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三章一節 宝財院佐柳の不運
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聖グレデンテ学園は世俗の誘惑を断ち切るという名目で山奥に陣取っている。
市街地からだいぶ離れているので自家用車で送ってもらうか、専用のバスを使わなければ通学もままならない。お嬢様学校だっただけあって9割方送迎組み。
当然俺も執事の進士に送迎してもらっているんだけど、ただいま絶賛全力疾走中。
木漏れ日を全身に浴びながらぜえぜえ息を切らしてアスファルトを蹴りつけている。
なぜかといえば学園が『健康面』に配慮してくれたおかげだ。
直接車で乗りつけるのは運動不足を招くとかで駐車場は正門傍にしかない。
そこから校舎までゆるい坂道が十分ほど続く。
左右から迫り出した木々が屋根の役割を果たしてくれているから日差しは気にならない。
むしろ胸から湧き上がってくる吐き気と熱気に意識が飛びそうだ。
前日にまたも蛮に呼び出されて羽目を外しすぎたのを引きずっている。個人的に酒は好きじゃないんだが、飲まなきゃいけない空気ってあるよね。
こんな学園に通わされていれば多少道徳的にどうのってことも頭を過ぎる。
だがしかし、上司とのコミュニケーションならぬ飲みニケーションを強要される新人社員の如く、付き合いとして避けられない道もあるのだ。そう言い聞かせておこう。
弱い癖に飲むもんだから二日酔いで頭痛が酷いし体は重くて言うこと利かない。
放っておいても瀕死なのに走ってるんだから体調が最悪なのは当然だ。
今日は日曜日。普通の学生なら休みだヒャッハーってなもんだ。
ところがどっこいうちの学園には日曜礼拝という難敵が存在している。
強制参加ではないにしろ暗黙の了解があった。サボり過ぎは進路にも響く。
起きてびっくり途中でも間に合うかどうかの瀬戸際の時間だった。
進士を急かして車を走らせたが不運なことに家から学園まで五つもない信号が全部赤色。さらに山道に入ったところで大きな尖った石を踏んでパンク。タイヤの入れ替えにも時間をとられた。正門についてみたら帰路につく生徒たちと鉢合わせ。
気まずい思いのまま逃げ帰ればいいんだがそうもいかない理由がある。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ――」
走っても走っても走っても過去に行き着くわけじゃない。
俺が汗だくになりながら礼拝堂まで来たのは、彼女が待っているからだ。
「はぁっはぁ……はぁ」
「ごきげんよう、佐柳さん」
外のベンチにちょこんと座っていた祷が悲しげに微笑んだ。その顔、やめてくれ。
罪悪感で胸が一杯になりながらも息切れして謝罪の言葉も出ない。
怒るでも諭すでもなく、祷はカバンから塗装が剥げている魔法瓶を取り出した。
コップになる蓋を外して魅力的な小麦色の液体を縁まで注いでくれる。
「どうぞ。麦茶です」
ビバ麦茶。六月も終わりに近いのにこの暑さだ、日差しを浴びなくても汗はかく。
流し込んだ麦茶の冷たさと程よい苦味にくはぁつと息を吐き出した。
祷がお代わりを注いでくれたので遠慮なくもう一杯。生き返った気分。
「ありがとう、助かった――じゃなくてその、あー、ご、ごめん」
ここでいつもなら笑顔のお説教が始まるんだが祷は黙って俯いてしまった。
ベンチの隣に座ってみる。一人分の空きが絶壁のように立ちはだかった。
「怒らないの?」
あえて自分から死地に飛び込むこともないんだが気になって訊いてみた。
はっと顔をあげた祷が慌てふためきながらしどろもどろにお説教を始める。いつもと比べてどこか上の空で気持ちが篭っていない。散々聞かされているから違いが分かる。
途中途中で小学生に買い与えるような安物の時計に目を向けて溜息を吐いた。
「これから予定あるなら説教はまた今度でいいよ」
「いいえそんなことは、別に」
「さっきから時間気にしてるじゃん」
「だだ、大丈夫です。それよりもですね、日曜礼拝というのは――」
それ三分前に聞いたよ。無理やり笑顔を引き出しながら無茶苦茶な講義を続ける。
彼女は良くも悪くも嘘がつけない。天使と交信できるだけあって誠実さは保証済みだ。
表情にも声音にも態度にもそわそわ感が溢れている。説教することが自分の責務と信じて疑わないから放棄してどっかに行く気にもなれないんだろう。
生真面目っていうか、間違った一途っていうか。
「分かったって。もう反省したよ。今日は完全に俺が悪い。ほんとは参加するつもりだったんだけど、寝坊しちゃってさ。次はぜぇぇったい、参加するから。な?」
「木曜日の礼拝もですよ?」
「うっ……善処します。だからほら、早く行けよ。用事あるんだろ」
「まだバスの時間まであるので、ここで涼んでいきます」
ぎょっと目を丸くしてしまったことだろう。祷はバス通学組みだったのか。
つくづく彼女のこと何も知らないな俺。いいとこのお嬢様じゃないんだ。
てっきり金持ちの一人娘だと思い込んでいた。手塩にかけて懇切丁寧に育てられたからここまで清らかにいられたんだろうと勝手に納得していたよ。
今日は日曜日だから通学用のバスは本数が少ない。
具体的には知らないけど多分授業もないし次までに相当時間があるはずだ。
俺なんかを待っていなければすぐのバスに乗れたはずなのに。
相変わらず自分を犠牲にして他人に尽くすんだな。ちょっと、むかついてくる。
「よし、じゃあ俺が送ってくよ」
「えぇ!? けっ、結構です」
「遠慮することないだろ、減るもんじゃないし」
「フィ、フィシオさんはいらっしゃいますか!?」
さっと立ち上がって差し出した手を意図的に無視して駄天使の姿を探し始めた。
あいつなら今頃BDでも見ているんじゃないかな。礼拝には興味がないそうだ。お前らのためにやってやってんのにな。
「家にいるんじゃないかな。何か問題あんのか?」
「それは、その、男性と、二人と、いうのは、あの、その、あんまり、あの」
左の人差し指と右の人差し指の先をぐるぐる擦り合わせながらまっかっかな顔で言う。
ああそういうことか。祷が俺をつけまわしているといっても基本的には学園内のことだ。放課後までついてくるようになったのは駄天使が現れてからだったな。
つまり、俺=男と二人きりになるのは恥ずかしくてたまらない、ということだろう。
貞操の危機を感じているのかも。だとするなら失敬な話だ!
「運転すんのはうちの執事だよ。これなら安心だろ?」
「あ、はい、いや、やっぱり、ああ、私はどうすれば」
ぽっぽ頭から煙を振りながらいやいやとばかりに首を振っている。
何世紀前の女子だよ。だんだんイライラしてきて俺は強硬手段に訴えた。
「いいからいくぞ!」
「ひゃぅ」
強く握ったら折れそうな細くて白くてすべすべした手をとって引っ張り出す。
やめてくださいっと離れようとしたが俺と祷の力の差を比べるまでもない。
人を助けようと自分を犠牲にするなんて、俺は好きじゃない。むしろ嫌いだ。
その対象が俺っていうのがなおさら鼻につく。だったら俺も勝手に助けてやる。
周囲に人影なし。どうにか逃げようとする祷と無理に引っ張る俺。
端から見たら誘拐だもんな。坂を下りだした頃に祷が諦めた。今日は俺の勝ち。
「わわ、わかりました。送っていただきますので、その、手を、はなな、なして」
「最初から素直に甘えりゃいいんだよ。……そんなに嫌?」
手を離すと祷はすかさず俺から距離をとった。カバンから取り出したハンカチで手首を拭っている。なんだか汚物になった気分。
しょぼくれた気分で石ころを蹴飛ばす。そんなにしなくたっていいじゃないか。
男としての誇りをべきべきと引き剥がされたんじゃないかな、これ。
慌てて追いかけてきた祷が訂正する。
「すいませんっ、そういうつもりではなくて、なんというか、手を繋ぐというのは、あの、その、つまり、こ、ここ、こい……言えません」
「恋人?」
「ふぁっ!? あ、ああ、はい、その、そういう関係になってからではないと、生涯を誓い合わないと、よろしくないのではないかとそう思ったもので、その、はい」
「……子供だって手ぐらいつなぐだろ。どんだけ潔癖なんだよ」
「ごめんなさい、あまり、その、分からなくて。決して佐柳さんが嫌いなわけではありませんよ!? それは誤解です! 私、男性というのはもっと恐ろしいものだと思っていました。ですが佐柳さんは優しい方ですから」
こいつ学園に入るまで男を見たことがないんじゃないか? ここ日本だぞ、日本。
何時代まで遡ったら男が女を襲うのが当たり前になるんだろうな。歴史の問題です。
にしても、両手を胸に当ててにこやかに笑いながら「優しい方」なんていわれると心臓が驚く。他意はないはずだ、多分、きっと、絶対?
今度はこっちが恥ずかしくなる番でぷいと顔を元気に背伸びする木々に向けた。
「お節介されっぱなしは気に入らないんだよ。お前もお節介されてみろ」
「ありがとうございます」
こういうときだけ素直にお礼言いやがって。もう顔見れねーじゃん。
それから一言も交わさずに黙々と坂道を下って駐車場に戻ってきた。ぽつんと一台だけ取り残された胴長の真っ白いリムジンがある。
「もしかして、あれ、ですか?」
「あれしかないだろ」
俺が近づいていくと運転席から執事の進士が降りた。
確か三十手前でまだまだ若い。黒のスーツにネクタイ、白手袋に丸眼鏡、髪は短めに切りそろえている。親父の趣味で執事らしい格好をさせられていた。
俺にとっては兄貴みたいな存在だった。親父に言えないことも進士には言える。
「ごきげんよう、祷様。私、宝財院家の執事を勤めさせていただいている御堂進士(みどうしんし)と申します」
「ごきげんよう、進士さん」
「バスくるまで結構かかるから送っていきたいんだけど、いいよね?」
「もちろん。佐柳様がお友達をお連れになったと知れば旦那様も喜ぶでしょう」
「と、友達じゃないよっ」
胡散臭いけどカッコイイ笑みを口元に浮かべながら進士が後部座席のドアを開いた。
さっさと乗り込んで戸惑う祷を引きずり込む。またも悲鳴をあげた。
普通の車と違って座席はL字になっている。俺が縦の部分に座ると、祷は横の部分に座った。仲良く肩を並べるわけにゃいかないのは知っている。でも、寂しい。
ゆっくりとリムジンが動き出す。とりあえず市街地に出るのが先だ。
一旦街まで降りないとどこにもいけない不便な造りだから行き先は後でいいだろ。
このリムジンは俺専用なので酒類は置いていないがジュースなら一通り揃っている。クーラーボックスをあけて瓶コーラを取り出す。暑い日にはこれに限るね!
一気に飲んで炭酸の泡を喉で味わう。祷はアホみたいな顔で車内を見回していた。
バス通学するような家の子ならまあ驚くのも当然だろう。
「なんか飲む?」
「はあ……はっ、いえ、私には麦茶がありますので」
遠慮する必要もないんだが祷はカバンからボロボロの魔法瓶を取り出して笑みを作る。
昼食の質素さといい、使い古された魔法瓶といい、バス通学といい。
もしかしなくても俺が想像していた祷と目の前の祷は別人みたいだ。
改まって訊くのもなんか気がひけるので俺は小型テレビをつけた。
なんとなくニュース番組にチャンネルを合わせて数秒。瓶が床に落ちる。
しゅぅと底に残っていた甘ったるい液体が染みを広げていく。
「どうしたのですか?」
嘘、だろ……。金を注ぎ込んで株を買っていた会社が、倒産、だと。
父さん? 藤さん? 倒産ッッッ!
淡々と読み上げられる決定事項に血の気が引いていく。
俺が残金と命を繋げられて平然としていた理由がこれ。
親父から貰った金で遊び半分で始めたんだが案外うまくいっちゃってね。
その気になりゃ金なんかコピーするみたく気軽に増やせるぜげっへっへっへ。
んなこと思っていたのに。この会社、好調だったはずだろ、なんで!?
祷の言葉が左耳から入って脳みそをかき回したあと右耳から出て行った。
ニュースによれば脱税していたとか社長が麻薬を扱っていたとか唐突に出るもんじゃない不祥事が次から次に暴露された結果らしい。あんまニュース見てないから知らないだけだったのかな、あははは……。
取引できるのは明日からだけどきっともう手遅れだろう。世界は常に動いている。
全財産を投資していたわけじゃないが左手のカウントが一気に減るには十分過ぎた。
まだ変わってないのは明日売り払うまで金額が確定しないからだろう。
いかん。遊ぶ金も、あれこれ買う金も、かなり、吹っ飛んだ。
おかしい。なにかおかしい。思えば昨日から不運の連続じゃないか。
蛮たちとの待ち合わせ場所に行く途中で犬の糞を踏み、泥水を浴び、机の角に額をぶつけ、店員の粗相で料理をぶちまけられ、今日は今日で学園に行く途中の信号が全部赤だしパンクもするし、さらには倒産だって?
これは陰謀だ! 某国が俺を陥れようとしている!?
某国ってどこだよ、誰だよ、俺は何様だよ!
自分に突っ込みをいれるつもりでサイドドアに頭突きを繰り返す。
「ちょっと佐柳さん!?」
祷が必死に止めに入ったが俺は狂ったように笑いながら頭をぶつけ続けた。
冷静な執事は雇い主の大事な愛息子を心配することなく、祷に声をかける。
「どちらでおろしましょうか?」
「えと、それでしたら、駅前でお願いします」
「かしこまりました」
「あのー……」
「はい?」
「佐柳さんが、なんだかおかしいのですけれど」
「フィシオさまからお伺いしております。今日の佐柳様は気が狂ってしまうだろう、と」
なんだと。あの忌々しい駄天使が予め知っていただと?
つまり陰謀論は正解で犯人はお前だ!
ふふ、ふふふ、ふふふふふふっ。
不気味に笑い出した俺にひいて祷が手を離した。どんだけ邪悪な顔をしているかな。
駅前で祷を降ろすまで俺は笑い続け、彼女と別れるなり速攻で家に帰った。
やろうぶっ殺してやる。
三章二節 フィシオの策略
どたばたどたばた廊下からうるさいのが近づいてくる。
ちょうど最終話を観終えたところでよかった。そそくさとディスクを取り出して後片付け。身なりを直して椅子に腰かけ足を組む。これくらいで雰囲気の演出はいいか。
咳払いをして喉の調子を確かめてみた。ん、んー、よしよし。
力任せに開け放たれた扉が壁に激突して勢いよく閉まった。
一瞬だけ見えた憤怒が消えて苦悶が漏れ聞こえる。馬鹿なやつ。
再び扉が開いて佐柳が鼻息荒く近づいてきた。こめかみがいい具合にひくついている。
「おかえり」
「ただい……じゃないっ。お前の仕業だな!?」
どうやら効果が現れ始めたようだ。あえて知らないふりで首を傾げてみる。
「何が?」
「しらばっくれるなよ! 俺が不運な目にあってんのはお前の仕業だろうが駄天使!」
「暴力はんたーい」
胸倉を掴まれて椅子から引き上げられた。鼻息が顔にかかって生温かい。
相当辛い天罰が下ったみたいで一安心。これでこいつも改心してくれるだろう。
それにしても仮にも天使の俺に掴みかかるなんて世も末だ。昔は天使というだけで誰もが頭を垂れて救いを求め、赦しを乞い、羨望と敬意の眼差しで見つめていたらしいのに。
軽く手を払いのけてふんふん息を吐いている鼻を捻る。
「っでえなっ」
「落ち着けって。説明してやるからさ」
女性を抱きかかえる繊細さで佐柳をベッドに投げ飛ばした。
椅子に座りなおして得意気な顔で説明をしてやる。これで心を入れ替えなければ正真正銘救いようないお馬鹿さん。
「お前にかけたその戒めなんだけどな、残金が0になったら死ぬだけじゃない」
一応落ち着いたらしき佐柳を眺め回しながらもったいぶる。
早く言えと眼力で伝えてくるがいかんせん童顔で迫力がないな。
己の左手と俺を交互に睨みつける。深く深く息を吐き、吸い、指先を弄ってみる。
「早く言えよ!」
こいつは救い甲斐こそないがからかい甲斐がある。突っ込まずにはいられないから。
ベッドから飛び降りて詰め寄ってくるので両手をあげた。降参降参。
「言うってば。それな、金を使えば使うほど不幸になってくんだよ。その結果、0になったら死んじまう。どうせお前のことだろうから、0にしなければいいんだろ楽勝! とか思ってたんだろ?」
「うぐっ」
清々しい反応だ。二歩三歩後ずさって胸を押さえている。冷や汗が流れてきそう。
俺は哀れな少年の隣にいって肩を叩いてやった。アフターケアも仕事のうちさ。
「お前は改心するしかないんだよ。これまで通り好き放題金を使えば使うだけどん底に落ちていく。落ちては使い、使っては落ち、巡り巡って命を落とす。嫌だろ?」
「当たり前だろ! 今すぐ解除しろ!」
「無理無理。お前が金を捨てられない限り戒めは続くぞ」
「ふざけんな。せっかく大金持ちの子になれたってのに、我慢しろっていうのか!?」
「そういう心持が邪まだっていってんの。どうしても欲しいもんがあるなら自分で稼げ。それも、汗水流して清く正しく、な」
佐柳の顔が青ざめる。こいつの考えなんてお見通しなのだよ、天使様には。
……正直に言うと事前に鳴司と進士に話を聞いていたからなんだけどね。株とかいうので大金転がして収入を増やしているって。
何も稼ぎ方に文句があるわけじゃない。こいつは楽しようという一念しかない。
そこが問題だ。楽はつまり怠惰、悪魔の好物の一つ。天使としては赦してやれないのさ。
人間風に言うならば苦労は買ってでもしろ、だ。苦を乗り越えてこそ楽がある。
「ま、改めな」
貧乏から一転金持ちになり甘やかされてきた佐柳にはいやささか以上に辛いだろう。
それだけに乗り越えたときの成長は本人にとっても天使にとっても甘美なものになる。
励ますつもりで背中を叩いてやったのにあいつは力任せに振り払った。
「あーあ、わかった、わかったよ! 働きゃいいんだろ働きゃさ!」
簡単なのは無駄遣いをやめて物欲を捨て去り信仰心を育むことなんだけど。
どんだけ欲まみれなんだよこの少年。ぎらついた目の奥に欲が透けてみえているぞ。
俺もたまには天使らしく諭してみるかな。
「いいか、佐柳。貧乏な子供時代を過ごして辛かったのは分かる。金を持って気が大きくなるのもしかたがない。でもな、ものには限度ってものがあるんだ。もう十分散財しただろう。大人しく祷の説教を受け入れて礼拝に熱心に通え。無駄な買い物はするな。何も死ぬ気で働かなくてもいいんだ、まだ学生なんだから。弁えれば神も赦したもう」
我ながら完璧な説得だ。これで俺の仕事はおわ……らないか。
再び佐柳に胸倉を掴まれて鼻先を付き合った。今度は怒りではなく決意に満ちている。
「よくきけ駄天使。俺は神も天使も悪魔もどうだっていい。生きたいように生きさせてもらう。戒めがあろうが変わらない。欲しいもんの為に働いてやらぁ!」
「言ってることはまっとうなんだけど、お前の欲を満たすのにどれだけの金が要る?」
「知るか。必要なら必要なだけ稼げばいいんだろ」
「箱入り息子のお前が働けるのかね」
「お前の思い通りにはしてやらないからな、後悔させてやる!」
もう後悔している。なんか火に油注いじゃったかも、俺。
予定では『死ぬの怖いし、不運になるなんてひどすぎる。俺、心を入れ替えて礼拝にも通うし、お金も使わない。質素に慎ましく生きるよ、ありがとうフィシオ!』だった。
誤算なのが箱入り息子のくせに働くことに前向きだったとこだな。
てっきり働くなんて嫌だ楽したいよーって泣きつくもんだと。
身の回りのことは執事や使用人がやってくれるし、欲しいもんはぴっと三秒で買い漁ってきた。甘やかされ続けている人間は、努力や労力を厭うもんじゃないの?
佐柳はすっかりやる気になって俺を視界から締め出してスタホを操作している。
何気なく覗いてみたら求人サイトを見ているじゃないか。どこにそんなやる気が……。
どうも俺にたいするあてつけで暴走している節があるな。
くそ、どうしてこうなった。不慣れなことするから空回りするんだ。
後はもう祷が『校則でバイトは禁止されています!』と制止してくれるのを期待しよう。
三章三節 宝財院佐柳の労働
駄天使に課せられた忌々しい戒めのせいで今日も朝から絶不調だ。
まず進士が親父に借り出された。お抱えの優秀な秘書が急な発熱で動けないらしく、代わりに信頼できて雑務処理に長ける執事を連れていったってわけ。送迎担当は進士だけで代わりがいないから初のバス通学をするはめになった。
バス停がどこにあるのかも知らないから学園の公式HPでチェック。
余裕を持って家を出る真面目さで挑んだのに途中で事故現場に鉢合わせして迂回しなきゃいけないし、角から飛び出した食パン咥えたおっさんと激突するし、もう散々だ。
不運前提で動いたおかげで一時間目に間に合うバスに乗れただけマシか。
暴落した株の処理をしなきゃいけなくても取引は9時開始。授業真っ只中。
仮病使って抜け出そうかとも考えたが余計にややこしくなりそうでぐっと堪える。
今日は木曜でもないし遅刻もしてないし挨拶も「ごきげんよう」と先手必勝で言って祷の目を白黒させてやったからお説教なし!
休憩時間にすぐさまトイレに駆け込み個室でスタホを弄る。
「うわぁ……」
クソよりも重たい溜息が便器に流れる。損失、約110万だってさハハハ。
時間が経てば0を下回ったかもしれないことを思うと、どうにか一命は取り留めた。
空笑いしながら左手の甲を確認。ばっちり減額されて残り約20万の命なーり。
今月発売のDVDやBDに玩具に漫画にゲームに食費に交友費にまるで足りていない。
ここまで追い詰められたら癪だがある程度は我慢する必要がありそうだ。
本当ならこういうときこそ株で一儲けしてやりたいんだが、この不運じゃねぇ。
愚痴と一緒に捻り出した糞を流す。ぼごごごごぼごっぼごごごご。
非常に不愉快な音を立てるもんだからドアを開けつつ振り返って絶句した。
詰まるようなもん出してねえぞ!
溢れ出した汚水から目を逸らすだけの元気、残されてないよ。
制服にかからなかったのが不幸中の幸いだ。臭いも……大丈夫。
事務室に行って連絡してから教室に戻る。誰もいない。時計は始業開始1分前だぞ。
クラスを間違えたかとも思ったが、単に次の授業のことを忘れていただけだった。
二時間目は体育だもんね。そりゃみんないるわけないよね。
女子がいないから教室で着替えちゃえ。そしてまた過ちに気づく。
遅刻しないことで頭が一杯だった。進士も朝からいなかった。洗濯のために渡した体育着を持っていない。恐るべし駄天使の戒め。
制服のままグラウンドにいって先生からみんなの前でお説教。やめてみないで!
何が腹立つってクラスメイトが必死に笑うの堪えていてくれたのに対して、元凶の駄天使がげらげら笑っていることだ。そのうえこいつにジャージを借りろって?
他の男子は別のクラスだし、まさか女子にジャージを貸してくれとは言えない。
「いい加減懲りただろ。諦めろよ」
ジャージに着替える俺を眺めながら駄天使が言う。
確かにこいつが言ったように全て我慢すれば収まるのかもしれない。昨日までの俺とは別人になってしまえばそれでおしまい。そーんなのはいーやだっ。
「これは俺とお前の勝負だ。俺は負けない」
びしっと人差し指を突きつけて宣戦布告。こいつの喜ぶ顔が一番憎々しい。
意地を張っているなと自分でも思うよ。でもここで折れたら自分を見失ってしまう。
親父が不安になって天使を遣わしたのだってしかたがないって、分かっているんだ。甘やかされたのをいいことに好き勝手やってきた。文句はいえない。
我が子のように愛し、見捨てずに天使にまで頼ってくれるのは、嬉しいくらいだ。
分かっているからこそ、俺は俺のまま変わってやる!
にやついている駄天使に「佐柳様はなんて素晴らしいお方だ!」と土下座させてやるぞ。
気合十分でグラウンドに戻った途端に暗雲が垂れ込め急な土砂降り。
校舎に逃げ込んできた生徒たちと入れ違いで外に出ちゃってずぶ濡れになる俺。
「風邪、ひきますよ」
祷が優しく傘を差し出してくれた。この学園はどこまでも行き届いていて不意な雨に備えて生徒分の貸し傘が用意されている。人生初の相合傘も喜べない。
失った金額分だけ降りかかる不幸も増量ってわけか。上等だこのやろう!
その後は無事に過ごし――やたら先生にあてられたが可愛いもんだろ?――放課後。
掃除が終わるまで図書館で暇を潰してから教室に戻った。
「佐柳さん? 珍しいですね」
教室に残っていたのは祷と駄天使の二人だった。あとはもう帰ったか部活に行ったか。
いつもなら終わるなり遊びに繰り出している俺が放課後も残っているのはさぞ不思議だったろう。下手に移動すると不運な目にあいそうだから居残っていた。
綺麗に雑巾がけされたぴかぴかの席に座ってスタホを出して弄り倒す。
付き合うことにしたのか祷も駄天使も自分の席、つまり俺の前と後ろに座った。
「なにをされているのですか?」
首を伸ばして覗き込もうとするから体を横に向けて回避する。
校則には一応バイト禁止と記されている。事情があれば申請を出して許可を貰うことで出来るんだが、『金がなくなったら死ぬので働かせてください』と言えるわけもなく。
祷は生真面目ゆえに校則も厳守する。スタホ持込も最初は目くじら立てて怒っていた。
これに関しては生徒の要望が高く校則が変更されたのでもう怒らない。
でも調べているのが求人案内と知ればまたお説教だ。なので見せないが吉。
そんなこと分かっているであろう駄天使が余計な口を開く。
「バイト探してるんだよ。残金がごっそり減ったからな」
「てめえ!」
「まあっ」
つくづく足を引っ張る駄天使を睨んだ隙に左手ごとスタホを奪われた。
残金20万の表示と求人案内サイト、ダブルパンチで祷の上半身がふらつく。
本人が気丈に頑張ってるのにお前が倒れてどうするんだよ。
「いったい何に大金をお使いになったのですか!?」
「楽して儲けようとして失敗したんだよ、ぷぷぷ」
「一々バラすな!」
「佐柳さん! こちらを見てください」
あーあ始まった。有無を言わさぬ強い口調に渋々従って向かい合う。
十分ほど労働の尊さについて語り聞かされた。知ってるから探してんだってば!
「祷、お前の言う通り、楽して済む仕事なんてないよな。俺も痛い目みてわかったよ」
「そうです。神はいつだってその行いを見ていらっしゃるのですから」
「だから俺は命を繋ぐために真面目に、とっても真面目に、バイトしようと思っている。汗水流して得る金は良いもんなんだろう?」
「はい。汗は心を洗い流す聖なる雨なのですよ」
「じゃあ見逃してくれ。知っての通り、俺ぁ働かないといつ死ぬか分からない。校則で禁止されているからって、何もしないで死ぬのを待て、なんて言わないよな?」
校則で禁止されていても神には禁じられていない。ここが祷の弱点だ。
背後の駄天使が焦って介入してこようとするのを肘で押しやって阻止する。
彼女は窮地に立たされていた。校則を破ることを黙認するのは、誠実とかけ離れている。されど無理強いをして俺が死ぬことも望んでいない。
自分から『清く正しい労働』を願うのは、改心の兆しでもある。
右に、左に、薄い体が揺れる。振り子のように、メトロノームのように。
固く閉じた目を開き、険しく寄せていた眉が緩やかに下を向く。
しょうがないな。そんな慈愛に満ちた微笑で頷いた。
「分かりました。佐柳さんのためです。このことは内緒にしておきますね」
「ありがとう、分かってくれると思った!」
祷はいつだって他人を思いやってくれる。行き過ぎていてもそれは真心なんだ。
抱きついて感謝を伝えようとしたんだが悲鳴をあげながら避けられたのと、襟を駄天使に摘まれて引っ張り上げられたせいでうまくいかなかった。なんだよもう。
「いいのかい、祷。規則を破ることは、清らかな精神に汚点をつけるようなものだ」
あ、こいつ天使であることをいいことに祷を諭す気だな。負けるな祷!
たいそう辛そうな表情ではあったが彼女は俺のためになる方を選んでくれた。
「私が耐え忍ぶことで佐柳さんが変わっていくのであれば、構いません。それが奉仕するということだと、思っています。このことで天罰が下るのであれば、甘んじて受けます。私の心身は、神の御許に」
「おい駄天使、神に言っておけ。祷になんかしたら俺がぶっ飛ばす!」
「アホか死ぬぞ。祷の選択はきっと正しいさ」
とかいいながら舌打ちしている。お前が真面目にやってればそもそもこんなことには。
愚痴りたい気持ちを抑えながら俺は改めて手当たり次第に応募していった。
まずはチャレンジしてみることだ。自信がないとか適性がないとか後回し!
意気揚々とバイト探しに励み出したところで祷がとびきりの笑顔で水を差す。
「佐柳さんがちゃんとお勤めできるか、私、見守らせていただきますね。それと木曜と日曜には必ず礼拝に参加すること。これが見逃す条件です」
「えー」
「清く正しくないと判断しましたら先生方に報告しますよ?」
「俺が、信じられないっていうの!?」
目頭に力をこめて涙を搾り出してみるが祷には見えていないらしい。
「見届けるのが私の役目でもありますから」
「でもさ、祷にだって用事があるだろ?」
日曜のことを思い出す。自分の予定があるのにそれを割いてまで彼女は俺を待っていてくれた。バイトについてくるっていったって遅くなることだってある。
祷もそれくらい理解しているみたいで少しだけ悩むように頭を下げた。
「……いいのです。誰かに尽くすことが、神に対する労働なのです」
まるでそうしなければ生きていけないとでもいうような切実さが篭っている。
俺がどうしても嫌だ、邪魔だっていえば、きっと彼女は身を引く。
そうしたとき祷はひどく悲しい思いをするんだろうな。
自分を真っ向から否定されたようで。俺が俺を捻じ曲げてでも改心させようとすることに抗うように、彼女は彼女であるために俺に尽くそうとしていた。
だったらこれは俺と祷の勝負でもある。
どちらが自分を貫いて、どちらが相手に影響を受けるのか。
もしかしたら二人揃って変わるかもしれないし、二人揃って変わらないかもしれない。
突っぱねるのは簡単だったけど、俺は祷を受け入れた。
俺が俺なりに変わっていくところを彼女にも見せつけてやろう。
そして、祷のおかげでもあるんだって言ってやれれば、彼女も救われるはずだ。
黙って見守っている駄天使はどうせ役立たずだしな。
「そこまでいうならいいけどさ、無理するなよ?」
「はい、一緒に頑張りましょう」
「熱い熱い」
硬い握手を交わしてから俺たちは相談し合いながらバイト探しに熱中した。
あの駄天使も祷が折れたことで諦めたのか、自分のスタホで協力している。ちったあ天使らしいこともできんじゃん。
手当たりに次第に応募して手当たり次第に面接を受けに行く。
律儀にも毎回祷と駄天使がくっついてきた。恥ずかしい。
一件目、駅前のゲームセンター。さっそく祷が渋い顔をする。
徹夜で書き溜めた履歴書を持っていき、奥の個室で店長さんと面接。緊張して自然と背筋が伸びる。膝の上で握った拳に汗が溜まっていく。
「君、聖グレデンテ学園なんだ」
「は、はい。そうです」
「許可証は?」
「へ?」
「あそこってバイトさせるのに許可証出すでしょ、ないなら駄目だよ。前にこっそり応募してきた女の子雇ったのがバレたときにすげえ怒られたんだから」
恐るべき名門の威光。無許可の俺はそれ以上口も利いてもらえずに追い返された。
気落ちしている暇はない。祷に次がありますよと励ましてもらいつつ次へ。
二件目、やっぱり駅前のスーパー。今度は許可証について触れられなかった。
なぜかって面接まで辿り着かなかったからだ。店長さんが出てくるなり謝られたんだもん。さっき決まっちゃったからもういらないってさ。これも不運なのか?
日を改めて三件目、交差点にあるコンビニ。日曜礼拝があるために日曜は午後からしか出れないといったら露骨に嫌な顔をされて不採用。
五件目、チェーンのクリーニング店。学生可だけど高校生は駄目なんだってさ。
六件目、ガソリンスタンド。ようやく良い返事をもらう!
俺と祷は手に手を取り合って喜んでいたのに駄天使の顔色は良くない。
ふん、成功したことに嫉妬してやがるんだ。ざまあみろ。
だが現実は非情だった。試用期間一日目にして、焦って走った勢いで転びお客様の大事なカードを真っ二つに叩き折る。クレジットカードだったら即死だったろうけど、ポイントカードだったので再発行で事なきを得たものの、延々とお客様に怒鳴られた。
常連さんらしくその後店長にも言葉でしばかれて初日でクビ。
その後も何をどうやってもうまくいかなかった。
断られるのがほとんどで試しに働けても何かしらの失敗をして追い出される。
だいたいその相手が厄介なお客様か常連のお客様でお店へのダメージも高く、さっさと辞めさせられてしまう。敬語を使ってこなかった俺だから口調だけでお叱りコースも多々あった。なんかも、俺、心折れそう。
祷が優しく慰めてくれなかったら不貞腐れて親父に泣きついていたかもしれない。
それに駄天使が俺と祷がうっかり忘れていたことを教えてくれた。
「仮に採用されても給料日は翌月だろ。それまで平気なのか?」
おーまいがっ。俺の金にならなければ俺の命は増えないじゃないか!
再び求人案内に目を通す作業に戻った。今度は日払い、週払いを中心に見て行く。
力仕事系は面接してもらっても君じゃ無理だなと一言で終了。
あれやこれやを試しているうちにようやく辿り着いたのがティッシュ配りだった。
良くも悪くも細かいことを気にしないらしくどこの学校でも何歳でもいいらしい。とにかく夕方からひたすら駅前でティッシュを配るだけ。
接客する必要もないし、他の人を気遣う必要もないし、ぴったりかも。
懸念があるとすれば知人に遭遇する可能性が高いってことだな。
まあ、この際だ、目を瞑ろう。さあ労働の時間だ!
三章四節 天信祷の応援
駅前の人混みというのは、どうにも慣れません。
肌も露な服装を見るだけで胸が苦しくなります。ああ、あの男性などはほとんど上半身裸も同然ではありませんか。なんとはしたない。
あちらの女性は隣の男性にべったりとくっついていて口、口付けを……。
それでも私は気持ちを落ち着けて電柱の陰から佐柳さんを見守ります。
時々不思議な顔をした人たちが横を通り過ぎていくのですがなぜでしょう。
これまでのお仕事はどれもうまくいきませんでしたが佐柳さんは諦めません。
はじめは校則を破ることに対する罪悪感があったのですが、ひたむきに働こうとしている彼を見ていると、自然と応援したい気持ちのほうが強くなりました。
神も、汗を流し、心身を清める彼を御赦しくださるでしょう。
ティッシュ配りをはじめてから三十分ほど経ちましたが芳しくはないようです。
「おねがいしまーす! あ、どうぞ、おねがいしまーす!」
邪魔にならないように離れたところにいても佐柳さんの元気な声が届いてきました。
必死に手を伸ばしても邪険に払いのけられたり、避けられたり、中々取ってもらえません。他に配っている方たちは、手際よく渡せているのにどこが違うのでしょうか。
見比べてみると他の方々は控えめの笑顔を浮かべながらも、相手の顔を見ていません。
佐柳さんは頑張るあまり表情が硬いですし、相手の顔をものすごく見つめています。
きっとそれが不快なのかもしれません。手を出すのも強引な気がします。
何かと礼拝を休んだり、課題を忘れたり、校則を破ったりする佐柳さんも、変わってきています。これも天使様のおかげですね。
ひたむきに働く姿には感動を覚えます。もっとお手伝いできたらいいのに。
時計を見るとそろそろ一時間が経とうとしています。
「祷、行かなくていいのかい? あいつなら俺が見ておくよ」
後ろに立っていたフィシオさんがそう声をかけてくれました。
天使様は佐柳さんに対しては厳しいですが、私にはとても良くしてくれます。
確かにもう五時になりそう。今ならまだ間に合うかもしれませんが……。
私は首を横に振りました。最後まで、佐柳さんを見届けます。
「佐柳さんが投げ出さないのなら、私も付き合います」
「やれやれ。そんなにあいつが好き?」
好き? 好き。す……何を言っているのですか!?
フィシオさんは意地悪く笑っています。ああ顔が熱い、胸の鼓動が早い。
人波に飲まれながら抗ってティッシュを配る佐柳さんは輝いていました。
学園に来たばかりの彼は大変な問題児でした。礼拝には参加しない、お祈りも覚えない、制服は着崩す、言葉遣いは荒々しい。はじめは馴染めないのだろうと思っていました。でも時間が経っても彼は変わりません。みんなと仲良くなろうともしてくれません。
そこで指導委員会に入っている私が、彼に更生してもらうべく指導役になりました。
お話をしてみると決して悪い方ではないと、すぐに分かりました。
男性と話すのはどうしても抵抗があったのですが佐柳さんのおかげで、私も成長することが出来ています。彼もまた、次第に、少しずつですが学園に打ち解けてくれました。
まだまだ休みがちですが礼拝にも参加してくれますし、私に気遣いをしてくれます。
だから、その、良い方だとは思っています。でもその、それが、あの。
こ、好意とよべるのか分かりません。
それに! そういう感情は、誓い合った仲でなければ抱いてはいけないのですっ。
「一つだけ教えておくよ。天使も人間と同じなんだ」
心を見透かしたようにフィシオさんが優しく肩を叩きます。
天使様も人間と同じ? どういうことなのでしょう。
今の私にはまだ、分かりそうにもありません。まだまだ精進が足りていませんね。
電柱から首を伸ばして佐柳さんを見届けます。ああ、手を払われた拍子にもっていた籠を落としてしまいました。散らばったティッシュを人々が踏みつけていきます。
なんと酷い、なんと醜い。彼はあんなにも頑張っているのに。
私はいてもたってもいられなくて駆け出しました。
人の流れに逆行して佐柳さんと一緒にティッシュを拾います。
「な、何やってんだよ、いいからあっちいってろって」
「私も手伝います!」
「駄目だってば。俺の仕事なんだから。怒られるだろ!」
慌てた佐柳さんが手からティッシュを奪い返して走っていってしまいました。
やはり私はお邪魔なのでしょうか。時折考えてしまいます。私がしつこくつきまとうから彼は礼拝に顔を出しにくいのではないかな、と。私がいるから仕方なく参加しているのであれば、神に対する偽りにもなります。その原因が私ならば、私は、悪。
呆然と立ち尽くす私の傍に近づいてきたフィシオさんが耳打ちをします。
「手伝えないなら君がティッシュを貰ってあげればいいんだ」
「でも一目で分かってしまいます」
「大丈夫、これを着ればね」
いつのまにか衣装をお持ちになっていました。あ、ああ、そ、それは。
前に佐柳さんについていったお店で売っていたいいいやらしい、や、やつです。
それを着るなんてとんでもない。あるまじき行為です。フィシオさんは天使様なのに私にも理解できない行動を取ることがよくあって困ってしまいます。
受け取る気にはなれず電柱まで戻っていて見守ることにしました。
せめて彼の努力を見届ける人が一人いたっていい。
私にはそれしか出来ないけど、ひたすらに励む佐柳さんを、見守り続けます。
頑張ってください、佐柳さんっ。
三章五節 フィシオの観察
日が暮れ始めてきた。佐柳といい祷といい、まあよく頑張るもんだ。
電柱からひょっこり顔を出したりこそこそ隠れたりしながら、彼女は握り拳を作って小さな声援を送り続けている。健気すぎて涙が出た。あくびをしたからじゃないぞ。
あいつもあいつで、思っていたよりも根性が据わっている。
戒めの影響で不運が続こうと歯を食いしばってティッシュを配り続けた。
そんな直向さは天使にとって糧になる成長の感情だ。戒めの効果も薄れていく。
次第に受け取ってもらえるようになって効率が上がってきた。
晴れ晴れとした表情が夕焼けに映える。同僚たちは経験者なのかさっさと配り終えてあがっている。残っているのは佐柳一人。
制限時間内に配り切れば報酬が加算される仕組みだから必死になってんだろう。
人間ってのは面白いもんだ。
欲の塊のくせにその欲のためなら努力もすれば成長だってしていく。
誰かのためならば己を犠牲にしてまでも無償で尽くせる。
俺ら天使も悪魔と同じで、そんな人間を食い物にして成り立ってるんだ。
素直な分悪魔のほうがまだマシかもしれない。俺らは、人間を騙し続けている。
今日もどこかで、誰かが、世界の平和を神に願い、祈りを捧げているだろう。
決して叶いはしないと知らずに、見向きもされていないと思いもせずに。
勤勉で真面目で平和に質素に平凡に生きている奴らに、神も天使も興味がない。
あるのは糧になる信仰を持つ信者たちか、“半端”に堕落している連中だ。
救うことで得られる糧は、ふり幅が大きいほど濃密になる。
真面目な奴を手助けしてやっても変化が小さい分、俺たちにとっては旨みがない。
逆に佐柳みたく、更生の余地が見える程度に堕ちている奴が標的になるってわけだ。
時々、俺は天使って呼ばれることが嫌になる。俺は、俺らは、お前たちが信じているような存在じゃない。そう教えて分からせてやりたくなるよ。
藁にもすがる思いで神に助けを乞うても、手を差し伸べてくれるのは、俺らじゃない。
そんなやつがいるとしたら、きっとそいつは、人間だろう。
「フィシオさん、あれを見てください」
夜の暗さと夕暮れの紅さが滲んで混ざり合う様を眺めていたら腕を引っ張られた。視線を空から佐柳に戻す。おやおや、ありゃぁ。
天使の便利なところその2。視力も聴力も人間のそれとは比べものにならない。
あいつはいかにもな格好をした柄の悪い連中に囲まれていた。
そのうちの一人と何やら話をしている。背が高くて佐柳越しでも顔が見えた。濃く染めた茶髪に耳元で鈍く光るピアス。瞳は悪徳の虜になっていてどす黒い。首から提げた金のネックレスが大胆に肌蹴た胸元で存在を主張していた。
へらへら笑いながらあいつの肩に置いた手には派手な指輪が嵌められている。
話を聞く限り、こいつが佐柳の悪友、荒深蛮らしい。
「お、おう、蛮。偶然だな」
「電話出ないと思ったら何やってんだよお前。いいからさっさと遊びに行こうぜ」
「ああ、その、悪い。俺さ、今金がなくて。バイトしてんだ」
「……は? あはは、それつまんねーぞ。ないなら親父から貰えばいいだろ」
「いやさー、まあなんていうか家庭の事情ってやつ? 自分で稼がないといけないんだよ」
「マジで言ってんのそれ? ふざけんなよ」
態度が急変。目尻をあげて睨みを利かせながら胸倉を掴み上げた。
遠目でもそれくらいは分かるだろう。祷が悲鳴をあげながら飛び出していこうとする。
「おっと駄目駄目、危ないから」
「でも佐柳さんが!」
「いいからいいから」
彼女を諌めて会話の続きに耳を傾ける。当然、聞こえもしない祷はおろおろするばかり。
「お前この前言ったよな、俺の欲しいもん買うのに金くれるってよ」
「うん。ちょっと時間かかりそうだけど」
「馬鹿かよ! 何十万すると思ってんだ。それじゃ遅いんだよ、てめえ俺に嘘つくってのか!? ああっ? なあ、俺ら中学からのと、も、だ、ち、そうだよなあ?」
「……ああ。だからさ、待ってくれよ。友達だろ」
「はっ、嘘つきなんかに用はねえ。くそっ」
「ごめん」
こりゃいい金ずるにされているな。あいつと遊んで帰ってきたときにやたら金減っているのはこういうことか。金が引き出せなくなったら用済みっと。
突き飛ばされた佐柳は尻餅をつきながら謝った。
あいつらは唾を吐きつけ、わざとらしく手を踏みつけながら人混みに消えていく。
すれ違う奴らに肩をぶつけても怒声を張るばかりだ。怖がって誰もが道を譲る。
立ち上がった佐柳の表情は今まさに夕暮れを飲み込んだ夜の暗さに包まれた。
無理くり笑顔を作ってみてもぎこちなくて、ティッシュも受け取ってもらえない。
「ひどい。どうしてあんなことをするのでしょう。佐柳さんが、何をしたのです?」
答えてあげるのは簡単だったが、俺はそっと肩を叩くだけにしておいた。
金と決別するきっかけには、良いのかもしれない。
結局、今日の仕事は不完全燃焼に終わった。後一箱ってところだったんだが。
一部始終聞かれていたとも知らず佐柳はわざとらしく明るく振舞っていた。
祷に問い詰められても友達の悪ふざけだから気にするなとはぐらかす。
気まずい雰囲気になったところで解散。佐柳は、一人にしておいてやろう。
俺は祷を家まで送っていくことにした。
「惜しかったな、あいつ」
黙ったままっていうのも気まずいので話を振ってみる。
足元を見ていた顔を微笑ませながら軽く頷く。心ここにあらずって感じだ。
「佐柳さん、頑張っていました。きっと、変わっていってくれます」
「そうだな。金持ちの馬鹿息子ってわけじゃなさそうだ」
「はい。でもなんだか、様子がおかしかったです。やっぱりあれは、何かあったのでしょうか」
俺だって本人に問いただしたわけじゃないから正確なことは言えない。
下手に吹き込んで空回りさせるのも嫌だからさあねとだけ答えておいた。冷たいな、俺。
こういうとき絵空事の天使なら彼女の悩みを聞き届け、真実を伝え、全てを救うんだろう。生憎だが、天使(おれら)にはそんな奇跡を起こすことが出来ないんだよ。
佐柳が知ったら目ん玉飛び出しそうな簡素なアパートに辿り着く。
二階にあがる外階段の前で別れの挨拶を交わした。
「ありがとうございました、フィシオさん」
「いんや、これでも天使だからな。君を守るのも、役目のうちさ」
自嘲で笑い出しそうになりながらふざけたウィンクを飛ばす。
ふふ、と祷の頬が緩む。これくらいしか出来ない天使で悪い。俺の懺悔は誰に届く?
彼女が部屋に入ったのを耳で確認して俺は背中の白い翼を広げた。
制服を着ていようが関係ない。翼はこの世界とはズレている。
知覚外の存在として己を定義してしまえば飛んでいる姿を見られることもない。
もしも近くに同僚か悪魔がいたら勘付かれるが、歩いて帰るには遠すぎるからな。
さてと、佐柳はどんな様子やら。
三章六節 荒深蛮の遭遇
「話が違うじゃねえか蛮。どうすんだよ、兄貴キレんぞ」
ああうっせえな! んなこと俺だって分かってんだよ!
むかついて路地裏に出されていたゴミ箱を蹴り飛ばす。くそっ生臭ぇなっ。
佐柳の野郎、金がないだ? ふざけんなよ、何のために友達面してきたと思ってる。
友達になってくれって金を出してきたのはてめえだろうが。
払えなくなったら友達の価値ねえんだよ。ざけやがって。
ああやばい、マジでこれやばいな。あの金づるがねえと兄貴に払えない。
そうしたら俺もこいつらもチームから追い出される。いや、それで済むんならまだいいけどよ、絶対制裁されんだろ……。
いっそそこらにいるおっさんから巻き上げるか?
二人もそのつもりなのか血眼になって獲物を探している。
「やめとけ」
今にも飛び出そうな馬鹿の肩を掴む。捕まったらおしまいだ。
「離せよ。そもそもてめえのせいだろ!」
「はあ? 何もしてねえくせにえらそうに言うなよ」
こんなところで馬鹿とやりあってもしょうがないのにつっかかってきやがる。
俺が佐柳とつるんでたからお前らだって甘い汁が吸えたんだろうが。感謝されても殴られる覚えはねえぞ。どいつもこいつもこっち見やがって失せやがれ!
とにかくどうにかして金を用意しないと。やっぱ佐柳に出させるしかない。
こっちが弱ってるんだって見せりゃあいつは喜んで金を出すはずだ。
いざとなったらあいつがやってきたことをネタに父親のほうを強請ってやりゃいい。
確か良い学校に入ったはずだからな。飲酒だけでもバラされたくないだろ。
でも、それで駄目だったら? あいつが、俺らのことをチクったら?
ああくそ、めんどくせえ。気晴らしに誰かぶん殴りてえな。
「あら、君、いい目をしているわね。暗くて、深くて、欲に堕ちた、いい目をしている」
路地の終わりに女が立っていた。とびっきり美人の、それもやばい女だ。
腰まで伸びている盛り上がった髪は、真っ赤な血の色をしている。どんなに綺麗に染めたらそんな色が出るのか、痛いくらいに赤ぇ。俺らを舐めます瞳も、宝石みたいにきらきらとした赤色だ。抜き取ったら高く売れそうだよな。
長身でぴったりと肌に吸い付く深紅のライダースーツが異様に似合っていた。
大胆すぎるくらいにジッパーをさげていてでかい胸が丸見えじゃねえか。
赤い女が腰をくねらせながら近づいてくる。魅入っちまって動けない。
「久しぶりにいい子に会えたようね。よかった」
手が頬を撫でる。長く尖った爪も赤くて、頬を引っ掻かれた。
柔らかい胸を押しつけながら頬から流れる血を舌で舐めとる。なんだよ、この女?
気持ちがざわついていた。たまらなくこの女が欲しい。この目、誘ってんだろ。
隣に立っていた二人も涎を垂らしている。おさまらねえ、ここでヤっちまえ!
「あらお盛んね。でも、まだ、駄目。あなたがうまくやったら、ご褒美をあげる」
赤い女が笑った。瑞々しい口紅が歪んで、赤い瞳が俺の奥まで入ってくる。
脳みそが溶けちまったみたいだ。熱くて、痛くて、痒くて、気持ち良い。
いつのまにか、俺も、あいつも、こいつも、火達磨になって燃えていた。
「ふふ、いいこいいこ」
ああ。分かった。分かったぞ。こいつは――。
市街地からだいぶ離れているので自家用車で送ってもらうか、専用のバスを使わなければ通学もままならない。お嬢様学校だっただけあって9割方送迎組み。
当然俺も執事の進士に送迎してもらっているんだけど、ただいま絶賛全力疾走中。
木漏れ日を全身に浴びながらぜえぜえ息を切らしてアスファルトを蹴りつけている。
なぜかといえば学園が『健康面』に配慮してくれたおかげだ。
直接車で乗りつけるのは運動不足を招くとかで駐車場は正門傍にしかない。
そこから校舎までゆるい坂道が十分ほど続く。
左右から迫り出した木々が屋根の役割を果たしてくれているから日差しは気にならない。
むしろ胸から湧き上がってくる吐き気と熱気に意識が飛びそうだ。
前日にまたも蛮に呼び出されて羽目を外しすぎたのを引きずっている。個人的に酒は好きじゃないんだが、飲まなきゃいけない空気ってあるよね。
こんな学園に通わされていれば多少道徳的にどうのってことも頭を過ぎる。
だがしかし、上司とのコミュニケーションならぬ飲みニケーションを強要される新人社員の如く、付き合いとして避けられない道もあるのだ。そう言い聞かせておこう。
弱い癖に飲むもんだから二日酔いで頭痛が酷いし体は重くて言うこと利かない。
放っておいても瀕死なのに走ってるんだから体調が最悪なのは当然だ。
今日は日曜日。普通の学生なら休みだヒャッハーってなもんだ。
ところがどっこいうちの学園には日曜礼拝という難敵が存在している。
強制参加ではないにしろ暗黙の了解があった。サボり過ぎは進路にも響く。
起きてびっくり途中でも間に合うかどうかの瀬戸際の時間だった。
進士を急かして車を走らせたが不運なことに家から学園まで五つもない信号が全部赤色。さらに山道に入ったところで大きな尖った石を踏んでパンク。タイヤの入れ替えにも時間をとられた。正門についてみたら帰路につく生徒たちと鉢合わせ。
気まずい思いのまま逃げ帰ればいいんだがそうもいかない理由がある。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ――」
走っても走っても走っても過去に行き着くわけじゃない。
俺が汗だくになりながら礼拝堂まで来たのは、彼女が待っているからだ。
「はぁっはぁ……はぁ」
「ごきげんよう、佐柳さん」
外のベンチにちょこんと座っていた祷が悲しげに微笑んだ。その顔、やめてくれ。
罪悪感で胸が一杯になりながらも息切れして謝罪の言葉も出ない。
怒るでも諭すでもなく、祷はカバンから塗装が剥げている魔法瓶を取り出した。
コップになる蓋を外して魅力的な小麦色の液体を縁まで注いでくれる。
「どうぞ。麦茶です」
ビバ麦茶。六月も終わりに近いのにこの暑さだ、日差しを浴びなくても汗はかく。
流し込んだ麦茶の冷たさと程よい苦味にくはぁつと息を吐き出した。
祷がお代わりを注いでくれたので遠慮なくもう一杯。生き返った気分。
「ありがとう、助かった――じゃなくてその、あー、ご、ごめん」
ここでいつもなら笑顔のお説教が始まるんだが祷は黙って俯いてしまった。
ベンチの隣に座ってみる。一人分の空きが絶壁のように立ちはだかった。
「怒らないの?」
あえて自分から死地に飛び込むこともないんだが気になって訊いてみた。
はっと顔をあげた祷が慌てふためきながらしどろもどろにお説教を始める。いつもと比べてどこか上の空で気持ちが篭っていない。散々聞かされているから違いが分かる。
途中途中で小学生に買い与えるような安物の時計に目を向けて溜息を吐いた。
「これから予定あるなら説教はまた今度でいいよ」
「いいえそんなことは、別に」
「さっきから時間気にしてるじゃん」
「だだ、大丈夫です。それよりもですね、日曜礼拝というのは――」
それ三分前に聞いたよ。無理やり笑顔を引き出しながら無茶苦茶な講義を続ける。
彼女は良くも悪くも嘘がつけない。天使と交信できるだけあって誠実さは保証済みだ。
表情にも声音にも態度にもそわそわ感が溢れている。説教することが自分の責務と信じて疑わないから放棄してどっかに行く気にもなれないんだろう。
生真面目っていうか、間違った一途っていうか。
「分かったって。もう反省したよ。今日は完全に俺が悪い。ほんとは参加するつもりだったんだけど、寝坊しちゃってさ。次はぜぇぇったい、参加するから。な?」
「木曜日の礼拝もですよ?」
「うっ……善処します。だからほら、早く行けよ。用事あるんだろ」
「まだバスの時間まであるので、ここで涼んでいきます」
ぎょっと目を丸くしてしまったことだろう。祷はバス通学組みだったのか。
つくづく彼女のこと何も知らないな俺。いいとこのお嬢様じゃないんだ。
てっきり金持ちの一人娘だと思い込んでいた。手塩にかけて懇切丁寧に育てられたからここまで清らかにいられたんだろうと勝手に納得していたよ。
今日は日曜日だから通学用のバスは本数が少ない。
具体的には知らないけど多分授業もないし次までに相当時間があるはずだ。
俺なんかを待っていなければすぐのバスに乗れたはずなのに。
相変わらず自分を犠牲にして他人に尽くすんだな。ちょっと、むかついてくる。
「よし、じゃあ俺が送ってくよ」
「えぇ!? けっ、結構です」
「遠慮することないだろ、減るもんじゃないし」
「フィ、フィシオさんはいらっしゃいますか!?」
さっと立ち上がって差し出した手を意図的に無視して駄天使の姿を探し始めた。
あいつなら今頃BDでも見ているんじゃないかな。礼拝には興味がないそうだ。お前らのためにやってやってんのにな。
「家にいるんじゃないかな。何か問題あんのか?」
「それは、その、男性と、二人と、いうのは、あの、その、あんまり、あの」
左の人差し指と右の人差し指の先をぐるぐる擦り合わせながらまっかっかな顔で言う。
ああそういうことか。祷が俺をつけまわしているといっても基本的には学園内のことだ。放課後までついてくるようになったのは駄天使が現れてからだったな。
つまり、俺=男と二人きりになるのは恥ずかしくてたまらない、ということだろう。
貞操の危機を感じているのかも。だとするなら失敬な話だ!
「運転すんのはうちの執事だよ。これなら安心だろ?」
「あ、はい、いや、やっぱり、ああ、私はどうすれば」
ぽっぽ頭から煙を振りながらいやいやとばかりに首を振っている。
何世紀前の女子だよ。だんだんイライラしてきて俺は強硬手段に訴えた。
「いいからいくぞ!」
「ひゃぅ」
強く握ったら折れそうな細くて白くてすべすべした手をとって引っ張り出す。
やめてくださいっと離れようとしたが俺と祷の力の差を比べるまでもない。
人を助けようと自分を犠牲にするなんて、俺は好きじゃない。むしろ嫌いだ。
その対象が俺っていうのがなおさら鼻につく。だったら俺も勝手に助けてやる。
周囲に人影なし。どうにか逃げようとする祷と無理に引っ張る俺。
端から見たら誘拐だもんな。坂を下りだした頃に祷が諦めた。今日は俺の勝ち。
「わわ、わかりました。送っていただきますので、その、手を、はなな、なして」
「最初から素直に甘えりゃいいんだよ。……そんなに嫌?」
手を離すと祷はすかさず俺から距離をとった。カバンから取り出したハンカチで手首を拭っている。なんだか汚物になった気分。
しょぼくれた気分で石ころを蹴飛ばす。そんなにしなくたっていいじゃないか。
男としての誇りをべきべきと引き剥がされたんじゃないかな、これ。
慌てて追いかけてきた祷が訂正する。
「すいませんっ、そういうつもりではなくて、なんというか、手を繋ぐというのは、あの、その、つまり、こ、ここ、こい……言えません」
「恋人?」
「ふぁっ!? あ、ああ、はい、その、そういう関係になってからではないと、生涯を誓い合わないと、よろしくないのではないかとそう思ったもので、その、はい」
「……子供だって手ぐらいつなぐだろ。どんだけ潔癖なんだよ」
「ごめんなさい、あまり、その、分からなくて。決して佐柳さんが嫌いなわけではありませんよ!? それは誤解です! 私、男性というのはもっと恐ろしいものだと思っていました。ですが佐柳さんは優しい方ですから」
こいつ学園に入るまで男を見たことがないんじゃないか? ここ日本だぞ、日本。
何時代まで遡ったら男が女を襲うのが当たり前になるんだろうな。歴史の問題です。
にしても、両手を胸に当ててにこやかに笑いながら「優しい方」なんていわれると心臓が驚く。他意はないはずだ、多分、きっと、絶対?
今度はこっちが恥ずかしくなる番でぷいと顔を元気に背伸びする木々に向けた。
「お節介されっぱなしは気に入らないんだよ。お前もお節介されてみろ」
「ありがとうございます」
こういうときだけ素直にお礼言いやがって。もう顔見れねーじゃん。
それから一言も交わさずに黙々と坂道を下って駐車場に戻ってきた。ぽつんと一台だけ取り残された胴長の真っ白いリムジンがある。
「もしかして、あれ、ですか?」
「あれしかないだろ」
俺が近づいていくと運転席から執事の進士が降りた。
確か三十手前でまだまだ若い。黒のスーツにネクタイ、白手袋に丸眼鏡、髪は短めに切りそろえている。親父の趣味で執事らしい格好をさせられていた。
俺にとっては兄貴みたいな存在だった。親父に言えないことも進士には言える。
「ごきげんよう、祷様。私、宝財院家の執事を勤めさせていただいている御堂進士(みどうしんし)と申します」
「ごきげんよう、進士さん」
「バスくるまで結構かかるから送っていきたいんだけど、いいよね?」
「もちろん。佐柳様がお友達をお連れになったと知れば旦那様も喜ぶでしょう」
「と、友達じゃないよっ」
胡散臭いけどカッコイイ笑みを口元に浮かべながら進士が後部座席のドアを開いた。
さっさと乗り込んで戸惑う祷を引きずり込む。またも悲鳴をあげた。
普通の車と違って座席はL字になっている。俺が縦の部分に座ると、祷は横の部分に座った。仲良く肩を並べるわけにゃいかないのは知っている。でも、寂しい。
ゆっくりとリムジンが動き出す。とりあえず市街地に出るのが先だ。
一旦街まで降りないとどこにもいけない不便な造りだから行き先は後でいいだろ。
このリムジンは俺専用なので酒類は置いていないがジュースなら一通り揃っている。クーラーボックスをあけて瓶コーラを取り出す。暑い日にはこれに限るね!
一気に飲んで炭酸の泡を喉で味わう。祷はアホみたいな顔で車内を見回していた。
バス通学するような家の子ならまあ驚くのも当然だろう。
「なんか飲む?」
「はあ……はっ、いえ、私には麦茶がありますので」
遠慮する必要もないんだが祷はカバンからボロボロの魔法瓶を取り出して笑みを作る。
昼食の質素さといい、使い古された魔法瓶といい、バス通学といい。
もしかしなくても俺が想像していた祷と目の前の祷は別人みたいだ。
改まって訊くのもなんか気がひけるので俺は小型テレビをつけた。
なんとなくニュース番組にチャンネルを合わせて数秒。瓶が床に落ちる。
しゅぅと底に残っていた甘ったるい液体が染みを広げていく。
「どうしたのですか?」
嘘、だろ……。金を注ぎ込んで株を買っていた会社が、倒産、だと。
父さん? 藤さん? 倒産ッッッ!
淡々と読み上げられる決定事項に血の気が引いていく。
俺が残金と命を繋げられて平然としていた理由がこれ。
親父から貰った金で遊び半分で始めたんだが案外うまくいっちゃってね。
その気になりゃ金なんかコピーするみたく気軽に増やせるぜげっへっへっへ。
んなこと思っていたのに。この会社、好調だったはずだろ、なんで!?
祷の言葉が左耳から入って脳みそをかき回したあと右耳から出て行った。
ニュースによれば脱税していたとか社長が麻薬を扱っていたとか唐突に出るもんじゃない不祥事が次から次に暴露された結果らしい。あんまニュース見てないから知らないだけだったのかな、あははは……。
取引できるのは明日からだけどきっともう手遅れだろう。世界は常に動いている。
全財産を投資していたわけじゃないが左手のカウントが一気に減るには十分過ぎた。
まだ変わってないのは明日売り払うまで金額が確定しないからだろう。
いかん。遊ぶ金も、あれこれ買う金も、かなり、吹っ飛んだ。
おかしい。なにかおかしい。思えば昨日から不運の連続じゃないか。
蛮たちとの待ち合わせ場所に行く途中で犬の糞を踏み、泥水を浴び、机の角に額をぶつけ、店員の粗相で料理をぶちまけられ、今日は今日で学園に行く途中の信号が全部赤だしパンクもするし、さらには倒産だって?
これは陰謀だ! 某国が俺を陥れようとしている!?
某国ってどこだよ、誰だよ、俺は何様だよ!
自分に突っ込みをいれるつもりでサイドドアに頭突きを繰り返す。
「ちょっと佐柳さん!?」
祷が必死に止めに入ったが俺は狂ったように笑いながら頭をぶつけ続けた。
冷静な執事は雇い主の大事な愛息子を心配することなく、祷に声をかける。
「どちらでおろしましょうか?」
「えと、それでしたら、駅前でお願いします」
「かしこまりました」
「あのー……」
「はい?」
「佐柳さんが、なんだかおかしいのですけれど」
「フィシオさまからお伺いしております。今日の佐柳様は気が狂ってしまうだろう、と」
なんだと。あの忌々しい駄天使が予め知っていただと?
つまり陰謀論は正解で犯人はお前だ!
ふふ、ふふふ、ふふふふふふっ。
不気味に笑い出した俺にひいて祷が手を離した。どんだけ邪悪な顔をしているかな。
駅前で祷を降ろすまで俺は笑い続け、彼女と別れるなり速攻で家に帰った。
やろうぶっ殺してやる。
三章二節 フィシオの策略
どたばたどたばた廊下からうるさいのが近づいてくる。
ちょうど最終話を観終えたところでよかった。そそくさとディスクを取り出して後片付け。身なりを直して椅子に腰かけ足を組む。これくらいで雰囲気の演出はいいか。
咳払いをして喉の調子を確かめてみた。ん、んー、よしよし。
力任せに開け放たれた扉が壁に激突して勢いよく閉まった。
一瞬だけ見えた憤怒が消えて苦悶が漏れ聞こえる。馬鹿なやつ。
再び扉が開いて佐柳が鼻息荒く近づいてきた。こめかみがいい具合にひくついている。
「おかえり」
「ただい……じゃないっ。お前の仕業だな!?」
どうやら効果が現れ始めたようだ。あえて知らないふりで首を傾げてみる。
「何が?」
「しらばっくれるなよ! 俺が不運な目にあってんのはお前の仕業だろうが駄天使!」
「暴力はんたーい」
胸倉を掴まれて椅子から引き上げられた。鼻息が顔にかかって生温かい。
相当辛い天罰が下ったみたいで一安心。これでこいつも改心してくれるだろう。
それにしても仮にも天使の俺に掴みかかるなんて世も末だ。昔は天使というだけで誰もが頭を垂れて救いを求め、赦しを乞い、羨望と敬意の眼差しで見つめていたらしいのに。
軽く手を払いのけてふんふん息を吐いている鼻を捻る。
「っでえなっ」
「落ち着けって。説明してやるからさ」
女性を抱きかかえる繊細さで佐柳をベッドに投げ飛ばした。
椅子に座りなおして得意気な顔で説明をしてやる。これで心を入れ替えなければ正真正銘救いようないお馬鹿さん。
「お前にかけたその戒めなんだけどな、残金が0になったら死ぬだけじゃない」
一応落ち着いたらしき佐柳を眺め回しながらもったいぶる。
早く言えと眼力で伝えてくるがいかんせん童顔で迫力がないな。
己の左手と俺を交互に睨みつける。深く深く息を吐き、吸い、指先を弄ってみる。
「早く言えよ!」
こいつは救い甲斐こそないがからかい甲斐がある。突っ込まずにはいられないから。
ベッドから飛び降りて詰め寄ってくるので両手をあげた。降参降参。
「言うってば。それな、金を使えば使うほど不幸になってくんだよ。その結果、0になったら死んじまう。どうせお前のことだろうから、0にしなければいいんだろ楽勝! とか思ってたんだろ?」
「うぐっ」
清々しい反応だ。二歩三歩後ずさって胸を押さえている。冷や汗が流れてきそう。
俺は哀れな少年の隣にいって肩を叩いてやった。アフターケアも仕事のうちさ。
「お前は改心するしかないんだよ。これまで通り好き放題金を使えば使うだけどん底に落ちていく。落ちては使い、使っては落ち、巡り巡って命を落とす。嫌だろ?」
「当たり前だろ! 今すぐ解除しろ!」
「無理無理。お前が金を捨てられない限り戒めは続くぞ」
「ふざけんな。せっかく大金持ちの子になれたってのに、我慢しろっていうのか!?」
「そういう心持が邪まだっていってんの。どうしても欲しいもんがあるなら自分で稼げ。それも、汗水流して清く正しく、な」
佐柳の顔が青ざめる。こいつの考えなんてお見通しなのだよ、天使様には。
……正直に言うと事前に鳴司と進士に話を聞いていたからなんだけどね。株とかいうので大金転がして収入を増やしているって。
何も稼ぎ方に文句があるわけじゃない。こいつは楽しようという一念しかない。
そこが問題だ。楽はつまり怠惰、悪魔の好物の一つ。天使としては赦してやれないのさ。
人間風に言うならば苦労は買ってでもしろ、だ。苦を乗り越えてこそ楽がある。
「ま、改めな」
貧乏から一転金持ちになり甘やかされてきた佐柳にはいやささか以上に辛いだろう。
それだけに乗り越えたときの成長は本人にとっても天使にとっても甘美なものになる。
励ますつもりで背中を叩いてやったのにあいつは力任せに振り払った。
「あーあ、わかった、わかったよ! 働きゃいいんだろ働きゃさ!」
簡単なのは無駄遣いをやめて物欲を捨て去り信仰心を育むことなんだけど。
どんだけ欲まみれなんだよこの少年。ぎらついた目の奥に欲が透けてみえているぞ。
俺もたまには天使らしく諭してみるかな。
「いいか、佐柳。貧乏な子供時代を過ごして辛かったのは分かる。金を持って気が大きくなるのもしかたがない。でもな、ものには限度ってものがあるんだ。もう十分散財しただろう。大人しく祷の説教を受け入れて礼拝に熱心に通え。無駄な買い物はするな。何も死ぬ気で働かなくてもいいんだ、まだ学生なんだから。弁えれば神も赦したもう」
我ながら完璧な説得だ。これで俺の仕事はおわ……らないか。
再び佐柳に胸倉を掴まれて鼻先を付き合った。今度は怒りではなく決意に満ちている。
「よくきけ駄天使。俺は神も天使も悪魔もどうだっていい。生きたいように生きさせてもらう。戒めがあろうが変わらない。欲しいもんの為に働いてやらぁ!」
「言ってることはまっとうなんだけど、お前の欲を満たすのにどれだけの金が要る?」
「知るか。必要なら必要なだけ稼げばいいんだろ」
「箱入り息子のお前が働けるのかね」
「お前の思い通りにはしてやらないからな、後悔させてやる!」
もう後悔している。なんか火に油注いじゃったかも、俺。
予定では『死ぬの怖いし、不運になるなんてひどすぎる。俺、心を入れ替えて礼拝にも通うし、お金も使わない。質素に慎ましく生きるよ、ありがとうフィシオ!』だった。
誤算なのが箱入り息子のくせに働くことに前向きだったとこだな。
てっきり働くなんて嫌だ楽したいよーって泣きつくもんだと。
身の回りのことは執事や使用人がやってくれるし、欲しいもんはぴっと三秒で買い漁ってきた。甘やかされ続けている人間は、努力や労力を厭うもんじゃないの?
佐柳はすっかりやる気になって俺を視界から締め出してスタホを操作している。
何気なく覗いてみたら求人サイトを見ているじゃないか。どこにそんなやる気が……。
どうも俺にたいするあてつけで暴走している節があるな。
くそ、どうしてこうなった。不慣れなことするから空回りするんだ。
後はもう祷が『校則でバイトは禁止されています!』と制止してくれるのを期待しよう。
三章三節 宝財院佐柳の労働
駄天使に課せられた忌々しい戒めのせいで今日も朝から絶不調だ。
まず進士が親父に借り出された。お抱えの優秀な秘書が急な発熱で動けないらしく、代わりに信頼できて雑務処理に長ける執事を連れていったってわけ。送迎担当は進士だけで代わりがいないから初のバス通学をするはめになった。
バス停がどこにあるのかも知らないから学園の公式HPでチェック。
余裕を持って家を出る真面目さで挑んだのに途中で事故現場に鉢合わせして迂回しなきゃいけないし、角から飛び出した食パン咥えたおっさんと激突するし、もう散々だ。
不運前提で動いたおかげで一時間目に間に合うバスに乗れただけマシか。
暴落した株の処理をしなきゃいけなくても取引は9時開始。授業真っ只中。
仮病使って抜け出そうかとも考えたが余計にややこしくなりそうでぐっと堪える。
今日は木曜でもないし遅刻もしてないし挨拶も「ごきげんよう」と先手必勝で言って祷の目を白黒させてやったからお説教なし!
休憩時間にすぐさまトイレに駆け込み個室でスタホを弄る。
「うわぁ……」
クソよりも重たい溜息が便器に流れる。損失、約110万だってさハハハ。
時間が経てば0を下回ったかもしれないことを思うと、どうにか一命は取り留めた。
空笑いしながら左手の甲を確認。ばっちり減額されて残り約20万の命なーり。
今月発売のDVDやBDに玩具に漫画にゲームに食費に交友費にまるで足りていない。
ここまで追い詰められたら癪だがある程度は我慢する必要がありそうだ。
本当ならこういうときこそ株で一儲けしてやりたいんだが、この不運じゃねぇ。
愚痴と一緒に捻り出した糞を流す。ぼごごごごぼごっぼごごごご。
非常に不愉快な音を立てるもんだからドアを開けつつ振り返って絶句した。
詰まるようなもん出してねえぞ!
溢れ出した汚水から目を逸らすだけの元気、残されてないよ。
制服にかからなかったのが不幸中の幸いだ。臭いも……大丈夫。
事務室に行って連絡してから教室に戻る。誰もいない。時計は始業開始1分前だぞ。
クラスを間違えたかとも思ったが、単に次の授業のことを忘れていただけだった。
二時間目は体育だもんね。そりゃみんないるわけないよね。
女子がいないから教室で着替えちゃえ。そしてまた過ちに気づく。
遅刻しないことで頭が一杯だった。進士も朝からいなかった。洗濯のために渡した体育着を持っていない。恐るべし駄天使の戒め。
制服のままグラウンドにいって先生からみんなの前でお説教。やめてみないで!
何が腹立つってクラスメイトが必死に笑うの堪えていてくれたのに対して、元凶の駄天使がげらげら笑っていることだ。そのうえこいつにジャージを借りろって?
他の男子は別のクラスだし、まさか女子にジャージを貸してくれとは言えない。
「いい加減懲りただろ。諦めろよ」
ジャージに着替える俺を眺めながら駄天使が言う。
確かにこいつが言ったように全て我慢すれば収まるのかもしれない。昨日までの俺とは別人になってしまえばそれでおしまい。そーんなのはいーやだっ。
「これは俺とお前の勝負だ。俺は負けない」
びしっと人差し指を突きつけて宣戦布告。こいつの喜ぶ顔が一番憎々しい。
意地を張っているなと自分でも思うよ。でもここで折れたら自分を見失ってしまう。
親父が不安になって天使を遣わしたのだってしかたがないって、分かっているんだ。甘やかされたのをいいことに好き勝手やってきた。文句はいえない。
我が子のように愛し、見捨てずに天使にまで頼ってくれるのは、嬉しいくらいだ。
分かっているからこそ、俺は俺のまま変わってやる!
にやついている駄天使に「佐柳様はなんて素晴らしいお方だ!」と土下座させてやるぞ。
気合十分でグラウンドに戻った途端に暗雲が垂れ込め急な土砂降り。
校舎に逃げ込んできた生徒たちと入れ違いで外に出ちゃってずぶ濡れになる俺。
「風邪、ひきますよ」
祷が優しく傘を差し出してくれた。この学園はどこまでも行き届いていて不意な雨に備えて生徒分の貸し傘が用意されている。人生初の相合傘も喜べない。
失った金額分だけ降りかかる不幸も増量ってわけか。上等だこのやろう!
その後は無事に過ごし――やたら先生にあてられたが可愛いもんだろ?――放課後。
掃除が終わるまで図書館で暇を潰してから教室に戻った。
「佐柳さん? 珍しいですね」
教室に残っていたのは祷と駄天使の二人だった。あとはもう帰ったか部活に行ったか。
いつもなら終わるなり遊びに繰り出している俺が放課後も残っているのはさぞ不思議だったろう。下手に移動すると不運な目にあいそうだから居残っていた。
綺麗に雑巾がけされたぴかぴかの席に座ってスタホを出して弄り倒す。
付き合うことにしたのか祷も駄天使も自分の席、つまり俺の前と後ろに座った。
「なにをされているのですか?」
首を伸ばして覗き込もうとするから体を横に向けて回避する。
校則には一応バイト禁止と記されている。事情があれば申請を出して許可を貰うことで出来るんだが、『金がなくなったら死ぬので働かせてください』と言えるわけもなく。
祷は生真面目ゆえに校則も厳守する。スタホ持込も最初は目くじら立てて怒っていた。
これに関しては生徒の要望が高く校則が変更されたのでもう怒らない。
でも調べているのが求人案内と知ればまたお説教だ。なので見せないが吉。
そんなこと分かっているであろう駄天使が余計な口を開く。
「バイト探してるんだよ。残金がごっそり減ったからな」
「てめえ!」
「まあっ」
つくづく足を引っ張る駄天使を睨んだ隙に左手ごとスタホを奪われた。
残金20万の表示と求人案内サイト、ダブルパンチで祷の上半身がふらつく。
本人が気丈に頑張ってるのにお前が倒れてどうするんだよ。
「いったい何に大金をお使いになったのですか!?」
「楽して儲けようとして失敗したんだよ、ぷぷぷ」
「一々バラすな!」
「佐柳さん! こちらを見てください」
あーあ始まった。有無を言わさぬ強い口調に渋々従って向かい合う。
十分ほど労働の尊さについて語り聞かされた。知ってるから探してんだってば!
「祷、お前の言う通り、楽して済む仕事なんてないよな。俺も痛い目みてわかったよ」
「そうです。神はいつだってその行いを見ていらっしゃるのですから」
「だから俺は命を繋ぐために真面目に、とっても真面目に、バイトしようと思っている。汗水流して得る金は良いもんなんだろう?」
「はい。汗は心を洗い流す聖なる雨なのですよ」
「じゃあ見逃してくれ。知っての通り、俺ぁ働かないといつ死ぬか分からない。校則で禁止されているからって、何もしないで死ぬのを待て、なんて言わないよな?」
校則で禁止されていても神には禁じられていない。ここが祷の弱点だ。
背後の駄天使が焦って介入してこようとするのを肘で押しやって阻止する。
彼女は窮地に立たされていた。校則を破ることを黙認するのは、誠実とかけ離れている。されど無理強いをして俺が死ぬことも望んでいない。
自分から『清く正しい労働』を願うのは、改心の兆しでもある。
右に、左に、薄い体が揺れる。振り子のように、メトロノームのように。
固く閉じた目を開き、険しく寄せていた眉が緩やかに下を向く。
しょうがないな。そんな慈愛に満ちた微笑で頷いた。
「分かりました。佐柳さんのためです。このことは内緒にしておきますね」
「ありがとう、分かってくれると思った!」
祷はいつだって他人を思いやってくれる。行き過ぎていてもそれは真心なんだ。
抱きついて感謝を伝えようとしたんだが悲鳴をあげながら避けられたのと、襟を駄天使に摘まれて引っ張り上げられたせいでうまくいかなかった。なんだよもう。
「いいのかい、祷。規則を破ることは、清らかな精神に汚点をつけるようなものだ」
あ、こいつ天使であることをいいことに祷を諭す気だな。負けるな祷!
たいそう辛そうな表情ではあったが彼女は俺のためになる方を選んでくれた。
「私が耐え忍ぶことで佐柳さんが変わっていくのであれば、構いません。それが奉仕するということだと、思っています。このことで天罰が下るのであれば、甘んじて受けます。私の心身は、神の御許に」
「おい駄天使、神に言っておけ。祷になんかしたら俺がぶっ飛ばす!」
「アホか死ぬぞ。祷の選択はきっと正しいさ」
とかいいながら舌打ちしている。お前が真面目にやってればそもそもこんなことには。
愚痴りたい気持ちを抑えながら俺は改めて手当たり次第に応募していった。
まずはチャレンジしてみることだ。自信がないとか適性がないとか後回し!
意気揚々とバイト探しに励み出したところで祷がとびきりの笑顔で水を差す。
「佐柳さんがちゃんとお勤めできるか、私、見守らせていただきますね。それと木曜と日曜には必ず礼拝に参加すること。これが見逃す条件です」
「えー」
「清く正しくないと判断しましたら先生方に報告しますよ?」
「俺が、信じられないっていうの!?」
目頭に力をこめて涙を搾り出してみるが祷には見えていないらしい。
「見届けるのが私の役目でもありますから」
「でもさ、祷にだって用事があるだろ?」
日曜のことを思い出す。自分の予定があるのにそれを割いてまで彼女は俺を待っていてくれた。バイトについてくるっていったって遅くなることだってある。
祷もそれくらい理解しているみたいで少しだけ悩むように頭を下げた。
「……いいのです。誰かに尽くすことが、神に対する労働なのです」
まるでそうしなければ生きていけないとでもいうような切実さが篭っている。
俺がどうしても嫌だ、邪魔だっていえば、きっと彼女は身を引く。
そうしたとき祷はひどく悲しい思いをするんだろうな。
自分を真っ向から否定されたようで。俺が俺を捻じ曲げてでも改心させようとすることに抗うように、彼女は彼女であるために俺に尽くそうとしていた。
だったらこれは俺と祷の勝負でもある。
どちらが自分を貫いて、どちらが相手に影響を受けるのか。
もしかしたら二人揃って変わるかもしれないし、二人揃って変わらないかもしれない。
突っぱねるのは簡単だったけど、俺は祷を受け入れた。
俺が俺なりに変わっていくところを彼女にも見せつけてやろう。
そして、祷のおかげでもあるんだって言ってやれれば、彼女も救われるはずだ。
黙って見守っている駄天使はどうせ役立たずだしな。
「そこまでいうならいいけどさ、無理するなよ?」
「はい、一緒に頑張りましょう」
「熱い熱い」
硬い握手を交わしてから俺たちは相談し合いながらバイト探しに熱中した。
あの駄天使も祷が折れたことで諦めたのか、自分のスタホで協力している。ちったあ天使らしいこともできんじゃん。
手当たりに次第に応募して手当たり次第に面接を受けに行く。
律儀にも毎回祷と駄天使がくっついてきた。恥ずかしい。
一件目、駅前のゲームセンター。さっそく祷が渋い顔をする。
徹夜で書き溜めた履歴書を持っていき、奥の個室で店長さんと面接。緊張して自然と背筋が伸びる。膝の上で握った拳に汗が溜まっていく。
「君、聖グレデンテ学園なんだ」
「は、はい。そうです」
「許可証は?」
「へ?」
「あそこってバイトさせるのに許可証出すでしょ、ないなら駄目だよ。前にこっそり応募してきた女の子雇ったのがバレたときにすげえ怒られたんだから」
恐るべき名門の威光。無許可の俺はそれ以上口も利いてもらえずに追い返された。
気落ちしている暇はない。祷に次がありますよと励ましてもらいつつ次へ。
二件目、やっぱり駅前のスーパー。今度は許可証について触れられなかった。
なぜかって面接まで辿り着かなかったからだ。店長さんが出てくるなり謝られたんだもん。さっき決まっちゃったからもういらないってさ。これも不運なのか?
日を改めて三件目、交差点にあるコンビニ。日曜礼拝があるために日曜は午後からしか出れないといったら露骨に嫌な顔をされて不採用。
五件目、チェーンのクリーニング店。学生可だけど高校生は駄目なんだってさ。
六件目、ガソリンスタンド。ようやく良い返事をもらう!
俺と祷は手に手を取り合って喜んでいたのに駄天使の顔色は良くない。
ふん、成功したことに嫉妬してやがるんだ。ざまあみろ。
だが現実は非情だった。試用期間一日目にして、焦って走った勢いで転びお客様の大事なカードを真っ二つに叩き折る。クレジットカードだったら即死だったろうけど、ポイントカードだったので再発行で事なきを得たものの、延々とお客様に怒鳴られた。
常連さんらしくその後店長にも言葉でしばかれて初日でクビ。
その後も何をどうやってもうまくいかなかった。
断られるのがほとんどで試しに働けても何かしらの失敗をして追い出される。
だいたいその相手が厄介なお客様か常連のお客様でお店へのダメージも高く、さっさと辞めさせられてしまう。敬語を使ってこなかった俺だから口調だけでお叱りコースも多々あった。なんかも、俺、心折れそう。
祷が優しく慰めてくれなかったら不貞腐れて親父に泣きついていたかもしれない。
それに駄天使が俺と祷がうっかり忘れていたことを教えてくれた。
「仮に採用されても給料日は翌月だろ。それまで平気なのか?」
おーまいがっ。俺の金にならなければ俺の命は増えないじゃないか!
再び求人案内に目を通す作業に戻った。今度は日払い、週払いを中心に見て行く。
力仕事系は面接してもらっても君じゃ無理だなと一言で終了。
あれやこれやを試しているうちにようやく辿り着いたのがティッシュ配りだった。
良くも悪くも細かいことを気にしないらしくどこの学校でも何歳でもいいらしい。とにかく夕方からひたすら駅前でティッシュを配るだけ。
接客する必要もないし、他の人を気遣う必要もないし、ぴったりかも。
懸念があるとすれば知人に遭遇する可能性が高いってことだな。
まあ、この際だ、目を瞑ろう。さあ労働の時間だ!
三章四節 天信祷の応援
駅前の人混みというのは、どうにも慣れません。
肌も露な服装を見るだけで胸が苦しくなります。ああ、あの男性などはほとんど上半身裸も同然ではありませんか。なんとはしたない。
あちらの女性は隣の男性にべったりとくっついていて口、口付けを……。
それでも私は気持ちを落ち着けて電柱の陰から佐柳さんを見守ります。
時々不思議な顔をした人たちが横を通り過ぎていくのですがなぜでしょう。
これまでのお仕事はどれもうまくいきませんでしたが佐柳さんは諦めません。
はじめは校則を破ることに対する罪悪感があったのですが、ひたむきに働こうとしている彼を見ていると、自然と応援したい気持ちのほうが強くなりました。
神も、汗を流し、心身を清める彼を御赦しくださるでしょう。
ティッシュ配りをはじめてから三十分ほど経ちましたが芳しくはないようです。
「おねがいしまーす! あ、どうぞ、おねがいしまーす!」
邪魔にならないように離れたところにいても佐柳さんの元気な声が届いてきました。
必死に手を伸ばしても邪険に払いのけられたり、避けられたり、中々取ってもらえません。他に配っている方たちは、手際よく渡せているのにどこが違うのでしょうか。
見比べてみると他の方々は控えめの笑顔を浮かべながらも、相手の顔を見ていません。
佐柳さんは頑張るあまり表情が硬いですし、相手の顔をものすごく見つめています。
きっとそれが不快なのかもしれません。手を出すのも強引な気がします。
何かと礼拝を休んだり、課題を忘れたり、校則を破ったりする佐柳さんも、変わってきています。これも天使様のおかげですね。
ひたむきに働く姿には感動を覚えます。もっとお手伝いできたらいいのに。
時計を見るとそろそろ一時間が経とうとしています。
「祷、行かなくていいのかい? あいつなら俺が見ておくよ」
後ろに立っていたフィシオさんがそう声をかけてくれました。
天使様は佐柳さんに対しては厳しいですが、私にはとても良くしてくれます。
確かにもう五時になりそう。今ならまだ間に合うかもしれませんが……。
私は首を横に振りました。最後まで、佐柳さんを見届けます。
「佐柳さんが投げ出さないのなら、私も付き合います」
「やれやれ。そんなにあいつが好き?」
好き? 好き。す……何を言っているのですか!?
フィシオさんは意地悪く笑っています。ああ顔が熱い、胸の鼓動が早い。
人波に飲まれながら抗ってティッシュを配る佐柳さんは輝いていました。
学園に来たばかりの彼は大変な問題児でした。礼拝には参加しない、お祈りも覚えない、制服は着崩す、言葉遣いは荒々しい。はじめは馴染めないのだろうと思っていました。でも時間が経っても彼は変わりません。みんなと仲良くなろうともしてくれません。
そこで指導委員会に入っている私が、彼に更生してもらうべく指導役になりました。
お話をしてみると決して悪い方ではないと、すぐに分かりました。
男性と話すのはどうしても抵抗があったのですが佐柳さんのおかげで、私も成長することが出来ています。彼もまた、次第に、少しずつですが学園に打ち解けてくれました。
まだまだ休みがちですが礼拝にも参加してくれますし、私に気遣いをしてくれます。
だから、その、良い方だとは思っています。でもその、それが、あの。
こ、好意とよべるのか分かりません。
それに! そういう感情は、誓い合った仲でなければ抱いてはいけないのですっ。
「一つだけ教えておくよ。天使も人間と同じなんだ」
心を見透かしたようにフィシオさんが優しく肩を叩きます。
天使様も人間と同じ? どういうことなのでしょう。
今の私にはまだ、分かりそうにもありません。まだまだ精進が足りていませんね。
電柱から首を伸ばして佐柳さんを見届けます。ああ、手を払われた拍子にもっていた籠を落としてしまいました。散らばったティッシュを人々が踏みつけていきます。
なんと酷い、なんと醜い。彼はあんなにも頑張っているのに。
私はいてもたってもいられなくて駆け出しました。
人の流れに逆行して佐柳さんと一緒にティッシュを拾います。
「な、何やってんだよ、いいからあっちいってろって」
「私も手伝います!」
「駄目だってば。俺の仕事なんだから。怒られるだろ!」
慌てた佐柳さんが手からティッシュを奪い返して走っていってしまいました。
やはり私はお邪魔なのでしょうか。時折考えてしまいます。私がしつこくつきまとうから彼は礼拝に顔を出しにくいのではないかな、と。私がいるから仕方なく参加しているのであれば、神に対する偽りにもなります。その原因が私ならば、私は、悪。
呆然と立ち尽くす私の傍に近づいてきたフィシオさんが耳打ちをします。
「手伝えないなら君がティッシュを貰ってあげればいいんだ」
「でも一目で分かってしまいます」
「大丈夫、これを着ればね」
いつのまにか衣装をお持ちになっていました。あ、ああ、そ、それは。
前に佐柳さんについていったお店で売っていたいいいやらしい、や、やつです。
それを着るなんてとんでもない。あるまじき行為です。フィシオさんは天使様なのに私にも理解できない行動を取ることがよくあって困ってしまいます。
受け取る気にはなれず電柱まで戻っていて見守ることにしました。
せめて彼の努力を見届ける人が一人いたっていい。
私にはそれしか出来ないけど、ひたすらに励む佐柳さんを、見守り続けます。
頑張ってください、佐柳さんっ。
三章五節 フィシオの観察
日が暮れ始めてきた。佐柳といい祷といい、まあよく頑張るもんだ。
電柱からひょっこり顔を出したりこそこそ隠れたりしながら、彼女は握り拳を作って小さな声援を送り続けている。健気すぎて涙が出た。あくびをしたからじゃないぞ。
あいつもあいつで、思っていたよりも根性が据わっている。
戒めの影響で不運が続こうと歯を食いしばってティッシュを配り続けた。
そんな直向さは天使にとって糧になる成長の感情だ。戒めの効果も薄れていく。
次第に受け取ってもらえるようになって効率が上がってきた。
晴れ晴れとした表情が夕焼けに映える。同僚たちは経験者なのかさっさと配り終えてあがっている。残っているのは佐柳一人。
制限時間内に配り切れば報酬が加算される仕組みだから必死になってんだろう。
人間ってのは面白いもんだ。
欲の塊のくせにその欲のためなら努力もすれば成長だってしていく。
誰かのためならば己を犠牲にしてまでも無償で尽くせる。
俺ら天使も悪魔と同じで、そんな人間を食い物にして成り立ってるんだ。
素直な分悪魔のほうがまだマシかもしれない。俺らは、人間を騙し続けている。
今日もどこかで、誰かが、世界の平和を神に願い、祈りを捧げているだろう。
決して叶いはしないと知らずに、見向きもされていないと思いもせずに。
勤勉で真面目で平和に質素に平凡に生きている奴らに、神も天使も興味がない。
あるのは糧になる信仰を持つ信者たちか、“半端”に堕落している連中だ。
救うことで得られる糧は、ふり幅が大きいほど濃密になる。
真面目な奴を手助けしてやっても変化が小さい分、俺たちにとっては旨みがない。
逆に佐柳みたく、更生の余地が見える程度に堕ちている奴が標的になるってわけだ。
時々、俺は天使って呼ばれることが嫌になる。俺は、俺らは、お前たちが信じているような存在じゃない。そう教えて分からせてやりたくなるよ。
藁にもすがる思いで神に助けを乞うても、手を差し伸べてくれるのは、俺らじゃない。
そんなやつがいるとしたら、きっとそいつは、人間だろう。
「フィシオさん、あれを見てください」
夜の暗さと夕暮れの紅さが滲んで混ざり合う様を眺めていたら腕を引っ張られた。視線を空から佐柳に戻す。おやおや、ありゃぁ。
天使の便利なところその2。視力も聴力も人間のそれとは比べものにならない。
あいつはいかにもな格好をした柄の悪い連中に囲まれていた。
そのうちの一人と何やら話をしている。背が高くて佐柳越しでも顔が見えた。濃く染めた茶髪に耳元で鈍く光るピアス。瞳は悪徳の虜になっていてどす黒い。首から提げた金のネックレスが大胆に肌蹴た胸元で存在を主張していた。
へらへら笑いながらあいつの肩に置いた手には派手な指輪が嵌められている。
話を聞く限り、こいつが佐柳の悪友、荒深蛮らしい。
「お、おう、蛮。偶然だな」
「電話出ないと思ったら何やってんだよお前。いいからさっさと遊びに行こうぜ」
「ああ、その、悪い。俺さ、今金がなくて。バイトしてんだ」
「……は? あはは、それつまんねーぞ。ないなら親父から貰えばいいだろ」
「いやさー、まあなんていうか家庭の事情ってやつ? 自分で稼がないといけないんだよ」
「マジで言ってんのそれ? ふざけんなよ」
態度が急変。目尻をあげて睨みを利かせながら胸倉を掴み上げた。
遠目でもそれくらいは分かるだろう。祷が悲鳴をあげながら飛び出していこうとする。
「おっと駄目駄目、危ないから」
「でも佐柳さんが!」
「いいからいいから」
彼女を諌めて会話の続きに耳を傾ける。当然、聞こえもしない祷はおろおろするばかり。
「お前この前言ったよな、俺の欲しいもん買うのに金くれるってよ」
「うん。ちょっと時間かかりそうだけど」
「馬鹿かよ! 何十万すると思ってんだ。それじゃ遅いんだよ、てめえ俺に嘘つくってのか!? ああっ? なあ、俺ら中学からのと、も、だ、ち、そうだよなあ?」
「……ああ。だからさ、待ってくれよ。友達だろ」
「はっ、嘘つきなんかに用はねえ。くそっ」
「ごめん」
こりゃいい金ずるにされているな。あいつと遊んで帰ってきたときにやたら金減っているのはこういうことか。金が引き出せなくなったら用済みっと。
突き飛ばされた佐柳は尻餅をつきながら謝った。
あいつらは唾を吐きつけ、わざとらしく手を踏みつけながら人混みに消えていく。
すれ違う奴らに肩をぶつけても怒声を張るばかりだ。怖がって誰もが道を譲る。
立ち上がった佐柳の表情は今まさに夕暮れを飲み込んだ夜の暗さに包まれた。
無理くり笑顔を作ってみてもぎこちなくて、ティッシュも受け取ってもらえない。
「ひどい。どうしてあんなことをするのでしょう。佐柳さんが、何をしたのです?」
答えてあげるのは簡単だったが、俺はそっと肩を叩くだけにしておいた。
金と決別するきっかけには、良いのかもしれない。
結局、今日の仕事は不完全燃焼に終わった。後一箱ってところだったんだが。
一部始終聞かれていたとも知らず佐柳はわざとらしく明るく振舞っていた。
祷に問い詰められても友達の悪ふざけだから気にするなとはぐらかす。
気まずい雰囲気になったところで解散。佐柳は、一人にしておいてやろう。
俺は祷を家まで送っていくことにした。
「惜しかったな、あいつ」
黙ったままっていうのも気まずいので話を振ってみる。
足元を見ていた顔を微笑ませながら軽く頷く。心ここにあらずって感じだ。
「佐柳さん、頑張っていました。きっと、変わっていってくれます」
「そうだな。金持ちの馬鹿息子ってわけじゃなさそうだ」
「はい。でもなんだか、様子がおかしかったです。やっぱりあれは、何かあったのでしょうか」
俺だって本人に問いただしたわけじゃないから正確なことは言えない。
下手に吹き込んで空回りさせるのも嫌だからさあねとだけ答えておいた。冷たいな、俺。
こういうとき絵空事の天使なら彼女の悩みを聞き届け、真実を伝え、全てを救うんだろう。生憎だが、天使(おれら)にはそんな奇跡を起こすことが出来ないんだよ。
佐柳が知ったら目ん玉飛び出しそうな簡素なアパートに辿り着く。
二階にあがる外階段の前で別れの挨拶を交わした。
「ありがとうございました、フィシオさん」
「いんや、これでも天使だからな。君を守るのも、役目のうちさ」
自嘲で笑い出しそうになりながらふざけたウィンクを飛ばす。
ふふ、と祷の頬が緩む。これくらいしか出来ない天使で悪い。俺の懺悔は誰に届く?
彼女が部屋に入ったのを耳で確認して俺は背中の白い翼を広げた。
制服を着ていようが関係ない。翼はこの世界とはズレている。
知覚外の存在として己を定義してしまえば飛んでいる姿を見られることもない。
もしも近くに同僚か悪魔がいたら勘付かれるが、歩いて帰るには遠すぎるからな。
さてと、佐柳はどんな様子やら。
三章六節 荒深蛮の遭遇
「話が違うじゃねえか蛮。どうすんだよ、兄貴キレんぞ」
ああうっせえな! んなこと俺だって分かってんだよ!
むかついて路地裏に出されていたゴミ箱を蹴り飛ばす。くそっ生臭ぇなっ。
佐柳の野郎、金がないだ? ふざけんなよ、何のために友達面してきたと思ってる。
友達になってくれって金を出してきたのはてめえだろうが。
払えなくなったら友達の価値ねえんだよ。ざけやがって。
ああやばい、マジでこれやばいな。あの金づるがねえと兄貴に払えない。
そうしたら俺もこいつらもチームから追い出される。いや、それで済むんならまだいいけどよ、絶対制裁されんだろ……。
いっそそこらにいるおっさんから巻き上げるか?
二人もそのつもりなのか血眼になって獲物を探している。
「やめとけ」
今にも飛び出そうな馬鹿の肩を掴む。捕まったらおしまいだ。
「離せよ。そもそもてめえのせいだろ!」
「はあ? 何もしてねえくせにえらそうに言うなよ」
こんなところで馬鹿とやりあってもしょうがないのにつっかかってきやがる。
俺が佐柳とつるんでたからお前らだって甘い汁が吸えたんだろうが。感謝されても殴られる覚えはねえぞ。どいつもこいつもこっち見やがって失せやがれ!
とにかくどうにかして金を用意しないと。やっぱ佐柳に出させるしかない。
こっちが弱ってるんだって見せりゃあいつは喜んで金を出すはずだ。
いざとなったらあいつがやってきたことをネタに父親のほうを強請ってやりゃいい。
確か良い学校に入ったはずだからな。飲酒だけでもバラされたくないだろ。
でも、それで駄目だったら? あいつが、俺らのことをチクったら?
ああくそ、めんどくせえ。気晴らしに誰かぶん殴りてえな。
「あら、君、いい目をしているわね。暗くて、深くて、欲に堕ちた、いい目をしている」
路地の終わりに女が立っていた。とびっきり美人の、それもやばい女だ。
腰まで伸びている盛り上がった髪は、真っ赤な血の色をしている。どんなに綺麗に染めたらそんな色が出るのか、痛いくらいに赤ぇ。俺らを舐めます瞳も、宝石みたいにきらきらとした赤色だ。抜き取ったら高く売れそうだよな。
長身でぴったりと肌に吸い付く深紅のライダースーツが異様に似合っていた。
大胆すぎるくらいにジッパーをさげていてでかい胸が丸見えじゃねえか。
赤い女が腰をくねらせながら近づいてくる。魅入っちまって動けない。
「久しぶりにいい子に会えたようね。よかった」
手が頬を撫でる。長く尖った爪も赤くて、頬を引っ掻かれた。
柔らかい胸を押しつけながら頬から流れる血を舌で舐めとる。なんだよ、この女?
気持ちがざわついていた。たまらなくこの女が欲しい。この目、誘ってんだろ。
隣に立っていた二人も涎を垂らしている。おさまらねえ、ここでヤっちまえ!
「あらお盛んね。でも、まだ、駄目。あなたがうまくやったら、ご褒美をあげる」
赤い女が笑った。瑞々しい口紅が歪んで、赤い瞳が俺の奥まで入ってくる。
脳みそが溶けちまったみたいだ。熱くて、痛くて、痒くて、気持ち良い。
いつのまにか、俺も、あいつも、こいつも、火達磨になって燃えていた。
「ふふ、いいこいいこ」
ああ。分かった。分かったぞ。こいつは――。
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