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うなぎ

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2章

火種

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多数の足をシャカシャカと動かしながら巨大ムカデが走り去っていく。
そんなこの世ならず光景を、野原陽奈と日比谷弘樹はなすすべもなく見送った。
あんなやり取りをした後なのだから当然のことかもしれないが、竿留大輔、一ノ瀬崇、勇弥胎芽の三人組はホーム場に残ってはいない。
どうやらアレに乗って先に、<原始世界・ネイレスト>へ旅立ってしまったようだった。
「本当にごめんなさい。私が怖がったばかりに。」
演技では無く本心から陽奈はムカデを怖がっていた。
光沢のある甲殻や複数ある足は気持ち悪いのですむ話だが、生きている虫の体の中に入るのは生理的に無理だった。
「いや、あれは不可抗力ですよ。俺も入るのをためらいましたから。」
弘樹は一生懸命に陽奈を励まそうとしていたが、彼女は自分のせいだと身を引き締めた。
家庭の都合で陽奈が海外から日本に戻ってきたのは、今から6年ほど前のことである。
その6年で自分が随分と平和ボケしてしまっていることに陽奈は気がついた。
彼女が幼少期を過ごした国に比べると日本は間違いなく治安の良い国である。
女性が地下鉄を一人で乗っても暴力を振るわれることもないし、肌の色で差別されることもない。
だからあまり深く考えず軽率に、陽奈は<境界>の話題を取り上げてしまった。
言い訳にはなってしまうが、同じ悩みを抱えている日本人がいるのではないかと期待してしまったのだ。
「ああ、もう。私ってば、どうしてこう間の悪い。」
陽奈が頭を抱えて突然悶えだすと、弘樹は心底驚いた顔をした。
いくら治安の良い国の出身だとはいっても、ここはもう異世界。
女同士で旅をするのならまだしも、彼氏でもない男性と一緒というのは女性からすればリスクがあった。
しかも相手は自分に好意を持っている男性だ。
何か間違いが起こらないとも限らない。
だから本当は多少無理をしてでも、先ほどの電車に乗るべきだったのだ。
「日比谷先輩。先輩は竿留くんの<境界>は何だと思いますか?」
内心の葛藤とは裏腹に、次の電車が来るまでの会話のネタとして、陽奈は先ほどの話を掘り返した。
<境界>は自分の境遇が深く反映されるものなので、不用意に尋ねたりしない方が良いかもしれない。
という気づきを得てはいたが、陽奈の胸の内にはまだモヤモヤとした感情が残っていた。
幸い日比谷は陽奈に自分の<境界>を隠すつもりはないようだったので、女は自分の気持ちを整理する為に男に話しかけた。
「竿留の<境界>か……あいつは、難しいですね。一ノ瀬と勇弥ならわかりやすいんですが……。」
男子から見てもわかりづらない人なのか、と陽奈は心底驚いた。
陽奈から見た竿留大輔と言う人間は、至極まともな人間だった。
遅刻をしたことは1度もなく、宿題も必ずやってくる。
学園祭などの学校行事もサボったりせず、清掃の時間もしっかり掃除をしている。
偏見ではあるが、そういった人間は内申点目当ての人間が多いような気がしていた。
しかし彼は取り立てて優秀というわけでもなく、大学受験にも興味がなさそうだった。
ちなみに、教室の掃除をするという風習は日本独自のもので、陽奈もそれだけは面倒でサボっていた。
学費に施設の管理費が入っていないのはおかしな話なので、雇っている事務員にやらせるべきだと彼女は考えていたのだ。
「それなら、一ノ瀬くんと勇弥くんの<境界>を先に教えてもらえませんか。」
「間違っているかもしれませんが、勇弥はゲームとかラノベが好きなオタクなんで、2次元と3次元の<境界>だと思います。」
「ああ、確かに。彼はネットスラングの使い手ですもんね。先輩の予想は当たってそうです。」
「ネットスラング?あー……。あいつのござる口調は、オタクだからじゃないかもですね。」
「え、そうなんですか?」
「あくまで噂なんですが、あいつの実家、土地持ちみたいなんですよね。」
「土地持ち?」
「他人に土地を貸して富を得る人のことです。嘘か本当かはわかんないんですけど、GHQ?に土地を没収された後に、その土地を買い戻したとかなんとか。今はその土地で大規模農業をやっているらしいですよ。」
「もともと地主だったってことは領主?ってことですよね。だからサムライ口調だったんだ。」
「ちょっと違うような気がしますが、だいたいそんな感じだと思います。」
この場に本人がいたら領主と地主は違うとツッコミが入ったかもしれないが、この場には二人しかいなかったので勇弥胎芽の話がそれ以上掘り下げられることはなかった。
「一ノ瀬の<境界>は、恐らくあいつの趣味が関連していると思います。」
「一ノ瀬君の趣味は柔道ですよね?インターハイでも優勝してましたし。」
「いや、そっちではなく。男色趣味のほうですね。」
「だんしょく趣味?ごめんなさい、どういう意味か聞いてもいいですか。」
「男色趣味っていうのは、簡単に言うとホモってことですね。」
「ホモ……ああ、ゲイってことですね。」
「ですです。あいつ、男なのに女みたいに竿留とべったりじゃないですか。絶対竿留のケツを狙っていると思うんですよね。」
神妙な面持ちで語る弘樹が面白く、不謹慎にも陽奈は吹き出してしまった。
「本当にお尻を狙っているかはわからないですが、確かに一ノ瀬くんは竿留くんのことが大好きですよね。あの二人って何か接点があるんでしょうか?……実は幼馴染だとか。」
「隣の席ってだけだと思いますよ。竿留は柔道部じゃないですし。たまに竿留が勉強を教えてますが、それだけであんなに仲良くなりますかね?」
「赤点で進級できない。なんて、うちの学校にはありませんもんね。課題の手伝いをしただけであんなに仲良くなるかしら。でも、もし二人が付き合っていたりしたら凄いロマンチックですね。」
「ロマンチック?気持ち悪いの間違いだろ。」
男同士が恋愛することへの嫌悪感が勝ったのか、日比谷先輩は素の口調になっていた。
その態度を見て、日本は安全な国だがこういった部分は遅れているなぁと陽奈は思った。
男性なら女性と付き合わなければならないといった考え方は正直に言って古い。
男性と呼ばれている人の中には本来ゲイの人も、バイの人も、トランスジェンダーの人もいる。
その多様性をないがしろにして、自分の価値観を口にするのは正直危険だなと思った。
「えー、私はいいと思うんだけどな。恋愛は自由だと思いませんか?」
「……まぁ、そうですね。俺は気持ち悪いと思いますが……恋愛は自由です。」
あ、この人とは付き合えないかも、と陽奈は思った。
海外で暮らしていた時は、半分アジア人であるせいで虐められることがよくあった。
そのせいか、日比谷先輩がゲイに対して抱いている感情に対して、陽奈は自分のことのように受け取ってしまっていた。
彼は好き、嫌いという個人的な好みの範疇を越え、差別していることに気がついていない。
それが、たまらなく嫌だった。
「あ、電車が来たみたいですね。」
結局、竿留大輔が何故<境界>について話してくれなかったのかまで話し合うことができなかった。
しかし、この話ができてよかったと陽奈は思った。
日比谷弘樹という人間のことがわかったからだ。

シルバーバーチという街は木材の交易が盛んな都市である。
コールドウッドの森に群生する多種多様な樹木を伐採し、家を建てるのに必要な角材や板材に加工したり、ベッドや箪笥といった家具などに製品化することで富を得ていた。
取引されている木材の種類をあえて挙げるなら、家を作るのに使うスギやクリ。
家具や内装に使うナラ。
紙や楽器の原料になるマツ。
樹法に用いられる貴重なキノコの寄生先である白樺などが主な商品として挙げられる。
コールドウットの森は大陸北方の亜寒帯にあるため、ヒノキやマホガニーのような温かい場所で育つ木材は生えていない。
そういった高価な木材を提供できないデメリットを、広大な群生地による大量供給で補っていた。
「おい、ぐずぐずするな。さっさと荷物を運べ!」
狸に似た姿をした小太りな獣人の怒号と共に、鞭が振られ、木材を運んでいた人間の背中に真っ赤な線がついた。
悲鳴をあげたくなる程の痛みを歯を食いしばることで防いだ男は、渋々ながら歩く速度を速めた。
「いかがでしょうかヴェルグ卿。木材の搬入状況は。」
人間達が血反吐を吐きながら働いている横で、ムチを振るった男はワシとよく似た姿の獣人と呑気に話を始めていた。
極力無視しようとは考えていたが、先ほどムチを打たれた男の耳にも、彼らの会話が入り込んでくる。
「全然足らんな。前哨基地は常に物資が不足しておる。もっと伐採速度を上げれぬのか?」
「それがですね。最近、コールドウットの上空をドラゴンが飛来しまして……そいつをどうにかしていただかないことには、危なくておちおち作業もできません。」
「ドラゴンだと……?何故その話をもっと早くにせんのだ。」
「あっしも人づてで聞いたばかりでして……。ベトゥリンという田舎から助けを呼びに来た者達がいるとか、いないとか。」
「であれば、開拓所に依頼があるかもしれぬな。ゆくぞ、アルベリヒ。」
「へ、へい。おい、加護無し共!あっしは少し席を外しますが、サボらねえで仕事をしろよ。」
へーいとくぐもった声で加護無しと呼ばれた人間たちが返事を返す。
みな木材を運ぶので精一杯で大声を上げる余裕などなかったのだ。
「おい、レイヴ。今のうちに逃げるぞ。」
ヴェルグとアルベリヒが仕事場を立ち去ってすぐに、先ほど鞭を打たれた男の元へ人間の男がやってきた。
サボりたいだけだなと思ったレイヴは、男の話を取り合おうとはしなかった。
「馬鹿なこと言ってねえで仕事しろ。獣人から逃げられるわけねえだろ。」
「プランはある。話だけでも聞いてくれ。」
「へいへい、仕事をしながらでいいなら聞いてやる。」
同僚の話を話半分で聞きつつ、レイヴはもくもくと自分の作業をこなしていった。
彼の今日の作業は、伐採された原木をコールドウットの森からシルバーバーチへ運ぶことだった。
彼と同じ擦り切れた服を着ている人間達が汗水を垂らしながら、えっちらおっちらと重い木材を積んだ荷車を運んでいる。
闘気を纏える獣人がした方が何倍も効率の良い作業ではあるが、獣人は木を伐採したりドルイドが加工する前の原木に触れるという行為が苦手だった。
これはこの世界の創造神である父祖トネリコへの信仰が関係していた。
トネリコは世界樹が擬人化した神格なので、大樹を粗末に扱うと罰が当たると獣人達は考えていたのだ。
だから林業は人間にさせるのが習わしだった。
特に伐採はレイヴ達のようにドルイドにも慣れない加護無しにやらせた。
「おい、レイヴ!全然人の話を聞いてないだろ!」
「いや、聞いてた聞いてた。」
「なら。俺は何て言った?」
「どうして俺達はポランを操れないんだろうな……。」
「別の話題を振ってごまかすな。」
「お前の話は長いんだよ。要点だけ頼む。」
「要点だけ!?そうだな……アルベリヒの屋敷で指輪を盗む。以上。」
「指輪を盗んでどうすんだよ。売って路銀にでもするのか?」
「この話もお前が考え事をしている間にしたんだけどなぁ。いいか、よく聞け。あんな鞭を振るうことしかできない狸が、商売なんてできるわけないだろ。それでも国の重鎮と懇意になれた。何故だと思う?」
「話の流れだと、指輪のおかげってことだよな。」
「ああ、そうさ。あの指輪は何らかの神が宿っている。俺は見たんだ。頭から角を生やし背中には翼のある真っ黒な人間が奴の頼みを聞いている姿を。指輪を手に入れてそいつを手中に収めれば、きっと逃げられるはずだ。」
「うーん。根拠が弱くないか?どんな頼みをしてたのかわからないと何とも。」
「俺が聞いたのは林業の発展の為にどうすればいいかって話だった。それで、その神はヴェルグ卿を紹介していたな。それから、その話の報酬についてアルベリヒが値切ろうとした時に、加護無しの管理資格の偽造をばらすぞと脅していた。」
「あいつ、資格もないのに俺達を……。それで、その神とやらの報酬はどうするつもりだ?」
「アルベリヒの屋敷でいいだろ。俺達にはいらないもんだ。」
「それは俺達のものではないのでは?」
「ま、まあ細かいことは交渉すりゃいいだろ。」
「お前、何か隠しているな。」
「ぎくっ。」
「話を聞いてたなら最終的にアルベリヒが何を報酬にしたのか聞いたんだろ?一体何を支払ったんだ?」
「ええと……その……あ!俺も仕事をしないといけないんだった。またな、レイヴ。」
「おい、エスカ!おいっ!」
レイヴが声をかけても、エスカは立ち止まろうとしなかった。
どうやらエスカは俺を罠にハメようとしていたらしい。
他人を騙してでも自分が助かりたい。
そう思う人間はここにはたくさんいた。
ただ、レイヴはこんな状況でも、他人を犠牲にしようとは思わなかった。

シルバーバーチの西の森に、いくつか人間だけが住まう村があった。
ヤウルと呼ばれるその村は、地面ではなく樹上に家を作り、大木同士を梯子で繋ぐことでコミニティを形成していた。
これは非力な人間がこの世界で安全な生活を送るための知恵だった。
大木の下にはドクトリナと呼ばれる父祖の眷属達がいた。
異世界の旅人たちも出会ったこの植物は、ヤウルではファム・ファタールと呼ばれ、この村のドルイドが編み出した秘術により飼いならされている。
強力な使い魔達のおかげで、この辺りの森は獣人達にも危険地帯として知れ渡り、彼らに脅かされることの無い生活ができていた。
暮らしが成り立つということは、人口が増えるということである。
本来であればめでたい話ではあるのだが、樹上での生活は食料の供給がままならず、人間達は思うように繁栄することができなかった。
ヤウルの長であるブリギッテは、獣人との争いを避ける為に、この土地の自治権をこの国の王に正式に認めてもらおうとしていた。
書状をしたため、10人の使いを王都へ派遣したが、集落に戻ってこれたのはただ一人だけだった。
獣人の王の返答に業を煮やしたブリギッテは、ヤウルの村の住人を村一番の大樹の上に招集した。
集いの木と呼ばれるその木は全長100メートル、太さは50メートルほどもある。
その場所に集まった人間達は中央にいるブリギッテを囲み、彼女の言葉を待った。
「--100年前。獣人達の手を逃れ、我らはこの森に移り住んだ。」
「それから数十年の時間をかけ、我らはついに……ドクトリナを使い魔にすることに成功した。」
「この力があれば、獣人達も我らを認めてくれるだろう。そう思っていた……。」
「しかし、奴らは我らのことを認めはしなかった!」
「ドラシルの王は言った!人が弱者でないと言うのなら、その爪、その牙で、我らを引き裂いてみろと!」
「我らには鋭い爪も牙は無い。しかし、我らには奴等には無い知識がある!」
「その知識を持って、奴らの爪や牙を折ろうではないか!」
おお!と皆が一様に叫んだ。
それは内に溜め込んでいた不満が爆発するような、怒りに満ちたものだった。
「さあ、<願いを叶える書物>よ。我らの血をすするがいい。忌々しい獣人達にあがらう術を我らに示すのだ。」
懐からナイフを取り出したブリギッテは、自分の指に傷をつけて地面に置いた本へ血を一滴垂らした。
この場に居合わせた他の者達も同様に本の元へと近づき、血を一滴ずつ垂らしていく。
子供ですら痛みをこらえながらその儀式に参加した。
やがて、血が本の表紙にある窪みを満たすと、その血が魔法陣を浮かび上がらせた。
ネイレストを包む<境界>を突き破り、深淵の奥から巨大な何かが産声をあげた。
それは巨大なムカデだった。
太さこそ大樹の4分の1程度の大きさだったが、逆に全長は大樹の4倍の長さがある。
暴れられては大樹が折れてしまうと考えたブリギッテはドルイドたちにすぐさま命令を出した。
「拘束術式展開!」
ブリギッテが指示を出すと、ドルイド達は「ファム・ファタールの蔓(つる)」という樹法を使って巨大ムカデを拘束した。
この樹法はヤウルで生息しているファム・ファタールの蔓を召喚し操るというものだった。
四方八方から伸ばされた蔓で簀(す)巻きにされたムカデは、すぐに身じろぎひとつできなくなってしまった。
「取引をしようと久しぶりに呼び出してみれば……悪魔め、前回の意趣返しのつもりか?」
ブリギッテが大ムカデに問いかけると、ムカデの腹の中から声が聞こえた。
それはこの場の緊張感をそぐ間の抜けた声だった。
「きゃっ!ちょっと先輩、どさくさに紛れて触らないでください。」
「す、すみません!暗くて何も見えなくて……。」
「わ、わ、わ!?なになに!?今度は何!?」
「やばい!押し流される!?」
ブリギッテや他の人間達が見守る中、大ムカデは盛大に嘔吐をした。
体の側面にある扉は蔓で塞がってしまったので、中にある人間を外に出す手段はそれしかなかったのだ。
もっともブリギッテはそんな事情は知らないため、ムカデの嘔吐をこちらへの不躾な返答だとみなした。
「うー、気持ち悪い。<境界>ごしに感触だけが伝わってくる。」
「野原さん。野原さん。」
「もう、何ですか……。」
高価そうな服を来た男女が、ヤウルに住む人間達を見返していた。
彼らの顔には演技とは思えないほど迫真な驚きと恐怖の表情が浮かんでいた。
「貴様らは悪魔の使いか?正直に答えろ。」
ブリギッテが凄むと男の方が女を庇う素振りを見せた。
悪魔らしくないその反応に疑問ばかりがつのる。
「俺達は悪魔じゃない。人間だ!」
嘘を言っているようには見えなかった。
しかし、目の前にいる二人は自分達とは違う生き物のような気もした。
「では何故その本から出てきた?」
「本?」
ブリギッテの指さす方向へ男が視線を向けた。
巨体にばかり気をとられていると気づくことはできないが、大ムカデの体は不自然に浮いており、開かれた本から巨体が生えていることがわかる。
「わからん。ただ、このムカデに乗ったら、ここに出てきただけだ。」
「どこで、そのムカデに乗ったんだ。」
「……野原さん。あの女はなんて言ってたっけ?」
「<次元回廊>?」
「それだそれ。」
「どこだそこは……。」
「知らん。俺達は担任に裏切られて、その<次元回廊>ってのに飛ばされただけだ。」
「信じてもらえないかもしれませんが、先輩の言っていることは本当のことです。<願いを叶える書物>というもので私たちの先生は何かしらかの願いを叶えました。その願いの代償として、私達が生贄にされたみたいなんです。」
「待てよ。つまりあの本は、<願いを叶える書物>ってことか?」
「そうかも!……あれ?ということはつまり……あー、そういうこと。だから私達を悪魔だと勘違いしたのね。」
「腑に落ちない点もあるが、お前達の事情はある程度理解した。処遇は後回しだ。儀式が終わるまで、拘束させてもらう。」
ブリギッテの合図でドルイドの一人が「ファム・ファタールの蔓(つる)」を来訪者に向けて放った。
しかし、何かに阻まれて蔓が緩み、大ムカデのように拘束することはできなかった。
「化け物め。やはり人間では無かったか!」
「それはこっちの台詞なんですけど!?今の何!?何の触手なの!?」
ブリギッテの言葉に反応して、女はすぐさま返答を返した。
傍若無人な女の態度に業を煮やしたのか、声音からは怒気が読み取れた。
「で、あなた達はどうして悪魔を呼び寄せたの?何か事情があったんでしょ?」
「ふん、貴様のような小娘に教えるものか。」
「小娘ってあんたね。日本じゃなければ成人年齢なんですけど。けんか腰じゃないと会話もできないんですか?おばさん。」
「私をおばさん呼ばわりとはいい度胸だな。裸にひんむいてファム・ファタールの肥やしにしてやろう。」
「ブリギッテ様。落ち着いてください。我々の力が効かない相手です。使いようによっては獣人に対抗できるかもしれませんよ?」
「気に食わない。気に食わないが……一理ある。」
「あの、そういうの聞こえない所でやってもらえませんか?丸聞こえですよ。」
「まぁまぁ野原さん。落ち着いて。」
「会話に横入りして申し訳ありません。私はフォモル。この集落にいるドルイド達の教師をしております。この場にいる皆を代表して先ほどの無礼をお詫びします。申し訳ありませんでした。」
深々とフォモルは頭を下げたが、ブリギッテは全く謝る素振りをみせなかった。
それに対して二人は不満を感じていたようだったが、フォモルの態度に免じて怒りを鎮めようとしていた。
だからだろうか、ブリギッテはフォモルに先ほど陽奈が尋ねた質問に答えるよう命じた。
「協力します。」
フォモルから獣人による迫害の話を聞いた陽奈という女は、間髪入れずにそう宣言した。
この集落にいる人間達がこれからやろうとしていることは、言わば獣人達との戦争である。
それにためらいもなく参加しようとする心意気に、ブリギッテは関心した。
「一応理由を聞いておこうか。何故我らを助けようとする。」
「これは間違いなく人種差別です。この世界で暮らす以上、人間として受け入れるわけにはいきません!」
「そっちの男も同じ考えか?」
「俺は……まだよくわからない。本音を言えば、獣人の話も聞いてみたい。」
「貴様……。」
「身なりから察するに、貴方がたは別の世界の住人なのでしょう。この世界の事情を知らなければ、そういった考えになることも理解できます。ブリギッテ、いったんこの話は終わりにしましょう。彼らに交戦の意思はない。それよりも……。」
「よかろう。この世界で暮らしていれば、否が応でも獣人の残虐さを理解することができるだろうからな。……再び召喚の儀を執り行う。拘束術式を解除。ムカデを送喚せよ。」
ブリギッテの合図で蔓が緩むと、大ムカデは本の中へと吸い込まれていった。

「なあ?俺の言った通りだっただろ。」
「いや~疑って悪かった。まさか、こんなに上手く行くとはな!」
「後はこの指輪を使って神に助けを乞えば、俺達は自由だ!」
アルベリヒの屋敷で二人の男が話をしていた。
片方はエスカ、もう片方はレトという名の同僚である。
結局、レイヴはエスカの口車にのせられることはなかった。
だからエスカは、騙されやすそうな別の男を誘うはめになった。
木材の搬入のためにほとんどの加護無しが外に出払っているおかげで、エスカ達は誰にも見つからずにアルベルリヒの私室に忍びこむことができた。
ここまでは計画通り、後はどんな対価を要求されるのかが問題だった。
アルベルヒの自室の机の中にあった指輪を指にはめると、エスカの指に激痛が走った。
慌てて外そうとすると余計に痛くなるため、エスカは指輪の刻印に血が満たされるのを見ていることしかできなかった。
「お、おい。大丈夫か?」
「畜生……くそいてえ。」
アルベルリヒがこの指輪を身につけずに家に置いている理由がようやくわかった。
こんな物とてもじゃないが指にはめてはいられない。
指輪から血が地面に滴り始めると、ようやく神が二人の目の前に降臨した。
それは、エスカが以前見た時と同じように、真っ黒な外皮に角や翼を持つ人間によく似た生き物だった。
顔をよく見ようとエスカは目を凝らしたが、顔の造形を何故か認識することができなかった。
「呼んだ?」
緊張している二人に対して、神は気軽に話しかけた。
声は喉仏のある男の声ではなく、どちらかというと中世的な声だった。
「俺を獣人にしてくれ!」
単刀直入にエスカは自分の願いを告げた。
人間のまま別の場所へ逃げたとしても、獣人は匂いを辿ってどこまででも追いかけてくるだろう。
それを防ぐ方法は唯一つ、獣人になるしかなかった。
「話が早いね。対価は……。」
「こいつだ。」
手近にあった燭台で、エスカはレトの頭を全力で殴った。
レトは抵抗する間もなく気絶し、受け身も取れない状態で地面に倒れた。
「わ~お!人間って本当に醜いね。そのために連れてきたの?」
「何とでも言ってくれ。俺は……他人を犠牲にしてでも、自分だけは助かりたい。」
「ふ~ん。開き直ってる人か。ま、いいよ。対価があれば何でもしよう。」
「それじゃあ……。」
「君の願いを叶えるには、加護無しの人間が最低10人必要かな。多ければ多い程強い獣人に出来ると思うけど、逆に10人未満の魂じゃ獣人にはしてあげられない。」
「……値引きはできませんか?例えばこの屋敷をお渡しするとか。」
「生殺与奪を握っているその人と違って、この屋敷を所有する権利は君にないから難しいね。」
「何か他に手はありませんか?獣人になれなくてもいい。このクソみたいな状況から自由になりたいんです。」
エスカの必死な訴えに応じて神は考える素振りをみせた。
表情が認識できないせいで、エスカには神の本心を推し量ることができなかった。
「そうだなぁ、それじゃあ……君の体に僕を宿らせるってのはどうかな?」
「それはつまり、シャーマンになるってことですか?」
「この世界の言い方だとそういうことになるね。」
「それって、相当すごいことなのでは?」
シャーマンというのは神や祖霊に選ばれた者のことを指す。
この世界にほとんど存在せず、仮にいたとしても身分の高いものがほとんどだった。
逆説的に、シャーマンになれるということは、貴族になれるも同義だった。
「いや、結構大変だと思うよ。」
「というと?」
「僕が君に憑りつきたいのはね。<狭間人>と呼ばれる人間とお近づきになりたいからなんだ。君にはまずヤウルという人間の村に行ってもらい<狭間人>の信頼を勝ち取ってもらう。」
「人間の村が……あるんですか!?」
「あるよ。ただね、ヤウルに住む人間達は、獣人との戦争を計画している。<狭間人>も人間の味方をするみたいだから、君にはそれを手伝ってもらいたいんだ。もちろん、獣人と戦う力は僕が君に授けるから安心して欲しい。」
「人間の村に行けたり、力を授けられるのはありがたいんですが、この契約だと俺はいつ自由になれますか?」
「僕と一緒にいるのはそんなに嫌かい?ふふ、冗談冗談。それじゃあ1年ごとに契約を延長するか決めることにしようか。僕の要求は変わらないから、対価の上乗せとかもしない。」
「貴方の頼みとは?……<狭間人>の信頼を勝ち取った後は何をすれば?」
「それはまだ言えない。事態がどう転がるかは彼らに会ってみないと僕もわからないから。」
「では、あなたの名前は?」
「僕は……そうだな。マルバスとでも名乗っておこうか。」
「では、マルバス様。他に私の不利益になるような話はありますか?」
「それ聞いちゃうんだ。そうだな~、今回の契約はほとんど対価がないようなものだから、憑りつくといっても普段は分霊を置いておくだけにしようと思うんだよね。本格的な戦闘の時は君の血を使うから、日ごろから体力作りはしておいたほうがいいかも。ご飯をいっぱい食べておくとかね。」
「それだけですか?」
「うん。思いつくのは今のとこそれだけかな。」
マルバスは信頼できる。
そう判断したエスカは神との契約を正式に取り交わすことにした。
驚いたことに、マルバスはレトを対価として受け取ろうとはしなかった。
他人を殺したり生贄にすると<狭間人>の心証が悪くなる。
そんな至極真っ当な説明を受けてしまっては、とてもじゃないが口封じをしたいなどとは言い出すことができなかった。
きっと恨まれるんだろうな。
そんなエスカの内心を悟ったマルバスは、アルベルリヒの部屋からレトを運ぶように指示を出した。
「ここで彼を寝かせたままにしたら、君はもっと恨まれるだろう。レトではなく別の人にね。」
マルバスの言葉で真っ先に思い浮かんだのはレイヴの顔だった。
だからエスカはマルバスの指示に素直に従い、彼を屋敷の外にある加護無し達の家に運んだ。
ちなみに指輪はマルバスから貰った新しいものをアルベリヒの机の中にしまっていた。
「……レイヴ。いつか必ず……助けてやるからな。」
後ろ髪を引かれる思いに駆られながらも、マルバスはシルバーバーチの街を抜け出した。
行き先は西の森のヤウルという村だった。
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父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

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