咎ざらしの朱猫 ――怪談屋・月詠 鈴鹿の推理譚――

永久島 群青

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第四話

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 4


 翌日。七月五日。

 俺は山手線に乗り、新宿で降りた。ネカフェのシフトは代わってもらい、改札を出て東口へと向かった。昼間の新宿はごった返している。池袋も人は多いが、やはり色が違うなと改めて感じる。

 たかだか隣町なのに、そこに行くと自分が浮いてしまっている。そんな感覚。俺にとって新宿はそんな気分になる。ホームの方が安心するのは、都会も田舎もさほど違いがない。

 とりあえず名刺にかかれた住所をもとに、アルタ前で信号が変わるまで液晶画面で流れるニュースを眺めていた。

 目的地はモア三番街。ここから歩いて五分とかからない場所だ。鈴鹿は駅前まで迎えに来ると言ってくれたが、その距離のために店主を店から出すのはなんとなく憚られた。

 信号が青になり、目の前のクロスヴィジョンを右折する。

 周りでは色とりどりの肌と言語が喧騒となり行き交う。日本語、英語、韓国語、中国語。浅学な俺にはそこのへんを歩くギャルの言葉の方がよっぽど理解しやすい。

 今日もまた酷暑で、新宿の熱は三十八度。街が風邪をひいているようなものだ。殺菌作用は効果的である。

 人間がバタバタと倒れていくのだ。この星では俺たちは風邪の菌と大差ないのかもしれない。

 しかし、それでも恩恵というのはあるものだ。肌色が目立つ。こんがりと焼けた太ももやら、やけに白い二の腕やら、くびれた腰、歩くたびに胸元が揺れるさまは男にとっては目のオアシスだ。

 今年の流行はロングTにショートパンツ。こいつを流行らせた人間は偉大だな、なんて馬鹿げたことを考えた。

 きれいめでは深いグリーンのトップスにワイドパンツが主流のようだ。こちらも捨てがたい。

 いつの時代でも夏というのは男のバカなところを刺激するものだ。彼女たちはただ好きで着ているだけだというのに。

 キャリーバックを引く音や、雑多な足音、様々な言語が飛び交う中をくぐり抜けるようにして、紀伊国屋の方面へと向かう。

 献血を呼びかける声の手前、モア三番街への入り口はその途中にあるのだ。そこだけひっそりとしていて、二番街や四番街とは違い、狭い路地のような場所で人が極端に減る。

 まばらな人間が喫煙所以外で煙草を吸っている。ある意味では隠れスポットなのだろう。

 喫煙所には屋根もないから、暑くて仕方ないのだ。しかし、この飲食店がひしめく狭い通りは陰がある分マシなのだろう。人が少ない分、見咎められることもない。

 中央通りまで抜ける道の途中、小さなゲームセンターと百均が目印だった。

 その靖国通りに出る手前にあるテナントビルの三階。

 エレベーターは無し。ひとり分の幅くらいしかない階段がわきにあって、その前に『怪談屋・怪談の売買、承ります。創作歓迎!』と置き看板があった。

 黒地に赤い文字で雰囲気はばっちりだが、ただの行きずりには意図が読めない気がする。興味本位で入って痛い目を見るのは、池袋も新宿も同じなのだ。

 それなのに需要がある、と鈴鹿は言っていたのだから、やはりそれなりに客は入るのだろう。物好きなやつもいるものだ、とそんなことを思う。

 今まさにそこを目的地にやってきた俺が言うのもバカな話ではあるが。


◇◆


 昨今のモダン・レトロブームにあやかっているのか、扉はノック式だった。輪っかになった金色のドア・ノッカー。扉はダークブラウンの木製。

 ドアには怪談屋と書かれたプレートがあるだけで、本当に目的がないとまず訪れることはないだろう。

 三回ノッカーを叩くと、どうぞ、と朝露のような、不純物のない透明な声が聞こえてきたのでノブをひねる。開いた瞬間――いや、その店を見た瞬間、俺は絶句した。

 真っ暗な中、四隅に淡いオレンジのスタンドライト。

 入って目の前には執務机のような大きなデスクがあり、原稿用紙と万年筆が綺麗に寸分ずれもなくそこにあって、ダイヤル式の黒電話がわきに置かれている。実物なんて初めて見た。

 その手前にはデスクと向かい合うように四人掛けの赤いソファーにローテーブル。執務机の真後ろには大きな柱時計。その左右には天井に届くほどの本棚。

 ハードカバー本や分厚いファイルが綺麗に、隙間なく詰め込まれている。

 窓は暗幕で閉じられているようだが、更にそこにも同じく天井まである本棚で暗幕さえ見えない。

 唯一、向かって執務机の右側に小さなドアがあるが、そのスペースだけ本棚を置かなかっただけで、ドアのこちら側――入り口に向かって同じように整然と並んでいる。

「こんにちは。昨夜はお世話になりました。暑かったでしょう」

「……ああ、まあ」

 俺は息を飲んだ。昨日に引き続き、夢でも見ているんじゃないか、そう思わせるほどにこの空間は異質だ。外の音さえ聞こえない。ひと気が少なかったとはいえそれなりに騒がしかったというのに。

 ソファーに座って少々お待ちくださいとだけ言って立ち上がると、鈴鹿は右側のドアに入っていく。

 俺は居心地の悪さを感じながらもソファーに腰を下ろすと、身体が沈み込むほどに柔らかい。彼女はすぐに出てきた。盆に薄い緑色の液体が入ったグラスが乗っている。

「緑茶はお嫌いですか」

「いや、ありがたい」

「それは良かったです。ほうじ茶と麦茶、玄米茶もあるので、少し迷っていました」

 そのわりにはすぐに出てきたな、と言いかけて前日の話だと気が付く。鈴鹿は昨日の段階で迷っていたのだろう。

 お茶に好き嫌いもないと思うけれど。強いていうなら、ゴーヤ茶だけは受け付けない。ただ、彼女のラインナップには無いようなのでホッとする。

「……香りが良いもんだな」

「ええ。茶葉を煎って水出しをしています」

「……そんなに手が込んでるのか」

「趣味のようなものですよ」

 鈴鹿はそう言って、少し照れ臭そうに微笑んだ。

 俺は暑さに辟易していたので、ローテーブルに置かれたグラスを半分ほど飲み干してから、口許を腕で拭う。

 鈴鹿は両手でグラスをもって、くっ、とひと口だけ。唇を濡らす程度に飲んでから、ソファーに座る俺に視線を向けた。

 やはり、美しい。白磁のような肌はオレンジのスタンドライトに照らされてより艶やかに映る。高い鼻梁に優しい笑みを浮かべる唇。化粧っけはない。香水の匂いもしない。

 飾ることなく、あるがままで美麗な存在は――さっき街で見た彼女たちが偽物のように感じられる。

 流行り廃りのない、彼女は白いワンピースに昨夜とは違い、薄い青のロングカーディガンを羽織っている。いくら生地が薄いからといっても、汗ひとつかいていない。

「昨日、あなたからのありがたい申し出を吟味させていただきました」

 鈴鹿は目を閉じる。長いまつげは一本一本が手入れされているようでいて、しかしマスカラの類はつけていない。やはり、そのままで、自然体で――彼女は。彼女という存在は。

「やはり今回の案件、ルリさんを抜きにし解決は・・・ない・・という結論に達しました。ですからご協力のほど、よろしくお願いいたします」

 彼女は頭を下げた。俺はなんと答えていいものか迷った。そんなにかしこまられても、対応に困る。

 俺の周りにいる人間は、気さくなバカばかりである。年齢、性別関係なくため口で、敬語なんてのはバイトの際に使う道具のようなモノなのだ。

「それで、俺はなにをしたらいい。依頼の内容は、やっぱり話せないのか」

 だから、俺はいつも通りに振る舞うことにした。人によって態度を変える、それは俺が一番嫌うことだ。もちろん、プライベートな話だが。

 こんな俺だって、バイトとプライベートの折り合いくらいはつけられるのだ。

 鈴鹿はしばらく沈黙していたが、やがて意を決したように口を開いた。

「承知いたしました。お教えします。ただ――少し、長くなります」


◇◆


 それは、沢田さわだ 春江はるえ、三十九歳。彼女が六歳になる子供、由紀ゆきを連れて歩いていた夕方。

 まだ陽が高く、ひと通りも多かったころだった。不意に視界の隅に奇妙なものが見えたのだという。ぼんやりとした、小さな影で輪郭ははっきりしなかった。

 鈴鹿がいうには、夕方であったことは関係なく、その春江の霊感――そのアンテナが薄かった・・・・ため、完全にその姿を捉えることが出来なかった、ということらしい。

 しかし、それ以来、夜な夜な声が聞こえ始めたのだという。

『おあああん、いういえ』

 最初は隣で寝ている由紀が寝言を言っているのだと思った。けれど、娘を見ると無垢な寝顔で寝息を立てているだけだった。

 少し気になりつつも普段通りに過ごしていたが、鼓膜にこびりついたその声は、段々と夜だけでなく日常に侵食していくことになった。

 いよいよ自分の耳の異変を気にし始めた春江は耳鼻科を受診した。だが、診断結果は異状なかったらしい。

 声はどんどん鮮明に聞こえ始めてきた。女の子の声。くぐもった声。鼓膜の外から聞こえているのではなく、中から聞こえてきているような感覚。

 夫に相談するも、育児ノイローゼじゃないかと言われたようだ。

 春江は一度離婚していて、四十五歳になる夫、沢田さわだ 和成かずなりは二人目だという。

 夫にも四年前に離婚歴があり、けれどお互いの過去を受け入れて、交際二年間、そして二年前に和成の希望で妻の性である沢田に籍を入れたらしい。

 多忙な中、春江も二度目は行きにくいだろうからと和成が婚姻届けを出してくれたと語った。

 和成にも子供がいたらしいが、相手側に親権を取られたうえに逃げられて子供に会えないこと、養育費も払えないことに対し、ひどく悩んでいたようだ。

 それもあってか、血のつながらない娘を大層可愛がっていた。春江の相談を受けてから、会社もなるべく早上がりするようにして育児を手伝うようになった。

 さすがに仕事上の付き合いだけは外せずに謝られることもあったが、それでも休日は家族サービスをするような夫だったらしい。

 春江が気晴らしに友人と映画やカラオケに行きたいといえば育児を代わってくれるような良き父親でもあったから、その謝罪も今の現状も後ろめたさだけが蓄積されていった。

 春江はそんな夫に申し訳なさを感じてどんどん暗くなっていった。それを見てられなくなった和成は育児ノイローゼを疑い、一度心療内科を受診してみてはと、心配してくれた。

 そこまで甘えるわけにはいかないと言ったが、和成からは由紀のためだと思ってくれ、と言われて受診することになる。

 二週間の検査入院をすることになった。

 検査といっても内科や外科のようなものではなく、カウンセリングで心の波を見る、深夜徘徊や取られ妄想、不眠症診断、不安症、ヒステリーなど心理面での検査、経過観察が主だったらしい。

 それで環境が変わったこともあり、少しずつ安定していった。

 カウンセラーからは家族間での悩みや子育てに対する不安、再婚したことによる罪悪感などがないかを聞かれたが、どれひとつとして当てはまる部分がなかった。

 強いていうなら、今も夫が仕事と家事、育児をしてくれていることに申し訳ない気持ちがあるだけだった。

 二週間が過ぎて、退院した。和成は少しも疲れた様子を見せず、結果、彼女には多少の疲労はあるものの異状はない、と報告すると安心したように、良かったと、笑ってくれたのだという。

 しかし、退院してから二日目。またあの声が聞こえ始めた

 安心しきっているときに、飛び込んでくる恐怖。道を歩いていたら急に足下ががらりと崩れていくような感覚。それは、張り詰めていたときよりも大きな動揺を彼女に与えたはずだ。

 たまらず春江は悲鳴を上げた。和成がとび起きて抱きしめてくれたが、それでもおさまらない。

 驚いた由紀まで泣きだして、夫としてはどちらをあやしたらいいのか、察して余りあるほどの修羅場になったことだろう。

『おあああん、いういえ』

 まるで、まだ幼子のような声。言葉になっていない声。それが、鼓膜の内側から響いてくる。

 その声は悲しそうで、悲痛だったと春江は語ったのだという。聞くものの心を、ひどく痛めるような声色だったと。

 どうしようもなく、眠れない一夜が過ぎて春江はもう一度心療内科へ向かうためにバスに乗ったのだという。

 和成はついていくといったが、由紀を見ていて、とだけ残して。もう相手を気遣う余裕なんてなかったのだろう。

 そのバスで、ある女性に会った。たまたま座った窓際の席。その後ろにいた女性が、

『あんたのそれは病気じゃない』

 まるで一部始終を見ていたかのようにそういったらしい。ハッとなって振り向くと、ジャケットにTシャツの女性が、春江を睨みつけるようにしていたらしい。そして――。

『私は今、別件で忙しいからあんたを助けることは出来ない。けれど、騙されたと思ってここに行け。相談は無料だ。もしかしたら、あんたのその話を高く買い取ってくれるかもしれない』

 そういって差し出された名刺が――……。

「……ここだったってわけか」

「ええ。彼女が藁にも縋る思いでここにいらっしゃいました。そしてそのお話を百万円で買い取らせていただきました」

「百万?」

「妥当な金額ではないですか」

 さらりと言ってのけるお嬢さま。俺のバイトの何か月――いや、年収といってもいいくらいの金額を、その話だけでぽんと差し出したというのか。下世話な話だけれど。

「けど、よく母親はその女――初対面の女の話を信じたな。もしかしたらそれこそ悪質な詐欺だったかもしれないわけだろ」

「言ったでしょう。藁にも縋る思いだったと。追い詰められた方は、正常な判断が出せません。第三者がいれば別でしょうが、それはあくまで第三者の意見です。春江さまの判断ではないのです」

「で、その女ってのがあんたのダチだったと」

「ダチとは、どういう意味ですか?」

 鈴鹿はきょとんとして小首をかしげた。

 最近の日本語は歪んでいると誰かはいうが、かの大国アメリカにだって、歴史ある中国にだってスラングはある。使いどころのよく分からない言葉が。

 ヤバい、なんて語源を遡ることもなく、誰もがそれとなく使っているはずだ。

 しかし、彼女にはその日本語のスラングは通用しないようだ。

「友達。あんたの友達だろ。ここを紹介した、バスに乗っていた女ってのは」

――なるほど、そういう意味なのですね、と言ってから鈴鹿は続ける。

「良い推察です。その通りですよ。彼女はいい加減なところがあって、無責任です。昔から変わらないので、もう慣れてしまいましたけれど――霊感だけで語るなら、私などよりよっぽど優秀です」

 それはそうだろう。一発見ただけで心の根幹を言い当てるなんて、占い師でもカウンセラーでも無理な話だ。

 俺だって、池袋で疲れたサラリーマンを見て、忙しかったんだろうな、くらいは分かるけれど、その奥底にある悩みや不満まで分かるはずもない。

「それで、その依頼を請けたわけだ。現場に行ったとき、あんた言ってたよな。連れてきてもらったやつを覚えてるか、どうしてここにいるか分かるのかって。名前も。事故死か、自殺か、最悪のケース、他殺も疑っているな」

 その言葉に、鈴鹿は目を丸くした。

「あなたは、言葉ひとつで察することが出来るのですね」

「あの姿を見れば、誰だって分かる。あれは病死やその場で天寿を全うした、なんてもんじゃない」

――落下死、あるいは轢死れきしだ。

 言ったあとで沈黙が降りてくる。ローテーブルの上に乗った汗をかいたグラスの滴がコースターを濡らして、からん、と氷が解ける音と、ぼおん、と時計が十三時三十分を差した音が響いた。

「……予想以上です。いいえ、決してあなたを侮っていたわけではなく。あなたの推察力とその断言力にはただただ瞠目するばかりです」

「誉めそやしても俺はただのネカフェのバイトで、夜にはろくでなしだ。こいつは卑下しているわけじゃない。単なる事実だ。だから本題に入ってくれないか。俺はなにをすればいい」

 鈴鹿はそのたれ目を細めた。口角が緩やかに上がる。

「ならばそれは謙遜と受け取りましょう。あなたにお願いしたいことは、図書館に行っていただきたいのです。インターネットというものに詳しいのでしたら、そちらでも調べていただければ幸いです。情報は多い方ことに越したことはありませんから」

「どこから調べればいいんだ」

「あの子の付近に落ちていた黄色い帽子は池袋の都立第二小学校のものです。今は青い帽子ですが、三年前までは黄色でしたので、三年前からそれ以前へ遡って、彼女の名前、学校でのいじめの有無、家族の名前、発覚時の状況、失踪届が出ていたかどうかを調べてください」

 その言葉に、今度は俺が驚く番だった。

「待て、帽子なんて俺は見ていない」

「それは感度の問題でしょう」

 鈴鹿の霊感ではそこまで見えていた、ということか。ならば、その友人とやらは、どこまで見えるというのだろう。彼女はそのまま言葉を続ける。

「……シナプス細胞という言葉を知っていますか」

「聞いたことくらいは」

「赤ちゃんは生後数ヶ月、シナプス細胞が活性化します。どんな言語でも理解できる能力を備えているとさえ言われています。けれど、大人になるにつれシナプスは衰退していく。それは必要な能力を取捨選択し、それに特化するためです。いわゆる学習能力によって、不必要な能力は消えていく。その分、シナプスは衰退していくということです」

「……なんだか小難しいな」

「簡単ですよ。常識的に生きるためにいらないものを捨てるだけです。そうして大人になっていくのですから」

「……なるほどな」

「それを霊感に当てはめてみてください。子供のころは誰しも、霊感が備わっている。感度が高く、大人には見えない世界を見ている。けれど大人になる過程で、それらは必要ないと判断されて、見えなくなっていく。私や私の友人は――必要だと判断したのかもしれません。ある意味では、判断力の欠如です」

「――昨日も似たようなことを言ってたな」

「その通りです。ルリさんの場合は、成長の過程で眠らせてしまった。そして昨夜、私と会話することで目を覚ました。寝起きの霊感はまどろみの中で、不完全なものとして霊魂を捉えているのではないでしょうか。感度が鈍いのはそのせいだと思います」

 その言葉にうそ寒い感覚が全身を覆ってくるような気がした。俺は、とんでもない世界に入り込んでいるのだと、あらためて実感する。

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