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六章一節 天信祷の笑顔
しおりを挟む「ごきげんよう、佐柳さん」
「ああ、ごきげんよう、祷」
教室の前で待っていると佐柳さんがやってきました。
今ではもうちゃんと挨拶をしてくれます。二人揃って教室に入り、クラスメイトの皆さんにもご挨拶。照れくさがっていた佐柳さんも慣れてきました。
皆さんも佐柳さんと少しずつ仲良くなってきています。
男性を苦手とする多くの人たちも、佐柳さんの気さくさに心を開いたようですね。
席に座ると佐柳さんはさっそく漫画雑誌をカバンから取り出しました。
「佐柳さん? そういうものの持込は」
「禁止されている、だろ。分かってるけどさ、先が気になるんだよ、ほら、これ」
そういって私のほうに雑誌を差し出します。
こういうのには疎い私ですが、佐柳さんに教えてもらいました。世間では流行の作品らしいです。男の人たちが血を流しながら戦っていて、目を逸らしました。
「こういうのは、ちょっと。それならば私はこの前教えてもらった、これが好きです」
同じ雑誌に掲載されている恋愛漫画を開いて佐柳さんに返しました。
これは前に佐柳さんに貸していただいたときに読んで気に入った作品です。
恋愛はその、よく、分かりませんが、読んでいると切ない気持ちになってしまいます。
「いやー男はやっぱこっちだな」
「そうではなくて、学校でそのようなものを読まれるのはいかがかと思いますよ」
「かたいこと言うなって。後で貸してあげるから」
「……しかたありませんね」
正直、私も先が気になっています。あの二人は結ばれるのでしょうか?
昔なら絶対に校則を破ったりはしませんでした。でも、今は少し、違います。
佐柳さんの悪影響を受けてしまったようです。おかげでよく笑うようになりました。
そのほうが佐柳さんも、クラスメイトの皆さんも、喜んでくれます。
誰かを喜ばすことは神に幸せを捧げていることになる。そう、思うようにしました。
「お母さんの具合はどうなんだ?」
漫画をめくりながら佐柳さんが言います。
「はい、もうだいぶ良くなりました。もうすぐ退院できるそうです」
「そっか。約束、覚えているよな?」
もちろん。そのために佐柳さんは大金を払ってくれたのですから。
「楽しみにしていますよ、お母さんも。とても喜んでいました」
「お母さんの味か。どんなのかな~」
「それまでにちゃんと、貯金しておいてくださいよ。当日不幸な目にあって欲しくありませんからね!」
佐柳さんが引っ込める前に左手を掴みました。私と彼と天使様にしか見えない数字。
この前は三万はあったのに八千円まで減っています。もうまた無駄遣いしましたね!
むっとした顔で見ると申し訳なさそうに頭を掻いています。
自分の命がかかっているというのに、佐柳さんは相変わらず浪費が激しいです。
「どうしても欲しいものがあってさ。しかたないじゃん?」
結局、佐柳さんの戒めはまだ解けていません。
どうしてなのだと佐柳さんはフィシオさんを問い詰めていましたがはぐらかされました。
もしかしたら天使様にも解けないのではないか、と私は薄々気づいています。
そういえば今日はまだ姿を見かけません。もうすぐ授業なのですが。
「あの、フィシオさんは?」
「さあ。女の尻でも追い掛け回しているんじゃない」
もう。そういう下品なことを……。
お説教をしようと思ったらベルが鳴りました。仕方ありません、また後にしましょう。
六章二節 フィシオの後悔
既に一時間目の授業が始まっているというのに俺は屋上で説教を食らっていた。
かれこれ三十分は続いている。よく飽きないものだ。
「ちゃんと理解しているのですか、フィシオ。あなたのしたことの重大さが!」
「もう十分に分かりました。それより今は授業ちゅ」
「ここでも聞こえるのでしょう!? そういうところが」
くどくどくどくど。自分の発言を逆手に取られたら黙るしかない。
コンクリートの上に延々正座するのは辛かった。足が痺れてもどかしい表情になる。
それがまたターリアの癇に障って怒声を浴びせられた。
やれ人間の男はろくなのがいないだの、お肌が荒れてきただの、髪の艶がなくなってきているだの、どう考えても俺には関係ないことのとばっちりまで受ける。
こうなることは初めからわかっていたとはいえ、体験するとまた格別にしんどい。
いつのまにか管理官の仕事の愚痴が始まっている。
下手に口を挟むと余計唾が飛んでくるので俺は大人しく俯いていた。
しばらくして発散し終えたのかターリアは乱れた襟を正し、ずれた眼鏡を直す。
咳払いをすると一呼吸で冷静さを取り戻した。
「失礼。とにかくあなたの犯した罪は計り知れなく、本来であれば裁きが下されます」
「はい」
粛々と受け止める。どのような罰が与えられるのか背筋が震えてきた。
顔をあげてターリアの不満げな蒼い瞳を見つめる。小さな唇が確かめるように動く。
「オムニの決定を伝えます。引き続き、宝財院佐柳の更生に務めなさい」
「……へ? それだけ?」
予想外の台詞に口調が砕けてしまった。鋭い視線に斬りつけられる。
「私としても不服ですが、オムニはあなたを御赦しになられました」
騙されてはいけない。そんな甘いジジイじゃないんだ、あれは。
ターリアが一転、嬉しそうに頬を釣り上げた。なんだろう、悪魔的な笑顔だ。
「もちろん、何事もなく、とはいきません。他に示しもつきません。オムニは条件を出しました。一つ、人間界(ゲン)で生活しより人間を学ぶこと。一つ、同時に悪魔狩りの任務も必要とあれば行うこと。そして、もう一つ」
二つの条件はむしろ当たり前な話だった。佐柳の更生に付き合うならこれまで通り人間界に留まる必要があるし、悪魔狩りが本業なのだから必要とあれば喜んで狩る。
彼女がとても嬉しそうなのは三つ目の条件ゆえだろう。背筋を伸ばして身構えた。
片膝をついたターリアの手の平が俺のおでこを撫でながら祈りを呟く。
そんな、嘘だろ!?
反抗するには遅すぎた。彼女はさっと離れ、俺はその場に倒れこんでしまった。力が入らない、大事な部分を根こそぎ引っこ抜かれた感じがする。
天使として働けといいながらこの仕打ち……あんのクソジジイッ!
空を睨むと雲が笑い口をかたちどった。粋な計らないつもりかよっ。
「もう一つ、あなたの天使としての能力を制限させてもらうわ。より人間を理解するために、人間に近い状態になってもらいました。もう翼も出せないから」
慌てて俺は翼を開いた――つもりなのに、背中がむず痒くなるだけで終わる。
ターリアにあたってもしかたないが行き場のない怒りを彼女にぶつけた。
「これじゃあ佐柳の戒めも解けないし、悪魔狩りもできないだろ!?」
「そうね。でも安心しなさい。全てを奪ったわけではない。あなたくらいの力量があれば、ほとんどの相手は大丈夫でしょう。あ、そうそう、私からも一つ、追加の条件があるの。オムニに相談したら快諾してくれたわ」
本命はそっちか! いったい何をさせる気なんだ。むふふふ笑いやがって。
欲求不満みたいだし男娼をさせる気か。それとも召使にでもしようっていうのか。
ターリアは俺から目を離して出入り口を見た。指を鳴らすと扉が開く。
おいおい、どういうことだ……。
「今日から我が学園に転校してきたラウシューさんよ。あら、知り合いのようね?」
「普通悪魔を入学させるか!?」
「私はっ、お前のせいでっ、悪魔ではなくなったのよ!」
なぜかセーラー服を着た明らかに不釣合いな赤い女がかつかつ足早にやってきた。
天使の年増と悪魔の年増が並び立つ。豊満な肢体は比べるに惜しい。
でもどっちも性格が最悪なので論外だ。だいたいここは神聖な場所だろう!
ターリアは胸の前で腕組みをしながらわざとらしく説明した。
「あなたが浄罪剣を悪魔に使ったことで、彼女はほぼ人間に近い存在になったのよ。今のあなたと同じ様にね。これは天使にとっても悪魔にとっても大きな出来事。彼女は悪魔からも狙われてしまう立場になった。そこで、取引をしたのよ。ね、ラウシュー」
「そう。天使に保護してもらう代わりにある程度従うことにしたの」
「で、彼女の監視をあなたに、あなたの監視を彼女に任せることにしました。よかったわね、フィシオ。美女の熱烈アピールよ」
「責任を取ってね、フィシオ」
美女二人が邪悪で陰湿で悪質極まりない笑顔で頷きあっている。
どうしてこうなった。これじゃあ恩赦が恩赦になってない。
こんな真っ赤な女についてこられたら女の子たちが離れていってしまう。
ターリアは間違いなく、俺が苦しむ姿が見たいだけでラウシューを抱き込みやがった。
ラウシューとしても俺に接近できるならターリアに魂を売るくらいの恨みがある。
厄介な女が手を組んだ。勝ち目がない。ここは戦略的撤退を選択。
「悪いが天使と悪魔は守備範囲外だ。二人でよろしくやってくれ」
「まちなさいっ!」
足の痺れのせいでふらついたがお構いなしに扉に向かって走り出す。
背後でラウシューの怒声が迸り足音が追ってきた。
人間に親切したばっかりにこの様か。責任は佐柳のやつに取らせよう。
六章三節 宝財院佐柳の日常
死にかけたくせに俺に日常は相変わらずだった。
変わったところっていえばバイトの量が増えてくらいか。
駄天使曰く『お前はまだまだ成長途中だから駄目』らしい。
あれだけ必死になったのにまだ更生してないって? ふざけんなよ!
と怒ってみようとしたがやーめた。あいつも、俺らのために無茶したみたいだから。
詳しいことは恥ずかしいのか教えないが、やっちゃいけないことをしたんだと。
だったら最初からそういう方法で解決してくれよと思わなくもないな。
ま、新しいバイトも楽しいし、頑張って働いて欲しいものを買う喜びは大きい。
これまでのようになんでも気軽に手に入るわけじゃないけど。そのぶん、本当に欲しいものがなにか、見極められるようになった。
考え抜いて手に入れた物は今までよりも大事にしている。
俺より変わったのが祷だ。前よりも可愛く笑うようになった。
お母さんの容態が安定して心配がなくなったせいかな。だいぶ寛大にもなったよ。
最近は漫画雑誌を持ち込んだくらいでは目くじら立てなくなった。俺が祷を堕落させて漫画の面白さを布教したおかげだな、うんうん。
無理をしているのかもしれないけど、俺の遊びにも付き合ってくれるようになった。
なんだかんだ文句を言いながらも楽しみたいって気持ちを認めている。
二人でお母さんのお見舞いにいったときなんか顔が輝いていたっけ。
そうそう、あれから変わったといえば蛮だよ、蛮。
まさに生まれ変わっちまったみたいに良い奴になっていた。
俺が買ってあげた物を持ってきて土下座して謝られたときには目が点になったよ。
祷にたいしても額が擦り切れるくらい地面に押し付けていた。
よく分からないけどあれも駄天使の仕業なんだろうな。
あいつは全部返してお金もいつか返済するっていったけど俺は断った。
その代わりに普通に友達になろうと提案して丸く収まった。それでも蛮は気が済まないみたいでボランティア活動に参加している。あの強面の人たちもみんなやっているみたいで近頃評判がいい。いったいあの駄天使は何したんだ?
そんなこんなで俺の日常は続いている。
正直、あのときのことはあんまり覚えていない。
色々売り払って金を用意して祷に渡したのは記憶にある。そのあと追い掛け回されたことも。ただそこから曖昧だった。
祷がいうには死んでいると思ったらしい。
確かに一瞬死んだ気がしたけど、あれは気絶したってことなんだろうな。
俺だってまだまだ楽しみたいことがたくさんある。だいたい死んだら祷の笑顔だって見れなかったんだから。
念のために靴下に千円札を忍ばせておいたのが正解だったらしい。
駄天使にもお前は狡賢いやつだよと褒められたんだか貶されたのだからわからんことを言われた。そういやあいつ何やってんだ?
一時間目の授業では姿を見せなかった。休憩時間になって廊下が騒がしくなる。
「あれ、フィシオさんの声ですよね」
「そうだな」
教室移動があるからついでに様子を見てみた。
何度も後ろを振り返りながら慌ててこっちに来る。俺らに気づくと後ろに隠れた。
「助けてくれ。くそ、どうしてこうなるんだ」
「なんだよ、うっせーな」
こそこそしている駄天使を振り払おうとしたら見慣れない女子が走ってきた。
女子、っていうにはちょっと歳が行き過ぎてないか?
ボリュームのある真っ赤な髪に炎みたいな色をした瞳。化粧禁止なのに濃い口紅をひいている。制服が窮屈そうで盛り上がった巨乳が飛び出しそうだった。
はて見たことのない生徒だな。転校生か?
肩を怒らせていて俺と祷をちらりと見てから駄天使を睨んだ。
「フィシオ、責任を取りなさい!」
「元はといえばお前が悪いんだろうが!」
なんだなんだ痴話喧嘩か。まったくしょうもない天使様だなこいつは。
赤い女が後ろに回りこめば駄天使が前に来てぐるぐるぐるぐる回っている。
ええい鬱陶しい!
「お前、何したんだよ」
「この人が私を奪ったの。ひどい、信じられない。男として責任を取りなさい!」
「ばっ、誤解を招く言い方するな!」
「事実でしょう。もうこうなったらあなたを追い掛け回すことにする。覚悟してね」
にっこりと笑った。高校生っていうには大人っぽすぎる。なんていうかエロい。
鼻の下が伸びているのを悟られないように顔を窓のほうに向けた。
硝子に映る祷の表情は暗い。ありゃ怒っているな。
「フィシオさん、あなたはいったい何を?」
「訊くな、聞いたら駄目だ」
駄天使が何をやったか詳細に知りたくなんかない。ほんとこいつは最低だ。
言い訳をまくしたてる駄天使を無視して俺は祷の耳を押さえながら引っ張った。
このまま見届けていたら授業に遅れちまう。
駄天使が赤女に捕まった。悲鳴をあげながら抵抗している。野次馬が増えた。
「ほっといていこうぜ」
「そうですね、行きましょう」
祷もだんだんと真実を受け入れいて駄天使に冷ややかな目を向けるようになった。
俺は彼女の手をそっと掴んで走りだす。祷は振り払わずについてきた。
真横にきた彼女の顔が笑う。楽しそうで、嬉しそうで、恥ずかしそうで。
この笑顔を手に入れられるんなら命なんて惜しくもないな。
そうして癒されているうちに始業のベルが鳴った。
やべえ遅刻だ、走れっ!
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