らいふ.いず.まねー

城戸陸

文字の大きさ
上 下
2 / 6

二章一節 宝財院佐柳の現実

しおりを挟む
 
 この世には神様や天使様っていう偉く尊い存在がいらっしゃる。
 普通に生きていればまずお目にかかることはないし、急速に進歩発展してきた現代社会で上っ面じゃなく本気で信じている奴のほうが少ないだろう。
 そういう連中からしてみれば神も天使も悪魔も幽霊と大差がない。
 見たことがないし、奇跡の恩恵に与ったこともないし、いないも同じだって具合だ。
 そのくせ都合よく願掛けするときだけ信じたり祝祭だけは楽しもうとする。
 ま、それが日本の現実だが、生憎、俺の現実は違う。
 親父に無理やり転校させられた先は聖グレデンテ学園。
 ここは文字通りというか何というか、一昨年までは女子高だった宗教色の強い学校だ。ヴンダー教ってのを信仰していて神も天使も身近な存在と信じて疑わない。
 ありきたりな現代社会の申し子だった俺は真面目にお祈りする連中を馬鹿にしていた。
 んなもんがいるならさっさと世界を平和にでもしてみろよ。
 すれた高校生にありがちな考え方だろ?
 今じゃ俺もすっかり心を入れ替えて少なくとも天使の存在は信じている。それにその天使がクソの役にも立たないどころか、疫病神同然だってことも身をもって痛感した。
「あーあ毎日健気に礼拝なんかしちゃってまぁ」
 なんで俺が天使を信じる気になったか。そりゃ簡単だ。
 隣を歩いている制服姿の美青年が“天使様”そのものだから。
 正門を抜けてすぐのところに大きな礼拝堂があって毎朝きっかり八時五分から礼拝をしている。木曜日以外は基本的に参加自由なんだが、ほとんどの生徒が毎日祈っているらしい。ちなみに今日は木曜日で、今は八時二十五分。
 礼拝堂の入り口から次々とセーラー服姿の女子生徒が吐き出された。
 どいつもこいつも膝ぴったりの丈のプリーツスカートで色気の欠片もありゃしない。
 真面目くさった顔で校舎に一直線。これだからやんなる。
「よく飽きないな」
 俺が言うならまだしも、拝まれるお前が言うのはどうなんだよ。
 天使の実情を知ったらこいつらも我に返って人生を謳歌するようになんのかな?
 いやいやそれはない。なぜなら一人だけこの駄天使を知っている女がいる。
 正確に言うならそいつがこいつを呼び出して俺に押し付けた。
 頼んでもいやしないのに俺を更生させるといってつきまとってくるしつこい女だ。今時小学生でもしないだろっていう三つ編みのおさげは似合っていて悪くない。飯食ってんのか疑いたくなるくらい痩せ細っていて胸はまな板なんだが顔が良い。可愛い、間違いなし。
 つっても何かにつけてお説教をするし、厳しく監視されてるから嬉しくないんだよねぇ。
 見つかると面倒だからこそこそと隠れながら玄関から二階にあがった。
 週一の礼拝をサボったときが特に怖い。にこにこしながら心を折りにくる。
 始業ギリギリに登校するのもそのせいだ。今日の遅刻は駄天使のやつに朝まで格ゲーの相手をさせられたせいだけど。ほんと、こいつむかつく。
 天使は人間とは別世界の住人だからか寝てないくせに明るい笑顔を振りまいていた。
 校則では異性交遊が固く禁じられている。不純に限らず清純でもダメゼッタイ。
 だからって本能を押し殺せってのも酷な話だ。共学化してまだ二年目、数の少ない男子は珍獣みたいなもんで、内心女子も興味津々。でも下手に近づけば指導委員会に睨まれる。
 てなわけで男の俺から見ても美形な駄天使の笑顔に女子生徒の目がとろーり。
 あげくこいつは天使のくせに女好きときてる。隙あらば近づいて楽しくお喋りだ。
「はいはい行きましょうねー」
 嬉しいけど困るな表情をしていた女子を救う名目で俺は駄天使の首根っこを掴んだ。
 引きずられながらも手を振ることを忘れない。普段は指を動かすのも嫌がってんのに。
 歩幅を調整して残り一分という絶好なタイミングで教室に着いた。
「ごきげんよう」
 扉の横に立っていた三つ編みおさげの女子が頭を下げた。ご丁寧に両手をへそのあたりで重ねている。
「おう」
 軽く言い返して通り過ぎようとしたら素早い身のこなしで回り込まれた。
 毎朝の恒例行事になっているからクラスメイトはくすくす笑いながら後ろの扉を使う。
「ごきげんよう」
 りぴーとあふたーみーってやつだ。
 意固地な俺はこれくらいじゃあ折れないぞ。
「よう」
 だいたい挨拶が「ごきげんよう」ってなんだよ。お嬢様学校ひきずってんな。
 共学化したんだから変えてくれよと心底思う。高校二年生にもなって「ごきげんよう」なんて恥ずかしくて口が裂けても言えないね。
 駄天使の意味深な笑みを視界から押しやって彼女を避……しかし佐柳は回り込まれた!
 逃げ確って何回目からかな、この人生ゲーム。
「ごきげんよう、佐柳さん」
 にこにこ笑顔なのに大きくて丸い目が笑ってない。
 始業のチャイムが鳴った。先生が来るまでに座らなければ遅刻扱いにされる。
 俺はともかく、こいつは品行方正成績優秀信仰熱心とフィーバー状態だ。
 遅刻ひとつが命取りになる。はずなのに、俺が頭を下げるまで断固として退かない。
 自分のことより他人のことが心配なお人よし。もしくは、お節介。
 結局、折れるのは俺のほうだった。溜息を吐きながら両手をへその上で重ねる。
「ごき、ご、ごきげんよう、祷さん」
「はい、ごきげんよう、佐柳さん、フィシオさん」
「ごきげんよう祷。今日も可愛いね」
 横から割り込んで教室に入った駄天使の言葉には黙って頷く。
 彼女も彼女で相手が天使ってことに戸惑っているのが分かる。信じている気持ちを裏切れず、かといって信徒よりもラフなあいつを受け入れきれないって感じ。
 だったら呼ばないでくれよ。なんて文句は言い飽きたから黙って席に着く。
 前の席に彼女、後ろの席に駄天使。ああそうだよ、コレが俺の現実だよ。

 地獄の午前中が終わって俺は全速力で教室から逃げ出した。
 授業は一回五十分。合間に十分の小休憩。ここだけはどこの学校でも変わらない。
 眠たい頭を叩いて必死に起きていた授業を聞き終えたあとに待っていたのが説教だ。
 口裏でも合わせたのか祷は一個前の席を与えられている。終業のベルが鳴って起立、礼の終わり際に食い込む勢いで彼女は振り返り俺の両手を握り締める。
 ふりほどけなくもないが周りには大勢のクラスメイトの目があった。
 信仰心の篤さを示すように澄み切っている瞳に見つめられれば歯向かう気も失せるさ。
 丸々十分間、祷は神の尊さ、天使の気高さを説き、礼拝の素晴らしさを語り続けた。
 これだから週一回くらいは我慢して礼拝に参加していたのに駄天使のせいで!
 俺を更生するべく遣わされた天使様はよりもよって家(うち)に居候し、人の部屋で勝手にゲームをした挙句、朝まで付き合わせた。本末転倒って四字熟語を空白だらけの辞書に書き込んでやろうか。
 憩いの昼休みも説教垂れられるのはごめんだったので祷を振り切り校庭の隅まで逃げた。
 一際大きい樹が植えられていて木陰は風通りがよく居心地が良い。
 大人が三人で手を回して届く太さだから陰に入れば人目も避けられる。
 あっちを見てもこっちを見ても女子女子女子女子女子女子女子……。
 どこにいたって男子の居場所なんざない。目のやり場に困る刺激的な格好でもしてくれるなら喜んで飛び込むが、堅物がセーラー服を着ているんだから面白くもなかった。
 小高く盛り上がったここなら校庭を一望できる。遠目から見る分には、まあ、いいだろ。
 さあ学校で唯一の楽しみお昼ご飯!
 執事の進士に頼んで取り寄せてもらった高級和牛焼肉弁当の包装紙を破り捨てた。
 木箱の弁当に敷き詰められた肉に肉。下敷きになったご飯が覆い隠れる厚みに俺ご満悦。
 一個五千円もするが美味いもんには命を払うだけの価値がある。
「いっただきまーす」
 他の連中はご丁寧に指を組み合わせて食前の祈りでも捧げていんだろう。
 俺は幼い頃ばあちゃんにきつく躾けられた日本人らしい挨拶で食事を始める。
 日本人でもなければ、本当のばあちゃんの顔も知らないけど。
 今でこそ超が付く金持ちの親父に引き取られて贅沢三昧だが、元々は孤児院で育てられた。なんでも幼い頃、玄関口に捨てられていたとかなんとか。さすがに覚えてない。
 貧乏ながらばあちゃんや他のみんなは慎ましく正しく暮らしていたっけ。
 俺はそんな生活が嫌で何度も何度も繰り返して脱走した。
 同級生が休み時間に笑いながらプレイするカードゲームにカッコイイヨーヨーやミニ四区、遊びにいって触れさせてもらうテレビゲーム。どれもこれも輝いていて子供の俺には刺激が強すぎた。欲しくて欲しくてしかたがなくてばあちゃんに頼んだけど、俺だけ特別扱いできるわけがない。妬み怨み玩具屋で眺め続けた結果、万引きしちまった。
 ばあちゃんや施設の人が頭を下げることで許してもらえたけどこっぴどく怒られたなぁ。
 口の中で溶ける肉なんてあの頃は一度だって食べたことがない。
 スーパーの廃棄寸前の腐りかけだってたまのパーティでもなきゃ満足に食えなかった。
 ある日親父が来て荒みきった俺を拾ってくれなかったらどうなってんだろ。
 美味いもんを食うたびに考えちまう。いかんいかん、自分でまずくすることたぁない。
 今の俺は違うんだ。親馬鹿を通り越した義理の父親は有り余る金を惜しげもなく与えてくれる。じゃなくて、与えてくれていた、か。
 確かに自由気ままに使い過ぎたよ。後悔も反省も、感謝だってしている。
 けどさ。何も更生させるのに天使を呼ばなくたっていいだろ。
 普通の親にゃ考えつきもしないぞ?
「はあ、なんでこうなるんだか」
 独り言だって自然に出るさ。この焼肉弁当もどっかで我慢しないと命が足りなくなる。
 俺は我慢っていうのが苦手だ。嫌いっていうよりも、堪えられない。
 長い貧乏期間で鬱憤が溜まっていたせいかな。欲しいもんはとにかく買う。食べたいもんはとにかく食う。金のある今を逃したらもう次がない気がするんだよ。
 もうあんな惨めな思いをするのは真っ平だ。かといって、人間、簡単には変われない。
 次から次に口に運ばれてくる肉の味が分からなくなってきた。これ、高いのに。
「おー、やっぱここにいた」
「んだよ」
 校庭ではしゃぐ女子たちに頭を下げられながら見慣れた顔が近づいてきた。
 形の良い耳と整った眉が見えるくらいに短くした黒髪をかきあげる姿がいやに様になっている。色合いの濃い瞳で無邪気に笑いながら隣に座って軽く肩を小突く。挨拶代わりだ。
 背は決して高くないのに背筋が伸びているせいか凛々しく見える。
 肌の白い横顔には男の俺をもどきっとさせる魅力があった。
 男よりも男装の麗人っていったほうが近い顔立ちから目を逸らす。
「しけたつらしてんじゃん」
 数少ない男子生徒の一人で、唯一交流を持っているのがこいつ、高良塚麗斗(たからづかれいと)だ。
 購買部で買ってきたのであろう牛乳パックと菓子パンをビニール袋から出して貪り食う。
 こいつは男の前では男らしく振る舞い、これっぽっちの信仰心も見せない。食事の挨拶を省略してもぐもぐ頬張りながら校庭を指差す。
「彼女、白鳥さんっていうんだけどさ。すげえ清楚に見えるじゃん?」
「汚いからこっち向くな」
 ぷぷぷと飛んできたパン屑を払いながら彼の指先を目で追う。
 なるほど。黒髪ロング、色白でスカートの丈は規定よりも長いくらい。にこやかな笑顔はとびきりに輝いていて清々しい。友達と四人、バレーボールを打ち合っている。
 動きひとつをとっても流れていて清楚と言われれば清楚かな。
 学園の生徒なんて似たり寄ったりな気もするが麗斗の目には違いが見えるらしい。
「ここだけの話、彼女さ結構やんちゃなんだよね。俺、誘われちゃったもん」
「何に」
「決まってんだろ、デートだよ、で、え、と」
 ウィンクがぱちんと音を立てた気がするくらい決まっている。
 どれだけ心身を清めてみても高校生の女子って事実は変わらない。年頃の男と女、デートくらいしたって不思議じゃない。それに麗斗は顔が良いからな。
 こいつの場合、女子から好かれる大きな要因がある。それが中世的なとこだ。
 元々女子高だけあって女子が女子を好きになってしまうのは世の中の必然といっていい。
 女女している世界だからボーイッシュな子は特に人気がある。
 要は男として好意を持たれているんじゃなく、男性的な女性的な男性として好かれているのだ。なんだかややこしいが、恋愛を抑圧されると変な方向に向かっちまうんだろう。
 性質の悪いことに麗斗は男と女の使い分けが巧い。屈指の演者だ。
「こっそり付き合うことにでもしたのか?」
「まさか。ちゃんと清く正しく振舞ってお友達を続けているよ。好きだけど伝えられない、そんな切ない顔を見るのが、俺は大好きなんだ」
 ふっふっふっふと笑って豪快に牛乳を飲み下す。
 引く手数多のモテ男なのに麗斗には特定の相手がいない。男好きってわけじゃ……ない、と信じている。
 男らしい女性的に彼女たちと接して友好関係を築いたらそれっきり。恋愛感情のれの字も持ち合わせてない。彼女たちももどかしいながら校則や教えもあって大胆になれないから安全地帯ってわけ。んでこいつの趣味が女の子の『観察』。
 俺なんか体育の授業になれば無言の圧力で部屋を追い出されるが麗斗は一緒に着替える。
 彼女たちがこいつを『女子』の仲間と扱っているらしい。
 色とりどりの下着見放題天国の良さを何度語り聞かされたか。
 そんな性癖なのに真顔で飄々と着替えられるんだからたいしたもんだ。よ、名役者。
 女を演じて見聞きしたものを『おかず』にして妄想に耽るのが大好きなど変態。
 しかも男の俺に披露して喜ぶ極めつけの変人だ。彼女らが知ったら良くて失神、悪ければ天に召されそうだが、俺の言葉を信じる女子生徒はまあ、いないわな。
 麗斗の桃色妄想話を聞き流しながらぼんやりしていると駆けてくる姿を見つけた。
 あ、やば。見つかった。逃げ場がない。
「ごきげんよう、祷さん」
 切り替え早っ。彼女が聞いたら卒倒しそうな卑猥な言葉を口走っていた奴とは思えない。
 程ほどの高さでよく透る声で呼びかけやがった。余計なことすんじゃねえよ。
 肩で息をしながら祷が膝を折って麗斗に頭を下げる。
「ごきげんよう、麗斗さん。いらっしゃったのですね」
 彼女もまた無知なる一人だ。麗斗を見る目と俺を見る目じゃまるで別人。
 さてさて説教が始まるまえに都合よく隣にいる友人を盾にして逃げるとするかな。
 立ち上がりかけた俺の肩を強引に押さえて麗斗が爽やか過ぎる笑みを浮かべた。
「せっかくだけど僕はもう行くよ。ごゆっくり」
「ちょま、待てっ!」
 あれは明らかに楽しんでいる顔だ。軽く手を振りながら駆け足で遠ざかっていく。
 そのまま白鳥グループに混じってバレーボールを打ち上げている。時折ちらっとこちらに視線を向けてくるのが腹立たしい。いつもお前の趣味に付き合ってやってのにさっ。
「私、お邪魔してしまいましたか?」
「あ? ああ、別に、なんでもないよ」
 素っ気なく言っておいて俺は座りなおした。食べ残した焼肉弁当に向き合う。
 がむしゃらに食べるふりをしつつ時間を潰せば言い逃れが――。
「まあ。またお肉ばかりを食べて。野菜もとってくださいと言ったじゃないですか」
「うるへい」
「お行儀が悪いですよ? 食べ終わってから話してくださいね」
 お前は俺の母ちゃんか! もしくは姉ちゃんか!
 ツッコミは心の中で虚しく跳ね返る。麗斗が座っていた場所に腰をおろして祷が食前の祈りを短く唱えた。それから可愛らしい刺繍入りの布を開く。
 薄切りハムとレタスの質素なサンドイッチが二切れとカップに入ったサラダ。
 こんなもんしか食ってなけりゃガリガリに痩せて当たり前だな。
「はい、どうぞ」
 じいと見ていたせいで勘違いしたのかなけなしのサラダを手渡してきた。
 八百屋で売ってる野菜を切って和えただけのありふれた一品だ。いるかっつーの。
「自分で食えよ。それしかないないんだろ」
「私は大丈夫です。佐柳さんはもっと野菜を食べてください」
「……お前は俺の何だよ」
「何って学友ではありませんか。私はあなたに更生していただきたいのです。食生活の改善は、心身を改める機会の一つですからね。さあ、どうぞ」
 ぐいぐいぐいぐい手の平に押し付けられてカップがべこべこと凹んだ。
 カップ、顔、カップ、顔。見比べてみる。なぜもこいつは満面の笑顔なんだ?
 自分のサンドイッチをお淑やかに摘んだまま俺から目を離さない。
 サラダを口にするまで見ている気なんだろう。ここまでくると執念だな。
「見られてたら食いにくい」
「あぁっ、私としたことがはしたない。すいませんでした」
 照れくさそうに頬を赤めながらそっぽを向いてサンドイッチを一齧り。
 ネズミでももっと大胆に食うだろって感じで小さく食べている。俺は諦めて蓋を取ってレタスに箸を突き刺してぱくり。しゃくしゃく咀嚼しながら祷の背中を見た。
 滑らかなのにぴんと張っている。膝を折りたたんで座る姿が絵になっているなぁ。
 黙っていれば綺麗なのに喋り出すと神だ天使だお説教だで耳が痛くなる。
 にしても痩せすぎだ。背骨がブラウスに張り付いてるんじゃねーかこれ。大丈夫かよ。
「おい」
「はい?」
 振り返った祷の鼻先に焼肉弁当を突き出した。くんくんと鼻が上下する。可愛いなおい。
 目を点にしているのでお返しのつもりでぐいぐい木箱を差し出した。
「食えよ。サラダのお礼」
「いえ、あの、それは」
「お前痩せすぎだから肉食え、肉」
「でもそんな高価なものはいただけません」
「ほうほう、人の厚意を無駄にしろと、神様は仰っているのかな?」
 対祷決戦兵器を使用。彼女はぐっと息を詰まらせて俯く。
 神や天使を出すと非常に弱い。よもや神様が厚意を無駄にしていいと教えているはずがないので、祷はこくりと頷いて弁当を受け取った。
 恐る恐る使い捨てフォークを肉に突きたてて持ち上げる。
 神妙な面持ちで端っこに齧りついた。みるみる目が大きく開かれていく。
「どうだ?」
「お、おお……」
「お?」
「美味しいですっ」
 目が輝く。俺が初めてうまいもんを親父に食わせてもらったときにそっくりだ。
 星になった目をぱちくりさせながら肉と俺の顔を交互に窺う。
 何かにつけて俺を追い掛け回す祷に餌付けをするのが俺のささやかな反抗だった。
 質素に慎ましくをモットーにしている彼女を堕としてやる、ふふふ。
 欲望を我慢しつつ至高の肉を前に戸惑っていた。餌を待つ子犬みたいで見飽きない。
「残したら罰が当たるぞ」
「そ、そうですよね!」
 はしたなく見えない程度に祷は喜んで一枚の肉と格闘しはじめる。
 ご飯も少しだけ食べていた。食欲があっても小食なのは変わらないか。
 微笑ましい光景を見守って数分。食べ終えた祷が青白い顔で落ち込んでた。
「どうした?」
「……ああ、私は、なんと罪深い。神よ、愚かな私を赦し給え」
 どうやら快楽の味を知ってしまったことを嘆き悔いているらしい。
 背を向けてぶつぶつ懺悔の言葉を呟きながら天を仰いでいる。面倒くさいなもう。
「安心しな祷。ジジ――神はお前を赦している。泣くことはない」
「うぉわっ、いつのまに!?」
 樹の陰から駄天使がぬっと姿を現して優しく祷の肩を抱き寄せた。
 にやにや顔をいつか一発ぶん殴ってやると俺は会ったときから心に決めている。今かもしれない。あいつの指の動きのいやらしいこといやらしいこと!
 天使に慰められたことで祷の気も済んだらしくさっと立ち直っていた。
「お恥ずかしいところをお見せしてしまいましたね」
「こいつの顔より恥ずかしいもんはないさ」
「んだとぉ!」
「佐柳さんっ、暴力はいけませんっ!!」
 駄天使は暇があれば俺を馬鹿にして遊んでいる。俺だってなあ、駄天使ほどじゃないにしろナチュラルな金髪と明るめのグリーンな瞳でそこそこイケてるほうだぞ!
 童顔なのが気になるが一部じゃ可愛いって評判なんだからなっ、ほんとだかんなっ。
 むきになって食って掛かろうとしたら素早いみのこなしで祷が間に割り込んだ。
 両手をいっぱいに広げて真面目な顔で怒っている。
 彼女の肩からそれはもう楽しそうな駄天使の笑顔が出たり入ったり。
 ぐぬぬぬぬ。震える拳をどうにか落ち着かせる。祷ときたら天使様にぞっこんだから。
 仕返しするなら彼女がいないところでやろう。そうしよう絶対だ、今に見てろ。
 だいたいこんなナメた暴言吐くこいつのどこがどう天使なのか説明して欲しいもんだ。
 放課後の楽しみを想像してやり過ごすことにして俺は後片付けをして校舎に向かう。
 午後も授業の合間に説教されるんだろうが、はんっ、それくらい我慢してやらぁ。
 かくして俺は、放課後も束縛されることなど知らず、頑張るのであった。

二章二節 宝財院佐柳の享楽

「おい、なんでついてきてんだよ」
「お前を更生させるのが俺の役目だから」
「フィシオさんに教えていただいたのです。目を離すとすぐ散財してしまうでしょう?」
「俺にプライバシーはないのか!」
「ないない」
「それよりも、あの、皆さん恥ずかしくないのでしょうか? あのような格好で……」
 俺もとい俺ら三人は駅から程近いアニメイツっていうお店に来ていた。
 ここには古き良き時代の物から最新の物まで、ありとあらゆるジャンルのアニメ漫画ラノベを取り扱っているマニア垂涎の宝庫だ。全国展開していて名も知られている。
 そんなお店なもんだから祷からしたら信じられない格好の連中もいるわけだ。
 彼女が頬を赤らめながら横目で確認しているのは女の子二人組み。
 一人はフリルがついた黒いドレスでスカート部分は膝丈半分。はしゃいで飛び跳ねるたびに見えちゃいけない部分がお目見えしている。下着もお揃いの黒とは大胆な。左手には柄に髑髏の意匠がある日傘を持っている。ゴスロリって奴だろうな、多分。
 もう一人は対照的にピンクのひらひらワンピース。手にはハート柄の日傘。流行なのか?
 他にもアニメキャラのコスプレやら他校の制服姿やら、学園でまず見ることのない服装で溢れかえっている。どれもこれも祷には刺激的だろう。
 何よりスカートの短さが気に入らないらしく、見えそうになる度悲鳴をあげていた。
「中高生ってあんなもんだろ。学園が時代に置いてかれてるんだよ」
「そんな……あんまりです。だって、ああ、ほら、また見え……見てはいけません!」
 鼻の下を伸ばしている駄天使の両目を祷の手が覆った。おかげで俺は楽しめたので良し。
 そういえば俺は祷の制服姿しか知らない。これはひとつからかってやろう。
「興味あんなら買ってやるよ。ほら、これなんてどうだ?」
 彼女の腕を引っ張って三階コスプレショップに連れ込む。さっき観察していたロリータちっくな濃いピンクの上下を突きつけた。ぼっと火を噴きそうなほど頬が赤く染まる。
 振りすぎてもげるんじゃないかと心配になる勢いでぶんぶん首を振った。
「だだだだだだ駄目です! はしたないです!」
「はしたなかないだろ。お前はもっと自分を楽しめ。遠慮するな」
「そういう問題ではありませんっ」
 適当に並んでいる服を取って次から次に彼女の体に合わせてみる。
 スタイルはいいからどれでも似合いそうだな。お、これは一時期オタク女子がこぞって求めたアニメ『青春学園』の制服じゃないか。ブームが終わって捨て値になってるぞ。
 ミニスカートを腰の高さに合わせていたら祷が絶叫をあげながら逃げ出した。
「私、外でお待ちしておりますっ」
 どんだけ嫌なんだよ。狭い通路で客にぶつかっては謝りながら走っていってしまった。
「あんまいじめんなよ」
「その手にしてんのはなんだ?」
 いつのまにか消えていた駄天使の声に振り返る。両手に婦警とナースのコスプレ衣装。
 丈が小さすぎてどう考えても下着が見えるやつだ。きっと奥にある十八禁コーナーから引っ張ってきたんだろう。ナースのほうなんか透けてるじゃねえか!
「似合うかなーと」
「……エロ天使」
 祷が逃げ出してくれてよかった。こんなのを見せられたら気絶しちまうぞ。
 よりにもよって心身を捧げて尽くすヴンダー教の天使が持ってきてんだから。
 肩を竦めて奥に戻っていった隙に俺はお目当ての宝を買うべく上の階にあがった。
 悪いことをしたなと罪悪感を覚えつつも、お邪魔虫を追い払えて一安心。
 下心満載の天使が他の女に見惚れている間に買い物を終えてしまおうっと。
 最上階、アニメ特撮のコーナーに足を踏み入れる。ああ、ここが俺の天国(パラダイス)。
 孤児院に居た頃の数少ない楽しみがアニメや特撮だった。玩具は買ってもらえないし、遊園地や映画館なんて夢のまた夢。そんな寂しい少年時代を彩ってくれた作品たち。
 毎日毎日好き嫌いせずに色々な番組を見ていた。少女向けでもお構いなし。
 親父に引き取られてからも見るのを辞めるどころかそっちの方向に熱をあげた。
 あの頃は手が届かなかったヒーローの武器やフィギュアにロボット。古今東西のDVDにBDもひたすらに買い漁ってやったさ。開けずに積んである奴も多い。
 一番のお気に入りが再放送で見た『絶対正義ユウシャイン』ってアニメだ。
 世界的大企業の社長が正義に目覚めて強化スーツを作り、社員たちが着用して世界に巣食う悪と戦う子供向け作品。いつか金持ちになったら俺もヒーローになってやるぜ!って夢見ていたなぁ。懐かしい懐かしい。
 現実金があっても技術が足りないのでんなことは出来なかったけど。
 さてこのアニメ。たいして人気があったわけじゃないからグッズやディスクが少ない。
 一方カルト的な熱狂信者がある程度いるせいで競争率が高くプレミアがつきやすかった。
 なもんだから転売屋が目をつけて絶滅危惧種の個人経営の玩具屋なんかも巡って買い漁りやがる。さらに値段が高騰するし、中々市場に出てこない厄介もん。
 いくら金があってもタイミングよく出会わなけりゃ買うことも出来ない。
 そんな、そんな作品の初回限定DVDBOXが入荷したというじゃあ~りませんか!
 この店で使った金額はサラリーマンの平均年収を軽く越える。
 おかげで店長と仲良くなっていて何かと融通を利かせてもらっていた。
 というわけでカウンターで店長を呼んでもらう。明らかに脂肪過多な出っ張っている腹を揺らしながら彼が出てきた。丸眼鏡に髭面と近寄りがたい雰囲気があるが、実際は面倒見がよくて店員にも好かれている。常連の客とも仲良くお喋るするタイプだ。
「来たねぇ、来ちゃったねぇ?」
「あったりまえだろ! な、あんだろ、あんだよな!?」
「ふふん。手に入れるのに苦労したんだから」
 後ろに回していた手を前に持ってきてじゃーんとカウンターにBOXを置く。
 ああ、ああっ、間違いなく『絶対正義ユウシャイン』の初回限定版だ!
 それもそれもそれもっ、特典のオリジナルエピソード小説もユウシャチョーのフィギュアも秘書ヒロコさんのきわどい水着トレカも完備しているじゃないかぁぁぁぁっ。
「どうだい、ほぼ完品だぞぉ。帯がないのが残念だけど、許容範囲でしょでしょ」
「十分すぎるよ! 愛しているぜ店長っ」
 身を乗り出して巨漢に抱きついて肩をばんばん高く。この方こそ俺の天使様だ!
 馴染みの店員たちがくすくす笑っているが気にならない。ご要望とあらばホッペにチューだってするさ。さすがに店長のほうが嫌がって突き放されちまったけど。
「肝心のお値段なんだけど……」
「いくらでもいいよ、いくらでも買う!」
「そう? んー、佐柳くんには贔屓にしてもらってるから三十万でどうどう?」
「買う買う! 安いくらいじゃん!」
 一度見たネットオークションじゃ完品でもないのに三十五万で落札されていたくらい。
 この良好な状態で三十万とか安すぎて申し訳ないくらいだ。隣で会計をしていた客が目を丸くして俺の横顔に熱い眼差しをくれる。
「お前さ、自分の立場わかってんの?」
 幸せ夢気分に冷水をぶっかける駄天使には睨みをプレゼントだ。
 こいつは足音も立てずに背後に忍び寄ってくるから気色が悪いったらない。
 俺の左手を掴みあげて顔の前に甲を持ってきた。
 デジタル時計の表示にも似た赤く点滅する200の数字。
 天使と引き合わされたときにこいつが真っ先にやった『戒め』の印だ。
 店長も店員もぽかんとしている。この数字は俺と駄天使、それに祷にしか見えない。
 で、これが何の数字かってことなんだけど。すぐに分かる。
「うっせえな。欲しいもんは欲しいときに買わなきゃいけないんだよ!」
「死にたがりか?」
「買わなきゃ死んじまうよ。店長、これもらうね!」
 駄天使を振り切って俺はカウンターの読み取り機にICカードをかざした。
 ぴっと三秒で三十万の会計が済む。電子マネーが当たり前の昨今、大金が大金に感じられない。改めて左手の甲を見ると数字が170に減っている。
 そう、この数字は俺の『残金』を示している。端数は一万を切れば表示されるらしい。
 じゃあなんで天使様は俺を更生させるためにこんなことをしたのか?
 この『残金』は俺の『命』と繋がっている、と説明を受けた。
 残金が0になると命も0――つまり死ぬ。死にたくなければ節約しろ。
 これが本当なら死にたくないから大人しく節約を覚えて更生していくのかもしれない。
 駄天使の狙いはそこだった。命がかかっていれば嫌でも改まるだろ。さっさと反省して終わらせてくれってな。残念、俺は買いたいときには買う主義なんだ。
 それに0にしなければいいんだ。親父からのお小遣いはなくなったがやりようはある。
 どうして余裕ぶっているのかはそのうちに教えてやろう、ふふん。
「んじゃこれも頼む」
 駄天使がすっとカウンターに置いたのは『名探偵エジソン』のBDBOX。
 有名大学教授が己の発明品を使って警察の捜査に協力する探偵ドラマだ。俺はドラマにゃ疎いが映画化もしているしタイトルくらい知っている。
 問題はなぜ俺が頼まれなければいけないのか、ということだ。
「お前な、俺を更生させるために召喚されたんだろ、そうだよな? なのになんで、どうして、俺が命削ってお前の分を買わなきゃいけないんだ? ほんとは悪魔なのか?」
「天使ともなると人間界(ゲン)の物質を所有できないんだよ。例外があって捧げられる場合に限って信仰心の代わりに受け取れる。そういうことだ」
「どういうことだよ! 俺が買ってやる理由になってないぞ」
「この前熟女モノエロサイトを見ていたよな」
 ぐっ。なんで知ってやがる!?
 おいそんな目で俺を見ないでくれ店長! 店員AとB、違う、これは誤解だ!
 リンクを飛んでいたらいつのまにかそういうサイトに誘導されてしまったのであって俺が熟女趣味だなんて思わないでくれ。ああ、そんな哀れんだ顔をするなぁっー。
「夜遊びしすぎて白紙だった課題を手伝ってあげたのは誰かなー」
「うぐぐぐぐ」
 駄目天使といっても天使は天使。人間の能力を遥かに超えている。のかイカサマしているのか分からないけど、悔しいことにこいつは何でも出来てしまう。
 甘い言葉に惑わされて手伝ってもらったのが運の尽き、か。
「まだまだ佐柳くんの秘密いっぱい知っているんだけどなー。みんな聞きたい?」
 黄金の笑顔を振りまくと店長も店員も通りすがりの客までもイチコロで魅了される。
 うんうん首を縦に振っていた。何を知られているのが分からないがこれはまずい!
「分かったからもうやめてくれ、買う、買ってやるよ」
「毎度あり~」
 ドラマは話数が少ないとはいえ出たばかりで人気もある作品。お値段約三万円。
「おっと忘れていたこれもな」
 そうそうシーズン2に劇場版2作もやってるもんねふざけんなちくしょうっ。
 計約六万円をぴっとお支払い。俺の命は残り162万円也。
 ことあるごとにたかってくるって天使としてどうなんだ。殺すのが本来の目的か!?
「ありがとうございました~。またのご来店をお待ちしております!」
 店内に響き渡る挨拶に背中を押されて俺と駄天使は揃って店を出た。
 嬉しい気持ちが吹っ飛んでいきそう。ま、まあいい、念願のブツが手に入ったんだ。さっそく帰って楽しもうそうしよう。
 が、すっかり忘れていたけど外では祷が待ち構えていた。
 涙目をうるうるさせながら足早に駆け寄ってきて腕を掴む。痛い痛い。
「ど、どうしたんだよ」
「こんなところに長居してはいけません! 穢されますっ」
 話を聞いたところによるとコスプレイヤーと勘違いされてオタクに包囲されたらしい。
 そりゃあ膝丈のロングスカートにセーラー服なんてコスプレだと思うわな。
 顔立ちもいいから写真を撮りたくなるのも無理はない。彼女からしたら猛獣に襲われた気分だろう。半泣きになっているのでよしよしと頭を撫でてやる。
 まさかそれが俺の左手を誘き寄せる餌だとは思いもしなかった。
 右手に紙袋を持っているので自然と左手を使うもんな。
「やっぱりまた大金を使いましたね!?」
「あっ」
 けろっとした顔で左手を顔の間に引っ張りだした。162の赤文字が明滅している。
 可愛い顔してやりやがる。はぐらかす予定だったのに。
「佐柳さん。よく聞いてください。これはあなたの命なのですよ? 使えば使うだけ命を削っているのです。変わらなければ死んでしまうかもしれません。それでもいいのですか!?」
「我慢して生きるくらいなら、買って死ぬ」
 決め顔で言い切ったら駄天使が吹き出した。あの野郎、屋敷中の再生機ぶっ壊すぞ。
 祷も真顔で対抗してくる。優しく両手をとって真っ直ぐ見つめ合った。
「いいですか佐柳さん。お金というのはですね、必要以上に持つと、心を穢すのです。身に過ぎる我欲は自分自身を、周囲の人々を貶めますよ。このままでは」
「ざけんな! 俺はずっと金のない生活を味わってきたんだ。金がない苦しみはよーく分かってる。あるときに楽しまなきゃいつ転がるか分かったもんじゃない。我欲結構、俺ぁ俺の欲しいもんを手に入れる。んで地獄に落ちたって知ったことか! だいたい――」
「ごほん」
 だいたいこの駄天使なんか自分の欲しいもんを俺に命で払わせてるんだぞ!
 と強烈なストレートを放つつもりが祷の背後に立つあいつがわざとらしく咳払いをした。
 言えば分かってるよね、ん?
 顔は口ほどに物を言う。喉から飛び出したかけた文句を唾と一緒に飲み込んだ。
「だいたい欲を捨てて質素にして何が楽しいんだ。祷、お前はそれで本当に幸せか?」
「わ、私は……」
 俺は彼女のことを名前と性格くらいしか分からない。家庭も背景も何も知ろうとしなかった。聖グレデンテ学園に通うのなんていいとこのお嬢様ばっかりだろうと思っている。
 どうせ贅沢できるのにしないだけの金持ちの余裕なんだろ。
 いるよなそういう奴さ。成功しているからこそ『才能よりも努力が大事』って言える。ちやほやされているからこそ『顔が全てじゃない、金が全てじゃない』って言えるんだ。
 冷たく言い捨てて俺はポケットで震えている最新型小型端末(スタイリッシュフォン)を取り出す。液晶には『荒深蛮(すさみばん)』と表示されている。
 おっといけない早く出ないと。二人から距離をとって電話に出た。
「どうしたんだ蛮。ああ、ああ、うん、そうか、分かった、行くよ。ああ、じゃあ」
 夜遊びのお誘いだ。祷と駄天使に濁らされた気分を晴らすいい機会。
「俺、行くとこできたからあとは勝手にしてくれ」
「佐柳さん!」
 彼女の声を背中で浴びて俺は走り出した。
 今日はもっと金を使う羽目になりそうだな。ま、明日より今のが大事ってことさ!

二章三節 フィシオの溜息

 あいつは念願のDVDBOXが入った袋を大事に抱えながら全力疾走して行った。
 祷の呼びかけにも応じない。後を追おうとする彼女の肩をそっと引き止める。
 追いついたところでろくなことにはならないからな。俺って優しい。
「放っておけ。あいつには知る必要がある」
「フィシオさん……」
「痛い目を見なきゃわからないんだよ、あの馬鹿は。それに、君にも用事があるだろう?」
 俺は宝財院佐柳の更生のために呼び出されたが、依り代なのは祈りを捧げた彼女だ。
 天信祷が神を尊び、天使を信じる心が糧となって俺の存在を人間界(ゲン)に留めている。いざとなれば他の手段もあるんだが、生憎そっちは疎い。
 天使としちゃあ金持ち坊やに付き合って根性を叩きなおすだけで終わりなんだが。
 個人的に祷のことも放っておけない。可愛い子に親切なのは万界共通。
 ある程度事情も知っているから馬鹿野郎につき合わせて時間を無駄にさせるのも可哀想だ。あいつは何も知らないから好き放題言っているが、誰にだって事情がある。
「でも」
「君が思い悩むことはない。あいつだってそろそろ嫌でも分かるから。よかったら送っていこうか? 飛べばあっという間だよ」
 人間を魅了するには十分すぎる必殺ウィンクも祷には通じない。
 そういうところが放っておけないんだよなあ。天使界(ライ)にとって彼女のようなどこまでも純粋で純真で純朴な信奉者は貴重な存在だ。
 彼女にしてみれば自分が天使の恩恵を授かるなんてあっちゃいけないこと。
 だから首を横に振ってから小さく頭を下げた。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
「そっか。無理しないようにね」
「はい。では、失礼いたします、フィシオさん」
 遠ざかる彼女が見えなくなるまで俺は立っていた。周囲の視線が集まってくる。
 絵画から抜け出した天使そのものの美貌に見惚れちゃうのは罪じゃない。赦そう。
 愛想よく(美少女の範疇に入る相手にだけ)手を振って俺は消えた。
 天使の便利なところその1。人間の知覚外の存在になれる。

 宝財院家の屋敷に戻った俺は佐柳の部屋に陣取って『名探偵エジソン』を見始める。金持ちの道楽なのか屋敷はだだっ広いだけじゃなく西洋風になっていた。入り口には湾曲しながら二階に通じる階段があって、床にはいかにも高価な赤絨毯が敷き詰められている。大広間に繋がる扉は豪奢でライオンが取っ手を咥えていた。
 部屋数なんか二人で使いきれないくらい用意されている。
 宝財院鳴司は万全の準備を持って天使たる俺を迎え入れた。
 息子の部屋より広い貴賓室みたいなとこを割り当てられたが面白くもない。
 佐柳んところにいておちょくっているほうが楽しいし、あいつの更生役だしな。
 本音を言えば命惜しさにさっさと更生してはいおしまい、だと期待していた。
 まさか気にもしないで相変わらずの散財とはね。人間って面白いなー。
 このドラマも最高だ。天使界にはろくな娯楽がない。たまに供物として捧げられて運ばれてきたモノで楽しむくらいだ。漫画とかゲームを神に捧げるのもどうなんだろう。
 人間界の物を勝手に持ち帰るとオムニのジジイが切れんだよなぁ。
 こうしてソファに身を投げ出して面白い物語を観れるのも駄天使の特権か。
 普通の仕事熱心な天使はこんな真似しない。バレたら怒鳴られるし給料に響く。
 当然、世界を見渡せるジジイが気づいていないはずもなく電話がかかってきた。
 うんざりしながら一時停止。佐柳が使っているスタホと同機種を取り出す。
 外面は同じだが俺のは奇跡の賜物。天使界と通話が出来ちゃう。もちろん通話料無料だ。
「おかけになった電話番号は現在使われておりません」
『番号なんぞなかろう!』
 ジジイの怒号が雷になって鼓膜を突き破った。キーンとする。
 いっそ切ってやろうかと考えたが、そうなったら実力行使に出てるんだろうなー。
 緊急時には脳に直接声を飛ばせる。人間風に言うなら念話(テレパス)ってところか。
「なんの用だよ」
 実は分かっている。佐柳にかけた戒めのことだろう、どうせ。
『分かっているくせにしらばっくれるな、ありゃなんだ!』
「更生させりゃいいんだろうが」
『ばぁっかもぉん!』
 頭ん中でジジイのしゃがれた声が反響して吐き気がしてきた。おえぇ。
 腕を出来るだけ話しても嫌って言うくらい聴こえる。だから部下に評判悪いんだ。
『更生相手の命を秤にかけていいと思っているのか!? お前は天使なんだぞ、て、ん、し! 救いの者が救われる者の命奪ってどうするつもりだ!』
「だーかーらー。死にたくなきゃ更生すんだろ?」
『大方楽しようと思ってやったんだろうがな、その無茶はお前に還ってくるぞ。人間を死なせればどうなるか』
「はいはい知ってますよ。そうならないように頑張りまーす」
『……お前を遣わしたことを後悔した』
 遅いんだよ。俺は救済が専門じゃないんだから無理があんだってば。
 こういう采配がへたくそだから人事部がいつもぶうたれてるんだ。
 数分お説教を食らったあとで通信が切れる。あー疲れた。続き観る気失くしたぞ。
 人間は神と天使の関係や存在を大きく勘違いしている。訂正しないほうが俺らにとっても都合がいいからそういうことにしているってだけだ。
 人間風に言うなら神は社長、天使は社員、救済は仕事。
 オムニってのは地位の名称で代々引き継がれていく。人間で言うところの神がこいつだ。人間界(ゲン)と悪魔界(アト)を見張って三界のバランスを調整する。
 天使界は人間の幸福や信仰、“善”の感情を“糧”として成り立っていた。
 天使たちが時々人前に出てくるのは信仰心を集めることと、堕落した人間を救うことで生まれる“糧”を得るため。自分たちの世界を維持するための仕事。俺らからしたら人間界は牧場で人間は家畜。毎朝卵を産む鶏ちゃんさ。
 悪魔は悪魔で不幸や信仰、“負”の感情を“糧”として生きているし、世界が成り立つ。
 だから邪まな人間の願いを叶え、あらゆる手段で堕落させようと目論む。
 人によっちゃ天使が悪魔で悪魔が天使になるだろう。
 ひとつ違うのが天使は人を殺さないが、悪魔は人を殺す。
 短絡的に愉悦を追い求める連中が多いから生かさず殺さず絞りとるなんて知恵が回らない。遊んだあげくポイ、なんてのもザラだ。
 堕落させるだけなら救い上げることで俺たちの糧にもなりうる。
 調整ってのがミソだ。悪魔を滅ぼすより適度に人間を腐らせてくれたほうが、救い甲斐がある。神様が世界平和をもたらさない最大の理由だな。
 ただ殺されちまうと都合が悪いのでそういう悪魔を狩る天使もいる。
 それが俺だったんだが、暇を持て余していたらジジイに蹴り落とされてしまった。
 天使は万年人手不足なので急な人事異動も気分一つでお手の物。
 人間風に言うならば『ブラック企業』なんだよ。
 悪魔を狩るにも許可が必要だから気晴らしにばっさりいけない。
 なんでこんな目にあうのかな。ちゃんと悪魔狩りで希望出して天使になったのに。
「まーたお前は俺の部屋で!」
「おかえり」
 ぶつぶつ怨嗟の言葉を吐いていたら佐柳が帰ってきた。もう日付が変わるぞ?
 疲れきっているようで紙袋を置くなり天蓋付きのベッドに飛び乗った。最高級羽毛布団が優しくキャッチ。投げ出された左手に目をやると……あーあ、150切ってら。
 佐柳には内緒にしていたがこの戒め、残金が0になると死ぬだけじゃない。
 何が起きるかはこれからのお楽しみだ。いい加減、こいつも反省するだろう。
「えらく金使ってきたな」
 別れてから数時間で十万も使うなんてどうかしている。天使に頼るのも無理ないか。
 佐柳は半分寝ている状態でもごもご呟いた。
「蛮たちと食って遊んでしてたら使い過ぎた。思ってたより、人が……」
 言い終えることなくいびきをかき始めた。顔の赤さからいって酒飲んでるなこいつ。
 誤解がないように言うが天使は間違っても聖人君子じゃない。
 人間界の法律にも興味ないんだが、どうもよくない虫がついているようだ。
 はあ。この分じゃこいつ、死ぬかもな。
 めんどくせえ。働きたくねえ。俺も寝よ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

【完結】伴侶がいるので、溺愛ご遠慮いたします

  *  
BL
3歳のノィユが、カビの生えてないご飯を求めて結ばれることになったのは、北の最果ての領主のおじいちゃん……え、おじいちゃん……!? しあわせの絶頂にいるのを知らない王子たちが吃驚して憐れんで溺愛してくれそうなのですが、結構です! めちゃくちゃかっこよくて可愛い伴侶がいますので! 本編完結しました! 『もふもふ獣人転生』に遊びにゆく舞踏会編をはじめましたー! 他のお話を読まなくても大丈夫なようにお書きするので、気軽に楽しんでくださったら、とてもうれしいです。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

独身寮のふるさとごはん まかないさんの美味しい献立

水縞しま
ライト文芸
旧題:独身寮のまかないさん ~おいしい故郷の味こしらえます~ 第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。 ◇◇◇◇ 飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。 仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。 退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。 他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。 おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。 

『 ゆりかご 』  ◉諸事情で非公開予定ですが読んでくださる方がいらっしゃるのでもう少しこのままにしておきます。

設樂理沙
ライト文芸
皆さま、ご訪問いただきありがとうございます。 最初2/10に非公開の予告文を書いていたのですが読んで くださる方が増えましたので2/20頃に変更しました。 古い作品ですが、有難いことです。😇       - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - " 揺り篭 " 不倫の後で 2016.02.26 連載開始 の加筆修正有版になります。 2022.7.30 再掲載          ・・・・・・・・・・・  夫の不倫で、信頼もプライドも根こそぎ奪われてしまった・・  その後で私に残されたものは・・。            ・・・・・・・・・・ 💛イラストはAI生成画像自作  

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

処理中です...