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本編
完璧
しおりを挟む「シャーロットは完璧でいなさい。完璧な令嬢になりなさい。完璧な妻となりなさい。そうすれば、幸せになれるから」
「完璧じゃなくちゃいけないの。じゃないと、誰からも愛されないのよ。とても不幸になってしまうわ。もしあなたが愛されていないと感じることがあれば、それはあなたが完璧ではないからなのよ。いいこと? それはあなたが悪いのよ?」
お母様は小さな頃から私に言い聞かせた。瞳を虚ろにして、時々怯えたように。お母様は女として負け組となってしまったから、私にそう言ったのだろう。
お父様は時々私の様子を見に来てくれたけど、仕事と偽り若い女と一時の恋を楽しんでいたし、子供は私1人しか生まれなかった。浮気は貴族の文化なのだから仕方がないと言えばそうなのだが、問題なのは男児が生まれなかった事だった。
その事からお父様は愛人の産んだアンドレという子を後継ぎとして引き取ったのだ。
お母様にとって、それはどんなに屈辱的な事だったろう? それでもお母様は侯爵夫人としての威厳を持っていた。
持つしかなかったのかもしれないし、それが虚勢を張っているだけだったのかもしれない。あの人は無理をなさるから。
いくら憶測したとしても、お母様は考えが読めない方だから本心はお母様自身にしか分からない。
ただ私が言えるのは、お母様はアンドレを後継として正しく教育したということだけ。
けれども、お母様は確かにアンドレを嫌っていた。直接的にアンドレにそう接することもなかったし、態度にも表さなかったけれど、アンドレのことを認めたくないようだった。
私はアンドレと会うことも話すことも止められたし、部屋だって屋敷の端と端で、滅多に顔も合わせられない環境を作り上げられた。
まるで、私とアンドレが親しくなるのを恐れているかのように。
お母様が私に施した教育はとても厳しかった。それこそ軍人や王族にでもなったかの様にスケジュールは分刻みに管理されていて、家庭教師も一流の人物しか与えなかった。
家庭教師は皆私に言った。
「あなたは完璧にならねばなりません。それが奥様の望みですので」
家庭教師達は「奥様の望み」の為にしては与えすぎだと思うほど、私が要らないと思っている知識を詰め込ませた。
殿方が喜ぶ会話、知的な会話、完璧な礼儀作法に難しいステップのダンス。地理、外国語、算術、流行、使用人の教育の仕方やドレスの選び方までも、私は全てを教えられた。私は侍女と親しくする事も許されず、私の担当の侍女は毎日変わった。
私はお母様の言う通りに完璧を目指したけれど、一つのことを完璧にする度に次の課題が与えられ、その課題も完璧に仕上げなければならなかった。
お母様の強制する完璧は、止まることを知らなかった。
お母様は時々私の元にやってきて、私の兄の功績を伝える。
愛人の子供はここまで優秀なんですって、それならあなたは本妻の子なのだからもっとできる筈だわ、正しい血が入っているのだから……とでも言いたげな目で私のことを見ていた。ただ、じっと。
褒める事もせず、ただただじっと私の顔を見ていた。
少しでも笑みが引き攣れてしまえば低い声で静かに叱咤された。
ダンスのステップを迷いでもしたら、同じステップとそのステップの応用を休まずに数時間続けさせられた。
食事をする時はお母様の視線に耐えながら料理を口に運ぶ。ぎこちない動きを一つでもしたら、次の食事の量は減り、その分の栄養を補えるように沢山のサプリを飲まなければならない。
アンドレとお父様も一緒に食事をしていたけど、過剰に怒られている私のことを守ってくれることなど一度もなかった。私をちらっと見て、すぐに興味を失ったかのように私を無視した。
会話のレッスンでも、少し間違った事を言ってしまえば正しい知識を調べ直さなければならなかったし、私の一挙一動すらも「間違った事」の中に入っていた。
元々の私に一つ一つ丁寧なバツをつけられて、「自然な私」なんていうものがカケラも見つからないように、その上から「完璧な自分」に変えられていく。
お母様にとって、子供らしさなんていらないものだから。
早く大人にならなくてはいけないから。
他のどんな令嬢にも劣ってはいけないから。
だから、ずっとずっと私は休んではいけない。
優雅で優美で気品溢れる完璧な淑女になる事が私の仕事であった。
お母様の夢を叶える為に、私はお母様のお人形にならなくちゃいけなかった。
お母様の指示に全て従って、お母様の期待に応えなくちゃならなかった。
私が期待に答えれば、お人形のように利口でいたら、お母様は笑ってくれるから。
滅多にないことだったけど、本当に美しい笑顔を私に向けてくれるから。
私はお母様のその表情が見たくて、いつもいつも完璧であろうとした。
私だけがお母様の味方なのだから、私までお母様の願いを叶えられなくなったらお母様は壊れてしまうと知っていた。
いつもお母様は神経を張り巡らせて、ずっと居心地悪そうにしていた。それを表には出さないけれど、時々不安そうな顔をして窓の外を眺めていた。
私はそんなお母様が気の毒に思えてならなかった。
お母様の願いは、私が素晴らしい淑女になって財力のある人と結婚をし、愛人などに家庭を脅かされずに幸せに暮らすことだった。
私が10歳になる頃には、お母様は私の元へやってくる沢山の婚約者候補達の肖像画を見て、それから社交界での立場についても調べ上げて、私の将来の夫を三つの候補にまで絞った。
私の10歳の誕生日に、お母様は私を呼び出して、ゆっくりと話しかけた。
「シャーロット、よくお聞きなさい。あなたには今、三つの選択肢があります。どれを選ぼうとあなたの自由だけれど、もしそれで不幸になったとしてもわたくしのせいではありません。シャーロット、あなたが選択を誤ったのです。」
そしてテーブルの上に三枚の肖像画を置いた。
「この三人は家柄も将来も決まっている方たちですから、経済的に苦労することはないでしょう。ですが、家庭内で何が起こるかは分かりません。」
お母様は私をじっと見つめた。
「わたくしは幸せになれると思ってあなたのお父様と結婚をしましたけれど、結局幸せにはなれませんでした。お父様は愛人を囲っていらっしゃって、わたくしを蔑ろにしましたからね。もしあなたの夫が愛人を囲うことがあったとしても、決して騒ぎ立ててはなりませんよ。淑女はそれを認めるものですから。……それでも、あなたを蔑ろにするのであれば一度二人で話し合いをすべきです。最初から夫に期待をしなければ良い話ですけど、それをできる人は中々いませんからね」
まだ10歳になった私に向かって、お母様は生々しい話をし始めた。
「だから、あなたはこの三人に会って、賢い選択をするのです。良いですね? あなたの未来はあなた自身で決めるのです。わたくしはあなたが幸福になろうと不幸になろうと知った事ではありません。あなたが結婚すれば、あなたはこの家の娘ではなくなります。嫁ぎ先の家の妻という立場になります。分かるかしら?」
私は頷いた。
「よろしいでしょう。あなたの選択で人生はがらりと変わります。あなたは数ヶ月の間、選ぶ時間があります。その数ヶ月間でこの三人の令息から、一人だけお選びなさい。一番良いと思った選択をするのです。シャーロットは賢い子に育ちました。まだ完璧ではないけれど、年頃になれば素晴らしい淑女にもなれるでしょう。わたくしは、シャーロットが賢い選択をできる子だと信じています。令息をよく見て、自分でよく考えなさい。」
お母様は私に数センチある紙の束を渡した。
「候補者の性格や好み、家柄などの情報が全て記されています。参考になさい。」
私は頷いて、ドレスの裾を摘みカーテシーをした。顔を上げれば満足そうに微笑むお母様が瞳に映る。
「期待していますよ。もうお行きなさい。午後の晩餐会の支度があるでしょう? 色々な方々がシャーロットを祝いにやってくるわ。十分なおもてなしをするのですよ。あなたの評価にも繋がることですからね。人と人との繋がりを大切にしなさい。」
私は返事をして部屋を出た。
私の誕生日には毎年盛大な晩餐会が開かれる。お母様は、私に日頃の成果を出して欲しいのだ。
私は支度をする為に、少し早く歩いた。走る事は出来ない。淑女がしてはならない事だから、私もしてはならない。
侍女が後ろから声を掛けてくる。
「シャーロット様、お急ぎ下さい。晩餐会までにすべき事がたくさんあります」
そんな事、知っているのに。
私を何も分かっていない小さな娘のように扱う侍女に苛立ったけれど、それを表に出してはいけない。
私は完璧でいなきゃならないから。
どんな令嬢よりも優れていなければならないから。
だから、私は淑女の微笑みを浮かべる。
「そうね、急がなくちゃいけないわ。私のドレスを出しておいて、不備がないか確認してくれる?」
侍女は仕事をする為に私から離れてくれる。
私は時々問いたくなる。
誰に問えば良いのか、誰が正しい答えを知っているのか分からないから、誰にも聞く事は出来ないこと。答えがあるのかもわからないこと。
私は誰の為に完璧にならなければいけないのか。
皆が言っている完璧な淑女とは何なのか。
私には、分からない。
誰かが言っている“普通”も、“幸せ”も、何もかもが分からない。
学べば学ぶほど私の心の中のわだかまりは増え続けて、余計に息苦しくなる。
私が完璧に近づいて行くほど、私は呼吸ができなくなっていく。
疑問は増え続けて、自分自身も他の人にも嘘をつくことが多くなっていく。
私はどうすればいいのか分からない。誰かに答えを示してもらえなければ、私は動けない。
頭の中はぐちゃぐちゃになっていくし、それを取り繕う私のことを褒める家庭教師たちの思考もよく分からない。
私は誰のものであるのかも、分からない。
侍女がパタパタと足音を立てながら廊下を走る。ドレスの用意をしてくれるようだ。
私はため息を一つついた。
侍女の監視の目がなくなって、やっとまともに息が吸えるような気がした。
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