波音のように囁いて

真木 新

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 三時間弱ほど飲んで、二人は店を出た。男はビールを五杯ほど飲んでだいぶ酔いが回っている様子だ。店を出ると葉崎の腕を取りながら上機嫌で駅とは逆の方向へと歩いていく。
 男は先ほど店で話していた話を焼き回しのように話しながら葉崎の気のない相槌を気に留めることもなく足を進めていった。
 路地裏に入ると飲食店街の賑やかな雰囲気から、人通りが少なく寂しい町並みへと変わっていく。
 少しは住宅もあるようだが、シャッターの閉められた店舗やいかがわしい看板の掲げられた雑居ビルなどが目につきはじめる。
「……あの、これからどこに行くんですか?」
 不安になった葉崎は話の隙を見てやっと男に問いかけた。男は不思議そうに葉崎の顔を覗き込み、鼻で笑いながら言った。
「え、決まってるでしょ。ホテルだよ」
「なっ、ホテル……? いきなりそれは……っ」
 明け透けな回答に驚いた葉崎は、思わず声を裏返させて言った。
「ああいう出会い系じゃ会ってその日のうちにホテルなんて普通だよ?」
「そ、そうなんですか? でも僕はそういうつもりじゃ……」
 葉崎は重くなっていた足取りを完全に止め、困ったように眉をひそめて男を見上げた。
「初めてなんだよね? 大丈夫、俺が優しく教えてあげるから。ノンケくんのこと忘れたいんだろ?」
 そう言って男は葉崎の腕を引いていた手を腰に回し、尻をするりと撫でる。
「っう……、ちょっ、やめ……」
「あはは、可愛い反応。お、あそこのホテルでいいよね。ここ男同士でも入れるから」
 葉崎が不快感を露わにしても男は気にする様子もなく、再び葉崎の腕を掴んで目の前のホテルへと引っ張っていく。
 ピンクの看板が光る古ぼけた建物の前まで来たとき、葉崎は半ば諦めの境地にいた。男は話が通じなさそうだし、迂闊に出会い系などに手を出した自分が悪い。
 それに、辛いことが忘れられるのならばこれでいいのかもしれない。男が高瀬の代わりになるなんて到底思えないけれど。もういいや。どうでもいい――

 投げやりな気持ちで腕を引かれるがまま、ついたてで隠された入り口へと足を踏み入れようとしたとき、キキッと甲高い音が背後に響いた。
 葉崎が驚いて振り返ると真後ろに自転車が止まっており、見覚えのある人物が激しい剣幕で男を睨みつけていた。
 モッズコートに黒いスキニージーンズを合わせた背の高い男。見慣れない私服ですぐには認識できなかったが、それは葉崎が今一番会いたくない相手だった。
「えっ、な……んで……」
 突然に現れた矢野は元々悪い目つきを更に釣り上げ、眉間にシワを寄せて言った。
「ねぇオジサン、その人嫌がってるでしょ。やめなよ」
「はぁ? なんだよお前」
「その人のツレだから。ほら、行くよ」
 矢野は睨みつけてくる男にそう言って葉崎の腕を引き、強引に自転車の後ろに乗せる。
「わっ、ちょっ……!」
「おい、何するんだ、待てよ!」
「これ以上触ったら警察呼びますよ」
 葉崎の腕を掴もうとする手を払って、矢野は鋭い眼力で男を見下す。
「ちゃんと捕まってて」
 矢野は言いながら自転車に跨り、勢いよくペダルを漕ぎ出した。

 男の罵声を振り切って、自転車は薄暗いネオン街を駆け抜けていく。矢野の運転は自転車通学をしているだけあって慣れたものではあったが、段差で大きく体が揺れたり、歩行者を縫うように走られたりするとさすがに怖い。葉崎はなりふり構わず矢野の背中にしがみついて時おり小さく悲鳴を上げた。
「ひっ……もういいから、降ろしてください……!」
「もうちょっと我慢して」
 葉崎の訴えに応じることなく、矢野はどんどん自転車を走らせていった。踏切を渡り、駅を挟んで反対の方向へと向かう。
 駅から遠ざかる程に閑静な住宅街へと街の風景は変わってゆき、人気はほとんどない。周りが家やアパートに囲まれた小さな公園の入り口で矢野はやっと自転車を止めた。葉崎は掴んでいた矢野のコートから手を離し、無言のまま自転車から降りた。
 矢野も降りて自転車を公園内に運びスタンドを立てると、葉崎の方へと振り返り息を切らしながら言った。
「はっ……先生、なにあんなヤツに襲われそうになってんの……ダメじゃん、ちゃんと拒否んないと……」
「っ、……君こそ、なんでこんな時間にあんなところにいるんですか」
「バイト帰り。駅前にファミレスあるじゃん?」
「えっ、うちはバイト禁止でしょう?」
「バレないようにわざわざこんな遠くでやってんの。帰りにたまたま先生見かけて隠れようとしたら、なんか様子がおかしかったから……」
「…………」
 二人の間に沈黙が走ると、スマホの通知音が鳴る。自分ではないと言いたげな矢野が葉崎を見つめると、間髪入れずにまた通知音が鳴った。
 矢野の視線に煽られて、葉崎は渋々コートのポケットからスマホを出す。
「っ……」
 送られてきていた罵詈雑言のメッセージを一瞥し、葉崎は顔が引きつりそうになるのを堪えながらスマホをポケットに戻そうとする。すると矢野が葉崎のすぐ目の前まで迫ってきた。
「さっきのオッサンでしょ。貸して」
 そう言いながら矢野はスマホを奪い取り、勝手に画面をタップし始める。
「なっ、ちょっと……!」
「はい、ブロックして連絡先削除しといたから」
 矢野は勝手に操作したスマホを悪びれる様子もなく葉崎に突き返す。その突然の行動に、葉崎は紡ぐ言葉も見失い立ち尽くした。
 男からのメッセージを見られたこと、勝手にスマホを操作されたことに対する苛立ちと、助けてくれたことへの感謝が混ざって心がぐちゃぐちゃにかき乱される。
「……ねぇ、先生が最近様子おかしかったのってさ……」
 少しの沈黙の後、矢野が口を開いた。
 まただ。またそうやって、人の心に勝手に入り込んでくる――何かを考える余裕もなくなった葉崎は、矢野の言葉を遮るように言った。
「…………ないでしょう……」
「えっ?」
「君には関係ないでしょう……っ!」
 静かな公園に響いた痛々しい声は、冷たい風に吹かれて消えていく。面食らったような表情の矢野からふいと背を向けた葉崎は、声が震えるのを堪えながら一気にまくし立てた。
「さっきはありがとうございました。君がバイトしていることは誰にも言わないので安心してください。僕のことは他言するなり好きにしてどうぞ」
「はっ? いや、俺だって誰にも言うつもりないけど」
 不満を顕にした矢野の言葉を聞くやいなや、葉崎は顔を背けたまま立ち去ろうと歩き出す。徐々に呼吸が乱れ足も震えてくる。
「帰ります」
 教師としての信頼は既に地に落ちているだろうが、これ以上醜態を晒してはいけない。早くこの場から逃げ出したい。これ以上、知られたくない――

「おい、ちょっと。せんせ……」
 追いかけてくる矢野に腕を掴まれて、反射的に振り返ってしまったことを葉崎は後悔した。焦ったような矢野の顔を逆光で映す外灯がじわりと滲んで歪む。葉崎は慌てて顔を背けながら掴まれた腕を引き返す。
「離してください……っ!」
「そんな顔されたら帰せない」
「はっ……? っ、な……」
 解読不能な矢野の言葉に葉崎が思わず顔を上げると、強い力で体を引かれてバランスを失う。どうしてか寂しそうな矢野の顔が視界を掠めたと思えば、葉崎はいつの間にか矢野の腕の中にいた。
「ちょっ、待っ……」
 パニックになって体を引き離そうとするも、葉崎の背中に回された腕はますます強く体を引き寄せてくる。
「こないだ先生にいきなりキレられたときさ、ムカついたけれどそれ以上になんか、辛そうだったから……ずっと気になってた。普段はすげー穏やかなのに、何かあったんだろうなって」
 矢野がたどたどしく綴る言葉がくすぐったく耳元で響く。まるで現実とは思えない状況に葉崎は混乱して頭が真っ白になってしまう。
 矢野は独り言のように続ける。
「俺、先生の授業、っていうか先生の優しい声、好きでさ……いつも寝ちゃってるけど。ちょっと前からその声がなんか苦しそうに聞こえて……どうしても気になってつい口出しちゃったんだよね」
 葉崎は何が起こっているのか理解できぬまま、強く抱き寄せられた腕の中から逃れずにいた。
 失恋して、矢野に勘付かれて、更には男と揉めているところを助けられて――それが今、どうして矢野の腕の中にいるのか。わからない。わからないけれど、苦しい。
「俺みたいなガキに言われたくないだろうけど……俺の前だけでも無理しなくていいよ」
 矢野の言葉が胸を優しく抉って、体中に反響していく。虚勢で固めた砂の砦がサラサラと崩れ落ちていく。やめてくれ。こんな状況で優しい言葉をかけられたら、堪えていたもの全てがこぼれ落ちてしまう。

「くっ……ぅ、ふっ……」
 安堵感と情けなさと――色んな感情が混じり合って葉崎は声を上げて泣いた。人前でこんな風に泣くのは初めてで悔しさからますます嗚咽してしまう。止めようとしても止まらず、葉崎は途方に暮れながら泣き続ける。
 矢野は何も言わず、葉崎の頭を自分の肩に引き寄せて、震える背中を優しく擦っていた。猫を撫でるような手になだめられて、幼子のように泣きじゃくっていた葉崎は徐々に冷静さを取り戻してくる。
 とめどなく流れていた涙はいつの間にか枯れ果て、喉の痙攣も治まってきた。

 誰もいない公園には葉崎の鼻をすする音だけが静かに響いている。冷えた体に矢野の熱めの体温が心地よい。葉崎は離れ難い衝動を断ち切って、矢野の腕を解いた。離れた二人の間に冷たい風が吹く。
「すみません、もう平気です……こんなみっともない姿を見せてしまいごめんなさい。帰ります、本当に……」
 掠れた鼻声で葉崎は言って、涙で曇った眼鏡をハンカチで拭き再び装着する。矢野の肩の下辺りにできた涙の染みを見つけて「すみません」と謝りながらハンカチで擦ってみたが落ちることはなかった。
「いいよそんなの。それより駅まで送ってく、心配だし」
「大丈夫。一人で帰れます……それに、こんな時間に君と歩いているところを誰かに見られでもしたら大問題でしょう?」
 葉崎がそう言うと、矢野は呆れたようにため息をついた。
「はぁ、わかったよ」
 矢野はそう言って自転車のかごに入っていたリュックから、ニット製の黒い布のかたまりを取り出した。
「ちょっと貸して」
「なっ、なにする……!」
 矢野は葉崎の眼鏡を外すと、取り出したネックウォーマーを強引にかぶせてくる。
「これでいいですか、先生」
 矢野から渡された眼鏡を再びかけて、葉崎は居心地の悪さに沈黙した。
「…………」
 鼻の頭まですっぽりと被されたものからは、ほのかに柔軟剤のような甘い香りと人の匂いが混じった香りがする。なんだか気恥ずかしくなって、葉崎は被された布の下で口を開いた。
「逆に怪しくないですか、これ……」
 スーツ姿にネックウォーマーは合うはずがないし、こんなに深く被っているのは不自然でしかない。不満げな表情を向けるも、矢野は気にする様子もなく自転車のハンドルを握った。
「いいから行くよ。って言ってもすぐそこだけど」
「ん……」

 公園を後にして駅の方向へと自転車を押ながら歩く矢野の後ろを、葉崎はとぼとぼとついて歩く。静かな住宅街には時おりすれ違う人がいるくらいで、コンクリートを踏む二人の足音と小さく響いてくる電車の音しか聞こえない。息をする度に眼鏡が白く曇って、葉崎は鼻のあたりを引っ張りながら歩いた。
 目的地へと近づくほどに少しずつ人と灯りが増えていき、会話のないまま駅の入り口に着いた。葉崎は無言のままネックウォーマーを脱ごうと首元に手をかけると、矢野がやっと口を開く。
「いいよ。それ、あげる。要らなかったら捨てて」
「えっ、でも……君が帰り寒いでしょう?」
「いい。さっき漕ぎまくったからまだ熱いし。じゃ、気をつけて」
 矢野はいつもの無表情で言うと自転車に跨がり、薄暗い住宅街へと消えていった。
「なんなんですか、いったい……」
 矢野の後ろ姿が見えなくなっても、葉崎は呆気にとられたままその場に立ち尽くす。
 後方から駅内アナウンスと電車が走り去る音がすると、ほどなくして電車から降りた人々がちらほらと駅から出てきて葉崎はやっと我に返った。熱の籠もったネックウォーマーを顎の下まで引っ張りながら改札へと向かう。
 乗り込んだ都心方面への電車はさほど混んでおらず、葉崎は席の端に座ることができた。
 暖房が効いた車内はシンと静まり返っており、走り出した電車の揺れも相まって段々と意識がぼんやりとしてくる。

 自宅に着く頃には日付が変わる。明日がやってきたからといって、今日の出来事が消えることはない。信じたくないけれど全て現実なのだろう。考えないといけないことは沢山あるのに、頭に浮かぶのは矢野のことばかり。
 抱きしめられたときの心臓の高鳴り、ゼロ距離で感じた体温。首元に感じる温もりと匂いでそれらがフラッシュバックする。
 どうして自分なんかを助けてくれたのだろうと葉崎は不思議でならなかった。教師のプライベートでの揉め事(それも男同士)なんて、面倒くさいことに巻き込まれたくないとその場では見て見ぬ振りをして後日ゴシップのネタにするのが関の山だろう。
 矢野のことはよくわからない。クラスの担任になったことはないし、二年から受け持った国語の授業中にしか言葉を交わしたことはない。
 無口で、遅刻魔で、葉崎の授業中はいつも寝ている。友人とワイワイつるんでいる印象はないので今日のことを口外しないと言ったのも本心かもしれない。
 そういえば矢野が二年のときに一学年上の女子と交際していたがすぐ別れたらしいと職員内の噂話で聞いたことがある。ノンケなら尚更、自分なんかに構ってくる理由がわからない。
 ――俺の前だけでも無理しなくていいよ
 耳元で囁かれた矢野の言葉がまだ頭の中に響いている。そんなことを人から言われたのは初めてだった。それに、あんなに強く抱きしめられたのも――

 思い返すほどに胸がキュっと締め付けられて切なくなる。一回り以上も年下の生徒相手にドキドキするなんてありえない。こんな感情は教師として許されない。あんな醜態を晒しておいて今さら真人間ぶるのも馬鹿らしいけれど。
 脱力する体を背もたれに預けて車内をぼんやりと見る。スマホを見つめる若者、無防備に口を開けて眠るサラリーマン。窓の外は暗い住宅街から明るいビル街へと景色が変わっていく。
 葉崎はまとまらない思考に蓋をするように目を閉じた。

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