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第10章 重なる二人と加速する忘却
5 蒼空の告白と笑顔の女性
しおりを挟む「おはようございます」
「蒼空、おはよう」
「春子さん、あのぅ……」
「どうしたの」
「あっ、桜さん!?」
テーブルの上の朝食。
蒼空の席に朝食が、準備されていない。
今までこんな事は、1度もなかった。
「春子おばさん、蒼空の分が、ないよ」
「蒼空……?」
「だから、蒼空のご飯が、ないの!?」
「あぁ、ごめん……」
たまたまだったのかと、その時は、平謝りする春子へ、手を横にふりながら「気にしないでください!」と、笑った。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
診療所の前で、学校へ向かう子供達と、岩谷先生がすれ違う。
「蒼空兄ちゃんだよ!!」
かすかであるが、子供達が苛立つ声で岩谷へ、怒鳴っている(今度は、岩谷先生が、忘れてしまったのか)。
深い関わりはないけれど 、毎朝、掃除をする為に、診療所へいく。
昨日も、挨拶をして、世間話をしたのに忘れている。
蒼空は、今朝の春子の事も、その前兆かと思うと悲しくなる。
どうして、こうなっていくのか、わからない。
蒼空の記憶が、少しずつ戻っていく。
同時に、蒼空の存在が、なかったかのように、皆から消えていく。
きっと、視界の歪みと、省吾と重なる記憶は、その兆しなんだと思っている(だけど、何故、省吾もなんだ……)。
「おはようございます。岩谷先生」
「あぁ、おはよう……えっと……!?」
「蒼空です……」
「あぁ、そうだった……」
蒼空は、確かめてみた。
やはり岩谷は、忘れかけている。
忘れられていく……
何とも切なくて、悲しくなる。
小さい頃、母親が、男性と家を出て行った時、同じように感じた。
気に入られるように、何でも言う事を聞いた。勉強に……家の手伝いに……
母親の邪魔にならないように、1冊の本を持って、公園で、何時間も時間をつぶした。
全てが、母親に忘れられないように……
それが、怖かった。
だけど、母親は消えた。
それ以来、母親と会っていない。
蒼空の心に、あの時の怖さが、よみがえる。
「蒼空! 蒼空!」
「あぁ……桜さん……」
「買い出しに付き合って」
「はい」
気がつくと、桜が運転する車が蒼空の隣に止まっている(気づかなかった……)。
いつもの坂道を街へと下る。
「ねぇ、桜さん……」
「なあに?」
「僕は、誰なんですか?」
「えっ!?」
蒼空の不意の問いに、桜が目を丸くする。
「どうしたの?」
「あぁ、いえ……」
桜は、蒼空の気持ちを察したようで、朝の春子の事を「ど忘れしただけよ」と、笑う。
「でも、大木先生も岩谷先生も忘れてるんですよ!?」
「……わかったわ……」
桜は、車を西野病院へと向ける。
「ここ……!?」
桜は、車を止めると蒼空の手を握り、受付に行くと、西野を呼び出す。
「どうしたの桜?」
「この人わかる?」
「蒼空……だろ!?」
桜は、西野に事情を話す。
「う……ん」
「医者でしょ? あなたが、施設に受け入れたのよ!」
「わかっってるよ……でも、精神科でもないし……」
「役にたたないんだから……」
「ちょっと……桜さん……」
桜は、立ち上がると、診察室から蒼空の手を引いて病院から出ていく。
苛立つ桜の気持ちを現すように、車のドアを荒々しく閉めて、蒼空の顔を見つめる。
「フゥ……ほらっ、憶えているじゃない」
「……はい」
蒼空は、不安を取り除く為に、西野の所に、連れてきてくれた事を感謝した。
成り行き……
「何故?」と聞けば、桜は、その一言で片付けるだろう。
自分の不甲斐なさと不安で、身体が震える。
「ちゃんと話して……」
膝で握る拳を、優しく包み込む桜の手(本当の事を話さなければいけない……)。
「……桜さん」
「うん!?」
優しく微笑む桜……
あなたは、どうして他人に優しくなれるの……?
「僕の名前は『碧 蒼空』では、ないんです」
「……」
蒼空は、数ヶ月前に、目覚めた時の事を話した。
『碧 蒼空』は、窓から見た空が、綺麗だったから思いついた事。
壁に掛かるカレンダーを見て、日にちを伝えた事。
桜は、黙って話しを聞いてくれた。握った手を離す事なく、話しを聞いてくれた。
暖かく柔らかく……記憶を取り戻ししても、きっと忘れる事はない。
「うん……何となく、そんな気がしてた……」
「えっ?」
「だってぇ……格好よすぎるもん!!」
「ハハハ……いい名前だと思ったんですけどね……」
「名前はどうでも、いいじゃない」
「でも、嘘の名前ですよ……」
「今は『蒼空』には、違いないよ!」
「……」
「皆が大好きな、『蒼空』でいて!!」
「はっ……はい」
桜は、目を細めてニコリと笑った。
蒼空は、いつも桜の笑顔に、励まされて優しく包まれていた。
視線が歪む、その瞬間、桜の笑顔と別の女性の笑顔が、重なる。
似てる……雰囲気は、桜と似ているけど、別の女性。
君は、誰だい?
いつも優しく微笑む君は……誰……?
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