らいふ.いず.まねー

城戸陸

文字の大きさ
上 下
1 / 6

一章一節 オムニの祝福

しおりを挟む
 聖グレデンテ学園の礼拝堂で一人の少女が祈りを捧げていた。
 かれこれ三十分は経つだろうか。祭壇の前に跪き、頭を垂れて微動だにしない。
 首から肩に流れる三つ編みのおさげも白百合のように可憐で愛らしい面立ちも、痩せすぎた茎の如き肢体も、時間の流れから追い出されたように固まっている。
 少女の頭上、祭壇の背後は天井まで届くステンドグラスで埋め尽くされていた。
 色鮮やかな硝子の欠片たちが身を寄せ合い、お互いを尊重し高め合って一人の天使を描いている。右手で抜いた剣を天に掲げ、白鳥のそれに似た翼を優雅に広げていた。昼下がりの陽光を透かして優しい色合いの光が、神々しくその姿を浮き彫りにしている。
 天使に祈る儚げな少女。時の止まった光景は出来すぎた絵画のようだ。
 ただひたすらに、ただまっすぐに、ただひたむきに。
 彼女――天信祷(あまのぶいのり)は神に願い、天使を乞う。
 幼い頃からヴンダー教に則り心身を捧げてきた彼女には、天使と交信する力があった。
 利己心を捨て去った完全に無垢なる信仰。それが奇跡に近い行為を可能とさせる。
 何も彼女ひとりが特別なわけではない。この世界には確かに天使と言葉を交わし、奇跡の恩恵に与った者たちがいる。現代でそれだけの信仰心を持ちえる者が稀有というだけの話だった。天使よりも悪魔が身近になったのは、人間の在り様の変化の結果でしかない。
 祷は祈り続ける。天使に己が心の声が届くように。
 金という悪魔に魅了され、とり憑かれ、堕落の坂を転がり続ける一人の少年。
 彼を救い、清め、改めさせ、生まれ変わらせる。そのためだけに。
 血の繋がりもなく、甘酸っぱい感情を抱くでもなく、道に迷いし哀れな子羊として。
 彼女は助けたかった。転校してきて幾分か経つのに少しも馴染もうとしない同級生を。
 ああもし、もしも、堕ちていく彼を救い上げることが出来たのなら。
 ああもし、もしも、悪魔の魅惑を断ち切って天使の奇跡を受け入れたのなら。
 少年の変化のめざましさはきっと神の、天使の世界を支える糧となるだろう。
 どうか、神よ、聞き入れ給え。
 どうか、天使よ、手を差し伸べ給え。
 彼のために、誰のために、何より、あなたのために。
 この切なる祈りの言葉が届いたのならばお応えください。
「……――ぉぉぉぉおおおおわわぁぁっ!」
 それは天から降ってきた。
 前触れもなく、輝きも伴わず、唐突に“落下”してきた。
 ステンドグラスが豪奢な音を響かせて方々に飛び散る。幻想的な硝子の雨を、祷は顔をあげて眺めていた。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、次々と天の光を反射させて空間に七色の彩りが煌く。
 背後で慌ただしく開かれた扉に気づきもせず、虹の舞踏の美しさに見惚れていた。
「どうしたんだね!?」
 靴音を高らかに打ち鳴らしながら傍に膝をついたのは妙齢の男であった。
 ワックスで後ろに撫で付けられた黒髪が鈍く光っている。堀の深い顔立ちは精力に満ちた若々しさにも、苦労の翳りに削られた老いにも見て取れた。散らばった硝子の破片に目をやりながら優しく祷の背中を撫でる。
「怪我はないかい?」
「……ぁ、あ、はい、大丈夫です」
 宝財院鳴司(ほうざいいんめいし)の紳士的な慈しみに満ちた瞳に覗き込まれて祷はようやく我に返った。
 並んで立ってみると二人の背丈はほとんど同じだ。彼女は若いながらに上背があって細さと相まり薄幸な印象を与える。鳴司は威風堂々とした佇まいで、抑え目の色調ながら気品を感じさせるスーツの上下のために、小柄なことに意識を向けさせない。
 奇妙な二人組みは黙って叩き潰された祭壇を呆然と見つめていた。
 空から落ちてきた“何か”はステンドグラスを突き破って祭壇をも破壊したのだ。
 前代未聞の惨事に言葉が出ないのも無理がない。
 木端を跳ね飛ばしながら人影が立ち上がったが、悲鳴をあげるのも忘れていた。
「クソジジイッ! 死んだらどうすんだっ、バァーカバァーカ、ハゲ散らかせ!」
 愚直な罵詈雑言が空に向かって飛んでいく。
 言葉には人の良し悪しが如実に表れる。汚き言葉を唇に乗せるのは、心が汚れて黒ずんでいるからだ。祷は静謐な礼拝堂に似つかわしくない語句の数々に目眩さえ感じた。
 ふらついた背中を鳴司の手が支えてくれなければ倒れこんでいただろう。
 祭壇の残骸を足蹴にして姿を見せたのは、輝かしい青年。
 最も目立つのが髪だ。光を梳いて細かく分けたような眩いプラチナブロンドの髪が踏み出すのに合わせて瞳の上で揺れる。真っ直ぐ祷を見つめるのは嵌め込まれた硝子玉。やや青みがかっているが透明感が強くて、見つめている自分が映り込んでいた。
 彼の存在を決定付けたのは背中で力強く羽ばたく白き翼だ。
 跡形もなく砕けた天使が備えていた翼に瓜二つ。そう、紛れもなく、彼は。
「天使、様……?」
 祷は信じられず問いかけた。天使様が、あのような悪辣な言葉を使うはずがない。
 少女の想いを踏み躙って天使は軽く頷いた。
「ああ、そうだよ。人間(おまえら)が天使って呼ぶ連中の一人だ。お前か、祈りを捧げていたのは? 面倒くさいことしてくれたな」
 愕然としたのは鳴司も同じようで半分ほど口を開けたまま絶句している。
 否定するわけにもいかず、祷は気持ちを入れ替えて呆けた顔を引き締めた。
「はい。私、天信祷が天使様を御呼びいたしました」
「堅苦しいな、お前。まあいいや。そんじゃ俺も挨拶しておくか」
 どこまでも気さくな口調を改めずに天使は残骸から飛び降りて二人の前に立った。
 腕の倍はあろうかという翼が風を巻き上げながら背中に畳まれて消える。
 こうして見るとどこかにいそうな美青年そのものだった。
 彼は気障ったらしく笑いながら仰々しく名乗る。
「俺の名は、オムニ・ハヴェーダ・イェ・サロルゾーナ・フィシオだ。よろしくな」
 差し出された白く初々しい手を握り返したとき、宝財院佐柳(ほうざいいんさりゅう)の運命は捻じ曲げられた。
 この時、本人は何も知らず陽気にゲームセンターで遊んでいたという。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【6】冬の日の恋人たち【完結】

ホズミロザスケ
ライト文芸
『いずれ、キミに繋がる物語』シリーズの短編集。君彦・真綾・咲・総一郎の四人がそれぞれ主人公になります。全四章・全十七話。 ・第一章『First step』(全4話) 真綾の家に遊びに行くことになった君彦は、手土産に悩む。駿河に相談し、二人で買いに行き……。 ・第二章 『Be with me』(全4話) 母親の監視から離れ、初めて迎える冬。冬休みの予定に心躍らせ、アルバイトに勤しむ総一郎であったが……。 ・第三章 『First christmas』(全5話) ケーキ屋でアルバイトをしている真綾は、目の回る日々を過ごしていた。クリスマス当日、アルバイトを終え、君彦に電話をかけると……? ・第四章 『Be with you』(全4話) 1/3は総一郎の誕生日。咲は君彦・真綾とともに総一郎に内緒で誕生日会を企てるが……。 ※当作品は「カクヨム」「小説家になろう」にも同時掲載しております。(過去に「エブリスタ」にも掲載)

【完結】雨上がり、後悔を抱く

私雨
ライト文芸
 夏休みの最終週、海外から日本へ帰国した田仲雄己(たなか ゆうき)。彼は雨之島(あまのじま)という離島に住んでいる。  雄己を真っ先に出迎えてくれたのは彼の幼馴染、山口夏海(やまぐち なつみ)だった。彼女が確実におかしくなっていることに、誰も気づいていない。  雨之島では、とある迷信が昔から吹聴されている。それは、雨に濡れたら狂ってしまうということ。  『信じる』彼と『信じない』彼女――  果たして、誰が正しいのだろうか……?  これは、『しなかったこと』を後悔する人たちの切ない物語。

かあさん、東京は怖いところです。

木村
ライト文芸
 桜川朱莉(さくらがわ あかり)は高校入学のために単身上京し、今まで一度も会ったことのないおじさん、五言時絶海(ごごんじ ぜっかい)の家に居候することになる。しかしそこで彼が五言時組の組長だったことや、桜川家は警察一族(影では桜川組と呼ばれるほどの武闘派揃い)と知る。 「知らないわよ、そんなの!」  東京を舞台に佐渡島出身の女子高生があれやこれやする青春コメディー。

海神の唄-[R]emember me-

青葉かなん
ライト文芸
壊れてしまったのは世界か、それとも僕か。 夢か現か、世界にノイズが走り現実と記憶がブレて見えてしまう孝雄は自分の中で何かが変わってしまった事に気づいた。 仲間達の声が二重に聞こえる、愛しい人の表情が違って重なる、世界の姿がブレて見えてしまう。 まるで夢の中の出来事が、現実世界へと浸食していく感覚に囚われる。 現実と幻想の区別が付かなくなる日常、狂気が内側から浸食していくのは――きっと世界がそう語り掛けてくるから。 第二次世界恐慌、第三次世界大戦の始まりだった。

誇りと傷痕

yu-kie
ライト文芸
主人公の津香咲は6歳の頃3歳の幼児を落下する鉄の棒から庇い、背中を負傷。その傷痕は彼女の誇り 5月に向けてゆっくりと更新します。

【9】やりなおしの歌【完結】

ホズミロザスケ
ライト文芸
雑貨店で店長として働く木村は、ある日道案内した男性から、お礼として「黄色いフリージア」というバンドのライブチケットをもらう。 そのステージで、かつて思いを寄せていた同級生・金田(通称・ダダ)の姿を見つける。 終演後の楽屋で再会を果たすも、その後連絡を取り合うこともなく、それで終わりだと思っていた。しかし、突然、金田が勤務先に現れ……。 「いずれ、キミに繋がる物語」シリーズ9作目。(登場する人物が共通しています)。単品でも問題なく読んでいただけます。 ※当作品は「カクヨム」「小説家になろう」にも同時掲載しております。

あなたのためなのだから

涼紀龍太朗
ライト文芸
 高校の裏にある湖で、太一が正体不明の巨大な魚影を見たその日、幼馴染は謎の失踪を遂げる。  それから一年。失意の太一は、周りから距離を置くようになり、文化祭の準備にも気が乗らない無気力な生徒になっていた。  ある日の放課後、通学用の船が突如沈没する。怪我人はなかったものの、その日は教員も生徒も帰ることはできなくなってしまった。孤島となった学校に、様々な怪現象が襲い来る。

千津の道

深水千世
ライト文芸
ある日、身に覚えのない不倫の告発文のせいで仕事を退職させられた千津。恋人とも別れ、すべてが嫌になって鬱屈とする中、バイオリンを作る津久井という男と出会う。 千津の日々に、犬と朝食と音楽、そして津久井が流れ込み、やがて馴染んでいくが、津久井にはある過去があった。

処理中です...