波音のように囁いて

真木 新

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 冬休み中に降った初雪を折に冬はますます深まり、春を待ち焦がれる受験生にとっても辛抱の季節となる。 
 
 矢野たちにとって高校生活最後の学期が始まった。
 三学期は受験対策の補習以外は授業がなく、全員が揃う登校日以外は自由登校となっているので矢野は目一杯バイトのシフトを入れていた。
 始業式にはクラス全員が集まったものの、推薦入試に合格した生徒や矢野のように受験をしない一部の生徒を除いては皆余裕のない様子だ。
「おー、矢野久しぶり。元気してた?」
「……んー、そこそこな」
「いーよなー、矢野は進路決まってて。俺なんか冬休み中も連日寝不足だよ」
「そっか、まぁ……お疲れ」
 疲れた様子のクラスメイトへ矢野は当たり障りのない返答をして会話は途絶えた。
 この手の会話は休み前から何度かしており、その度に矢野はそれとなく話を合わせていた。元から進路の決まっている矢野が受験を控えた学友たちから羨ましく思われるのも無理はない。
 それでも俺だって色々あるんだぞ、バイトとか……家の手伝いとか……と矢野は心の中で呟いた。

 ホームルームを終え、矢野たちは始業式が行われる講堂へと向かう。
 やたらテンションの高い女子生徒たちの騒ぐ声や受験勉強の愚痴を言い合う男子生徒たちのざわめきで廊下はとても騒がしい。矢野がうんざりしながら講堂へ続く渡り廊下を歩いていると、生徒の波の中に葉崎の姿がチラリと映った。
 少し先を歩く後ろ姿をなんとなく目で追ってしまう。矢野はあの夜のことをぼんやりと思い出していた。
 あのとき葉崎が見せた他の生徒の前では見せることのないだろう大人気ない態度。それと必死に涙を堪える悲痛な表情。腕の中で震える細い体。どれも想像のつかないような一面ばかりで、あれから何度も頭の中に浮かんでは行き場のない感情に振り回されている。
 知った顔だとはいえ、大人同士のトラブルに割って入るだなんて出過ぎたことをしてしまったと自覚はしている。それでも体が勝手に動いてしまった。その前に葉崎にキレられたときだって、余計な一言だってわかるようなことをつい口走ってしまった。
 当然といえば当然だが、あれからずっと避けるような態度を取られているのも気になって仕方ない。葉崎と目が合う度に強張ったような表情をされるのは結構ショックだ。
 他人に干渉したり深く関わったりするなんて面倒だとしか思っていなかったのに。しかも相手は教師で、男。考えれば考えるほどに訳がわからず心がざわつくだけだ。そんなことを考えながら矢野はダラダラと人の群れの中を歩いていく。
「はぁ……」
 矢野が思わずため息をつくと、突然後ろから背中を叩かれる。驚いて振り向くと、いつの間にか背後にいたらしい高瀬と目が合った。
「おーいっ、朝っぱらからなにため息ついてんだ」
「……先生は毎日元気そうでいいっすね」
 機嫌の良さそうな高瀬に矢野はうんざりしながら応える。
「おいおい、どうしたー? なんか悩みでもあるのか?」
「なんでもないっすよ。寝不足なだけなんで」
「お前は本当にいっつも眠そうだよなー」
「はぁ……」
 そんな会話をしているうちに講堂に着き、クラスごとにまとまって椅子に座る。
 矢野は式が始まると同時に背もたれに体を預けて目を瞑るが眠れずに、先ほど見た葉崎の後ろ姿を思い浮かべていた。
 ぼんやりと考え事をしているうちに始業式の内容も、その後のホームルームでの伝達事項も頭に入ってこないまま半日が終わってしまった。



 矢野が靴を履いて校舎の外に出ると、空は灰色の雲で覆われ薄暗くなり始めていた。晴れない気持ちのまま矢野は体育館裏の自転車置き場へと向かう。
 今日は体育館を使っている部活動も休みのようで、付近に人気はない。
 矢野が自転車のサドルにリュックを置いて鍵を探していると、近くで話し声が聞こえてきた。
「予備校までの時間どうする? 暇じゃない?」
「んー、っていうか雨降りそう。傘持ってきてないよー」
 矢野が聞き覚えのある声のする方を見やると、体育館横の階段に同じクラスの女子生徒二人が腰を掛けていた。
 二人は矢野には気がつかない様子で雑談を続けている。矢野も気にかけることはなく鍵を探し続けた。リュックの外ポケットに入れていることが多いのだがなかなか見つからない。
「そういえば……多分これまだ広まってないから言っちゃダメなやつだと思うんだけど……」
「えっ、なになに?」
 また女子が好きな噂話か……と聞くつもりはなくても聞こえてしまう会話を耳にしながら矢野はコートのボタンを外し、ブレザーのポケットの中に手を入れた。
「葉崎先生、今年度いっぱいで辞めちゃうらしいよ」
「嘘っ! えっ、なんで?」
 女子生徒の言葉を聞いて、ドキリと心臓が高鳴った。
 矢野はポケットの中で触れた冷たい金属をぎゅっと握りしめながら二人の会話に聞き耳を立てる。
「部活の後輩から聞いたんだけどさ……冬休み中、部室の鍵返すのに職員室に行ったときに先生たちが話してるの聞こえたんだって」
「マジ? なんか今年辞める先生多くない?」
「なんでだろうねー。先生たち凄く真剣な感じで話してたからしばらく職員室入れなかったってさ」

 葉崎先生が、学校を辞めてしまう――?
 真実味のある彼女たちの話を聞くほどに、矢野は血の気が引いていくのを感じた。
「なんかあったのかなぁ? 葉崎先生優しくて好きだったのに……」
「まぁ私たちも卒業するし、最後まで授業受けられてよかったよね」
「確かにねー」
 その場に立ち尽くしながら、矢野は激しい衝動に手足が震えてくるのを覚えた。思い出したようにポケットから取り出した鍵が冷や汗をかいた矢野の手先から滑り落ちる。ガチャンと無機質な音が鳴ると雑談を続けていた二人が一斉に矢野を見た。
「あれ、矢野くん今帰り?」
 一人が矢野に声を掛けると、矢野はしゃがんで地面に落ちた鍵を拾った。
「……ん、ちょっと忘れ物したっぽい」
「あはは、大丈夫?」
「バイバイー!」
 女子生徒たちの声を背に矢野はリュックを肩に掛けて走り出した。
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