らいふ.いず.まねー

城戸陸

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一章一節 オムニの祝福

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 聖グレデンテ学園の礼拝堂で一人の少女が祈りを捧げていた。
 かれこれ三十分は経つだろうか。祭壇の前に跪き、頭を垂れて微動だにしない。
 首から肩に流れる三つ編みのおさげも白百合のように可憐で愛らしい面立ちも、痩せすぎた茎の如き肢体も、時間の流れから追い出されたように固まっている。
 少女の頭上、祭壇の背後は天井まで届くステンドグラスで埋め尽くされていた。
 色鮮やかな硝子の欠片たちが身を寄せ合い、お互いを尊重し高め合って一人の天使を描いている。右手で抜いた剣を天に掲げ、白鳥のそれに似た翼を優雅に広げていた。昼下がりの陽光を透かして優しい色合いの光が、神々しくその姿を浮き彫りにしている。
 天使に祈る儚げな少女。時の止まった光景は出来すぎた絵画のようだ。
 ただひたすらに、ただまっすぐに、ただひたむきに。
 彼女――天信祷(あまのぶいのり)は神に願い、天使を乞う。
 幼い頃からヴンダー教に則り心身を捧げてきた彼女には、天使と交信する力があった。
 利己心を捨て去った完全に無垢なる信仰。それが奇跡に近い行為を可能とさせる。
 何も彼女ひとりが特別なわけではない。この世界には確かに天使と言葉を交わし、奇跡の恩恵に与った者たちがいる。現代でそれだけの信仰心を持ちえる者が稀有というだけの話だった。天使よりも悪魔が身近になったのは、人間の在り様の変化の結果でしかない。
 祷は祈り続ける。天使に己が心の声が届くように。
 金という悪魔に魅了され、とり憑かれ、堕落の坂を転がり続ける一人の少年。
 彼を救い、清め、改めさせ、生まれ変わらせる。そのためだけに。
 血の繋がりもなく、甘酸っぱい感情を抱くでもなく、道に迷いし哀れな子羊として。
 彼女は助けたかった。転校してきて幾分か経つのに少しも馴染もうとしない同級生を。
 ああもし、もしも、堕ちていく彼を救い上げることが出来たのなら。
 ああもし、もしも、悪魔の魅惑を断ち切って天使の奇跡を受け入れたのなら。
 少年の変化のめざましさはきっと神の、天使の世界を支える糧となるだろう。
 どうか、神よ、聞き入れ給え。
 どうか、天使よ、手を差し伸べ給え。
 彼のために、誰のために、何より、あなたのために。
 この切なる祈りの言葉が届いたのならばお応えください。
「……――ぉぉぉぉおおおおわわぁぁっ!」
 それは天から降ってきた。
 前触れもなく、輝きも伴わず、唐突に“落下”してきた。
 ステンドグラスが豪奢な音を響かせて方々に飛び散る。幻想的な硝子の雨を、祷は顔をあげて眺めていた。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、次々と天の光を反射させて空間に七色の彩りが煌く。
 背後で慌ただしく開かれた扉に気づきもせず、虹の舞踏の美しさに見惚れていた。
「どうしたんだね!?」
 靴音を高らかに打ち鳴らしながら傍に膝をついたのは妙齢の男であった。
 ワックスで後ろに撫で付けられた黒髪が鈍く光っている。堀の深い顔立ちは精力に満ちた若々しさにも、苦労の翳りに削られた老いにも見て取れた。散らばった硝子の破片に目をやりながら優しく祷の背中を撫でる。
「怪我はないかい?」
「……ぁ、あ、はい、大丈夫です」
 宝財院鳴司(ほうざいいんめいし)の紳士的な慈しみに満ちた瞳に覗き込まれて祷はようやく我に返った。
 並んで立ってみると二人の背丈はほとんど同じだ。彼女は若いながらに上背があって細さと相まり薄幸な印象を与える。鳴司は威風堂々とした佇まいで、抑え目の色調ながら気品を感じさせるスーツの上下のために、小柄なことに意識を向けさせない。
 奇妙な二人組みは黙って叩き潰された祭壇を呆然と見つめていた。
 空から落ちてきた“何か”はステンドグラスを突き破って祭壇をも破壊したのだ。
 前代未聞の惨事に言葉が出ないのも無理がない。
 木端を跳ね飛ばしながら人影が立ち上がったが、悲鳴をあげるのも忘れていた。
「クソジジイッ! 死んだらどうすんだっ、バァーカバァーカ、ハゲ散らかせ!」
 愚直な罵詈雑言が空に向かって飛んでいく。
 言葉には人の良し悪しが如実に表れる。汚き言葉を唇に乗せるのは、心が汚れて黒ずんでいるからだ。祷は静謐な礼拝堂に似つかわしくない語句の数々に目眩さえ感じた。
 ふらついた背中を鳴司の手が支えてくれなければ倒れこんでいただろう。
 祭壇の残骸を足蹴にして姿を見せたのは、輝かしい青年。
 最も目立つのが髪だ。光を梳いて細かく分けたような眩いプラチナブロンドの髪が踏み出すのに合わせて瞳の上で揺れる。真っ直ぐ祷を見つめるのは嵌め込まれた硝子玉。やや青みがかっているが透明感が強くて、見つめている自分が映り込んでいた。
 彼の存在を決定付けたのは背中で力強く羽ばたく白き翼だ。
 跡形もなく砕けた天使が備えていた翼に瓜二つ。そう、紛れもなく、彼は。
「天使、様……?」
 祷は信じられず問いかけた。天使様が、あのような悪辣な言葉を使うはずがない。
 少女の想いを踏み躙って天使は軽く頷いた。
「ああ、そうだよ。人間(おまえら)が天使って呼ぶ連中の一人だ。お前か、祈りを捧げていたのは? 面倒くさいことしてくれたな」
 愕然としたのは鳴司も同じようで半分ほど口を開けたまま絶句している。
 否定するわけにもいかず、祷は気持ちを入れ替えて呆けた顔を引き締めた。
「はい。私、天信祷が天使様を御呼びいたしました」
「堅苦しいな、お前。まあいいや。そんじゃ俺も挨拶しておくか」
 どこまでも気さくな口調を改めずに天使は残骸から飛び降りて二人の前に立った。
 腕の倍はあろうかという翼が風を巻き上げながら背中に畳まれて消える。
 こうして見るとどこかにいそうな美青年そのものだった。
 彼は気障ったらしく笑いながら仰々しく名乗る。
「俺の名は、オムニ・ハヴェーダ・イェ・サロルゾーナ・フィシオだ。よろしくな」
 差し出された白く初々しい手を握り返したとき、宝財院佐柳(ほうざいいんさりゅう)の運命は捻じ曲げられた。
 この時、本人は何も知らず陽気にゲームセンターで遊んでいたという。
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