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第10章 重なる二人と加速する忘却
9 またね!
しおりを挟む蒼空は、真っ暗な自分の部屋にいた。
布団も、机の上にあった、白い花を入れてたマグカップも消えた、何もない部屋。
「そうか……」
皆から『碧 蒼空』が、消えた。
そう思った……
激しく降りだした雨音は、蒼空の涙声をかき消す。
「僕も消えるのか……」
まだ、34歳の省吾の記憶は、完全には、戻っていない。
『碧 蒼空』として、まだ、ここに居れる。
蒼空として、やるべき事が、残ってる。
*
翌朝、食堂に行ってみるけど、誰も蒼空には、気づかない。
もう、省吾も美桜も気づかない。
「手術の前に、皆の顔を見たいって!」
「本当!!」
「あぁ、本当だよ!」
「でも、学校は?」
桜の手術時間が、決まった。明日の午後1時半。
「私が、学校に連絡しとくから!」
「うん」
「じゃあ、今日は勉強を頑張ってよ!」
「はぁい」
目の前で、皆と顔を見合せ、省吾(蒼空)が喜んでいる姿を目にしている(あんな顔をしたんだ……)。
桜に会える事を、身体の中心から沸き上がる興奮を抑えきれないほど、皆で喜んだ事を憶えている。
明日の朝、事件が起きる。
これは、蒼空(34歳の省吾)の記憶。
でも、蒼空の存在は、皆の記憶にない。
皆と話す事も皆に触れる事もできない。
どうしたらいいのか、わからない。
*
雨が、止まない。
『今日の午後からは、雨もあがるでしょう……』
テレビの天気予報で、そう言っていたのに、朝の光をさえぎる黒い雲。
今の蒼空(34歳の省吾)の記憶は、この天気予報のように曖昧で、不確かなもの。
でも、事件が起こる事は確実で、決まった事。
*
朝の6時過ぎ、2階のから物音がする。美桜の部屋から、物音がしている。
ドアが、ゆっくりと開くと黄色の雨ガッパを着た、美桜がキョロキョロしながら、当直の福満さんの目を盗んでこっそりと下りてくる。
玄関の鍵を開けて雨の中、美桜は外へ出ていく。
『ダメだよ……』
蒼空の声は、美桜には届かない。
『福満さん、美桜が出ていきますよ』
当直の福満さんの耳元で声をかけるけど、聞こえるはずがない(どうして……)。
蒼空は美桜の行き先に、心当たりがあった。
『桜のお見舞い』に必要な物を取りに出かける。
「とにかく追いかけるしかない!」
雨の中、美桜が走るスピードはいつもより遅い。馴れた道でも、暗く、雨が地面を叩く音は、6歳の少女へ恐怖となり歩む速度を、落とさせる。
それでも、美桜は歩む事を止めない。桜への思いがそうさせる。
*
「美桜ちゃん」
「美桜ぉ……」
「美桜ちゃん」
美桜がいなくなったのに、気づいたのは朝食前に、起こしに行った時だった。
施設の周りを春子に子供達み探し回る。
蒼空(34歳の省吾)は、心配で泣きながら探した事を憶えてる(どうしたら……?)。
「省吾、そっちじゃないよ!!」
蒼空は、1人で探し回る省吾へ向かって声をかけた(クソッ、聞こえるはずないのに……)。
「えっ、誰!?」
省吾が立ち止まると、振り向いた。
「蒼空……蒼空兄ちゃん……!!??」
「僕が、わかるのかい?」
「あのね!? あのね!?」
「美桜だね?」
省吾は慌てて声にならない。
それは、蒼空も同じだった。
何の奇跡かわからないけど、省吾には蒼空がわかる。
でも、いつ蒼空が消えてしまうかわからない。
「省吾、色だよ!」
「色??」
「眼鏡を外して美桜の色を探すんだ!!」
「でも、美桜ちゃんの色なんて知らないよぉ……!!??」
「こうするんだ!」
蒼空は、腕を胸の前で、組むと右の指を眉間あてて見せる。
雨が降る暗い空に、花が咲いていた、あの場所から、青色と濃い緑色が複雑に混じりあい、煙のように上っているのが、見える。
「見えるわけないよ……」
「省吾! 僕達にしかできないんだ!!」
「でも……」
「美桜が大事だろ! 今も省吾を待ってるんだ!」
蒼空は省吾に言った。
省吾を励ますように……
自分を待ってる人がいる事を、蒼空自身に言い聞かせるように……
「そうだ! 美桜の事だけ考えて……」
省吾は眼鏡を外して、胸の前で腕を組むと右の指を眉間にあてた。
「こっちだ!」
この時、『おまえなら、できる!』
そう、奮い立たされた記憶があるような気がする。
省吾は、暗い道を、何度も転びながら美桜の元へ走って行く。
『そうだ!省吾! 美桜が待ってる!』
蒼空は、省吾の後を追いかける。
*
「ウェェェン……」
「美桜ちゃん!!」
「じ……じょうご……じょうご……」
「美桜ちゃん、大丈夫だよ!」
「じょうご……ごわ……い……」
「美桜ちゃん……!?」
「がえる……おうちへがえどぅ……」
抱き寄せる省吾の胸の中で、声が出せなかった美桜が、省吾の名前を呼ぶ。
ハッキリと言葉を聞き取るのには、発音は不十分だけど、確かに言葉を発している。
『省吾……後を頼んだよ……』
蒼空は、2人の前から姿を消した。
*
蒼空は、皆より先に桜が入院する『中里レディースクリニック』に、行く事にする。
桜に、自分の姿が見える事を願う。
一言、言葉を交わせたら……
桜が居るのは、個室の部屋。
皆の話しから、知っている。
ウィーン……
病院の自動ドアが、開くと受付の女性が、こちらに視線を向けるが、誰もいない事に、首をかしげる。
もう、誰も蒼空の存在を知らない……
もう、誰も蒼空の事が、見えていない……
受付の前を通りすぎ、桜の病室へと廊下を歩いて行く。
当然、受付の女性に看護師達は、蒼空の存在を認識する事は、できない。
「さっ 、桜さん……」
「蒼空、どうしたの? 1人?」
「はい……もう、誰も僕の事、憶えてません……」
「……そう」
ベッドで、パジャマ姿の桜。蒼空を忘れていなかった。
「僕……断片的ですけど、思い出しました」
蒼空は、桜に好意を持っている事以外は、桜に思いを伝えた。
そして、このまま存在が消えてしまう事を……
「私も、蒼空の事、忘れるのかしら……」
「きっと、それがいいんです」
「……何故?」
「だって、9歳の僕を今から導くんですよ……」
「導くって……」
桜は、フッと笑う。
「あなたの時代では、私は、60歳なのね……」
「そうですね……」
「元気で、いるかしら?」
「大丈夫ですよ」
「……そう!?」
「……はい」
蒼空(34歳の省吾)の記憶では、高校を卒業後、1度も施設に戻る事はなかった。
何か理由があるわけではなく、自然と足が遠退いた。
「……ぼちぼちですね」
「もう、行くの?」
「皆が、桜さんに会いにきますよ」
「蒼空……私ね……」
「大丈夫ですよ! あなたの虹の子供達が、桜さんのそばにいますよ……」
「……うん」
コンコン……
ノックに桜が、応える間もなく、病室の扉が、勢いよく開くと、子供達が入ってくる。
蒼空の、身体を突き抜けるように、子供達が、走り抜けて、ベッドの上の桜に、抱きついていく。
もう、皆の記憶から蒼空の存在は、消えている。
「どうしたのぉ……」
「桜姉ちゃん!!」
「痛いよ……」
「桜姉ちゃん、死なないで!」
「えっ、皆を残して死ぬわけないよ!」
「本当!?」
「本当よ!!」
蒼空は、桜と子供達を見ていると、心が暖かくなる。こんな素敵な人達と過ごせた事を心から感謝し、一緒に居れなくなる事を寂しく、悲しく思う。
「僕、医者になるよ!!」
「急に、どうしたの省吾?」
「僕、医者になって姉ちゃんの病気治すから!!」
「ありがとう……うれしいよ」
「わだし、わだしは、だくらみだいに、看護じさんに、なる!」
「えっ!!?? 美桜!!??」
桜は、口を手のひらで覆い、涙を流す。
「美桜……話せるの……!!??」
「うん、話せるように、なったんだよ」
「わだし、がんば……がんば……」
「頑張るのね!」
「だがら、だくらも、がんがでっね!」
美桜は、朝摘んだばかりの花を桜に渡すと、ニカッと笑う。
「うん……うん……姉ちゃん頑張るのね!」
桜は、美桜の頭を撫でながら、ニカッと笑い返す。
そうか……そうだった……
蒼空(34歳の省吾)は、この時、初めて医師になる決意をした事を思い出していた。
自分の仕事は医者。
初めは、やる気に満ち溢れ、患者と寄り添う事いつも心掛けていた。
救える命と救えない命。
運命とは言え、不条理な毎日にいつしか、病気だけを見ていた。
あんなに、僕は真っ直ぐだったのか……
真っ直ぐに桜に誓う省吾の決意。
胸が熱くなり、身体が震える。
戻らなければ……
そう思うと、蒼空の身体が、どんどん透けていく。
『桜さん、もう行くね……ありがとう……』
蒼空は、そっと呟く。
『えっ!?』
蒼空は、驚いた。桜は、声に出さないが、口が作る形。
『ま・た・ね』
桜は、消え行く蒼空へ向かって、確かに呟いた。
『ま・た・ね』
消え行く蒼空も、手を上げて呟いた。
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