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前編

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1,
 好きだ好きだ愛してるそんな言葉を何万回繰り返しても足りない気が僕はしている。
 絵里。
 いつから彼女を何故そんなに好きになってしまったのかと考えるけれどその疑問に答えるのは僕には難しい。ずっと遥か昔からの様な気もするしむしろつい最近にいきなりそんな感情に支配されてしまった様な気も僕はする。彼女に僕の全細胞が引かれていくのを僕は感じる。人間の身体は37兆2000億個の細胞から出来ていてその37兆2000億個の僕の細胞が一つ残らず彼女に引っ張られていくのを僕は感じている。僕の髪の毛がその毛先が根元が絵里に引き寄せられ指先が引かれ親指が人差し指が中指が薬指が小指が絵里に引っぱられて行き足が引かれ腿が膝が脛が踵が土踏まずが引っ張られるのを僕は認識する。
 足が引っ張られるまま歩いていくとやがて絵里と僕は出会う。四年制大学の受講を終えて帰宅しようとしていた絵里と同じく帰宅しようとしていた僕は当然の様に出会う。絵里は同性の友達数人と一緒に居て一緒に喋りながら大学の中庭を横切って駅の方に向かおうとしていた様なのだけれどもそこで僕が合流してくる事によって絵里の同性の友人達はばーいまた明日ねと絵里だけを残して去って行き絵里と僕は二人だけになる。それは絵里と僕が親しくなる前に僕と言う人間が絵里と言う女性をとても好ましく思っていて親しくなりたいと願っていると言う厳然たる事実をその友人達に僕が知る限りの一人残らずに恥ずかしげもなく伝えた結果として絵里と僕が親しくなったと云う経緯が有るから引き起こされた現象だと僕は推察する。故にその友人達は僕にとって恩人と呼んでも良い人達だと僕は認識する。
 ああ比留間君偶然だね。ああ偶然だね今偶然だねと言ったけれども本当は偶然じゃないんだ絵里を探していたんだ。ええっそうなの何か用事でも有った。もちろん会いたかったからだ絵里の顔が見たかったからだよ。何でそう言う事を真顔で平然と言うのかな比留間君のそう言う処が信じられないよ。絵里好きだ好きだよ愛してるその言葉を言うために探していたんだそう言ったら気持ち悪がられるかもしれないだろうだからそうは言わずに顔が見たかったからだと言ったんだよ。うわぁ気持ち悪がられるかもと思っているんなら言っちゃ駄目じゃない実際今少しばかり気持ち悪いかもと思っちゃったよ。
 そんな事を言いながら絵里と駅の方へと僕は歩いていく。
 こっちに来ちゃっていいの比留間君の家そっちの方でしょ。うん今日は行く処が有るんだ。へぇ何処なの。〇×町の◇番地に有るマンションだよ。へぇ偶然だねあたしのマンションも同じ住所だよ。はっはっは偶然だ。
 絵里が僕の方を睨むのを僕は眺める。絵里は笑顔も魅力的だけれども眉の寄った怒った様な顔もまた奇麗だと僕は思う。その眉間を突いてみたくなる衝動に駆られるけれども絵里と僕のいる場所を僕は認識しておりそれは駅に程近い人の多い商店街なので信じられない程の自制心を振り絞り僕の指で絵里の眉を突くのを僕は我慢をする。
 今日は駄目だよ昨日絵里の部屋に入る時約束したよね何もしないって比留間君はその約束を破ったよ。約束を破っただって僕が絵里との約束を破る筈が無い何かの間違いだよ実際僕は何もしなかったよ。したよ肩を抱き寄せてそのあのAをしたよ。Aってその昔恋のABCって呼んだりしたあのA。そうだよそのAだよ。キス口づけの意味で有る処のA。そのAだよ。そうかそれはしたけれどやはり約束は破っていないよそれ以上何もしなかった筈だよ。何でよ充分何かしてるじゃない。それは何もと言う言葉の意味を取り違えているよ例えば僕は今絵里と見つめ合っているし電車に乗っているし呼吸もしているし会話もしているけれどそれは何もしないと言う状態に入っていると思うよ。もちろん目線が合う事や会話をする事に関して言っていたりはしないよでも肩を抱き寄せる事やそのあのキスをする事は何もしてない状態じゃ無いに決まってるよ。そうなのかい僕は肩を抱き寄せる事やキスをする事は何もしてない状態に含まれる事だと思っていた。そんな訳無いじゃない。あの状況における何もしないという言葉は男女の性行為もしくはそれに類する行為をしないと言う意味だと僕は解釈したしそれが妥当で普遍的な解釈じゃないかと思うんだけどどうだろう。ちょっと男女の性行為なんて言葉を人前で言わないでもう絵里のマンションも近いのよご近所さんに聞かれちゃったらどうするの。
 絵里の恋のABC発言やキスと言う言葉を言う前にそのあのと言う前置きを付ける発言ご近所さんに聞かれちゃったらどうするのと言う発言は令和という時代の女子大生の発言としては感覚が古いのじゃないかと僕は思ったりもするけれどでもそんな処が僕にとって好ましい所であったりもするのだと再度僕は認識する。
 部屋に入っていいんだね。だってここまで来ちゃったじゃない仕方ないじゃ無いの電車代まで出しているじゃないそれともここから素直に帰ってくれるの。
 既に電車に乗って一駅の処に有る絵里の棲んでるマンションのエントランスの中に絵里と僕は入っている。
 絵里と一緒にいる目線が合う会話をする同じ空気を吸ってるその髪が風に靡くのを見る健康的な二の腕が上下に動くジーンズに包まれたお尻が歩く動作に合わせて形を変えるそんな光景が僕の目に入るそれら全ての僕にとっての幸せと感じる時間に比べれば電車代なんて恐ろしく些細な物だと僕は思う。そう思うけどその思考を言葉にして口に出したりは僕はしない。彼女の部屋の中に入る事が出来る一緒の幸せな時間を過ごす事が出来るその可能性を減らす行為を僕は慎む。
 クリーム色の壁とブラウンの扉の前で絵里がトートバッグの中からキーホルダーの着いた鍵を取り出し鍵穴に差し込み取っ手を引いて扉を開けるその一連の動作を僕は観察していて絵里の二の腕に僕の目は吸い付いて離れない。部屋に入ったと同時に絵里の二の腕に触れてそのまま絵里を僕は抱き寄せる。絵里の腕は信じられない程柔らかくて筋肉が無いかの様に僕は感じる。
 いきなり何してるの何もしないって約束でしょ。それは昨日の約束だよ今日は何も約束してないよ。駄目だよ昨日の約束には今日の事も明日の事も全部含まれてるの。そんな事無いよ昨日の約束は昨日の事だけだよそれに先刻話して合意したじゃない抱き寄せてキスする事は何かした内に入らないんだよ。そんな合意はしてないよ抱き寄せてキスするのはもちろん何かする内に入るんだよ。
 好きだ好きだ愛してるそんな言葉を僕は口に出す。絵里は奇麗で絵里のちょっと怒ったような顔に皺の寄った眉間に可愛らしく膨らんだ頬に口元から覗く白い歯に僕の視線僕の感情僕の知覚全てが吸い寄せられるのを僕は感じる。
 絵里が好きだ抱き寄せて力の限り抱きしめたい口づけを交わしたい柔らかな二の腕その剝いたばかりの果物の様な肉体をそのまま食べてしまいたい別に性行為の代替語として言ってる訳では無くて本当に真剣に口に入れて噛みしめて僕の唾液と共に混ぜあって胃の中に収めてしまいたいと僕は思う。これはカニバリズム食人欲求なのだろうかそれとも少し歪んだ形の性欲男の征服欲を僕は感じているのかと僕は疑問に思う。性行為の代替語として食べると言う言葉を一般的に男達が使っている事から僕が僕の感情を食べてしまいたいと言う言葉で表す事も普遍的な事に過ぎずその欲求も性行為への欲望の変換であるのかもしれないと僕は考える。でもだとするとこの僕の脳味噌で展開される絵里の柔らかな二の腕に僕の白い歯が噛みつき犬歯で持って皮膚を食い千切り引き裂き奥歯で嚙み砕き肉片にして僕のお腹の中に入れて行くそんな妄想があまりにも具体的である事の説明にはならないと僕は思う。やはり性欲等と言う一言だけで僕の絵里に対する感情好きだと言う想い全てを手に入れたい触れてみたい何一つ余すことなく自分の物にしたいと言う気持ちの全てを説明する事は出来ないのだと僕は考える。
 比留間君何を考えてるの目が恐くなってるよやっぱり今日はもう帰ってだって約束を破ったんだもの今日はもう御終いまた今度ね
 そんな絵里の言葉その響き絵里の口から出されるだけでただの音の連なりが魅力的な天上の音楽に聞こえて僕は陶然となる。

2、 
 なのに天上の音楽を聴く至高の時間に邪魔者が入る。扉が開かれる。クリーム色の壁とブラウンの扉そのブラウンの扉が開かれる。部屋に入った途端僕に二の腕を掴まれた絵里はまだ鍵を閉めていない。開かれた扉から男が入ってくる。男は刃物を持っており日本の銃刀法では正当な理由による場合を除いて刃渡り6センチ以上の刃物を携帯してはいけないのだから男は銃刀法違反を犯している。男が自分の部屋の台所に立っていたなら銃刀法違反にはならなかったであろう包丁は刃渡り15センチは有りその刃物を右手に構えて男は絵里の部屋に入って来る。その包丁は躊躇うこと無く僕の腹部へと差し込まれる。
 刃物は僕の肋骨に阻まれる事無くするするとお腹の中に吸い込まれ鈍い衝撃が僕の身体を貫きお腹に痛みと言うよりも熱さが生じるのを僕は感じる。生温かい感触が僕の下腹部から足へと伝わり僕のチノパンが赤黒く染まっていくのを僕は見る。人間の身体は外傷を受けると一次ショックを起こす体温が低くなり脈は下がり呼吸は浅くなると言う知識を僕は持っている。僕の身体は意思に反してそのまま倒れ込み絵里の玄関先に横になるのを僕は認識する。絵里の目が僕の体を見ており信じられない光景テレビドラマの中であるいは映画館のスクリーンの中では何度も見た事が有る光景で有る筈なのに現実に目の前で起こる事は絶対有り得ないと考えていた光景を見てしまったと言う事態に絵里がどの様な行動を取れば良いのか分からずにいるのだと僕は分かる。男が笑いそれは甲高い笑い声で少し調子外れなそれは笑い声と言う人に温かい感情を与える音声とはなっていずにむしろ不安や不快感を与える響きになっていて自然と不安な気持ちに僕はなる。
 あはははああは悪魔神様への生贄だ。
 その言葉で薄っすらとした情報を僕は記憶から引っ張り出す。悪趣味な連続殺人事件が起きており被害者は刃物で滅多刺しにされていて現場には逆五芒星の印であったり怪しげな呪文らしきものが残されていた事から犯人は精神異常者もしくは異常者を装った者の犯行と目されているその様な報道をテレビで聞くとも無しに聞いていた事を僕は思い出す。
 男の方に僕は目をやらない。出血から考えて意識を保っていられるのは僅かかもしれないと僕は予想する。ならば男を見る事に時間を費やさず絵里の姿を僕の瞳に精神に焼き付けて置きたいと強く僕は願う。どのような行動をしていいか分からない状態から絵里は脱しており脱した結果として悲鳴を上げて逃げるようなありがちな行動へ向かわず何故か一般的に逆切れと呼ばれるような行動を絵里が取るのを僕は観察する。
 何なのあなた勝手に人の家に入ってきてお巡りさん呼ぶよすぐ出て行って比留間君が大変警察いやそれより先に救急車を呼ぶべきね私電話するんだからすぐ出てって。
 それは僕にとっては面白いと思う行動だったし僕が絵里に更に惹かれる様な行動であったけれども生憎包丁を持った男は僕と同じ見解を持ちはしなかった事が僕には分かる。パーカーのフードで顔を隠し見えないけれど男の視線が絵里を睨んでいる事が僕には予想出来たしその眼つきが凶悪であろう事も推測されその視線で睨みつけられた事が絵里の顔に怯んだ表情が浮かんだ原因で有る事も僕には理解出来る。自分の倒れ込んだ体を起こしてその凶悪な視線が絵里に向かわない様にしなくてはいけないと僕は思うけれど意に反して僕の体は動かない。
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