波音のように囁いて

真木 新

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 高瀬の結婚発表があった四日前――

「今日、部活ないんだ。帰りちょっとメシ食ってかないか?」
 非常勤の講師たちは退勤し、教師たちも部活動などで出払った職員室で唐突に葉崎を誘ったのは高瀬だった。
 葉崎は握った赤ペンの動きを止め、窓から差し込む夕陽に照らされた高瀬の顔を眼鏡の隙間から見上げて「ああ、いいよ」と答えた。
 高瀬は大学時代からの友人とはいえ、就職してからはプライベートでの付き合いはほとんどなかった。久しぶりの誘いに葉崎は心が躍る。
 今は良き仕事仲間である二人だが、葉崎にとってはそれだけではなかった。葉崎は高瀬に片想いをしている。それも、十数年来の――

 密かに浮かれながら仕事を切り上げた葉崎は、学区から少し離れた駅前の居酒屋で高瀬と共にビールを待つ。
 二人と同じようにスーツやオフィスカジュアルに身を包んだ人々を中心に店内はほぼ満席で、パーテーションで仕切られただけの半個室の席には賑やかな声が響いてくる。
「お疲れー」
「お疲れ様」
 すぐに運ばれてきた重いジョッキをカツンと重ねると、高瀬は神妙な面持ちで葉崎をジッと見つめた。
 突然見つめられた葉崎は、その真剣な眼差しにどぎまぎしてしまう。
「……どうした? 高瀬……」
 高瀬は答えずに黙ったまま持っていたジョッキに口をつけゴクゴクと喉を鳴らしながら豪快にビールを飲んでいく。
 つられて口をつけた葉崎がその姿を不思議そうに見ていると、半分近くを飲み干したジョッキをテーブルに置いた高瀬がやっと口を開いた。
「あのさ……俺、小川先生と結婚することになった」
「…………えっ、けっ、結婚? お、小川先生と……?」
 喉を通りかかったビールでむせそうになる。舞い上がっていた葉崎は冷水を浴びせられたように頭が真っ白になった。
「うん……ごめんな、黙ってて。うちって職場恋愛禁止だろ? さすがのお前でも言い出せなくてさ」
 交際していることすら聞かされていなかったのに、突然結婚するだなんて言われても飲み込めるはずがない。
「そう、なのか……全然気づかなかった。い、いつからその……そういう関係だったんだ」
「えーと、去年の忘年会のあとらへんからかな」
 自分で聞いておいて聞きたくなかった情報だと葉崎は思う。
 ジョッキから伝う結露が手のひらからぽたりと落ちる。泡のなくなったビールはかさが減っても手にずしりと重い。そもそもビールはそんなに好きではない。付き合いで飲んでいるうちに慣れただけだ。
「そっか、おめでとう」
 葉崎はやっとの思いで笑顔を作ってそう言った。底に溜まったビールを本音と共に流し込んで、おかわりを注文する。
 十数年も想い続けていた相手は一年弱ほど付き合った女性にいとも簡単に奪われてしまった。いつかこんな日が来るだろうと覚悟はしていたが、いざ突きつけられると絶望で目の前が真っ暗になる。
 さらには友人だと思っていた自分に知らされることもなく事は進んでいたようで想像以上にダメージが大きい。親しい間柄だと思っていたのは自分だけだったのだろうか。

 それから、酒の肴は高瀬のノロケ話に終始した。
 高揚した様子で小川との話を続ける高瀬が自分の知る彼とは違う、どこか遠い人のように思えて葉崎は頭に入ってこない話に当たり障りのない相槌をしながらジョッキを次々と空にしていった。
 高瀬も同様にビールを飲み続けていたが、日をまたぐまでにもう一軒行けそうな時間には葉崎だけが泥酔状態になっていた。

「おい、大丈夫か」
「ああ……」
 会計を済ませて店を出るとすっかり冷たくなった夜の風が火照った体を容赦なく突き刺していく。高瀬は足元のおぼつかない葉崎の腰を支えながら道路際で手を上げた。
「お前が飲みすぎるなんて珍しいな。一人で帰れるか?」
「ん、大丈夫だよ、平気……」
 週末の繁華街なのでタクシーはすぐに捕まる。歩道に寄せて止まった黒い車のドアが開かれて、葉崎は重たい体を後部座席に沈めた。
 チラリと高瀬を見上げると心配そうな笑顔がネオン街の逆光に照らされた。

「じゃあ俺は電車で帰るから。気をつけてな」
「ありがとう。おやすみ」
 高瀬が身を引くとドアは閉まり、窓越しに手を振るスーツ姿が映った。
 もう想うことも許されないのだなと悟りながら葉崎が手を振り返すと車は発進して視界が流れていく。
 どうして好きになってしまったのだろう。葉崎はため息をついて、流れていく賑やかな街の様子をぼんやりと見つめながら遠い日のことを思い出していた。

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