもある商家のバークレイ夫人のヨハンナが教えてくれた。

「オットー。馬車を回してちょうだい。」

 執事のオットーに声を掛け、馬車を呼ぶ。
 居間のソファーに腰を掛け、テーブルに置かれた菓子を摘まむ。

 そうして馬車を待つ間、オリヴィアは、ヨハンナから聞いた話を思い出していた。
 
*
 
 ヨハンナは以前までご主人のバークレイ氏との不仲をずっと嘆いていた。
 だが、ある時を境に、彼女から夫への不満を聞く事は無くなり、街で仲睦まじく歩く姿を見る事や、一緒に旅行に出かけた話を聞く事が増えた。

「ねえ。ヨハンナ。あなたはどうやってご主人との仲を改善されたの? 」

 どうしても気になったオリヴィアは、あるお茶会の時に、彼女に直接どうして急にご主人と仲が良くなったのかを聞いてみた。

「それはね、オリヴィア。私は過去を変えて来たのですわ。」

「過去を? 一体どうやって? 」

「ある魔法使いの方が作られた、お薬があるんです 。」

「お薬……? 出来たら、その方のお名前を教えて下さらないかしら? 」

 そして、あまり人には言わないでねと念を押されて、魔法使いの話を聞いたのだった。

*

 魔法使いと言っても、深い森の奥ではなく街に住んでいた。
 その家も見た目はただの民家にしか見えない。

「ここで良いわ。降ろしてちょうだい。 」

 少し離れたところで御者に言って、馬車を降りる。

「この先の馬車だまりで待っててちょうだい。」

 無口な御者が頷いて馬車を動かしだすのを見送って、オリヴィアは目的の店へと向かった。

「ここね……。本当かしら。」

 看板も無く、ただ地番の数字が書かれただけの、磨き上げられた扉を前に、オリヴィアは一瞬立ちすくむ。

 意を決して、その扉を開けると、薬草の匂いが鼻をついた。
 
 部屋いっぱいに広がる薬棚の奥に居たのは、少女と言えるような年代の女の子だった。
 快活そうな瞳に、ブルネットの髪を後ろで纏めた可愛らしい子だった。

「いらっしゃいませ。何かお探しですか? 熱や咳でお困りですか? 」

 薬を探しに来た客だと思われたのか、その子は症状などを聞いてくる。

「いえ…。マダムに会いに参りました。何でも過去を変える事の出来る薬をお持ちとか…。」

「あ…。お師匠さまのお客様ですね! それではこちらへどうぞ。」

 女の子は、目をキラキラとさせながらオリヴィアを奥への扉に案内する。
 薄暗いその部屋の中に入るのには少し戸惑いを覚えたが、彼女の明るい雰囲気に呑まれて、案内されるまま部屋の中に足を踏み入れた。

 部屋の中央には丸テーブルが置かれ、その上には魔法陣が描かれている。正面ではローブ姿の人影が、ガラス製の容器を突き合わせて何かの薬品を調合していた。

「……ちょっと待っててね……。 いらっしゃい。バークレイ夫人が言っていたのはあなた? 」

 ひと段落ついたのか、そのロープの人物は、ガラスの容器をテーブルにことりと置いてから答える。
 ローブのフードを目深に被っているので、その姿は見えないが、その中からは女性の声がした。

「はい。彼女から聞いたのですが、過去を変える薬をお持ちとか……。是非それを売っていただきたいのです……。」

 ローブの女は、後ろにある戸棚の引き出しを開けると、小さな瓶を取り出す。
 蒼い色をした透き通る液体がその中に満たされていた。

「……霊薬エリクサーの事だね。これだよ。」

「あの……お代はいかほど……。」

 騎士隊の副隊長とは言え、この小国では、それほど給金も良い訳では無い。
 過去を変えられるような薬ならさぞかし高いのだろうとオリヴィアは不安になる。

「大丈夫。これは金貨一枚で売ってあげる。ただ、過去を変えられなかったらお代は結構だよ。」

 金貨一枚なら払えない金額では無かった。
 それに、彼女の夫のウィリアムが、大事にしていた花壇のヴェゴニアが枯れた事を悔やみ、庭師に植えなおさせた時の金額が、ちょうど同じくらいだった。
 自分も同じくらいなら使っても良いだろうとオリヴィアは思う。

「あと、薬を使うならここでね。何があるか解らないから。」

 ローブの女は、手のひらで壁際に置いてある寝椅子を指し示す。

「解りました。それでしたら、今からいただきます。」

 オリヴィアが言われたとおりに寝椅子に横になると、魔法使いは、彼女に霊薬エリクサーを手渡した。
 一呼吸して覚悟を決めると、オリヴィアは切子で飾られたガラスの小瓶の中身を一気に飲み干した。

 急に視界が暗くなり、意識が暗い闇に落ちて行く感じがする。
 少しだけ怖さを感じながら、オリヴィアは意識を手放した。

*

 オリヴィアは、家の中で目を覚ました。
 
 小さなベッドを置くと、ほぼ一杯になってしまう狭い部屋だ。
 壁にしつらえられたテーブルには、便箋が置いてあり、墨壺に羽ペンが刺さったままになっている。

 どうやら、手紙を書こうとして、そのまま眠ってしまったようだった。

 傾いた陽が、もうそろそろ暗くなる時間だと教えてくれている。
 
───そう。ここは私が住んでいた下宿だ。

 地方の貧乏貴族の三女として生まれたオリヴィアは、十五になった歳に王都へ出て来た。
 姉の一人が結婚して王都に住んでいた事もあって、この下宿の女将さんであるベンジャミン夫人を紹介して貰えたからだ。

 女将さんは厳しい人ではあったが、嫌な人では無かった。
 ここで仲良くなった友人とは、『今』でも手紙のやり取りをしている。

 テーブルの上の手鏡を取ってみる。

───実家を出た時に、姉が私にプレゼントしてくれたものだ。そのうち娘の玩具になって、最後には割れてしまったのだっけ。

 鏡に映る自分の姿を見る。
 やせぎすだけれども若々しい姿が写っていた。

───そう。結婚した後も、しばらくはずっとこの鏡を使っていて『伯爵さまのお屋敷にあるような、大きな鏡台が欲しい。』なんて言ってたっけ。

 オリヴィアはここに来た目的を思い出す。
 彼女は過去を変えに来たのだった。

*

 オリヴィアは、早速歩いて五分ほどの彼が住んでいる騎士の宿舎に向かう。
 下宿の門限は陽が落ちるまで。あとほんの少しの時間しか無い。

 結婚前の騎士は全て宿舎に住むこととなっており、ウィリアムが住んでいたのは通りに面した建物で、三階の左から二番目の部屋だった。

 ここに住む騎士達とそのお付き合いしている娘は、手紙でやり取りをする事が普通だったが、この頃のオリヴィアには本当にお金が無かった。

 紙も安いものでは無いし、年に数回家族に手紙を出すだけで精いっぱいだった。

 だから会っている時間だけが、話を出来る時間となる。
 彼と一緒にいられる間に、何を話そう。そればかり考えていた事をオリヴィアは思い出していた。

 建物に近づくと、手のひらに魔力を集めて小さな光珠オーブを作りだす。
 ビー玉サイズのその珠を、彼の部屋に向けて飛ばし、コンコンと窓を叩く。

 貴族とは言っても、オリヴィアの使える魔法はこれだけだった。

 すぐに窓が開き、若々しいウィリアムが姿を現す。

「明日。いつものところで。」

 笑いながら、大きく手を振る彼の姿にオリヴィアの胸が高鳴る。
 この頃は、彼の顔を見るだけでもドキドキと心臓が跳ね上がりそうになっていたことを、彼女の身体が思い出させた。

──これで大丈夫。明日、彼と会って別れを告げるのだ。……それで過去は変わる。

 オリヴィアは、跳ね上がる心臓を手で押さえ、目的を忘れてはいけない。と、自分に言い聞かせながら、下宿への帰り道を急いだ。

*

 下宿に戻ると、女将さんのベンジャミン夫人と玄関で鉢合わせた。
 すっかり陽は沈み切ってしまっており、東の空には星が瞬きはじめていた。

「早くご飯を食べちまっておくれ。いつまでも片付きゃしない。」

 門限の事を怒られるかもと思い、身が竦む思いをするが、小言を言われるだけで済み、オリヴィアはホッとする。

 台所の窓口から、木のお椀をトレイに乗せて取り、部屋に続く、狭くて急な階段を上がる。

 テーブルの上を片付けて、トレイをその上に置く。食前の祈りを済ませると、擦り切れた木のスプーンで、お椀に盛られたオートミールを掬って食べる。
 オリヴィアは、この味のしない粗末な食事が苦手だったが、ここで出される食事は、夕方に出るこれだけだった。
 たまにお肉がつくと、次の日は、下宿のみんなで喜んだものだった。

 食事を終えると感謝の祈りを捧げ、返却口そばにある桶に水を汲み、洗って返す。
 桶の中の冷たい水に、手がかじかむ。

 先ほどは門限ギリギリだったので、焦って帰って来たオリヴィアは、いくぶん汗をかいていた。
 食器を洗いながらクンクンと自分の服を嗅ぐと、どうにも汗の臭いがするような気がする。
 明日はウィリアムに会う日だ。
 そう思うと、さすがに気になり、オリヴィアは女将さんの姿を探した。

「女将さん! あの……湯をもらいたいんですけど……。」
 
 階段を降りたところで、女将さんの姿が見えたので、お湯を貰おうと声を掛ける。

「あんた何度言ったら解るんだい! お湯が欲しい時は、食事前までにって言ってあるだろ? 」

 オリヴィアはそう怒られて思い出す。お湯は簡単に沸かせるものでは無く、火を起こしてかまどを暖めなくてはならない。だから食事前に一緒に沸かさないと、お湯は出せないと言われていたのだった。

 オリヴィアは仕方なく、たらいに水を張り自分の部屋まで持って行く。
 冷たい水にゴワゴワの古着の切れ端を浸して、身体を拭き始めた。
 その冷たさに身体の芯まで冷える思いがした。

 目を落として、自分の身体を見れば、随分と貧相だなと思ってしまう。
 棒切れのような腕は、肌だけが瑞々しかった。

───そういえば、この頃はいつもお腹を空かせていたんだった……。仕事が忙しかった日は、お腹が空いて眠れなかった事もあったな……。

 オリヴィアは、そんな事を思い出しながら、乾いた布で身体を拭き、寝間着に着替える
 そして、箪笥を開けると、明日着て行く服を選ぼうとした。

 だが、袖口や肘にツギの当たっていないような服は、薄い桃色のブラウスに、浅葱色のワンピースしか無かった。

───そう。『今』の私はどれだけ満たされていたか…。

 この頃は不満だらけだったけど、不幸せだと思う事なんて一度も無かった。
 オリヴィアは、自分が何故過去を変えたいのかが解らなくなった。

 彼が、君にはこの色が良く似合うと言ってくれていた、浅葱色のワンピースに、オリヴィアはいつものように丁寧にブラシを掛けた。

───少しでも、彼に綺麗だと思ってもらえますように。

 ブラシを一回掛ける毎に、そう願いを籠める。
 そして、満足の行く仕上がりになった事を見てから、ブラウスとワンピースをハンガーに掛けた。

 彼女は、冷たい布団に潜り込みながら、ハンガーに掛かった服を見る。

───ウィリアムは綺麗だと言ってくれるだろうか? 明日は何を話そう。
 
 そう考えて、充分幸せな気分になったころ、オリヴィアは眠りについた。

*

 次の日も、陽が登る頃にオリヴィアは目を覚ました。
 仕事場に行くには、この時間でないと間に合わないからだ。

 階下に降りて、共同の洗面所で顔を洗い、口をすすぐ。

 部屋に戻ると、オリヴィアは化粧を始めた。
 自分からかなり離して置かないと、顔全部が映らない小さな手鏡を、机の端に立てて、文鎮で押さえる。
 姉のお下がりだったり、古道具屋で買ってきた化粧品は、小筆が折れていたり、可愛らしい色が無くなってしまっていたりしたが、少しでも綺麗に見えるように工夫を凝らす。

 そして、お化粧が終わると、彼女は朝の市場へと買い物に出た。

 安くて出来るだけ美味しいもの。彼の好きなチキンとハーブのサンドイッチを作る為だ。

───パンはラムゼイおじさんのところ。安い三等粉を使っているからたまに小石が混じってたりするし、色も悪い。でもとっても美味しいの。
───チキンは肉屋のロージーおばさんのやつ。
───そしてハーブは……。

 オリヴィアは、本当に美味しそうに食べてくれるウィリアムの顔を見るのが大好きだった。
 だから、普段の自分の食事が、少々みすぼらしくても平気でいられた。

 買い物も終わり、バスケットがいっぱいになるのを確認して、市場を出て勤めていた花屋へと向かう。

 オリヴィアは、この花屋でウィリアムと初めて会った時の事を思い出す。
 彼の友人が、婚約者に贈る花束を選びにここに来た時、一緒に着いて来ていたのが彼だった。

 彼女は、彼からの手紙を貰い、最初は戸惑いながら返事を書いた。
 そして、会話を交わしているうちに、その人となりに、段々惹かれていった。

 オリヴィアが勤めていた花屋を営んでいるウォルトン夫妻はとっても優しい人達で、デートの時にお弁当を作る為にキッチンを貸してくれたり、時間を空けてくれさえしてくれていた。

───わたしは、東の国から入って来たばかりのヴェゴニアの花が大好きだった。

 新入荷!と、オリヴィアの文字で書かれた札が置かれた、ヴェゴニアの鉢植えを見て、彼女は思い出した。

「今日はデートなんだろう? 準備しておいで。」

 朝の品出しの準備が終わると、奥さんからそう言われ、彼女は、そのまま奥へと押しやられる。
 夫妻の言葉に甘えているのは解っていたが、せっかくなのでしっかりと料理をする事にした。

 オーブンに火を入れて、チキンに下ごしらえをし、ハーブを刻んでパンを切る。
 ちょっとお腹が空いた彼女は、パンの耳はおやつにする事にした。
 『今』のオリヴィアにとっては、久しぶりの料理だったけれども、身体が覚えていた。

 出来上がったサンドイッチをバスケットに入れ、お茶を淹れて冷ましてから水筒に移し替える。

 オリヴィアの心は、既に娘時代へと完全に戻っていた。

 準備を終えて、お店を少し手伝うと、そろそろお昼の時間となる。
 いつもはお昼の一時間だけ会って、それから仕事に戻っていた。

「今日は戻って来なくていいから。ゆっくりしておいで。大事な用があるんだろう? 」

───そう言えば、前にウィリアムから頼まれて、ご主人に昼までにして欲しいと頼んでいた。理由は……なんだったっけ?

 オリヴィアは、ウォルトン夫妻に礼を言うと、彼との約束を思い出せぬまま、"いつものところ"へ、急いだ。

*

 オリヴィアは、お昼少し前に店を出て、正午の鐘が鳴る前に、待ち合わせ場所のホプキンス氏の農場近くの丘にある木の下に着く。
 この木にはウロがあって、身体の小さなオリヴィアは、ちょうど隠れる事が出来た。
 いつものようにそのウロに身を潜めて、彼女は彼を待つ。

 足音が近づいて来て、オリヴィアはいつものようにドキドキし始めた。
 オリヴィアは服を見て、おかしなところが無いかをもう一度確認する。

「見つけましたよ。お姫様。」

 そう言いながら、ウィリアムはオリヴィアをウロの中から手を引いて引き出し、そのまま抱き締めた。そんな二人を見ていたかのようにお昼の鐘が鳴る。

「なんだか今日は大人っぽくて綺麗だね。」

───頑張ったお化粧を、ウィリアム褒めてくれた。

 オリヴィアの心は、羽根が生えたように、どんどん軽くなって行く。

 ウィリアムの騎士の礼服には、まだ飾緒はついておらず、その白さは輝くようだった。
 ただ、ちょっと顔色が悪く、心配になる。

「ちょっと顔色が悪いみたいだけれども、お仕事が忙しいの? 」

「いや、昨日あまりご飯が喉を通らなくてさ。」

「ちゃんと食べないとダメよ? 」

 髪もまだふさふさで、彼女は思わず背伸びをして撫でてしまう。

「子供扱いとはひどいな。オリヴィア? 」

 怒ったふりをするウィリアムが追いかけて来る。
 笑い合う若い二人の声が、農場に響いた。

「はあ。動いたらお腹が空いちゃった……。」

 オリヴィアは、二人で、ひとしきり笑った後、準備してきたバスケットを持ち上げて、ウィリアムに見せた。

「僕ももう、お腹がペコペコだよ。」

 そう言って微笑んだウィリアムを見て、オリヴィアは昼食の準備を始めた。
 大きな布を取り出して、木陰に敷いて二人で座り、バスケットの中身を広げた。
 水筒と木のカップを出し、お茶を入れてウィリアムに差し出す。

「はい。どうぞ。」

「ありがとう。オリヴィア。」

 そう言って、彼は感謝しながら、カップを受けとる。
 オリヴィアは、そんな彼の笑顔を眩しく感じた。

 食前のお祈りをしてから彼にサンドイッチを渡すと、彼は君の作る料理はいつも美味しいね。と、またオリヴィアを褒めた。

──大きな家に、白い家具。鏡も大きなのがいい。
──お湯は何時でも使えたら良いな。
──ご飯も美味しいものをいっぱい作るの。
──子供は二人は欲しいな。男の子と女の子。

 とりとめもなく将来の夢を語り、それをウィリアムが笑いながら聞く。
 そんな、なんでもない時間が、彼女にはとても幸せに感じられた。

───そうだった。彼がしてくれていたのは、私が望んだ事ばかりだったんだ。

 『今』の自分の身の回りにある物を思い出して、オリヴィアは黙り込んでしまう。

 そんなオリヴィアを見つめていたウィリアムは、ポケットに手を入れて、曇り一つ無い指輪を取り出した。

「君の望みは出来るだけ叶えるつもりだ。だから僕と結婚して欲しい。」

 そう言って、指輪をオリヴィアに渡す。

 オリヴィアは涙が止まらなくなった。

 じっと指輪を見て泣いてしまったオリヴィアを見て、目の前の騎士がオロオロしだす。

───思い返してみれば、この人は器用なようで、本当に不器用な人だった。

「もちろん……お受けします! 」

 そう言って、彼女は指輪を左手の薬指に嵌めた。

 彼女の返事を聞いた彼の顔が近づいて来て……

*

 目が覚めると、魔法使いが顔を覗きこんでいた。

 彼女は寝椅子から身体を起こす。
 どうやら魔法使いは寝ながら泣いていた彼女を心配してくれていたらしい。

 オリヴィアがバッグからハンカチを取り出して、涙を拭うと、左手の薬指の指輪が目に入った。
 その指輪は、もう細かい傷だらけになってしまっていたが、その傷のひとつひとつは、彼女の幸せの象徴だった。

「どうですか? 過去は変えられました? 」

 魔法使いは聞いて来る。

「変えなかった……いや……変わったわ。ありがとう。お代は払わせてもらうわね。」

 過去を嘆いていた貴婦人は、もう、そこには居なかった。

*

 外に出ると、既に陽は落ちていた。

 店の前まで呼んでもらった馬車に乗りながら、オリヴィアはこれからどうしようか考える。

 大きな屋敷が見えて来て、馬車を降りた彼女はそのまま庭に入って行く。
 ヴェゴニアが咲き誇る花壇の脇を通り、彼が、この花だけは大事にするようにと、庭師に言っていた事を思い出す。

───ヴェゴニアの花言葉って、何だったっけ……。

 花屋に勤めていた頃は、全て覚えていたはずの記憶も、今は朧気になってしまっていた。

 彼女が二階にある書斎の窓の下に着くと、いつもの通りにむっつりとした顔のまま、書類仕事をしている彼の姿が目に入った。

 彼がどれだけ忙しくても、必ず屋敷に帰って来て、彼女の顔を見てから仕事に掛かっていた事に、今更ながら気が付く。
 そして、四十を数える前に騎士団の副団長に任ぜられるという事は、どれだけの苦労をして来たのかにも。

───覚えてくれているかな……。

 意を決して久しぶりに小さな光珠オーブを作ると、彼の部屋まで飛ばし、窓をノックする。

 不安げな表情のまま、彼が気づくのを待つ。

 窓の外に浮かぶ光珠オーブに、書斎に向かっていた彼が驚くのが見えた。

 彼は、窓を開けて外を見て、不安げに佇む彼女の姿を、むっつりとした表情のまま見つめる。

──やはり覚えていてはくれて居なかったのね……。

 オリヴィアを見つけても、何も言わない彼に、彼女は自分がしてきた事を後悔して、がっくりと肩を落とした。
 オリヴィアの目に、じわりと熱いものが浮かぶ。

「……今日は遅かったんだね。明日、いつもの場所で……いいかい? 」

 彼女はハッとして彼に顔を向けた。
 そんな彼女に、彼は照れ臭そうな笑顔で小さく手を振るのだった。

*

 ローブを着た二人連れが街はずれの農場沿いの道を歩いていた。

「お師匠さま。本当に過去を変える霊薬エリクサーってあるんですか? 」

 少女が隣の魔法使いに訪ねる。

「過去を変えるなんて、神様だって無理な事。あの薬はね、自分が一番幸せだった時の事を明晰夢で見せるだけのものだよ。」

 そう答えながら、魔法使いが周りに目を向けると、農場近くの丘の、大きな木の下にいる人影に気が付いた。
 そして、それが誰か解ると、いかにも楽しそうに微笑んだ。

「そうなんですか…。それでも凄いです! お師匠さま? なんで笑ってるんです? 」

 フード姿の娘が不思議そうに尋ねる。

 笑い続ける魔法使いの目には、照れ臭そうに笑いながら、浅葱色のドレス姿の貴婦人に、手ずからサンドイッチを食べさせて貰っている中年の騎士の姿が映っていた。
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