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四章一節 宝財院佐柳の思考
しおりを挟む最大収容人数四百人を誇る聖グレデンテ学園の礼拝堂に生徒たちが集う。
久しぶりに参加してみたもののこの光景には圧倒される。
何重にも並んだ長椅子に肩が触れない程度に詰めて礼儀正しく座っていた。最後尾から見ると一目瞭然で、数人の男子生徒の後姿も分かる。
隣には祷がいた。表情を引き締めた彼女は絵に描いたように美しい。
あまり見つめていると怒られそうなので祭壇に目を戻した。
祭壇の背後には天井まで届くステンドグラスがある。生徒たちの間で噂になったもんだ。空から何かが落ちてきてあれを突き破り、祭壇が破壊されたって。気を失ったカラスが落ちてきたとか、悪魔の神に対する冒涜だとか、好き勝手に言い合っていたっけな。
誰ひとりみんなが崇める天使様が墜落してきたとは考えていない。
すっかり元通りに修復されて、“実物”とは百八十度異なる綺麗な天使が微笑んでいる。
定刻になるとパイプオルガンの腹を震わせる重低音が響いた。
続いて聖歌の合唱。四百人近い歌声が重なると上手い下手を通り越した凄味がある。
礼拝慣れしたほかの生徒たちは歌詞を見ずに当たり前のように歌っているけど、休みがちな俺にそんな余裕はなく、必死になって口を動かした。アニソンなら得意なんだけどな。
座りなおしたあとはプログラムに沿って単調に……じゃなくて厳かに進行していく。
牧師様の抑揚のない説教を聞いていると自然と懺悔したい気持ちにさせられてしまう。
思い出すのは、この前のアルバイトのことだ。
知り合いに出会う可能性は分かっていたけどさ、蛮に見つかるなんて最悪じゃないか。
案の定問いただされて答えるしかなかった。もう、好きに金が使えないって。
ありゃ相当キレてたな。ぶん殴られなかったのは人目があったからかもしれない。
俺だっていつかこうなると覚悟していた。金で、友情を買ったのあの日から。
質素な生活を嫌って反発していた俺は、孤児院でもみんなの中で孤立していた。学校に行っても貧乏を馬鹿にされたり、親なしだといじめられたり、友達なんかいやしない。
それもこれも全部、金がないからだ。俺にはそうとしか思えなかった。
宝財院家に引き取られてからは人生が逆転した。そこらにはいないような超大金持ち。
親父は結婚したこともないし、子供を持ったこともない。それでいきなりそこそこ育った男の子を引き取ったんだから、どうしていいか分かんなかったんだろうなぁ。
ただただ甘やかさて、最初は疑っていた俺もその甘さが心地よくてすぐに親父に懐いた。
いや、金に懐いたっていうべきか。
中学にあがった頃には物じゃなくてお小遣いとしてお金を貰った。
千円や二千円っていうなら普通の家庭と変わらないけど、十万や二十万なら?
たちまち俺の噂は広がって友達になりたいやつらがこぞって集まってきた。
中には小学校で俺を馬鹿にしていたやつもいたっけ。俺がいじめを暴露してやるとたちまちそいつはいじめっこからいじめられっこにクラスチェンジさ。
気を良くした俺は、特に喧嘩好きで素行の悪い不良たちと絡むようになった。
リーダーだった蛮に金を渡して「友達になってくれ」と頼んだら喜んで肩を抱いてくれたな、あいつ。そんなのが『友達』っていえないのは分かっていた。分かっていても、友情は金で買えると信じていた。出なけりゃ貧乏でいじめられるはずないだろ?
羽振りよく振舞っていたおかげで俺らの関係は順調だった。
蛮たちがついていてくれるから下手に絡んでくるやつも馬鹿にするやつもいない。
好き勝手に遊びまくって金をばらまいた結果、呆れた親父が学園に俺を放り込んだ。
それでも俺と蛮の関係は続いていた。金を使って馬鹿騒ぎをすれば楽しいから。親父が仕事で失敗して全財産でも失わない限り、ずっと続くと思っていた辺り若いな、フッ。
こんな形で金を失ったら、付き合ってきた数年なんか無意味なくらい一瞬で終わった。
蛮は嘘をつくようなやつは友達じゃないって言ったが、はは、それも嘘だろ。
金の切れ目が縁の切れ目。昔の人は良いこというよ、ほんと。
欲望を満たすのには金がいる。友情を育むのだって、愛を深めるのだって、金だ。
神は言う。身に余る欲は、行き過ぎた金は、己を堕落させると。
だから清めるために神に捧げよと。ばかばかしい、それだって欲の形じゃないか。
救われたいから神に金を貢ぐのと、寂しいから友達に金を貢ぐのと、何が違う?
捨てられていた幼子の俺を救ってくれたのは孤児院のばあちゃんたちだ。
貧乏で苦しんでいた俺を救ってくれたのは大金持ちの親父だ。どっちも人間じゃないか。
空から落ちてきた駄天使だって、下手すりゃ死んじまう戒めをかけただけだ。
神が、天使が、俺の何を救ってくれたっていうんだよ。
だったら俺は金を頼って人に救ってもらう。それが一番現実的なんだ。
偉そうな説教を聞いていたらむかむかしてきた。強く握った拳が膝の上で震えている。
不意に冷たい手が腕に触れた。祷が俺を見て微笑んでいる。
そんな優しい目で俺を見るなよ。俺は、神を馬鹿にしてるっていうのに。
いや馬鹿なのは俺のほうか。金に頼りきった結果、今、こうしているんだから。
左手の甲に浮かぶ数字は着実に減ってきている。遅れてきたカードの支払いが持っていってしまった。考えなしに買ってきたからこのままじゃ支払えない月が来る。
駄天使のあてつけにアルバイトをしてみて、やっと、金の重みが分かってきた。
汗水流してティッシュを配り続けても一万円にも届かない。それだけ一万円は重い。
これまでの俺にとって一万円なんて尻を拭く紙にしても惜しくない軽さだった。
親父が苦労に苦労を重ねて手に入れた金を、俺はそうやってばら撒いていたんだ。
そりゃ天使にでも頼んで目を覚まさせたくなるよ。
でも重くたって軽くたって金は金だ。欲望を買うためにある。
命がかかっていようが不幸になろうが、俺は買いたいもんを買い、食いたいもんを食う。
ただ、その金は、自分で稼がなきゃいけない。
そうすることで俺は駄天使や親父に胸を張って笑ってみせられる。
陰ながら応援してくれる祷にありがとうって言ってやれる。
神や天使の思惑通りになってたまるか。俺は欲の塊のままでいい。
賛美歌の時間になって祷と一緒に立ち上がった。もうそろそろ礼拝も終わりだ。
いつの日か、こんな俺でも神に膝を折って懺悔する日が来るんだろうか。
もしも懺悔をするなら、そんときは祷に聞いてもらおう。
んで、代わりに神に伝えてもらえばいいんだ。彼女は天使と交信できるんだし。
間違っても今頃うちでくつろいでいる駄天使には頼まん。直接言えたとしてもな。
礼拝が終わって外に出た。ずっと背筋を伸ばしていたから体が痛い。
「うぅーん」
思いっきり背を伸ばして深呼吸。清々しい空気が美味しいもんだ。
さていつもなら遊びに繰り出すところだが生憎友達がもういない。
それにティッシュ配りのバイトがあった。何日か好きなだけ日程を入れることが出来たからこの前と今日と、ひとまず二日入れてみた。今日の仕事が終わればお給料!
「んじゃ行くか、祷」
「あっ、はい」
名前を呼ぶと慌てて駆け寄ってきた。何度も時計の針を確認している。
やっぱ日曜日には用事があるみたいだな。素直に言えばいいのに頑固なやつ。
「用事があんならそっち行けって。別に見てなくたって真面目にやるよ」
「心配しないでください。佐柳さんが終わってからでも間に合いますから」
「そういわれると心配になるんだよなー」
「無駄話していると遅刻するぞ?」
「うぉわっ。お前はまた急にでてくんな!」
俺と祷の間に駄天使が割り込んできた。いつもいつも唐突に出てきやがって。
しかし悔しいがこいつの言っていることは正しい。礼拝が終わったらすぐに駆けつけないと間に合わない。祷の様子が気になるけど、とにかく現場に急行だ!
「待ってください~」
「ほら祷、転ばないように俺が抱き上げてあげよう」
「変態天使がっ!」
走り出した俺の背後で駄天使がいやいやする祷の腰に手を回した。
急ブレーキをかけて反転。猛ダッシュの勢いで飛び蹴りを繰り出す。横合いからまともに受けて吹っ飛ぶ駄天使。地面に転がって動かず、心配して覗き込む女子生徒のスカートの中を狙っている。これが天使の現実なんだ。
「佐柳さん、暴力はいけません! 天使様になんということを」
「天使がセクハラするか?」
「うっ、それはそのぅ」
「見てみろ、あの嬉しそうな顔」
駄天使のいやらしい視線に気づいた女子生徒たちが悲鳴をあげながら去っていく。
仲間だと思われるのも癪だから祷の手を引いて走り出した。どうせあいつは追いつくさ。
二日目の仕事はだいたい順調だった。
犬に吠えられたり、やたら肩をぶつけられたり、怒鳴られたり、細かい不運は途中で数えるのが面倒になって割り切った。ひどい目にあってないだけ俺も成長したのかな?
蛮の邪魔も入らなかったから時間以内に配り終えることが出来た。
担当者のとこに報告してお給料を貰う。封筒の中には現金、キャッホー。
二日間分で一万円になった。風に奪われる軽さも、今の俺には命の重さだ。
左手の甲で確認する。戒めを受けてからはじめて金額が増えて上機嫌。
スキップなんかしちゃったりなんかして祷がいつも隠れている電柱に向かう。
せっかくだからお礼も兼ねて美味しいもんでも食いに行くか。
絶対に拒否するだろうけど初のお給料くらいぱあ~っと使いたいもんだ。
「よう、機嫌いいな」
「あれ祷は?」
待っていたのは珍しくシリアスな顔をしている駄天使だけだった。
どこを見ても彼女の姿がない。そういや用事があるんだったっけ。最初からそっちに行けばいいっていったんだけど。
にしても途中でいなくなるのは珍しい。彼女の性格上投げ出したりしないしなぁ。
放課後までついてくるわりに時間を気にしたり、落ち着かなかったりすることも多い。
「どこいったのか知らないのか?」
「さあな。慌ててから急用だろうさ。それよりせっかく金が」
「断る。祷がいないんなら帰るか」
駄天使に奢ってやる余裕なんかこれっぽっちも残っていない。
進士に連絡を入れながら俺は考えた。祷は何を抱えているんだろう。
自分のことで精一杯で彼女のことに気を回す余裕がなかった。でも、俺だって金くらい稼げるってのが証明されたんだし、ここらで少し彼女に探りを入れてみるかな。
いつも尽くされてばっかりじゃ気が悪い。俺にだって出来ることかあるかもしれないし。
本人に問いただしても心配かけまいとはぐらかすに決まっているから別の手段が必要だ。
祷、というより学園の女子生徒に詳しいやつになら一人心当たりがある。
明日にでもあいつを見つけて訊いてみるかな。
四章二節 宝財院佐柳の相談
数学の授業が終わって昼休み。淑女の皆さんも解放された喜びに笑顔でいっぱい。
祷は俺が贅沢な弁当を食べていないか、栄養に気を遣っているかを確認するべく一緒にご飯を食べようする。しかし今日ばかりは同席させるわけにはいかなかった。
「ちょっとトイレ行ってくる」
「お手洗いといってください」
トイレだけで頬を赤らめる女子高生ってどうなんだろ?
嘘をつくのに負い目もあったがまあ必要な嘘ってもんもあるんだよ、世の中。
駄天使に目配せをするとさっさと行けと顎をしゃくった。あいつに任せておけば祷も退屈しないだろう。良いか悪いかはさておいて。
俺は他のクラスを見て回って女子と楽しくお喋りしていた麗斗を見つけた。
「おい麗斗、こっちこい!」
真っ白な歯を見せつけられて女子たちがうっとりしている。
ドアまでやってきた麗斗の腕をとって引っ張っていく。万が一祷が追いかけても見つからないように校舎裏の非常階段まで連れて行った。
「なんだよ急に。もしかして愛の告白?」
「馬鹿かっ」
しなをつくって微笑みかけるのでちょっと胸が跳ねた。頭を叩きつけて誤魔化そうっと。
二人並んで階段を椅子代わりにして座った。今日のお昼は行きがけにコンビニで買った百円おにぎりが二個とお茶。切り出すのが恥ずかしくてまずおにぎりを食べる。
呼び出されておいてだんまりされちゃあ困るだろうが麗斗に気にした素振りはない。
「なあここってちょっとした穴場だって知ってる?」
「知らない。つうかこんなとこで何すんだよ」
「こんなところだからナニするのさ」
米粒を吹き出しかけてむせこんだ。お茶で洗い流して息を吐く。
「こういう学園だからね。みんなの目があるとこでイチャつけないだろ? それも女の子同士でさ。人目を避けると自然とこんな場所が人気のスポットになるんだよ」
「それも女子から聞いたのか?」
「さあ、どうだろうね」
ふふふと口元で怪しく笑う。多分、こいつ自身女子に呼び出された経験があるんだろう。
話したそうにうずうずしていたが聞いていたら休み時間が終わっちまう。
おにぎり一個を食べ終わってから俺は改めて切り出した。麗斗も薄々勘付いていたみたいで自分の話を広げずに菓子パンをかじっている。
「あのさ。お前、女子に詳しいだろ?」
「どういう意味で?」
「色々情報を持ってるんじゃないかってこと」
「スリーサイズならだいたい分かるかな。一目でね、判断できるんだ」
「んなこと訊きたいわけじゃねえよ!」
こいつ分かっていて悪ふざけしているな。俺をからかって笑ってんだ。
まあおかげで緊張が解れたけど。麗斗なりの気遣いなのかもしれない。演技をするだけあってバレないように他人の観察も怠らないやつだし。
「誰のことを知りたい? 佐柳もいよいよ恋をしたのかな。応援するよ」
「ちげえよ。あの、あれだ、祷ってどんな奴なんだ?」
ついに言ってしまった。なんだか恥ずかしさに面と向かえずがむしゃらにおにぎりを食べる。お茶を飲む。横目に麗斗が目を丸くしているのが見えた。
「いつも一緒にいるんだから佐柳のほうが詳しいんじゃないかな」
「あいつは自分のこと話さないんだよ。だからさ、どんなやつなのかなあって思って。お前ならなんか知ってるんじゃないか?」
「うぅん、知っているっても他の子に聞いたことくらいだけど、それでいいなら」
「じゃあさ。あいつってどんな家の子なんだ?」
他人にこんなことを訊くのも良いことじゃないだろうとは思う、思うよ。
でも祷には直接訊けない。そうすることで関係がぎくしゃくしても嫌だから。
麗斗は深い事情を詮索するでもなく知っていることを淡々と話してくれた。
「彼女は母子家庭らしいよ。早くにお父さんを亡くしたらしくてね。佐柳と違って裕福とはいえない暮らしだと思う。確かお母さんも今病気で入院しているらしいから。ここにも特別推薦枠とかいうので入ってきたって、前のクラスメイトの子が教えてくれたよ」
俺の思い違いが証明されちゃったな。勝手に裕福な家のお嬢様だと思っていた。
ボロボロの魔法瓶に質素な昼食、バス通学。これだけ揃えば答えはそうなるよなぁ。
もう一つの事実。お母さんが入院中って話が本当なら、時間を気にしていたのは。
疑問をぶつけてみると麗斗は軽く頷いた。菓子パンをむしってから言葉を切る。
「毎日授業が終わったあとにお見舞いに行っているって話だね。だから部活にも入っていないし、遊びに誘っても来ないからひとりぼっちだったんだって。嫌われているわけじゃないけどね。付き合いにくいっていうのかな。彼女、生真面目でしょ?」
「ああ、そうだな。ほんと、そういうやつだよ」
「でも最近は変わったってみんな言っているんだ」
「変わった?」
「そう。佐柳にくっついて回るようになってから楽しそうだってさ。よっ、憎いね!」
ぐいぐい肘が横腹に食い込んで痛い。それよりも顔の熱さが気に入らない。
これで祷がついてくるくせにそわそわしていた理由が分かった。
お母さんのお見舞いに行きたいけど、俺について見守る責任がある。
その狭間で気持ちが揺れ動いていたんだろう。なんだよ、それ、そんなのってありか?
普通、お母さんのほうが心配で大事にするだろ。
奉仕するのが勤めだからって自分の母親より俺を優先するなんて、俺ぁ許せない。
でも麗斗が聞くには俺を追い回すことが祷は楽しくもあるみたいだ。
なんでもっと自分に素直になれないんだよ、あいつは。ほんとイライラするな!
「どこに入院しているか知ってるか?」
「ストーカーじゃないんだからそこまでは知らないよ。気になるなら本人に訊けば?」
「できるわけないだろ」
「だったら尾行するしかないね。良かったら協力しようか」
学校で少ない男同士だから喋るくらいに仲がいいが、そこまで協力する義理があるか?
何か裏がある。真摯で知的な笑顔を作っているがどれだけ完璧でも演技だろ。
じぃっと目と目で通じ合って本心を探る。かさつきとは無縁の唇が近づく。
「ばっ、何すんだ!」
うっかり唇を奪われるところだった。突き飛ばすと悪気も見せずに微笑んでいる。
こいつ、本当の本当はやっぱり男好き……!?
「勘違いしないでよ。からかっただけ。協力するのは二人の仲が面白いからさ」
「冗談でもやんな!」
「はいはい。で、どうする?」
「……じゃあ頼むわ」
「よし。なら作戦を考えよう」
悪戯を考える少年のように瞳を輝かせながら残りの菓子パンを飲み込んだ。
しばらくろくでもない方法で笑いながら盛り上がったがなんとか昼休みが終わるまえに決められた。ま、単純な話さ。
放課後になったら俺と麗斗は用事があるから一緒に帰るといって祷を置いていく。
納得しないようなら麗斗が彼女の変わりに監視すると提案。あいつの演技力ならころっと騙せるだろう。その後、俺が単独で祷の後をついていくだけだ。
麗斗は何かと目立つし部活があるらしいので協力はそこまで。
尾行したところでどうなるってわけでもないんだけどな、とにかく気になる!
俺のせいでお見舞いが疎かになって困ってるんなら突き放さないといけない。
それに健全な男子高校生なら女子を追いかけるのって、ちょっとドキドキするだろ?
午後の授業中はこの作戦が上手くいくかどうかで頭がいっぱいでよく覚えていない。
途中で見つかったりなんかしたりしちゃったら軽蔑されんじゃないか。
まあ立派なストーカーだもんなぁ。いやいやこれも今後のためだ、覚悟を決めろ!
放課後、示し合わせた通りに麗斗が俺を呼びに来た。
あいつと違って俺は演技に向かないのでバレないか冷や冷やしながら話を合わせる。
疑うことを知らない祷は麗斗の提案に頷いて見送ってくれた。駄天使はお見通しのつもりなのかにやにや笑いを崩さない。邪魔さえしなけりゃなんでもいいよ。
一旦教室を出て演劇部までついていく。麗斗は期待の新人としてもてはやされていた。
「あとはうまくやりなよ。じゃあね」
「おう、ありがと」
女子生徒たちにとって麗斗は特別、俺は異物。控えめにみても歓迎されていない。
逃げ出すように部室を後にして駐車場まで駆けていった。進士に事情を相談すると彼は静かに頷いただけで聞き返してもこない。
雇い主の息子がストーカーまがいの行為をしてもお構いなしかよ。
しばらく車内でごろごろしていると祷の姿が見えたらしく進士に声をかけられた。
サイドガラスはマジックミラーになっていて外から中は見えないからバレやしない。
観察してみる。スクールバスが来るまで読書をして過ごしているようだ。本にはカバーがかかっているし、なくても見えないか。
数分してやってきたスクールバスに乗ったのを見届け、進士に尾行させる。
この前乗ったからこそ知っているんだが、スクールバスは市街の決められた場所を巡回していく。もしこのまま祷が帰宅したら自宅までついていくことになっちゃうな。
本格的なストーカーみたいで自己嫌悪に陥る。何やってんだ俺。
早くも心が折れてきたが祷は駅に近い停車場所で降りた。俺も飛び降りる。
「俺が呼ぶまでどっかで時間潰しておいて」
「かしこまりました。成功を祈っております、佐柳様」
案外この執事も子供っぽいところがあるのかも。もしくは男同士の共感みたいな?
まさか追跡されているとは祷も思うまい。後ろを振り返ることもなく歩いていく。距離をあけてわざとらしく電柱に隠れたり、曲がり角に潜んでみたりを繰り返す。
結局一度も気づかれることなく聖グレデンテ病院までやってきた。
うちの学園、病院にまで手を出していたんだ。知らなかった。
待合室には大勢の人がいる。見るからに患者な格好をした人も多いし、付き添いの家族もいた。思っていたよりも人混みになっていてうっかり祷の姿を見失う。
ええいこうなったら強硬手段だ!
「あのぅ、天信さんの病室ってどこですか?」
受付の人に尋ねてみた。最近は個人情報の管理が厳しいから簡単には教えてくれない。
お見舞いをするならこちらに記入を、とノートを差し出される。
病院の人に知られたからって困ることもない。どうせあとで祷にも話すつもりだし、俺は自分の名前を書き込んで病室を教えてもらった。
エレベーターで最上階にあがる。個室の病室のみがある静かなフロアだった。
扉の上に打ち付けられたネームプレートを確認して回る。あった、天信さゆり、これか。
さっと視線を左右に走らせる。看護婦さんもお医者さんも患者も、誰もいないな、よし。
緊張しながら取っ手に指をひっかけた。音がしないようにそぉっと横にスライドさせる。
片目で覗いてみる。ベッドに向かって座っている祷の背中が見えた。
多少遠いけど周りが静かだしなんとか喋っている声を拾えた。いよいよ罪悪感が……。
ええいここまできたら思い切れ!
ドアを少しだけ開いた状態にして壁に背中をつけて聞耳を立てた。
四章三節 宝財院佐柳の聞耳
「今日は早いのね。無理しなくていいのよ」
「ううん違うの。佐柳さんはお友達と約束があるみたいだから。それに、最近遅くなっちゃってゆっくり居られなかったし。ごめんね、お母さん」
「私は嬉しいのよ、祷」
「え……?」
「あなたがお友達と一緒にいるようになって私は嬉しい。いつも世話をしてくれるのはありがたいけれど、あなた自身にも、もっと楽しんで欲しいもの」
「そんな! お母さんが苦しくて大変なときに楽しんでなんかっ。そうすることが神に対する奉仕だと思うから……それだけだもん」
「祷。よく聞いて」
「うん」
「あなたは敬虔な信徒よ。誰よりも神を敬い、誰よりも天使を愛しているから、天にあなたの祈りが届く。それは、とても素晴らしいこと。私も誇りに思う。でもね、自分自身に嘘をつくのはよくないことよ」
「私、嘘なんかついてない」
「人は気づかないうちに嘘をつけてしまう。それは悪いことじゃないの。あなたは神に尽くすあまり、自分を見失ってしまっている。神を言い訳にしては罰があたるわ」
「お母さんは、私の嘘が分かるの?」
「ええ。お母さんはあなたのことならなんだって分かってしまうわ」
「じゃあ教えてよ。嘘なんかついていたくない」
「そうね。なら、佐柳さんのことを話してちょうだい?」
「な、なんで」
「いいからいいから。いつもみたいに何があったか聞かせて」
「……分かった。今日ね、佐柳さんが礼拝に参加してくれたんだ。いつもなら木曜日と日曜日にしか来てくれないんだけど。ずっとお願いしていたから聞いてくれたみたい」
「佐柳さんは優しい方なんでしょうね」
「私もそう思う。きっと本当は嫌だけど気を遣ってくれているんじゃないかな」
「そうかしら。彼は今日、どんな顔していた?」
「えーっと……なんだか、恥ずかしそうだったよ」
「嫌そうに見えた?」
「そうは見えなかったかな」
「ふふ。佐柳さんはあなたの熱心さに負けたんでしょうね。あなたは頑固だから」
「それってやっぱり嫌ってこと?」
「あなたが嫌いなら絶対に参加してくれないわ。そういうことでしょうね」
「どういうことか分からない」
「今はまだ気にしなくていいの。それよりあなたは佐柳さんと一緒にいるのが嫌?」
「それは、その……嫌じゃないよ」
「彼を改心させようと頑張っているのは、彼と一緒にいたいからじゃない?」
「もうお母さん! そんなわけないでしょうっ」
「ほら赤くなった。あなたは嘘をついている。だからむきになるのよ」
「……いじわる」
「素直になりなさい祷。彼の話をしてくれるようになってから、あなたは前よりも笑うようになっているのよ。自分でも気づかないうちにね。私は、楽しそうに話すあなたの顔が好き。私のために頑張ってくれるよりもそのほうが嬉しい」
「でも、でもっ、それじゃ駄目だよ。自分が楽しむことを優先するなんて、私には……」
「自分を大事に出来ない人は、他人を大事にすることなんて出来ないものよ」
「……ッ」
四章四節 宝財院佐柳の憤慨
二人の会話はまだ続いていたけど俺はドアを閉めて廊下を駆けた。
「ちょっとあなた! 走らないで!」
歳のいった看護婦の忠告を無視して全力で走る。エレベーターなんか待ってられない。
階段を慌ただしく二段飛ばしで降りていく。途中で転がり落ちそうになった。
くそっ。なんなんだよ、あいつ!
お母さんにも言われてんじゃねーかっ。
結局分かったことは祷のお母さんが入院しているっていう事実くらいだ。
あいつが何を考えていて、何を思っているのか、さっぱり分からない。
強いていうなら迷っているってことだ。お母さんに言い当てられて言葉が詰まっていた。
聞いちまったらもう気にしないではいられない。性格の問題だ。
祷にはっきりと訊いたほうがいいんだろうな。お前は、どうしたいんだって。
病院を飛び出して出入り口から門の間に置かれたベンチに座って呼吸を整える。
ここで待っていれば祷もいずれ出てくんだろう。
「盗み聞きした気分はどうだ?」
唐突に背後から聞き慣れた声が降ってくる。後ろは花壇になっていたはずなんだけど。
駄天使が振り返る手間を省いて軽がるとベンチを飛び越え、俺の前に立った。
別段驚くことじゃない。どこにいたって俺らを見ているんだろ。
「お前、知ってただろ」
天使だから嘘がつけないのか、必要がないのか、あっさりと頷いた。むかつく野郎だな。
「なんで教えないんだよ」
「訊かれなかったから、っていえば満足か?」
こいつの本業はきっと苛々させ師だな。人を馬鹿にして笑うのが趣味な陰険なやつ。
俺の許可もなく隣に座って駄天使が続ける。
「俺が教えていたらどうしたんだ、お前。祷が本当は貧乏で、入院している母親の世話を一人でしていて、それよりもお前を優先しているって知ったら、どうしたんだよ」
どうしたのか。そりゃ……どうしたんだろうな。わかんねえ。
自由に使える金があれば援助してやったかもしれない。金がない苦しみは、俺だってよく分かってるんだから。戒めを受けている今なら、精々追い払うことくらいか?
それが正しいのかどうか俺には分からない。祷が喜ぶのか、悲しむのかも。
「そういうことだ。教えたところでお前には何も出来ない。金があってもだ」
「お前、一応天使なんだろ。祷の信仰心のおかげで生きているってんなら、助けてやれよ」
「無理だ。自分自身の幸福のために祈るやつに、神は手を貸さない」
「ふざけんな!!」
突然あげた大声に通行人がぎょっとして振り返る。今にも殴りかかりそうに立ち上がった俺を見て、駄天使はにこやかに笑った。なんでもないよ、と伝えるように。
「なんで自分のために祈ったらいけないんだよ! 自分のお母さんが救われるように祈るのと、人のために祈るのと、何が違うんだ!?」
「自分のためっていうのは己の欲望を果たすことだ。そういうのは、悪魔の管轄」
「だったら天使(おまえら)は悪魔以下の役立たずだ」
「……そうだろうな」
涼しげな顔で無視するか偉そうに説教垂れるかと思えば真面目な顔で下を向いた。
強く噛んだ唇から血が流れる。赤いんだな、天使の血って。意外な気がする。
なんだか毒気を抜かれちまった。こんな駄天使気味が悪い。
人の命を賭けて更生させるような不良天使に八つ当たりしてもしかたないか。
じゃあどうすりゃいい? 簡単だ、天使なんかに頼らないで人間が助ければいいんだ。
俺を救ってくれたのはばあちゃんだし、親父だし、それに多分、祷だ。
「祷のお母さんはどんな具合なんだ。悪いのか?」
「ああ。この前の日曜日、途中で帰っただろう。あれはお母さんの体調が悪化したって連絡が入ったからだ。結構重い病気らしい。早いうちに手術をすれば助かる見込みはあるが、いかんせん難しい手術で金がかかる。祷には、そんな金を集める伝手がない」
ああくそっ。また金かよ。世の中金金金、命だって金で決まる!
そうさ。だから俺は貧乏が憎かった。金持ちになって調子に乗った。
なのに一番金が要るときに限って貧乏に逆戻りしてんだよ俺は……。
実際幾らくらいかかるのかこいつは知ってんだろうか。
今になってぺらぺら喋るようになったのはなんだ。悪魔以下って言われて結構傷ついているのかな。軽薄な面しておいて実は繊細だなんていうなよ。
「どうして俺に話した?」
「訊かれたから、っていえば満足か?」
「お前な」
「佐柳、さん? それに、フィシオさんも?」
舌引っこ抜いてやろうかと思ったらお見舞いを終えた祷が通りがかった。
どうしてここにって顔してるな。目が丸くなってる。間の悪いことで。
「お、おう」
「どこか具合でも悪いのですか?」
あ、そういう方向に受け取るか。尾行されたなんて考えるはずないか。
もごもご口を動かしているうちに駄天使が盛大にネタバラしをした。
「佐柳は祷のことが心配で後をつけていたんだよ」
「え……?」
「悪ぃ。その、お前とお母さんの話、聞いちまった」
どの道話すつもりだったんだから好都合だ。どんなときでも前向きが信条っ。
駄天使が席をあけて祷に譲った。気まずそうな彼女の顔を見ていられない。
「なんで教えてくれなかったんだ?」
「すみません。お話したらご心配をかけるだろうと、その、思いました」
「そりゃ心配するよ。俺のことなんかより、お母さんのほうが大事だろ?」
「それはっその」
「意地悪するなよ、佐柳。みっともないぞ」
余計な口挟むんじゃない。二人とも顔が赤くなって反対に首を向けるしかないだろ!
もういい前置きはこれくらいでいいや。彼女の本心を引きずり出してやる。
「祷はさ、本当はどうしたいんだ?」
「どうしたい……」
「俺を更生させることが神に対する奉仕の一環だからか? お母さんのお見舞いを優先したいけど、そうしなきゃいけないって使命感か? それとも……楽しい、から?」
盗み聞きをしてなかったから祷が楽しいと感じているなんて思わなかっただろうな。
誰かに尽くすことが生き甲斐っていうか、当たり前なんだろう。そう俺は考えていた。
楽しいなんて感情を持っていることだって驚きなくらい。
欲望を一切捨てきったら嬉しいや楽しいって気持ちだって神に捧げていそうだから。
祷からの返事はなかった。恐る恐る首を回していって横顔をちらり。
寂しそうに下がる目尻。小さな唇がきつく一文字に結ばれている。膝の上に置いた可愛らしい拳がかすかにだけど震えていた。彼女も、悩んでいるんだ。
ここで追求したらいじめているみたいで、俺は黙って視線を泳がせる。
「げっ」
そんな言葉が自然に零れちゃうくらい会いたくない奴が正門からこっちに近づいてきた。
なんで蛮が病院なんかに来てるんだ。喧嘩でもして怪我したのか?
違うな。だってはっきりとした足取りで一直線に俺のところに来たもの。
これも戒めの不幸不運の一つってんならやんなっちゃう。
「よう佐柳。こんなところで女とデートか? しけてんなおい」
有無を言わさず首根っこを掴んで持ち上げた。おいおいこんな怪力だったか!?
ぎりぎりと締めつけられて息が詰まる。つま先が宙に浮いてぷらんぷらん。
祷が悲鳴をあげて立ち上がった。蛮の腕に細腕を絡ませて必死に俺を助けようとする。
「何をするのですか! やめてください、佐柳さんを離しなさいっ!」
「へえ、結構いい女じゃん。佐柳にはもったいねー」
空いた手を祷に伸ばす。ふざけてんじゃねえぞこの野郎!
思いっきり膝を振り上げて腹を蹴る。鉄板かよってくらい硬くてむしろ痛い。
気を引くことに成功しただけでよしとしよう。おかげで花壇に投げ飛ばされたけど。
背中で可愛げな花たちを押しつぶした。謝る余裕もないくらいに痺れる。くそっ。
「どうしてこのようなことをするのですか!?」
「俺と佐柳は友達なんだよ。これくらいは遊びだ遊び、なあ?」
「げほっげほっ。あ、ああ、そうだな。よく、やってた、遊びだよ」
そんなわけないだろと自分で自分につっこんでやりたい。
俺は土を払いながら立ち上がった。なんでもないように笑ってみせたが頬が引き攣る。
一番傍観してちゃいけない駄天使様は腕組みをして観戦していた。働けや。
「俺になんか用?」
「金よこせ」
「だから今は」
「あるだけよこせ。約束だろ、な? 足りない分は、またもらいにくるわ」
「あなたいい加減に――」
「ああ、金の代わりにこの女でもいいわ。楽しめそうだから」
蛮が邪悪としか言いようのない笑みを浮かべた。人間の口ってそんなに裂けないだろ普通。ヤニで汚れた歯は気のせいか先が尖っていた。
身の危険を感じた祷が後ずさる。いやらしくわさわさ動く指が、胸元に伸びていく。
「やるよ、やるから彼女に手ぇ出すな。関係ないだろ」
間に割り込んで両手を広げる。女の子を庇うなんて夢見たいだが悔しいけど現実だ。
せっかく汗水流して稼いだ一万円を財布から抜いて押しつける。現金はこれしかない。
蛮はあからさまに不満げだったが鼻を鳴らして雑にポケットに突っ込んだ。
「いいな。次はちゃんと用意しておけ。じゃなきゃ、可愛い彼女、ヤっちまうぞ」
下品な笑い声を響かせて遠ざかっていく。そういえばいつもいる子分の姿がない。
つうか通行人はどうして無視するの? 日本ってこんなに冷たい国だっけ?
まるで俺たちが見えていないみたいだった。誰ひとり声をかけるでもなく、慌てて遠ざかるでもなく、警備員を呼ぶでもなく、すました顔で行き来している。
「大丈夫? 悪いな、なんか、巻き込んじまって」
「私は平気です。お怪我はありませんか? あの方はなんと酷い人なのでしょうか。信じられません」
彼女の怒っている顔を見るのは初めてかもしれないな。
説教をしているときだって真面目ではあるけど怒っているって感じじゃない。
はっきりと侮蔑の感情を出しているのは、蛮が神に裁かれそうな不良だからなのか。
にしてもあいつ、様子がおかしくなかった。俺が言えたことじゃないけどさ、金に汚いにしてもあそこまでしなかったぞ。人目だって、一応あるんだし。
それまで押し黙っていた駄天使がようやく口を開いた。やけに、深刻な感じで。
「あいつ、前からあんな感じだったのか?」
「あそこまで酷くなかったよ。俺の金があてに出来なくてよっぽど腹だったんだろうな」
自業自得だよなこれだって。金で友情を買ったりするからこんな目にだってあう。
なんでも戒めのせいにしてしょうがないと思っちゃいけない。これも成長の証なのかね。
さて仕切りなおしだ。これじゃ落ち着いて話もできない。祷もぷんぷんしている。
「祷、お前、好きな食べ物なに?」
「ふぇ?」
唐突な質問に俺の体をあちこち触って確かめていた祷が気の抜けた声を出す。
胸板に柔らかい手の平の感触。上目遣いはやばい。
「だーかーら。好きな食べ物なにかってきいてんの」
「えーとそうですね……オムライス、かな」
「よし。じゃあうちでご馳走するから行くぞ」
「はあ、わかりぇえぇっ!? そん、そんなのはいけません!」
「いけなくない。俺に黙っていた罰と日頃のお礼。来てくんないなら絶交な」
小学生じゃないんだから。我ながら呆れるが彼女には効果抜群だ。
奉仕できなければ神に顔向けが出来ず、もしも楽しいと思っているならそれだってなくなる。悲しい顔になればお見舞いにいってもお母さんが心配してしまう。
おどおどしながらぶつぶつ呟いている様を観察しながら進士に電話を入れる。
「聖グレデンテ病院まで迎えにきてくれ。あと、オムライス作っておくように伝えておいて、二人分ね。祷つれてくから。いいでしょ。うん、ああ、よろしく」
「彼女に変なことするなよ? 俺は、少しやることがある」
お前じゃあるまいしと言ってやろうと思ったらもう姿がない。はっと顔をあげると白い翼を羽ばたかせてどこかに飛んでいく姿が、だんだんと薄くなって消えた。
便利だな、天使って。祷もあいつを見送っていた。
「やることってなんでしょうね?」
「さあ。ナンパじゃないか」
「天っ、天使様がそんなことを……」
「もう諦めろって。あれが天使なんだから」
細い肩を落としたところを見ると、やっぱり認めたくないんだな。
四章五節 フィシオの洞察
適当な高さのマンションの屋上に降り立って街を見下ろす。
思いのほか早く荒深蛮の姿を見つけられた。肩を怒らせ、通行人にガンくれてる。
手を眉に当てて目を細める。見えるには見えるが分かりにくい。
信仰心を回収したり、救うべき哀れな者を探し出す天使ならもっと遠くまで、もっと鮮明に見渡すことが出来るのだが。
以前、佐柳のアルバイト中に見かけたときも一目でどうしようもないのが分かった。
欲望が芯まで染み込んでいて脳みそは悪徳に支配されている。それでも人間の範疇だ。
今日目の前に現れた荒深蛮は、彼であって彼でない。
佐柳も違和感には気づいていようだ。通行人が誰ひとり彼らを気にしなかったのは、“そういう風に”なるよう仕向けられていたからだ。こんなことが出来るのは天使か、悪魔か。
俺の瞳に映る彼の全身から赤色の瘴気が立ち昇っている。悪魔に魅入られている証明だ。
天使が依り代を必要とするように、悪魔も人間を依り代に選ぶ。
かといって同類と思われるのは心外だ。天使はあくまで人間界(ゲン)での活動を維持するために、糧を分けてもらっているに過ぎない。それに比べて悪魔は勝手に搾り取る。同意もなく気に入った、あるいは、無差別に、人間を選んで虜にしてしまう。
そこから先は個人差だ。吸い尽くして捨てる奴もいれば、人間の欲望を聞き入れ叶えてやることで肥え太らせる奴もいるし、下僕にして操る奴だっている。
さてあいつの背後にいる悪魔はどんな悪魔だろうか。面を拝んでやろう。
蛮は人目の届かない暗がりの小道を選んで袋小路を進んでいく。
いかにも吹き溜まりが集いそうな陰湿な一画だ。落書きと廃墟じみたビルばかり。
ここいらで悪魔駆除の仕事が発生したという話は聞いていない。恐らく調整の関係でまだ手を出すつもりがないのだろう。気づいていないとは考えにくい。
ことこの街、正確に言えば聖グレデンテ学園には優秀な天使がついている。
事と次第によっては後々お偉いさんから小言の一つや二つは受けるだろうな。
気にする必要はない。規則破りは慣れたものだ。翼を広げて縁を蹴って空に舞い上がる。
天候は快晴。肌を差す日差しは熱く、吹き抜ける風は心地が良い。
地べたを歩き回るしか出来ない人間が天使に憧れるのは、翼に一因があるに違いない。
俺は真っ逆さまに急降下して蛮が吸い込まれた安っぽいバーの看板前に着地した。
くるりと一回転して翼をしまいつつ埃が飛ばないくらいの優しさで踵から爪先をつける。
我ながら完璧な流れだ。観客がいれば拍手喝采だろうが、相手が悪魔では期待できない。
「意外なお客様ね」
蛮と入れ違いで地下からあがってきたのは真っ赤な女だった。
燃え盛る炎が細かく裂けたような髪に、紅蓮の瞳。値踏みをするように上下に動く。背丈は俺より拳ひとつ低いくらいの長身で皮膚のようなライダースーツから豊満な胸が溢れている。褐色の肌が扇情的な容姿を際立たせていた。
人間の女だったなら生唾ものでも悪魔となれば話は別。笑顔を見せてやる価値もない。
「中々度胸があるようだな。逃げも隠れもしない、か」
「ふふ。天使と悪魔の暗黙の了解があるでしょう? 今、あなたたちは悪魔を狩れない」
自信の根拠はそれか。狡賢い女だ。よく事情を知っている。
人間と同じで悪魔にも頭が回る奴と空っぽな奴がいる。後者なら天使に気づいても恐れてすぐに逃げ出すか、やけくそになって襲ってくるだけだ。天使が一定量の悪魔を見逃していることを知っているのは、当然、前者だ。これが厄介。
もっともそれは“普通の”天使にしか当てはまらない。
「あなた、男前ね。私はラウシュー。よければ名前を教えて?」
濃厚なルージュを引いた肉厚の唇が怪しく蠢く。人間なら軽く堕ちる魔性の笑み。
「礼儀正しい悪魔だ。俺はフィシオ。短い付き合いになるがよろしく」
言い様、俺は跳躍した。足元が爆発してコンクリートが罅割れて弾け飛ぶ。
容赦なく握り拳をご自慢の美貌に叩き込む。触れる寸でのところで頭が下がった。
どうやら心得があるようだ。突き上げられたブーツの爪先が顎先をかすめる。
一見して細い足首を無造作に掴んで振り上げる。硬い感触に女らしさはない。片腕の力だけでぶん投げた。宙で肉付きのいい身体を窮屈に捻って綺麗な回転を描く。
猫のようにしなやかな動きで四つんばいになって着地。微妙な距離があいた。
「大胆ね。そういうの、好き」
「そりゃどうも」
不意な熱気が頬を焦がした。空気が膨張して吸い込んだだけで喉がひりつく。
ラウシューの周囲に五つの火の玉が浮かんでいた。彼女の呼吸に合わせて火花を散らし、伸縮を繰り返す。悪魔の厄介なところその1、破壊的な能力を有する場合が多い。
この女は炎を操れるようだ。指先に火の玉を乗せて愛おしそうに撫でている。
「でも、天使が嘘をつくのは関心できないわね」
「悪魔が天使の言うことを信じるのか?」
「それもそうね。あなたの望みはなにかしら。私とヤりたい?」
俺の望みか。そう言われると困る。
荒深蛮に悪魔の影が見えたから追いかけてきたものの、どうしようとは考えていない。
殴りかかったのも実力を測るためだ。本気で抵抗してくるようなら狩ってしまうつもりだったが、案外用心深く隙を見せない。
あえて手の内を晒したのも牽制のつもりだ。あの炎は周囲に甚大な影響を及ぼす。
バーにたむろっている人間は天使にとって最も価値が高く、最も価値が低い連中だ。
改心させられれば得られる糧が多い反面、まず普通の手段では改心させられない。
こうして悪魔を育む温床にもなるので戦闘の余波で死亡しても事故で片付けられる。なんてことはなくどんな人間であろうと身を挺してでも守らなければいけない。
天使と悪魔の抗争に人間を巻き込むことは、天使にとっての禁忌だった。
悪魔のほうはそんなことを考慮する必要がないから平気で人質に使う。
ラウシューの狙いもそこだ。炎をちらつかせれば下手に動けないと踏んでいる。
そしてそれは正しい。しょうがない、忠告のひとつで済ませておくか。
「こっちにもこっちの事情がある。見逃してやる代わりに荒深蛮を開放しろ」
「えこひいきはよくなくてよ。私の虜になってる人間の数、教えましょうか?」
「興味ない。蛮に関わられると面倒なんだ。あいつを手放せば見逃してやる」
「悪魔が天使の言うことに従うと思う?」
うまいこと言い返されたな。照れくさくてちょっと焦げた頬を爪で引っかいて剥がす。
蛮が佐柳と祷に手出しをしなければこの悪魔に関わる必要もないんだが。ジジイのつまらないやり方のせいで天使は舐められっぱなしだ。この女、負けるとは考えていない。
「ま、言うだけは言った。蛮が厄介事を起こしたら狩らせてもらう」
「優しい天使様ね。ありがとう」
余裕の現われか艶やかに笑いながら炎を握り潰した。
隙を見せつけながら腰をくねらせ投げキッスを残してバーに降りていく。
乗り込んで一気に仕事を果たしてもいい。そのほうがすっきりするし気が楽だ。
それでも俺が翼を広げて空に飛び上がったのは、佐柳の行く末を見届けたいからだろう。
不幸の芽を摘み取ることは簡単だが俺は佐柳がどう抗うのかが知りたい。
理不尽な状況にもめげずに前向きに歯向かっていく。成長しながら欲望を捨てない男。
あの女悪魔、ラウシューはきっと面白い玩具を手に入れたと今頃喜んでいるはずだ。
悪魔ってのは根本的には単純で楽しければいいって存在だ。天使に嫌がらせをすることは至極の遊びでもある。
放っておいても蛮をけしかけるのが、人間風に言うなら火を見るより明らかだ。
分かったうえで放置。天使なんていうのはこんなもの。
宝財院佐柳の生き様に興味がある。天信祷の変化に興味がある。
この二人の結末に、興味がある。ただ、それだけだ。
四章六節 ラウシューの愉悦
「これで足りると思ってんのかっ!!」
人を殴る時の音はどんな音楽よりも音色が綺麗。
天使や悪魔と違って人間は絶妙な脆さ。私たちが少し力んだだけで拉げてしまうけれど、同じ人間が殴る分にはちょうどいい。死なず、壊れず、打撃音がリズムを刻む。
ワン、トゥ、ワン、トゥ。禿頭で小太りな醜悪な男が蛮の顔を容赦なく殴りつけていた。
時に腹を蹴り上げ、時に突き飛ばし、よろめきながら立ち上がった彼を追い詰める。
放っておけば小太りな男は彼が死ぬまで音楽を奏でてしまう。
そうなるように私が欲望を抑えていた理性っていう枷を取り外してしまったから。
「それくらいにしてあげなさい。可愛い顔が台無しよ」
「姐さんっ。すいません」
緩みきった視線が盛り上がった胸に注がれる。触りたくてしかたがない、そうね?
でも醜い男は道具でしかない。私は血塗れで喘いでいる蛮を優しく抱きしめた。
棄てられたバーに集まった男たちの中で嫉妬と憎悪が渦を巻く。素直でよろしい。
満たされていくのを全身で感じながら蛮の頭を撫でてあげる。若い子は好きよ。
次第に息が落ち着いていって殴られた跡も引いていった。離れようとしないで腰に手を回してくる。欲望に忠実なのは嬉しいのだけれどまだ、早い。
「てめえ何してんだっ」
堪りかねた小太りな男が私から蛮を奪い取って放り投げる。くたびれたテーブルを真っ二つに割りながら埃が層になった床とキス。ああもったいない。
天使が彼を尾行してきたのは意外だったけれど、おかげで面白いことを知れた。
蛮の欲望を果たそうとすればあの天使、フィシオとか言ったかしら。彼が困ってくれる。
悪魔にとって天使を怒らせ、苦汁を飲ませるのは何にも勝る快楽。
まして私がそそられる美貌を持っているのなら遊ばない手はないでしょう?
しばらくはここにいる奴隷たちから搾り取れるけれど面白みがなくちゃ生き甲斐がない。
「蛮、今日は何をしてきたの?」
聞かなくても虜にしていれば頭の中を覗くことも出来る。そうしないのは戯れ。
ふらふらと起き上がった蛮は切れた唇に滲む血を拭いながら、私の胸を見て言った。
「知り合いんとこいって金を巻き上げてきました」
「その子の名前は?」
「宝財院佐柳」
「彼の傍に私に劣らないくらい美しい男がいなかったかしら」
周りの不細工たちの目に動揺が走る。ライバルは一人でも少ないほうがご褒美にありつける。豚や馬みたいな面で私を抱けると思っているなんて可哀想に。
その欲望を際限なく高めて糧にしているのは私なのだけれどね、ふふ。
蛮は首を捻りながら必死に思い出そうとしていた。私の期待に応えるべく。
人払いの呪いをかけていたから目標の相手以外は本来、視界にも入らないはず。
もしも見えているとすれば相手が特別だって証拠。
「ええとああ、はい、男が一人と、女もいました。あいつ俺に黙って女なんかつくりやがって。金出せないのだって、女のために使ってるからに違いねぇ、くそがっ」
男っていうのは天使のフィシオだとしても、女も?
これはこれは面白くなりそう。その女はきっと天使の依り代なのでしょう。
でなければ蛮が気づくことも、相手が気づくこともない。依り代となった人間は少なからず影響を受けてしまうもの。私にとってのこの子たちのように。
「そう。蛮、あなたは宝財院佐柳が憎い?」
「あったりまえです!」
「いい子ね。ならその欲望、解き放ちなさい。その彼と彼女を貶めなさい」
「はいっ」
ああいやだ、私ったら。考えただけで身体が熱くなってしまう。
あの綺麗な顔が歪むところを思い浮かべただけで……はぁ。我慢しなきゃ。
お楽しみはこれから。その時のために先払いで蛮を楽しませてあげましょう。
いくつもの瞳が悔しげに蛮の唇を貪る私の横顔を見ている。手を触れた彼の胸が破裂しそうなくらい鼓動を早めた。強気なフリをしていてもやっぱり子供ね。
彼の腕を胸に埋めさせて強引に店の奥に連れ込んだ。ここは私の部屋。
怒りと憎しみを積み上げさせることで彼らの使い道も増えるでしょう。
本当は、自分の昂ぶりを収めたいだけ。悪魔は、自分の欲に素直でなくちゃ。
四章七節 宝財院佐柳の食卓
「こここ、ここ、ぜん、全部、佐柳さんの……」
「俺のっていうか親父のな」
祷はサイドガラスに齧りついて延々と続くうちの敷地を眺めていた。
正門の鉄扉を抜けてからしばらくなだらかな道が続く。庭っていうには広大すぎる範囲にびっちり芝生が敷かれている。端っこには雑に植えられた木々が寄り添っていた。運転する気もない高級車が観賞用に一列に並べられていて、反対側には一日中水を吹いて吸い込んでを繰り返している噴水がある。
「あっ、ワンちゃん! あっちにも、こっちにも、何匹飼っているのですか!?」
彼女が嬉しそうにはしゃいでいて連れて来た甲斐があるってもんだ。
庭に野放しにされた犬の数は俺も把握できていない。気づいたら数が増えてるんだもん。
他にも猫や鳥、馬、トカゲも蛇も、亀に魚などなど飼えそうなものは一通り飼っている。
俺を引き取るまで独身貴族だった親父のささやかな家族ってわけだ。
もっとも世話をしているのは使用人たちだけど。彼らの仕事の大半が動物の世話だ。ここからは見えないけど自宅の裏に巨大な生簀もある。やることは盛りだくさん。
おかげで住み込みで働いてもらわなきゃいけないから彼らのための宿舎も建てていた。
良くもまあ土地不足の日本でこれだけ確保したもんだ。金が有り余っているだけはある。
アクション映画のマフィアが住んでいそうな西洋風の建物の前で車が停まった。
進士がドアを開ける。恐縮しきった祷がしきりにお礼を言いながら先に下りた。続いて俺も。ゴールデンレトリーバーが猛ダッシュで駆け寄ってきて俺にタックルをかます。
「ぐえっ」
押し倒されたまま顔中を嘗め回される。犬は好きだけどさすがに息苦しい。臭い。
「ひゃっ!?」
隣で祷も歓迎の挨拶を受けていた。あっちはラブラドールレトリーバーだな。
鼻先をスカートに押しつけられて固まっている。くんくん鼻を鳴らして嗅ぎ回られて赤面して慌てふためく。追い払えないからごまかすように頭を撫でた。
そんな俺らの微笑ましい様子を見て穏やかな顔をしていた進士がようやく引き離す。
助けるならさっさと助けろってば。俺の一瞥を華麗にスルー。
「お食事のご用意が整っておりますので、そのまま食堂の方へどうぞ」
「ありがと。いくぞ、祷」
「ひゃひゃいっ」
差し出した手を涎が滴るくらいに嘗め回されてへんな声が出ていた。顔も赤くなるわな。
古臭い木製の両開きの巨大な扉。開けるにはずいぶんな力がいそうだがこれ、はりぼて。
取っ手のところに指紋認証装置がついていて特定の人間しか自宅には入れない。
見た目は親父の趣味に合わせて趣を重視しているが中身はどこまでも最新式なんだよね。
俺の指紋を読み取って重厚な扉が軋みながら勝手に内側に開く。
「すごい……」
玄関に入った祷の第一声。心の声がこぼれている。
まず飛び込んでくるのが天井からぶら下がっている馬鹿みたいにでかいシャンデリア。明るすぎて視力が落ちそうだ。足元にはペルシャ絨毯が敷かれていて踏み心地が良い。
広間の両脇にゆるく湾曲した階段があって二階まで伸びている。いかにもって感じだ。
無駄に西洋甲冑が飾られていたり、高価なんだろうなって感想しか抱かない絵画が廊下や階段の壁にくくりつけられている。無駄遣いは親父から受け継いだなきっと。
目を丸くしている祷の手を引っ張って奥の扉を抜ける。見掛け倒しの自動ドア。
廊下を曲がってまたえらく飾った豪華な扉が左右にスライドする。
「このようなところでお食事をしているのですか?」
食堂もまた映画の切り抜きだ。何メートルあるかも分からない長ったらしいテーブルに背もたれが高い椅子が等間隔に置かれている。最高級のテーブルクロスの上には売ればちょっとした小遣いになる食器と燭台があった。
「いんや、ここは飾り。あっちだよ」
指差したのは部屋の隅っこにある普通の扉だ。こんなところで飯食っても美味くない。
俺が来てからしばらく、親父は一緒にご飯を食べることにこだわった。こだわったんだが、テーブルが長すぎて会話もままならない。傍に座ったら座ったで違和感がある。
そこで俺が普通の食卓を提案したところ、使用人の休憩室を奪い取って改装した。
小部屋は一般家庭のリビングを模した造りになっている。四人座れば窮屈な質素なテーブルと椅子、薄型テレビにゲーム機、ソファや雑誌がそれっぽく配置されていた。
親父が家庭的なドラマを研究した結果がこれらしい。まあ、あっちよりはマシだな。
既にテーブルにはオムライスとスープが二人分用意されていた。水差しもある。
見た目ばかりのキッチンとジュースしか入っていない冷蔵庫もあるので、俺はそこからお気に入りの瓶コーラを手にとってテーブルに着いた。
「なにぼーっとしてんだよ、座れって」
「あ、ああ、はい、その、圧倒されていまいまして、その、すごいですね」
大抵の人間は同じ反応をするだろう。連れて来たのは祷が初めてだけど。
金で買った友達を連れ込む勇気はなかった。親父と鉢合わせしたらどうなるかが怖かったから。祷なら面識がないわけでもないし一安心。
「んじゃ食べるか。いただ」
「駄目です、佐柳さん。食前の祈りを済ませてからではないと手をつけてはいけません」
しまった。そのことを忘れていた。湯気を立てているうちに食べたいのに!
「祷、日本の祈りは『いただきます』で十分なんだよ。だか」
「駄目です。私たちはヴンダー教の信徒なのですよ? そちらに則るべきなのです。私が行いますから、真似してくださいね」
「はいはい」
「はいは一回です」
「……はい」
こうなると祷は譲らない。先ほどの緊張が嘘のように淀みなく祈りを唱える。
歯向かってもオムライスとスープが冷めるだけだったから大人しく真似して唱えてみた。
最後の一節を言い終え、二人で声を重ねて『いただきます』
これはこれで言うんだよな。
食べながら喋るとまた祷がうるさいので俺は黙々とスプーンを動かした。
斜めに切り込んで半熟卵とケチャップライスを同時に掬い上げて口に運ぶ。美味い。
スープは薄味のコンソメだ。オムライスの味が濃いので均整がとれている。
一流の料理人が作っているんだからまずいはずがない。俺は満足気に食べ続けた。
祷も喜んでくれるだろう。目をあげてみると彼女はなぜか寂しそうな顔をしている。
一口食べたままスプーンが止まっていた。まさか口に合わない?
「まずかった?」
「とんでもないっ。とても、とても美味しいです」
「じゃあなんでそんな辛そうな顔してんだよ」
「……お母さんの味を思い出していました。こんなに具沢山ではなかったし、スープもありませんでした。でもやっぱり、お母さんの味が、一番かなって……」
しみじみと言われてしまった。一流の料理人でも母の味には勝てない、か。
俺は母の味を知らない。気づいたときには捨てられていた。拾ってくれたばあちゃんの手料理はこう、母の味じゃないんだよなぁ。貧乏の味って記憶しかない。
親父も気にしたのか『母の味』っぽいものを頑張って用意してくれようとした。
肉じゃがだとかカレーだとかハンバーグだとか。どれも美味いけど、なんか違う。
祷がお母さんの味を恋しがるのも当然だ。ずっと入院しているんだから。
選んだ料理がまずかったかな、こりゃ。俺もしょぼくれてスプーンが止まってしまう。
「あああ、その、失礼しました。とても美味しいですよ? 私、これ、大好きです」
なにやら勘違いした祷が満面の笑みを浮かべてオムライスを再び食べ始めた。
優しいな、こいつは。俺なんかてんで駄目だ。人助けの真似事なんかするからこうなる。
「気にすんな。お母さんの味が一番に決まってるよ」
「佐柳さんはどんな手料理がお好きなのですか?」
そうか。祷は親父のことは知っていてもうちの家庭のことを知っているわけじゃない。
言うか言わないか迷ったけど、彼女の本音を知るために俺も曝け出そう。
「俺さ、小さい頃に捨てられてたんだ。だから本当の親のことは何も知らない」
「あっ……ごめんなさい、私、その、何も知らなくて……」
「言ってなかったからな。それに別に気にしてないよ。ただ、お母さんの味ってのは憧れる。いつも一流の飯が食べられてんのに何いってんのって思うかもしれないけど、やっぱ、なんか違うんだよな。祷がそう感じたのも分かるよ」
気まずい空気がどこからともなく忍び込んできて大の字で寝ていやがる。
俺も彼女もオムライスを口に運んでは、何か言おうとして言葉が詰まった。
綺麗に平らげてからコーラを一気に飲み干す。気分爽快。もう一度本題に入ろう。
「なあ祷。もう一回訊くけどさ、お前、本当はどうしたいんだ?」
口に運ばれていく途中のスプーンが宙で止まる。半熟卵がふるふる揺れた。
「私は……私には、分かりません」
そう呟いてスプーンを下ろす。俯いた視線がテーブルの中心で固定される。
「お母さんのことが心配なのも、佐柳さんに更生していただきたいのも、本心です。どちらがより大事かは決められません」
「俺と一緒にいるのは奉仕のためだけか? それとも――」
俺の言葉尻に祷の言葉が重なる。顔をあげて俺を真正面から見つめていた。
「楽しい、からだと思い、ます。一緒にいると、とても心地がよくて、楽しいと、そう、思うようになりました。でもそれは、それは……罰当たりな気がするのです。お母さんが苦しんでいるのに、神に奉仕をしている身なのに、楽しんでいると感じることは罪なことです。神に尽くしていることだけが、幸福なのだと、教えにもありますから」
「お前のお母さんは、楽しそうな祷の顔が好きって、言っていたよな」
「はい」
「自分が楽しむことで、お母さんの苦しみだって和らぐんだ。それが罰当たりなのか? それが罪だってお前の信じる神様は言うのか? それでもお前は満足なのかよ」
ただひたすら盲目的に信じてきたものを否定しなければいけない気持ち。
彼女の信じる彼女は、楽しみも喜びも捨てて心身を捧げた信徒なんだ。
同時に年頃の高校生でもある。だからこいつのお母さんは、ああやっていったんだと俺は思う。祷だって分かっているはずだ。吹っ切れないだけで。
「駄天使見てみろよ。あいつだって楽しんでるだろ、女の子の尻追いかけて。崇める対象がああなのに、お前が苦しんでどうすんだ」
傍には生き証人がいる。生真面目に信奉するのが馬鹿らしくなる天使様が。
でも祷は吹っ切れない。三つ編みのおさげが二つ、顔の横で揺れていた。
俺は身を乗り出して祷の手を取った。自然と目と目が合う。
「お母さんの病気が治って退院できたら、お前ももっと楽しめるのか?」
「それは――」
「俺が更生しちゃったらお前はもう、一緒にいてくれないのか?」
「……佐柳さん。あの、その、ここ、これは、あの、ええと、あんまり、あの、いけな」
「どっちなのか答えろよ」
決断を迫る。彼女の答えによって俺の行動の仕方が変わるんだから。
祷は震える唇を閉じては開き、開いては目を逸らし、手を引っこ抜こうともがいた。
でも逃がさない。はっきりと言ってくれないなら帰してあげない。
諦めるまで粘った俺の勝ち。祷は、か細い声を捻り出した。
「わ、わわ、私は、もっと、その、一緒に、い、いい、いたい、です。でで、でも、お母さんの病気が治らないと、素直には、楽しめません。お母さんがそう望んでくれても私には、出来ない。心配で、心配で、しかたがないから」
精一杯の誠実な答えだった。俺は微笑んで彼女の手を離す。
祷がそう思ってくれているならやるべきことは一つ。彼女が安心して楽しめるようにしてやることだ。もしも更生したらバイバイって言われたら、絶対に更生してやらないと思っていたけど、変わったあとでも一緒にいてくれるなら、変わってやるさ。
俺が更生することで彼女の信仰心が保たれるなら安いもんだ。
ま、つっても駄天使や祷の言いなりになる気はない。俺は俺の欲望を捨てないもんね。
「でも、どうして、佐柳さんは私のことを、そうまで心配してくれるのですか?」
ドキッ。突かれたくないところをぐさりと貫かれた。
今度は俺がうじうじする番だ。別に、駄天使に冷やかされたように祷が好きだからってわけじゃない。いやいや、好きは好きにしても、そういう好きじゃない。
多分、金のつながりなしに俺の傍にいてくれるからだ。
自分のために俺と一緒にいるんじゃない。俺のことを考えてくれるからいてくれる。
使命感や責任感もあるんだろうけどさ。彼女が気遣ってくれる気持ちは本物だ。
じゃなきゃ駄目とはいえ天使が光臨するわけないんだから。
そんな彼女に応えたい。自分のためじゃなく、金を使ってあげたいんだ。
もっとも口に出していったら断固反対されるから心の中の金庫にしまって鍵をかける。
「どうせ一緒にいるなら楽しいほうがいいだろ。そん、そんだけだよ。いいから食え」
そっぽを向いたままオムライスが残った皿を押しやる。お残しはゆるしまへんでえ!
お互いにもう深い部分の探りあいはやめて他愛もない日常会話に移った。
そうそう、趣味も好みも何も知らない二人だから。話すことは山ほどある。
四章八節 宝財院鳴司の困惑
自宅に帰るのはいつぶりだろうか。このところ世界を飛び回っていたからな。
久しぶりに息子の顔が見れる。普段なら運転手が気味悪がるくらいの笑顔になるのだが。
「いかがされましたか?」
沈痛な面持ちを慮って声をかけた運転手がバックミラー越しに私を見ている。
なんでもない、と冷え切った声で言い捨てて流れていく風景に視線を移す。
息子に会えるというのに気が沈んでいる理由は自分の行いにあった。
更生させるのに天使を呼び寄せたのはやりすぎであっただろうかと、悩み続けている。
私と息子の佐柳に血の繋がりはない。孤児院に居たところを引き取った。それも既に小学生として逞しく成長していたところを、だ。小さい頃から育てていれば、もっと違う風に育てられたのかもしれない。
何分、金を稼ぐのに忙しくてろくな恋愛もしてこなかった。
恋人といえば都合が良いだけの肉体関係や、裏でひしめく仕事のあれこれがあった相手だ。それなら数え切れないほどいる。しかし、愛があった相手は一人もいない。
そんな私が子供を育てるなど無理な話だと、知人友人は密かに笑っていただろう。
地位を一つあげるために顔も知らない連中の人生を踏み台にしてきた。
蹴り落としたものもいれば、救い上げたものもいる。その全てが金の為。
使い切れない財産を持った者の特徴かもしれいないが、不意に、どうしようもないくらい虚しくなる。私は何のために他者を破滅させてまで富を築き上げてきたのか。
若くして富豪に上り詰めた私が後悔するのもまた、早かった。
金持ちとはそうしたときに宗教に逃れる。神にすがるしか救いの道が見えないのだ。
どれだけ金を持っていても、富んでいても、心を洗い流す手段までは買えない。
友人の紹介もあってヴンダー教に入信した私は中途半端に救われた。
私財を投げ出す愚は犯さず、されどこれまでのように我欲を突き進むわけでもない。
贖罪の一つが恵まれない子供を助けることだった。我ながら単純さに苦笑してしまう。
巨額の募金をするのは簡単だが身をもって知るというのが私の信念だ。
これまた友人の紹介で案内された孤児院で会ったのが今の息子、佐柳。
貧乏を憎んで周りに迷惑をかけるやんちゃ坊主。私に相応しい。
引き取ってからは甘やかすままに甘やかした。貧乏から脱却することが彼の救いだと、疑わなかった。もっとも、まともに育児を試みたところで失敗しただろう。
好き放題に金を使わせていた結果、佐柳は私と同じ道を行こうとしている。
友情も面倒事も欲望も、全てを金ひとつで解決できると驕ってしまった。
私が私を救えなかったように、私に息子は救えない。
情けない親だ。結局私は再び友人を頼り、佐柳を聖グレデンテ学園に入学させた。
他人に任せても息子の放蕩ぶりは変わらない。いよいよ困って頼ったのが天使なのだから、面白い冗談だと笑うだろう。仕事場の私は神も天使も悪魔も無縁の現実主義者だ。
だが事実、天使は舞い降りた。依り代たる少女、天信祷の願いを聞き届けて。
まさかその天使が息子の命を秤にかけて更生させるとは思うまい。
天使フィシオの助言で息子への援助を一切行わなくなった。むろん、親として衣食住を提供するのは務めだ。最低限、今までの暮らしは保障されている。
あれから顔を合わせる機会がなく、報告も聞いていない。息子はどうなっただろう。
「到着致しました」
「うむ、ご苦労」
自分と語らっている間に気づけば自宅の前にいた。
出迎えたのは珍しく息子の担当をさせている進士であった。サイドドアを開いて私が降りるのを待つ。雇い主は私だが、彼が私につくことは滅多にない。
わざわざ顔を見せたということは佐柳に何かあったのではないか?
不安を押し殺して冷静な表情を崩さない。ポーカーフェイスは仕事のコツの一つだ。
「何があった?」
「はい。それが――」
答えは聞くまでもなく向こうからやってきた。
「今晩はありがとうございました。とても美味しかったです」
「そっか。まあ、なんだ、また来いよ。お母さんが元気になったらでいいから」
大扉が開いて出てきたのは息子の佐柳と……天信祷!?
いったいなにがどうなっているのだ。佐柳はこれまで一度も友人を自宅に招いたことがない。私が遠慮するなといっても心底嫌そうな顔をして断固として拒否してきた。まして女子を連れ込むような息子ではない。
楽しげに微笑みあっている二人。仲睦まじく、近寄るのが憚れるくらいだ。
確かに祷には天使の依り代として、学園の同級生として、佐柳の更生を頼んでいる。
だが! 恋人ごっこをしろとは頼んでいないぞ! お父さんは断じて許しません!
いや落ち着け鳴司。祷は聖グレデンテ学園でももっとも清らかなる乙女だ。
まかりまちがっても佐柳に恋心を抱いくはずがない。そうすれば効力を失う、はず。
まあ父親の私が思うのもなんではあるが佐柳の顔立ちは整っている。天然のブロンドは燦然と輝いているし、自然の緑より明るく透き通ったライトグリーンの瞳には愛嬌だってある。高校生にしてはいささか幼い表情も、母性をくすぐる甘さがあった。
なんということだ。息子は聖女が堕ちるほどの魔性の男だったのか!
「あ……親父。帰ってきたんだ」
「鳴司さん、こんばんは。お邪魔しておりました」
私に気づいた佐柳が気まずそうに言った。それはそうだろう。
鬼の居ぬ間に連れ込んだのに鬼と鉢合わせてしまったのだからな。
祷は取り繕うこともなく制服のスカートを少しだけ持ち上げてお辞儀をした。礼儀正しくて結構。挨拶のひとつもしない息子に見習わせたい。
ごほん。表情を半ば緩めながら大人の対応を見せる。焦りは見せるな。
「ただいま佐柳。こんばんは祷。珍しいじゃないか、お前が“友達”を連れてくるなんて」
牽制がてらに友達を強調する。それならばそうと言ってくれ。安心できる。
息子は慌てて赤面しながら両手を振った。
「とも、友達じゃねえし。いつも迷惑かけてるからお礼しただけだよ」
隣で寂しそうに首を下げた祷の表情を私は見逃さない。息子は気づいていないが。
つまりこうだ。友達と言われて祷は『私たちはそのような間柄ではありません』と意気消沈をした。息子は友達を否定したが顔が赤い。それ以上の関係だと言いたいのだな!
まだだ、まだ怒るんじゃない。みっともない父親像を見せたら息子に嫌われる。
「そうかそうか。佐柳もようやっと男になったわけだな? 祷、よろしく頼むよ」
はっはっはっはと豪快に笑い声をあげて二人の間に割りこみ肩を叩く。
あえて爆弾を投下することで反応を見極める。時に大胆に、ビジネスの鉄則だ。
「ばっ、ふざけんな馬鹿親父! んなわけねーだろ!」
「わわわ、わわ、私は、その、あの、そういうつもりでは、あの、なくて、その、これは」
怒った佐柳が私の手を乱暴に振り払った! 手をあげる子ではなかったのに!
祷はしどろもどろになって頬を両手で押さえ神がどうだの支離滅裂なことを繰り返す。
……ふむ、どうやらまだそこまでは進展してないらしい。
気持ちを抱いてはいるが伝えられていない、そんな青春の甘酸っぱさが匂う。
私はそのような経験をしてないので全てドラマの知識だが恐らく間違いない。であれば一安心だ。ようやく心の底からの笑顔が見せられる。家に帰った実感が沸く。
「冗談だよ。二人とも若くて羨ましい」
「んだよ余計なこと言うなっ。悪かったな祷、馬鹿親父で」
「い、いえ。お父様のことをそのように言ってはいけません」
中々に出来た娘だ。どのような状況にあっても敬愛を忘れず注意を怠らない。
仲良くやってくれているようだし佐柳にも、これまでとは違う爽やかな感情が見える。彼女を選んだ私の眼――もとい友人の眼に狂いはなかったようだ。
「さあ遅くなるといけない。進士に送らせよう」
阿吽の呼吸で既に進士は車を回してきていた。私がエスコートをして後部座席のドアを開く。何度もお礼を言う姿に好感を覚える。礼儀、感謝は世界で通用する武器だ。
「今日はありがとうございました」
「佐柳も喜んでいるようだ。また来てくれると私としても助かる」
「一々口挟むんじゃねーって!」
「はは、はい、また、その、ご招待いただけるのなら」
二人とも満更ではない。む、少し仲を取り持ちすぎたか?
私の脇から顔を出した佐柳が照れくさそうに頬を掻きながらそっぽを向いていう。
「ああまた来てくれよ。じゃ、じゃあ気をつけて。おや、おやすみ」
「……おやすみなさい」
まだ七時くらいだから寝るには早いが、ぎこちない会話さえ初々しい。
進士に目配せをすると委細承知と頷いて車がのんびりと走り出した。
見えなくなるまでその場で見送ってから私は息子の佐柳を抱きしめる。
「おお佐柳、寂しかった、会いたかったぞ!」
「ばばばばばか、やめろ気持ち悪いっ」
「そういうな。積もる話もある、さ、中で色々と聞かせてくれ」
「わかったから離せって! もう子供じゃないんだ!」
「はははお前はいつまでたっても私の子供だよ。ほーら高いたがっ」
高校生にもなると体格も良くなってくる。顔が幼いからといって体もそうとは限らない。
あまりの嬉しさに全力で息子を抱き上げたら腰が嫌な音を立てた。脂汗が吹き出す。
素早く逃げ出した佐柳が呆れ顔で私を見る。ああ、なんと情けないのだ、私は。
「無理すっからだよ。親父だってもう若くねーんだから」
「いやはや、すまない。つい、嬉しくてな。あいたたたた」
「世話が焼けるなぁもう。誰か、湿布持ってきてー」
息子の肩を借りながら奥の部屋に歩いていく。なんと優しい息子なのだろうか!
毅然とした態度も忘れて涙腺が緩む。歳を取ったものだ。
四章九節 宝財院佐柳の決断
「何やってるんだ、お前」
俺? 部屋の片付けをしてるんだ、見りゃ分かるだろ。
ノックもせずにドアを開けた駄天使はそのまま寄りかかって腕組みしている。
横目で偉そうにふんぞり返った姿を確認しつつ、疑問には応えてやらない。代わりに俺の疑問をぶつける。夜遊びなんて天使としてアリなのかよ。
「お前こそ何やってたんだ」
「いい女を見つけてね」
……本当に夜遊びだったなんてどこまでも呆れ果てるやつ。
訊いてしまったことを後悔しながら俺はコレクションルームの整理を淡々と進める。
ここは自慢の宝物庫だ。これまでに買い漁った趣味の品々が無造作に詰め込まれている。倉庫といったほうが近いかもしれない。
限定品のフィギュアやアニメ特撮のDVDにBDはもちろん。一度読んだきり埃が被っている全巻揃いの漫画本も山ほどある。中学生の頃に流行った対戦型トレーディングカードゲームの激レアを集めたファイルも十冊はあるかな。蛮に誘われて買ってみたものの、練習するのが嫌で放り出したエレキギターは壁に飾ってある。
その他にも親父がプレゼントしてくれた高級腕時計だとか自転車だとかもあった。
そういった“いらない”物を一箇所に集めて傍らに置いたノートパソコンで検索する。
遠目で画面を盗み見ている駄天使が口を挟んだ。
「値段なんか調べてどうする気だ?」
「売るんだよ」
あっさり教えて作業を続けた。そう、俺はこれらの品を全部売り払うつもり。
中には苦労して手に入れた、手放すのが惜しいものもある。最近買ったばかりの『絶対正義ユウシャイン』も、見終えるまえのお別れになっちまった。
総額幾らになるかを計算しているところなんだけど、まあこれなら十分だろう。
満足気に頷いている俺を駄天使が怪訝そうな顔で覗き込む。伸びた白い手が額に触れた。
「風邪ひいたのか?」
「さわんなっ。金がいるから用意するんだよ」
「……何の為に? お前が欲の限り集めた大事なお宝を売ってまでか?」
「蛮がまた来るっていっただろ。手切れ金ってやつだ」
出来るだけ早く売り捌きたい。祷には悪いけど明日は学校をサボろう。
進士には相談済みだ。彼だって執事として雇い主の息子がろくでもない理由で休むのは見過ごせないはずだが兄貴分として、俺の本心を汲み取ってくれた。
駄天使も信じているとは言えない渋い顔をしていたが文句を言わないからよし。
言われたところで知ったことじゃないけどな。
「大金を手にするのはいいけど、失ったらどうなるか、忘れたわけじゃないだろう」
心配なのか忠告なのか、俺には分からない。肩を竦めて答えておいた。
ああもちろん知っている。現金に換えて命が増えても渡してしまったら反動だけ不運が訪れる。嫌というほど体験した。
こいつはまだ理解してないようだけど俺は欲しいものの為なら命を払える男なのさ。
正直怖いけど弱い部分を見せたら負けだ。男らしく堂々としてりゃいい。
「自分の物を売るってんだから天使様だって文句ねーだろ」
「まあ、そうだが……っておい、それは売るな!」
あ、気づかれた。さりげなく混ぜておいた『名探偵エジソン』シリーズを駄天使が回収しようとする。そうはさせるかと手元にあった修学旅行で買った木刀で足払い。
よっぽど惜しかったのか隙だらけですっ転んだ。くそ、写真とりてぇ。
頭からフィギュアの箱の山に突っ込んで散乱させた。凹んだら値が下がるだろうが!
「これは俺の物だろ。俺が買ったんだから。お前に貸してやっただけ。返して貰う」
「待て、冷静になろう、な? どんなに辛いことがあったかは知らないが――」
「せぇな。お前、自分で言っていたよな。天使は人間に与えられない限り人間界の物を所持できないってさ。俺、与えた覚えがないから無効な」
「ぐ、ぐぐぐ……」
歯軋りするくらいに悔しがりながらたっぷり一分かけて別れを惜しんだ。
そのうちに安定した収入が得られたらレンタルでもしてやるか。俺って寛大。
「一つ確認したいんだけどさ」
「なんだ」
「しょぼくれるなよ。見っともない」
「俺がどれだけあの作品が好きか知らないからそう言えるんだ。うぅ」
いけないいけない、話がずれていく。気を取り直してもう一度。
「天使ってのは自分の為の祈りは聞き届けないんだよな」
「ああ、まさか俺に金をせびるつもりか?」
「これ売るって言ってんだろ。いいから黙って聞けってば」
いつになく強張った声に駄天使も察したらしい。大人しくなって顎をあげる。
早く言えってことだろう。お前が止めたくせに。
「誰かの為の祈りなら天使は……いや、お前は聞いてくれるのか?」
「内容にも寄るがお前の薄っぺらい信仰心じゃ届かないだろう」
「そんなのはどうでもいいんだよ。“お前”は聞いてくれるのかってことだ」
天使が天使らしく仕事をするならそりゃ、神様を怨んでいる俺の祈りは届かない。
でもこいつなら。駄天使ならずぼらだし女好きだし、しがらみをすっとばして個人的に聞いてくれるんじゃないか。淡い期待をぶつけてみる。
「俺が、か。そうだな……やはり内容次第だ。しょうもないことには手を貸さない」
「もしも何かあったら祷を守ってくれ。これくらい、いいだろ?」
予想外、って反応でもないな。ノートパソコンから顔をあげて駄天使を見る。
悔しいが美形だ。天使様だけあって男でもうっとりさせる魅力がある。性格さえ知らなければ崇めたくもなったかも。
俺は訊かれてもいないけど理由を話した。こいつが納得してくれるように。
「蛮が言っていた。金が用意できなきゃ祷に手を出すってさ。それだけは許せない。でも、俺喧嘩弱いし、すぐボコボコにされると思う。だから、お前が守ってくれ」
「ここの物を売って金を作って渡すなら祷が狙われることもないだろ」
「どうだか。あいつ、なんかイっちゃってたし、不安なんだよ。頼む」
金に物を言わせてきた俺が頼れる相手はもう親父か進士かこいつくらいだ。
二人にはとても言えないし親父なんかどこまで手を出すか分からないから怖い。だったらずっと傍にいて俺も祷も知っている、駄目天使に頼るしかないだろ。
仮にもこいつは天使様だ。どうやって守るにせよ人間を傷つけることもない、と思う。
蛮が金に汚くなったのだって俺がホイホイ金を使ってやったからかもしれないし。
出来るだけ傷つけるのは嫌だった。傷つくなら、元凶の俺ひとりでいい。
駄天使がうんともすんとも言わないから俺は日本人式最終手段に訴えかける。
誰かに頭を下げたことなんて一度もなかったな。孤児院にいたときでさえ。
両膝をぴたりとつけて折り、両手の指先を合わせて額を床に押し付ける。
「この通りだ。頼む、フィシオ。祷を、守ってくれ」
名前を口に出すだけでこそばゆい。出来りゃあ頼りたくない相手だが、受け入れてくれるならこれほど心強い相手はいないんだ。
視界を床が埋め尽くしているから駄天使の表情は分からない。声も、出さない。
どれくらいが過ぎたか分からないが、両肩を掴まれてぐいと身を起こさせられた。
「慣れないことするな。気持ち悪い」
「俺はな!」
「宝財院佐柳の願い、オムニ・ハヴェーダ・イェ・サロルゾーナ・フィシオが責任を持って聞き届けた。安心して好きにやれ。祷は俺が守る」
はは。なんだ、案外いいやつじゃん、こいつも。
不真面目だから俺なんかの願い事でも聞き入れたくれたんだろう。助かった。
「絶対だからな」
「天使嘘つかない」
「ぷっ、馬鹿みてぇ」
「前言撤回しようか?」
「あー悪かった悪かったよ。さてと、これ片付けないといけないからあっちいってろ。邪魔邪魔」
ハエを追い払うようにしっしと手を振った。まじまじ顔が見れなかったのもあるけど。
駄天使は胡坐をかいて居座る姿勢だ。なんだよもう、俺が前言撤回したいわ。
「手伝ってやるよ。ほら、これ調べろ」
「そこはもうやった。あっちのとってくれ」
「……めんどくせー」
自分から言い出したくせに。とにかくこれを全て売るように用意しないとな。
まだまだかかりそうだ。でも二人なら早く終わらせられる。
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- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
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