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五章一節 フィシオの決意
しおりを挟む足元の教室では今も熱心な生徒たちが授業を受けていた。
その中にはあいつが守ってくれと懇願した祷も含まれている。適当に言い訳をして佐柳が休むことを伝えると、不安そうな寂しそうな顔をしていた。
いつのまにやら随分とお互い気にするようになって。高校生というのは若いものだな。
生徒の立ち入りが禁止されている屋上でひとり、大の字になって空を仰ぐ。
どこまでも青く青く続いていく空には雲の姿も見えない。太陽の光を阻むものはなく、じりじりと肌が焼かれていく。忘れた頃に吹く風も熱気を孕んで生暖かい。
この空のどこかに人の目には映らない天使界(ライ)が存在していた。
そこには人間が天使と呼ぶ存在が多く生きていて、人間と変わらない生活を送っている。
彼らが思い描くほど天使の世界も穏やかではない。争いもすれば飢えもある。不安定な世界を安定させるために、仕事として人間の願い事を叶えているくらいだ。
人間に情を抱いて勝手に救うことは禁忌のひとつとされている。
天使界が富みすぎるのも問題らしい。詳しいことは知らないが何もかもが管理の下だ。
昨日、俺が佐柳と交わした口約束も天使としてはあるまじき行為。
例え人間の為になったとしても個人的に上を通さず願いを聞き届けてはいけない。
過去に身勝手な救済を施した天使は身分を剥奪されるか、堕天してしまった。
分かっていても俺はあいつの頼みを断る気はなかった。散々疎ましく思っていた相手に気になるあの子を託す気持ち、初めての土下座、男として見捨てておけるか?
それに必ずあの女悪魔ラウシューが動く。であれば俺が守るのは当然の必然だ。
まあ、そんな個人的な感情、管理官様には関係ない。
「ここは生徒立ち入り禁止ですよ。それと今は授業中のはずですが」
おいでなすった。頭を仰け反らせると一人の女が歩いてくるのが見える。
眼鏡の奥の瞳は青空を映したよりも濃く深く蒼い。黄金で染め上げた髪を短く切り上げていて細面と切れ味抜群の眼光と相まって神経質そうな印象を受ける。スタイルも良く、出すぎていないところが均整がとれていてそそられた。
タイトなスーツから覗く足は細く、長く、ストッキングに覆われて黒い。
顔の間近に立たれると中が覗けそうだ。いつもなら首を伸ばすところだがやめておく。
相手が同僚、いや、上司の女天使様とあっては不躾な真似は出来ない。
「ここにいたって授業の内容くらい聞けますよ」
耳を澄ませばそれくらいは容易だ。そんな小言をこぼしに来たわけでもないだろう。
身体を起こして立ち上がる。フェンスに近づいて学園を見渡した。
彼女の名前はターリア。オムニ・ウェムッド・リェ・シェルハモンド・ターリアだ。人間風に置きかえると『神オムニの娘にして管理を司るシェルハモンドのターリア』という意味合いがある。ちなみに俺は『神オムニの息子にして剣を司るサロルゾーナのフィシオ』という。神オムニの娘や息子ってついてはいるが形式的なもので血縁者ではない。
「久しぶりね、フィシオ」
「ご無沙汰しておりました、ターリア先生」
わざとらしく丁寧に言って頭を下げると彼女もわざとらしく怜悧な笑顔を見せた。
ターリアは天使学校の先生を務めていたこともある優れた天使の一人だ。今では救うべき者の選別や悪魔の調節やら、諸々の管理官として人間界に赴任している。
表向きは聖グレデンテ学園の理事長の秘書というのだから生徒が知ったら驚くだろう。
ここは信仰心に篤い生徒が多く、祷のように天使と交信できる素質のある者もいた。身近で彼女らを見守り、導き、世界の調整に利用するためにターリアはいる。
特に理由でもないかぎり生徒と理事長の秘書が顔を合わせる必要もない。
これまでは挨拶ひとつする機会がなかったが、こうして向こうからやってきたのは。
「どうして勝手なことをするの? 悪魔との私闘は厳禁よ」
とまあこういうわけだ。管轄内でやりあえばどうしたって耳に入る。
これからもっと掟破りなことを企んでいると知ったらどういう顔をするのかな。
「俺は悪魔狩りが本業です。目の前に獲物がいるのに逃す手もない」
「そのわりにはすぐ手を引いたようね。いったい何を考えているの。悪魔の数はこちらで厳格に管理されている。間引く必要があればちゃんと指令が下るでしょう」
「接触しただけなのだからそう怒らないでください」
「既に影響が出始めているのよ。それもこちらから仕掛けたとなれば、短気な悪魔は報復を考える。慎重な悪魔は身を隠して監視の目から逃れてしまう。私たちは針の上でバランスを取っているようなものよ。そよ風でも危険に繋がる」
「文句があるならジジ……オムニに言ってください。不慣れな仕事を回すからこうなるのですよ。やりたくてやっているわけじゃない」
降参とばかりに両手をあげる。見る見るうちにターリアが不機嫌になっていく。
顔色は変えていないが殺気じみた気配が迸っている。生徒時代もよくきつい一発を食らったものだ。さすがにここでお仕置きをする気まではないようで胸を撫で下ろす。
ターリアはしきりに眼鏡の位置を正しながら溜息を吐いた。妙に艶っぽい。
「今のあなたは悪魔狩りが仕事ではないでしょう。弁えなさい。宝財院佐柳の更生を済ませて早く帰ることね。オムニには出来るなら代役を立てるように頼んでおきます」
「そりゃどうも」
説得することを諦めてターリアはヒールの踵を打ち鳴らしながら去っていった。
彼女が考えているのは仕事のことだけだ。天使界、人間界、悪魔界。この三つの世界の均衡を保つことしか頭にない。人間ひとりの生活も人生もおかまいなしだ。
きっと自分の欲望に見向きもしていないのだろう。もういい歳なのに浮いた話もない。
苛立っているのは長い間人間界で働かされている疲れだろうか。同情はしよう。
再び大の字になって寝転がる。この空を雲のように泳げたら気持ちが良さそうだ。
ちょっと悪魔と戯れただけでこのお説教だ。今後が思いやられる。
でも俺は、俺のやりたいようにやる。どっかの馬鹿がそうすることを選んだように。
五章二節 宝財院佐柳の奮闘
「ほんとにほんとに後悔しない?」
「うぅっうぅぐっ」
金に物を言わせて買い集めた品々を売り払い、最後の一品。
『絶対正義ユウシャイン』のBOXを掴む指が離れない。売ると言ってみんなを驚かせてからかれこれ五分。店長も哀れんで何度も意思確認をしてくれた。
あれだけ無理を言って取って置いて貰ったものを、その店で売るのも忍びない。
かといってここいらではこの店が一番正当な値段をつけてくれる。信頼もあった。
俺の突飛な行動に店長はもちろん、店員AとBも呆れ顔をしている。
他の作品だって手離すのは心苦しいさ。幼い頃から夢中になったヒーローたちを金のために他人に受け渡すなんて、俺からしたら人身売買に等しい罪悪感があった。
それでも本当に欲しい物を手に入れるためなら別れられる。
でも! だが! しかし! されど!
『絶対正義ユウシャイン』だけは特別だ。ここまでの完品、二度と会えないかも。
俺としてもこれだけは残しておくという考えもあった。
でも別れなければいけない。そうしてまた、自分で稼いだ金でこれを買い戻す。
じゃなきゃ更生したなんて誰も認めてくれない。違う、俺が認められない。
「売ってくれるっていうならそうだねえ、二十万で買い取ってあげるけどけど。本当にいいの? もう二度と手に入らないかもしれないよ、ないよ?」
「ひっくっ」
もはや半べそかいている俺に店員も通りすがりの客も引いている。
もしも今の俺のこの別れの苦しみと同じくらい、本当の両親が俺を捨てるときに苦しんでいたのなら、きっと俺は満面の笑顔で二人を許してあげられる。それくらいの問題だ。
涙目かつ上目遣いで店長に訴えかける。哀れな子羊を救いたまえ。
「俺、絶対、絶対に買い戻すからさ。三十五万出すからさ、なんとかおい」
「無理無理。もう一回入荷したのにお得意にこっそり売ったって噂になっちゃったんだから。他の常連さんから非難轟々。またやったらお客さんを失っちゃうでしょ」
「うぅ、ですよね……ああ、さらば、俺のユウシャインッ」
目元を拭って店長の迫り出した腹にBOXを押しつける。いっそ壊れてしまえ!
店長は太さに似合わない動きの早さでBOXを頭上に持ち上げて破壊を回避した。
「君、売る気ある? ある?」
「ありま、す。ええいくそ、もってけドロボー!」
「聞こえが悪いこと言わない。はい、それじゃあ二十万ね」
店員Aがレジを打って二十枚の紙幣を丁寧に数えてから店長に渡す。
俺は恭しく頭を下げて両手で『絶対正義ユウシャイン』の成れの果てを受け取った。
ずっしりと重い。この命の、金の重みを身体に染み込ませなくちゃいけない。
何か欲しいものがあれば俺はぴっと三秒でこの重さをばらまいてきたんだ。
電子マネーは便利だが、金の重みが感じられない。使うことに実感が伴わない。
ようやく俺は自分の愚かさを痛感した。金は得ると同時に失う。うぅん、名言だな。
「ありがとーございましたー」
くだらないことを考えて悲しみを紛らわしつつ、やる気のない言葉に蹴り出される。
ぽんぽん金を払っていたころにはあんなにも温かい挨拶をくれたのに。この落差。
言いがかりでショックを受けながら俺は大事に大事に、二十万を封筒の中に入れた。
これまで色々売り払った分と合わせて百二十万くらいにはなっている。
左手の甲の数字も一瞬にして更新された。減ったら不幸になるんだし、増えたら幸運になるんじゃないか。そんな甘い妄想をするがあの駄天使の戒めじゃありえそうにない。
外階段をとぼとぼ歩きながらスタホを取り出した。進士に車を回してもらおう。
液晶には延々連なる『荒深蛮』の着信履歴。一旦、見なかったことにする。
危うく見逃しそうだったが三通目に『駄天使』の名前があった。
メールアドレスの交換なんてしたっけ? 不思議に思いながらメールを開く。
『祷のお母さんの容態が急変した。急げよ』
顔が青ざめる。手遅れになっちまったら金をかき集めた意味がない!
三段飛ばして階段を降りる。狭いし鉄骨だし回るしすげえ危ないが気にしてられるかっ。
幸い混んでいる時間でもなかったし大抵は狭苦しいエレベーターを使うので人がいなかった。おかげでつんのめったものの転がることもなく外へ。
ちょうど目の前に進士の運転する車が滑り込んできた。今日はリムジンじゃない。
いつも使ってるやつは整備に回されていた。それが良い方向に転がる。
進士が出てくるより先に後部座席に飛び乗って叫ぶ。
「急いで聖グレデンテ病院に頼む! この際違反してもいいから飛ばして!」
「かしこまりました。シートベルトをお締めください」
無茶苦茶な命令にも進士は顔色ひとつ変えないで頷いた。
締め終わる前に車が急速発進。後ろに身体がひきつけられた。息が詰まる。
やっちゃいけないとは分かっているが時間が惜しい。走れ、走れ、走れっ!
さすがに進士は道を良く知っていて普段通らない裏通りをかっ飛ばした。夜になってから開く店の多い場所で通行人も少ない。いてもあまりにスピードを出しているからびっくりして怒声をあげながら飛び退いた。
右に左に車体が揺れてシートベルトが食い込む。すげえハンドル捌き。
極力信号を通らないルートを選ぶ。それでも信号にあたった時は都合よく青だ。
パトロールのお巡りさんもいないし容赦なくスピードをあげていく。ちょっと、怖い。
最短最速で裏通りを突き抜けて大通りに合流。ここまできたら走った方が早い。
ぴったり赤信号で停まった隙に俺は歩道に飛び出した。進士は黙って頷いてくれている。
こんなことならもっと身体を動かしておくんだった……。
体育が苦手ってこともないが得意ってこともない。あっという間に息が切れる。
喘ぎながら正門を通って敷地内に。庭でくつろいでいる患者たちが驚く。構わず自動ドアをせっつきながら病院に入った。すかさず不審者発見とばかりに警備員が近づいてくる。
「君、どうかしたのか?」
「げっほ……ああいや、その、知り合いの、はぁっ、容態が」
これだけ切羽詰っていれば向こう側が勝手に理解してくれる。
警備員に導かれて受付カウンターに行き、天信さおりの名前を出すと案内してくれた。
一際な静かな区画にある手術室。ドラマでよく見かける光景だ。
重厚な扉の上に『手術室』のプレートがあって赤色に点灯されている。ソファでうずくまっているか細い女の子の姿と慰めるように傍に座る美形の男。
「はぁっ、はっ……祷」
まだ呼吸が整わない。胸が苦しい。膝に両手をついて悶える俺に気づいて祷が立った。
どうしてここに。どうしたのですか。二つが入り混じった歪な表情を浮かべる。
「佐柳さん」
名前だけを呟いて彼女は立ち止まった。心配し過ぎて顔が青ざめている。
俺は情けない自分を殴りたい衝動を堪えて彼女に向かい合う。駄天使は何も言わない。
「お母さんの様子は?」
「急に、悪化してしまって……もう、手術をするしかない、そうです。でも、私には、そんなお金……どうしたら」
何が世の中金じゃないだ。ひとりの命を救うのにだって金がなきゃいけないってのに!
本当に金じゃないってんならタダで命くらい救ってみせろよ。
怒鳴ってやりたいところだが、天使だって見返りありきで人を救うこの現実だ。
人間が金ありきで動くもの当然だ。医者にだって看護婦にだって生活がある。
俺は俯いた祷を黙って抱きしめた。いつもなら悲鳴をあげて暴れるのに、黙っている。
「大丈夫。金ならある。お母さんは助かるよ」
「佐柳、さん?」
ばっと腕を伸ばして顔を見つめる。涙目がきらりと輝いて美しくさえあった。
俺はかっこつけて笑いながら彼女の手に分厚くなった封筒を押しつける。
「これを使ってくれ。やましい金じゃないから、心配すんな」
訳が分からない祷はひとまず封筒の中身を確認した。目が丸くなり、眉が下がる。
病院ということも憚らずに彼女は怒った。封筒を俺に押しながら。でも受け取らない。
「駄目ですよ、こんなに! これは、佐柳さんの命じゃありませんか! あなたの命を使ってまで、私はっ」
「勘違いするな。ほら、まだ残っている」
左手の甲を見せつけた。俺があげたといっているからか既に金額は雀の涙。
それでも0じゃない。0にならなきゃ不幸にはなっても死なないんだから大丈夫。
俺が言い聞かせても祷はうんとは頷かないだろう。いやいやと首を振ってだだをこねる。
「受け取れません!」
「お前はお母さんに死んで欲しいのか?」
「そんなわけっ」
「ないよな。だったら素直に受け取れって。これはお前のためでも、お前のお母さんのためでもない。俺のためなんだ。俺は俺のためにしか金は使わないからな」
嘘は言っていない。これまでも俺は俺の欲しい物のためにだけ金を使ってきた。
誰かに恵むのも、何かを買うのも、俺が『そうしたいから』しているだけだ。したくもないことには一円だってかけたくない。
まあ、そんな俺の信念を祷が理解できるわきゃないよな。
だから俺は恥ずかしながらも説明した。この金の使い道を。
「俺もさ、祷と一緒にいると楽しいんだよ。それは、その、なんだ、祷の笑っている顔が好きだからで、悲しい顔されてもつまんないんだよね。だからお前のお母さんには早く良くなってもらって、お前の心配事をなくしたいんだ。そうすりゃ、お前だってお母さんのために、もっと素直に楽しめるだろう?」
「だからといっても、こんな――」
「それに! もう一つ。俺も『お母さんの味』ってのを食べてみたい。祷のお母さんが元気になったら、俺にもオムライス食べさせてくれよ。これはその代金だ」
封筒を握り祷の指が震えていた。俺はその上からそっと手の平をかぶせる。
必死になって走ってきたから身体が熱を帯びていた。彼女の手が冷たく感じるくらい。
「素直になれって祷。お前はお母さんを助けたいのか? 助けたくないのか?」
「それは……私……助けたい……お母さんを、助けたいっ。助けて、くださいっ……」
涙が堪えきれずにこぼれ落ちた。一粒、二粒、どんどん数を増していく。
誰かのために尽くすことばかりで、誰かに頼れなかった辛さが、溢れ出てくる。
ひっくひっくと喉を鳴らしていた泣き声が大きくなっていった。
聞きつけてきた看護婦が小走りでやってくる。崩れる祷を引き渡した。
「お金ならあります。最高の手術をして必ず、絶対、助けてください」
戸惑う看護婦に言い残して俺は祷に背を向ける。これだけでは終わらない。
視界に映った駄天使が無言で頷いた。ここは任せろ、そう言いたげだ。
俺も頷きだけ返してまた走り出す。看護婦の注意なんか聞いてられるか。
「佐柳さんっ!」
祷の泣きじゃくった声には振り替えそうになる。でも今はまだ、駄目だ。
次に見る祷の顔は、お母さんが助かって嬉しくてしかたがない、そんな心の底からの笑顔じゃなきゃ大金を払った甲斐がないもんな。
散々怒られながら病院を飛び出すと正門の傍に固まっている集団を見つけた。
先頭には心底苛立っている様子の蛮が立っている。堂々とタバコ吸いやがって。
「おい、出てきたぞ!」
「てめえ何逃げてんだ、ぶっころすぞ!」
連れの中には禿頭で強面のいかにもな人たちが混じっている。おいおいマジか。
俺は彼らをひきつけるためにひいこらいいながら全力で逃げ出した。
まさか真正面から逃走するとは読めていなかったんだろう。蛮たちは追いかけてくるのに少し遅れた。この隙に少しでも距離を開ける!
背中越しに待てだの殺すだの罵詈雑言が飛んでくる。こりゃ捕まったらやばい。
大人しく待っていてくれればこっちから会いに行ってやったのにさ。
これだから短気な奴はよくない。欲しいものを手に入れるには待つのも楽しめ!
俺の心理を分かってくれるはずもなく、早く欲しいとがっついてくる。
一方通行で車が進入してこない道に逃げ込んだら鼻先を黒い車体がかすめていった。
「しにてえのか!」
これまた馬鹿っぽい大学生くらいの男が怒鳴ってる。お前のせいだろうが!
信号を渡って逃げ切ろうと思えば眼前で切り替わるし、建物と建物の合間を走る細い道に無理やり入ったらゴミ袋に足をとられてずっこけるし、どんどん差が縮まった。
心臓が破裂しそうだ。息が出来ない。苦しい。吐きそう。目眩がする。
ふらふらになって角を曲がると目の前には高い金網のフェンス。つまり、行き止まり。
振り返れば奴がいる。そんな昔のドラマがあったなあなんて思い浮かんだ。
すっかり追い込まれた俺に逃げ道はない。蛮を先頭に五人もいるよ。
それこそドラマの主人公なら殴り倒すかフェンスを飛び越えるんだろうけどね。
俺、金持ちの息子ってだけの高校生ですし。蛮のパンチも見切れないさ。
「ざけやがってっ!」
殴り飛ばされて金網に頭から突っ込む。がしゃあんと音が響いた。
入り込んだ路地なのでうるさくても誰も気づいてくれないだろうな。なんでこんなところに逃げ込んでしまったんだ。これも戒めのおぼしめしか?
唇が切れたみたいでひりひり痛む。拭ってみると血がついていた。
立ち上がったところで腹を蹴り上げられる。
「げぇえっ」
疲労も重なっていたから簡単に吐いた。その場に崩れ落ちて腹を抱える。
ああくそ、痛い、あっちこっち痛いけど、特に心が痛い。
こんな目にあってんのもそもそも言えば俺が気軽に金をばらまいたせいだ。
友情を金で買った挙句このザマ。文句も言えねぇ。
「何笑ってんだよ。ああ!?」
そりゃ笑いもするだろ。金持ちになって幸せになれると思った末路がこれじゃあ。
へらへらしてしまったせいで胸倉を掴んで持ち上げられ、そのままフェンスにどーん。
蛮の血走った目が俺を覗きこむ。炎みたいに赤くて揺らめいていた。
臭い息を吐きかけながら俺をフェンスに押し込む。背中に何かが刺さった。痛い。
剥き出しになった歯は、ヤニで黄ばんでいるし見るからに鋭く尖っている。
「どう、しちまった、んだよ。蛮ッ」
「どうしただぁ? おめえのせいだろっ。大人しく金出しときゃいいんだよ。お前は俺の、と、も、だ、ち、なんだろ? そういったのはお前だよなあ、佐柳!」
ああそうだよ、俺が言い始めたことだ。
もういじめられたくない、馬鹿にされたくない。だから、金で友情を買った。
俺の学校じゃ一番不良だったのが蛮だったから、それだけだ。かつあげされるくらいな金で抱き込んで力にしちゃえばいい。そんな、アホなことを考えたのは、俺だよっ。
言い返したくても喉を押さえられていて息苦しい。酸素がこれほど恋しいなんて。
「それぐらいにしとけ。やることがあんだろ」
誰かがそう言って蛮は舌打ちをしながら俺を放した。情けなく尻餅をつく。ケツも痛い。
もうこれで痛くないところはないな。人は追い込まれるとどうでもいいことを考えてしまうらしい。そんなことを思っていたら蛮の手が俺のポケットに突っ込まれた。
お目当ての財布を引っこ抜いて中身を確認。はは、顔真っ赤でやんの、ざまあ。
残っているのは端数になった小銭だけ。蛮は怒り狂ってそれをばらまいた。
あーあもったいない。それだってジュース買うくらいにはなんのに。
「金は、金はどうした!?」
「ねえよ。俺はもう、お前には金を払わない」
フェンスを支えにしながら立ち上がって蛮に言ってやった。せいせいする。
あいつの後ろにいる取り巻きたちがざわめきはじめた。蛮を睨みつけている。
「俺は、お前から友情を買っていた。でももういらね。お前なんか、俺にはいらねえんだよ。だから払う金もない」
俺は俺の欲しいものには金を惜しまない。でも、いらないものには一円も払わない。
だから蛮に払う金なんて最初からもうなかった。
金で買った友情なんてどっちにしたってこんなもんってことだよ。
俺は、もっと温かい、もっと優しい、もっと楽しい感情を手に入れたんだ。
いやこれからかな。どっちでもいいや。とにかくもう、蛮との友情はいらない。
「お前、わかってんの? 言ったよな、俺。おい、聞いてんのか? お前が払えないってんなら、あの女をヤるって、俺、言ったよな、佐柳? それでいいのか?」
急に優しい口調になっちゃって。俺に揺さぶりをかけてるつもりなら無駄だ。
脅されて殴られて、説得されて殴られて、蹴られて叩きつけられて、殴られて。
俺はへらへら笑ったまま真っ赤に燃える蛮の瞳を見返していた。喋る気も起きないや。
なんか意識が、朦朧としてきた。体中痛いし血は流れているし、もう、金もないし。
ぼんやりとした視界に左手の甲が映る。小銭をばらまかれて俺の命は。
五章三節 天信祷の反逆
「佐柳さんっ!」
私の叫び声に男の人たちが振り返りました。皆さん、恐ろしい形相をしています。
細い体がはじめて役立ちました。私は男の人たちの合間をすり抜けて佐柳さんのもとに駆け寄ります。ああ、ああっ、なんて酷いことを!
ぐったりと倒れている佐柳さんの顔は腫れていて、切れていて、赤くなっています。
制服もところどころ破れていました。手をとってもあの温もりはありません。
周りにはごみに混じって小銭が散らばっています。佐柳さんの命が……。
「自分から来てくれるなんてな。探す手間が省けたぜ」
目の前に立っていた佐柳さんが友達と仰っていた方が笑っています。
神は言いました。人はすべからく平等であると。善き者も悪しき者も神の前では人間でしかなく、等しく救われるべき存在であると。私はそれを信じてきました。
悪であっても広い心で赦しなさい。さすれば己もまた救われる。
神は言いました。でも私は、この人を、この人たちを、赦せそうにはありません。
ずっと、ずっと信じてきたヴンダー教を裏切ることになったとしても。
祈りが天使様に届かなくなってもいい。私は、赦せない。
ポケットに入れてあったかえるさんのがま口を佐柳さんの手の平に押し込みます。
たいしたお金は入っていません。それでも私は佐柳さんに捧げました。
オムライスをご馳走してもらったお礼です。だからどうか、彼をお救いください!
「なにやってんだお前? おいっ」
汚らわしい手が私の肩を掴んで無理やり立たせました。
神よ御赦し下さい。私はあなたの教えを破ります。
振り返るのと同時に、私ははじめて、人を叩きました。
頬を強く叩いた手の平が熱いです。罪を犯した後悔は、ありません。
「あなたは、あなたたちは最低です! 私は、あなたたちを赦しません!」
声を張り上げました。自分でもこんなに声が出せたのだと驚くくらいです。
叩かれた男の人が怒って私の首に手をかけました。締めつけられてとても、苦しい。
「なめた真似してんじゃねえぞっ」
「馬鹿やめろ。これから楽しむんだから」
「そうだぞ。結構いい顔してんじゃん」
寒気がする悪魔の声が笑います。目の前の人も醜く笑って手を離しました。
「絶対に、絶対に、ゆるしま、せんっ!」
えいっ。私は思いっきり足を振り上げました。はしたなくてもかまいません。
スカートが翻ります。何か柔らかい感触のものを蹴りました。気持ちが悪いです。
でも効き目はありました。目の前の男の人はその、ええと、股の辺りを押さえて蹲りました。耳にするのも恐ろしい言葉を繰り返しながら私を睨みます。
狭い路地に男の人たちが広がりました。逃げ道はありません。
私は佐柳さんの傍に座り込んで彼の手を握りました。
私と、お母さんと、そして、自分のために大金を用意してくれた佐柳さん。
奔放なところはありますが人に優しく、努力だって出来る素晴らしい方です。
少しずつ更生してきていました。礼拝にも顔を出すようになってくれましたし、校則違反ではありましたが堅実に仕事をして、お金を稼ぐ苦労と大切さを知りました。天使様の戒めに負けず、前向き、明るく、それでも自分を捨てない、そんな人。
一緒にいて楽しいと思うようになれたのに。私を、必要としてくれたのに。
安らかな顔をしている佐柳さんは瞼をあけてくれません。
もっと私が素直になれていれば違ったのでしょうか。
神に奉仕し、誰かに尽くすことが正しい道だと信じてきました。
今も間違っていたとは思いません。でも私はあまりに、独りだったのかもしれない。
ようやく自分の気持ちに気づけた。彼の気持ちを感じることができた。
これからだったのに、それをこの人たちが。
「へっお前はそこで休んでろ。俺らで楽しむからよ」
ああ、神よ、天使よ。もしもまだ私の声を聞き届けてくれるのならば。
私はどうなっても構いません。この身も心も捧げます。
どうか、佐柳さんだけは御救い下さい。
大柄の男の人が笑いながら私のブラウスに手を伸ばします。
ぎゅっと目を瞑って佐柳さんの手を強く握りました。
「天信祷の願い、オムニ・ハヴェーダ・イェ・サロルゾーナ・フィシオが責任を持って聞き届けた」
声が、聞こえてきました。透き通っていて綺麗な声。空から降ってきたあの声。
はっと目をあけて空を見上げるとフェンスに立っているフィシオさんの姿が見えました。
爽やかな笑顔を浮かべて私の前に降り立ちます。優しく頭を撫でられてくすぐったい。
「頑張ったね、祷。あとは俺に任せてくれ」
「天使様……」
「しばらくおやすみ」
白鳥の翼を思わせる純白の羽が舞いました。急に眠くなって、意識が……。
五章四節 フィシオの断罪
「二人とも、よくやった」
俺は祷を寝かしつけて繋いだ手が離れないように二人を並べておいた。
「ずいぶん遅いご登場ね」
わあわあ喚いている男たちの背後からあの赤い女が姿を見せる。
さらにその後ろに似たり寄ったりな荒くれ者たちを引き連れていた。
二人を庇いながら俺はラウシューの燃え盛る瞳を睨みつける。
彼女は相変わらず余裕たっぷりに笑っていた。
「忠告したはずだが?」
「そうね。おかげで楽しませてもらったわ。蛮は欲望をある程度満たしてとても充実している。これからのその女の子で遊べば、みんな喜んでくれるでしょう」
「俺が見逃すと思っている口ぶりだな」
「ふふ、そうは言ってない。けど、あなた、人間に手出しできないでしょう」
まるでお姫様を守る騎士気取りだ。男たちがラウシューの周囲を固める。
なるほど。確かにこれなら不用意に攻撃できない。相手はその気になれば人間を燃やしてでも俺を攻撃できる。完璧な布陣ってわけだ。
「思ったより苦しんでないのね。ちょっと、物足りないわ。あなたの目の前でその子を穢せば、少しは楽しませてくれる?」
ラウシューが指を鳴らすと祷のブラウスを剥ごうとした大柄の男が動いた。
汚い歯を見せびらかしながら俺を素通りして彼女に触れようと手を伸ばす。
天使は人間に危害を加えてはいけない。肝心なのは“いけない”であって“できない”じゃないってところだ。俺は大男の横っ面に裏拳を叩き込む。
顎を打ち抜かれて大男は独楽のように回りながら崩れ落ちた。何殺してはいないさ。
高笑いの合唱が鳴り止む。ラウシューの顔から笑みが剥がれ落ちた。
「どういうつもり? 天使が人間に手を出していいはずがないっ」
「天使? いいや、違うね。俺は、“駄”天使だ」
にやりと最高級の笑みを悪魔にプレゼントしてやる。特別待遇だ。
危険を察知したラウシューが号令を出して傀儡となった男たちが迫り来る。
悪魔の恩恵を受けているから身体能力があがっている。頭上でやり過ごした拳が路地を作っているビルの壁にめり込んだ。すかさず蹴り飛ばす。
二階分の跳躍をして降ってきた禿頭の男の全体重を両手で受け止める。
べきっと足元に罅割れが走った。気にせず足首を持って投擲。
狭いのに殺到してくるもんだから仲間に押し倒されて悲鳴が連なった。
人間の床を踏みしめて前進しつつ襲い掛かってくる奴らを一撃で仕留める。
いくら悪魔の恩恵があっても所詮人間は人間だ。ひどく脆くて弱い。
肺を押し込まれては嗚咽をこぼし、手刀で切り払えば手首が折れてしまった。
二分も経たずにラウシューの兵隊は半分以下になった。じりじりと後退する彼女を追って路地を出る。人払いの呪いをかけてくれているおかげで遠慮しないで済んだ。
「あなた正気じゃないわよ。こんなことして」
「悪魔が説教するのか? いいからかかってこいよ。俺とヤりたいんだろ?」
用心深い女悪魔は残った男たちを一列に並べて壁を作った。
隣で震えて役に立たない蛮の唇を奪って糧を補給する。あてが外れたとはいえ殺さない程度に手加減していることには気づいているはずだ。だから盾の価値がある。
ラウシューが手をかざすと五つの炎の玉が浮かび上がった。
「苦しむ姿が見れなかったのは残念だけど。しょうがないわ」
「俺は受けよりも攻めなんでね」
悠々と歩いて近づいていく。彼女が指を振るのに合わせて炎が飛んできた。
まずは一発。距離が多少あいていても熱気を感じるだけの火力がある。
でも地獄の業火に比べたらぬるま湯だ。
俺は優雅な動作で背中の翼を広げ羽を一本引き抜いた。それを炎に向かって投げる。
羽が炎に飲まれた。ラウシューの勝ち誇った笑みが瞬間的に歪む。
ぶわっと風を唸らせて炎が掻き消え、玉を突き破った羽がラウシューの頬を裂く。
自分の血を指先で拭いながら驚愕に見開いた瞳が真実に気づいた。
「お前は、まさかっ!」
今度は三秒の間を置いて四連続。どれもこれも羽をぶつけることで無力化させる。
彼女はそれなりに情報に通じた悪魔だった。じゃなきゃ俺を“警戒しない”。
人間界に降りて活動しているのは人間の祈りを聞く天使がほとんどだ。
悪魔狩りを主とする天使はまずこんな制服姿をしていない。
おかげさまで勝手に“営業役”の天使と思い込んでくれた。それで勝てると踏んで初めて会ったときも余裕たっぷりに見せられたんだろう。
俺の見立てでは、彼女の強さはせいぜい中の下ってところだ。
あくまで情欲に訴えかけて人間を堕落させるのが悪魔としての特徴で炎は二の次。
戦闘に特化した悪魔でもない限り、負ける理由がない。
「なんでよ!?」
理解した瞬間から彼女は逃げる姿勢になった。男たちを身代わりに差し出す。
人間で足止めをして炎で焼き払う。単純だが効果的。でも遅すぎる。
どれだけ炎を生み出しても射出よりも先に俺の羽が的確に射抜いていく。
同時に通り過ぎ様に人間たちを殴り倒した。あっという間に残りは二人。
「これからが楽しいんだろう。逃げるなよ」
背を向けて走り出したラウシューの足首を羽で撃つ。地面に縫い付けられて動きが止まった。蛮は考えるのをやめて立ちすくんでいる。
ここからが本当の天罰の時間だ。俺は羽を数本毟って祈りを込める。
光が走って羽が水晶の剣に変身した。透き通っているのに向こう側が見えない、不思議な結晶体。刀身から鍔、柄、全てが光を反射して煌いている。
「天使のくせにあなたって最低ね!」
「だから教えただろう。俺は駄天使なんだよ。駄目な天使、ぴったりだ」
私利私欲で動く天使。これほど駄目な奴はいない。堕天するよりタチが悪い。
俺は棒立ちになっている蛮の前に立って剣を振りかざした。
「佐柳に礼を言えよ。一応あいつの友達だったんだからな。特別だ」
荒深蛮という人間を剣が頭上から真っ直ぐに断ち切った。
浄罪剣。名前の通り罪を浄化するための一振り。
これで斬られた者は己の罪の一切を浄化されて悪との決別を果たす。
ただこれは天使にとって最終手段だった。
強制的な浄化は本人に成長を促さない。罪が消えたという事実が残るだけだ。それでは天使が欲する糧は生まれない。悪魔に汚染されきって救いようのなくなった人間や、世界を破滅に導く類の人間だけに振るわれる、まさに断罪。
蛮は己のほとんどを否定され、奪われて、瞬く間に気を失って倒れこんだ。
柄に目をやると黒ずんでいる。これは罪を斬れば斬るほど悪に染まりいずれ砕ける。
一人残ったラウシューは羽を焼き尽くしてどうにか立ち上がっていた。
足が焼け爛れていて走れそうにもない。諦めの境地か、艶やかに口元を湿らせる。
「私の負けね。見誤ったわ。残念だけれど、大人しく狩れましょう」
悪魔にとって恐怖とは殺されることではない。彼らは愉悦のみで生きている。
たいして生に固執することなく、意外と呆気なく折れるものだ。
「何を勘違いしている? 俺は、誰も殺す気はない」
普通の天使ならここでラウシューを狩って終了だ。悪魔に情けをかける天使はいない。
もちろん、俺もその一人だ。微笑みながら浄罪剣を構える。
俺の意図を察してラウシューが叫んだ。目を見開き、歯を打ち鳴らし、恐れ怯え両手を合わせて懇願するほどに。
「お、お願い、それだけはやめて! 殺されたほうがマシよ! それがあなたの仕事でしょう!?」
「いやさ、俺は思うんだよ。あの二人を見ていると」
背後に視線を送る。フェンスによりかかって眠る仲の良い二人が見えた。
欲を捨てなくても変化し、成長し、彼女のために命を捨てられる男。
捨てたはずの欲を抱き、それでも神を敬いながら抗って彼に尽す女。
天使でもなく、悪魔でもない。あれが人間という存在だ。
俺は人間に憧れているのかもしれないな。どちらでもなく、どちらでもある彼らに。
「天使だって時には悪魔になる。悪魔だって時には天使になる。だったら悪魔だって救ってやれるんじゃないかって、試す価値はあるんじゃないかって、思うだろ?」
「思わないわよ! それだけはっ――」
悪魔にとって恐怖とは我欲を奪われることだ。愉悦を砕かれることだ。
罪を抗い綺麗になって生きるなど悪魔には考えられない。楽しめない人生は死以下。
だから俺は、忠告を破ったラウシューを罰し、同時に悪魔から救うことにした。
神は言った。赦したもう、と。
最後の力を振り絞ってラウシューが駆け出す。俺は、軽やかに跳躍して後を追った。
ふわりを体が浮かび上がり、羽ばたき一つで背中を眼前に捉える。
俺は未熟な天使だ。浄罪剣を使ったのも正直に言えばこれが初めて。
まして悪魔を浄化した天使は記録に残っていない。どうなるか、お楽しみだ。
「い、いやああああっ!」
振り返ったラウシューの顔は必死すぎて崩れていた。せっかくの美人が台無しだぞ?
容赦なく浄罪剣を振りぬく。背中を真っ二つに裂いて罪が斬り捨てられた。
さすがに悪魔の背負う罪は人間の罪とは濃度が違う。
水晶は一瞬にして黒に染まって砕け散った。人間なら何百人分にも耐えうる剣が。
破片が雨のように倒れこんだラウシューの身体に降り注ぐ。
息はあった。白目を剥いているけど鼓動は感じる。
振り返ってみれば死屍累々。いや死人は一人もいないけど。相当絞られるな。
天使界に死罪はないが俺がはじめての死刑を受けるかもいれない。
でもいい。気分が晴れやかだ。欲に従うことがこれほど清々しいとは。
それでいて俺は天使の役割も果たした。二人の願いも叶えた。
佐柳には見所がある。これからもしばらく厄介になってやろう。
そのまえに後処理しておかなきゃ。やれやれ、面倒くさい。
五章五節 オムニの憂鬱
路地に散らばった男たちをフィシオがぞんざいに一箇所に集めた。
悪魔の穢れを祓うのと記憶を消去するために魔方陣を描き、自慢の羽を一人ひとりに突き刺して短く祈りを捧げる。黒い湯気が全身から噴出して風に浚われて消えた。
最低限の処理を施したまま放置してフィシオは少年少女のもとに跪く。
そっと佐柳の左手を取った。甲に刻まれた数字は0になっていない。
寸でのところで祷ががま口を渡したからではないと、彼には分かっていた。
0になった瞬間、戒めによって佐柳には天罰が下る。
フィシオは彼の体中をまさぐった。靴を投げて靴下を脱がすと汗で張り付いた千円札を見つける。いじめられっこが不良対策に隠すような古典的な手段だった。
天使の笑い声が高らかにあがる。天使界(ライ)まで届くほどうるさい。
千円札を佐柳の手の平に突っ込んで代わりに祷のがま口を奪う。
それを彼女の手に握らせた。二人の頭に手をかざして祈る。
「うっ、ううん」
「……んっ、ここは」
二人が目を覚ました。お互いに寝ぼけ眼をこすりながら辺りを見回す。
一周して視線が絡み合う。手と手ががっしり握られることに気づく。顔が赤くなった。
「おはよう、二人とも。いい夢見れたか?」
フィシオがいうと弾かれたように二人は距離を開けた。佐柳が痛みに悲鳴をあげる。
「佐柳さんっ、大丈夫ですか!?」
「あ、ああ、くそ、いってえな……つうか、俺、どうなったんだ。なんで祷が」
「積もる話は後回しだ。祷のお母さんが気になる、病院に行こう。ついでにお前も診てもらえ。なんなら俺が治してやろうか。口づけしなきゃいけないけどな」
「絶ッッッ体ッに嫌だ」
「さあ佐柳さん、手を」
二人は恥じらいながらも寄り添って立ち上がった。よろめきながら歩いていく。
佐柳が靴を履いていないことに二人は気づく余裕がなかった。
微笑ましい光景を見送りながらフィシオが空を見上げる。
視線が泳ぎ、片隅で止まった。
「おい、ジジイッ! きこえてんだろ!」
大声を出さなくとも十分に届いていた。悪魔界(アド)にも知れ渡っているだろうに。
「あの二人は俺が見る。手ぇ出すなよっ! 分かったか!」
何様のつもりで叫んでいるのか、フィシオは自信満々に胸を張っていた。
「フィシオさん、手伝ってくださ~い!」
「やめろ祷。あいつにだけは助けられたくない」
「もう、わがまま言わないで下さいよ。私ひとりじゃ支えられません」
祷に呼ばれてフィシオは駆けて行った。残されたのは人間の山と女悪魔だけだ。
三人が過ぎ去ってしばらくしてから女悪魔が身を起こす。
誰もいないのを確かめてから手をかかげた。弱々しい火の玉が一つ、指先に灯る。
信じられないといった顔で繰り返すが結果は変わらない。悪魔の力が弱まっていた。
そこらで積み重なっている男たちを見ても情欲が沸き立たないのか、呆然としている。
「見ていなさいよ、あの駄天使ッ。この責任取ってもらうわ」
怨嗟を呟いて女悪魔も立ち去った。人払いの呪いも解けてそろそろ誰かがやってくる。
中途半端な処理を施されただけの人間を誰が見つけても大事件になるだろう。
さっそくスーツを着こなした眼鏡の女性がヒールを響かせてやってきた。
溜息を吐き続けている。人の山に向かって祈りを捧げると呻いていた声が落ち着いた。
ターリアもまた顔をあげて空を見上げて苛立たしく呟く。
「これでよろしいのですか、オムニ。私は、あの馬鹿を罰するべきだと考えます」
天使にあるまじき暴言ではあったが否定は出来ない。
しかしてフィシオが二人を救い、成長を促したのもまた、否定できない。
偶発的ではあるが悪魔に魅入られた大勢の人間を祓ったわけでもあるし、あの女悪魔にたいした行いも、今後の三界にとって大きな影響を与える。
今しばらく様子を見てやるべきだろう。空からそう言い返されてターリアはまた溜息。
「少しくらいお仕置きしても構いませんよね」
冷徹な笑顔で一人頷き、彼女もまた去っていく。
少しして意識を取り戻した男たちが一人、また一人と、晴れやかな顔で散っていった。
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