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第三話
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俺はヒロトたちに道案内する旨を伝えてから西口公園を出て、北口方面へと向かった。
歩道橋までは歩いても二十分程度の距離だ。その間に、彼女は自己紹介をしてくれた。
短いこの人生で会員カードとポイントカード、良くてクレジットカードくらいしか提示されたことのなかった俺に、彼女は名刺を差し出した。
『怪談屋 月詠 鈴鹿』
メールアドレスはなく、店のものと思しき住所と、携帯ではない電話番号だけが記されているそれに、俺は隣を歩く鈴鹿を見る。
「怪談屋って、なに」
「そのままの意味です。怪談をお売りしたり、買い取ったりするお仕事です」
「……需要あるのか、それ」
「夏場は学生さんたちが買いに来られますよ。他にも、恋人に聞かせたいという女性や男性、会社員の方も。なにかイベントがあるときが、怪談屋の繫忙期になりますね。それに対し、こちらでお買いした怪談の中からご要望に沿ったものをお売りします。中には私自身の体験談などもあります」
「でも、値段とあるわけだろ。そのへんはどうやって決めるんだ」
「お買いする場合は、そのお話の怖さの質と表現力が主な査定になります。お売りする場合は、どのようなお話をご所望かによりますが、恐怖度が高いほど、お値段は比例します」
「けど、怪談を買うにしたって実話かどうか分からないだろ」
「創作でも構いません。肝心なのは、お客さまが語る怖さの質なんです。良質な怪談で、矛盾なくストーリーがきちんと練られていれば、創作の方が良い場合もありますね」
どんな世界にも需要があるもんだな、と俺は思う。金に困っているなら、怪談のひとつやふたつ、ちょっくら仕入れてみるのも良いかもしれない。
もしかしたら、家賃の一ヶ月分くらいは稼げるだろう。だが、残念なことに生まれてこの方、怪談に出くわしたことがない。
ふと、鈴鹿がこちらを見ているので、俺は不思議に思って目を合わす。くさい言葉だけれど、この星の見えない街で、彼女の目の奥には星空が広がっている。そんな気がした。
「なに」
「あなたは、疑わないんですね」
「なにを」
「今までお会いした中で――それも初対面で、私のお話を真面目に聞いてくださった方は、ルリさんが初めてです」
初めて。良い響きだ。俺はにやつきそうになるのを堪えて、それでも思ったことをそのまま口にすることにした。
「たとえ騙されたとしても、疑ってかかるばかりじゃ楽しくないだろ。それに、あんたが俺を騙すメリットがあるとは思えないけどな」
「損得を考えないのですね」
「いや、考えるさ。やっぱ損はしたくないからな。でも、俺が損しても良いやつと、良くないやつくらいは、自分で選びたい。それだけだよ」
そう言うと、クス、と口許に折った人差し指を当てて鈴鹿が笑った。その仕草ひとつでも気品を感じさせる。
「ルリさんは、優しい方です」
「あー、それなんだけど。名前で呼ぶの、やめてくんないかな」
「どうしてですか」
「あんまり好きじゃないんだよ。女みたいな名前だし、うちの親も女の子が欲しかったから男の名前を考えるのが面倒でつけられたようなもんだからな」
「良い名前だと思いますよ。瑠璃、語源ではペルシャ語で青や空を意味する言葉です。私はルリさんの大きな心にぴったりだと思います」
初めて褒められたような気がする。絶対にうちの親が考えていた由来とは違うのは分かるが、それでもそう言われて悪い気はしない。
俺は浮かれて、鈴鹿の名前の由来を聞いた。すると、そこで初めて、彼女の表情が曇ってしまい、俺は首をかしげる。
「嫌な思い出でもあるのか」
「いいえ――そういう意味ではないのですけど、由来は鈴鹿御前からきているので、少し複雑な気持ちです」
「スズカゴゼン?」
聞き覚えのない名前だった。歴史上の人物だろうか。俺の疑問に、鈴鹿は答える。
「この名前は――“鬼”を意味するんです。ただ、伝承や文献によって盗賊だったり、第六魔王とも、女神とも、天女であったともされていて、どれを由来とするかで意味が変わってしまうんです」
「だったら、女神か天女だな」
思わず即答してしまった。言ったあとで後悔する。
本人はきっとそれに対して簡単に考えているはずはない。思い悩むこともあっただろうが、俺は口をついて出た言葉をそのまま伝えてしまった。
無責任な発言であることは否めない。
けれど――。
鈴鹿は優しく微笑んでくれた。
「やっぱり、ルリさんは優しい方です。なんだって受け入れてくれる、大きな空のような心を持っているんですね。もしも私が天女なら、あなたのような空の中で生きてみたいです」
俺は舞い上がりそうになった。けれどそれとは裏腹に、俺は否定的な言葉を口にする。そこまで言ってくれるのは素直に嬉しいし、ありがたいが――
「でも、俺はそんな大層な人間じゃないし、どうしようもなく、ろくでもない人間だよ。それは、俺自身がよく分かってる。あんたは初対面だからそう思うだけで、中身を深く知れば幻滅するぜ」
十九年、俺は俺として生きてきたのだ。
年寄りからすればまだ青い、若いと言われるのだろうが、それでも自分がそんな大それた人間ではなく、矮小で狭い世界の中で腐っていくような人間だと自覚するには充分な時間だった。
そう言うと、鈴鹿は少し怒ったような表情になった。
「自分を過剰に卑下することは、命に対して真摯ではありません。死してなお、矜持を捨てずにいる方もいらっしゃいます。その生き方や考え方は、そんな方々に対して侮辱に等しい」
「――え」
鈴鹿の声のトーンが落ちる。
「あなたは、手を伸ばせばなにかを掴むことが出来ます。踏み出せば、一歩進めます。生きている限り。それなのに自分を卑下してなにもせずに、望むことも諦めることもしないということは、命と向き合わずに逃げるのと同じです」
――あなたは命に怯えて、尻尾を巻いて逃げますか。
叱るような言葉に、俺はなにも言い返せなかった。黙って鈴鹿の小さな歩幅に合わせて歩いていると、
「迷い、悩み、苦しんで、それでも手を伸ばすことを諦めない限り、自分を変えていくことが出来ます。あなたが、そうありたい、そう生きたいと強く望むなら、苦しみを乗り越えることは決して困難ではありません」
讃美歌でも歌うようにそう言った。
「そして少なくとも私の目には、ルリさんは大きな青い空のように映ります。こればかりは否定させません。自分らしさというのは、いつだって誰かの目の中に映り込んでいるものです」
優しい口調でそう言われて、初対面であることを忘れそうになる。なんだか、鈴鹿にはそんな不思議な雰囲気がある。
柔らかく、包み込んでくれるような。一緒に歩いているだけで、どこか落ち着いてしまって、否応なく、有無を言わさず油断させるような。
「……悪かったよ」
俺はバツが悪くなって頭を掻いた。すると鈴鹿は小首をかしげて微笑を浮かべた。叱られたあとの、あの優しい温もりを思い出させるような笑顔だった。
「良い子です」
◇◆
国道沿いの豊島清掃ビルが赤いランプを灯らせている中、二通り、上下に分かれた歩道橋にたどり着くと、鈴鹿は一段下の方へと歩み出した。
さすがにこの時間ともなれば車もまばらで、オレンジ色の街灯が心もとなく足下を照らしている。
歩道橋に関しては歩く人もいない。
しかし俺は見てしまった。
その街灯と街灯の間の、落とし穴のような暗闇の中に、小さな人影があることに。
それを見た瞬間、全身が粟立つ感覚と足下から凍っていくような感覚が押し寄せてきて、しばらく声が出せなかった。
「ルリさん、今までに幽霊を見たことは」
「……あるわけないだろ」
暑さがじりじりとうなじを焦がすのに、背筋は冷えきっている。
耳鳴りが鼓膜の中で弾ける。今まで当たり前のように歩いて、過ぎていくだけの道なのに視覚情報が狂っただけでまるで異界に迷い込んだような不安感に襲われる。
手ぶらで外国に行くのとはわけが違う不安と焦燥感。
俗にいう心霊スポットに遊びで行くな、それを実感する。
なにせここは単なる歩道橋で、俺は遊びで行ったわけでもスリルを味わいに来たわけでもない。ただ道案内をしただけで、これほどまでに恐怖を感じるのだから。
「霊感はないということですか」
「少なくとも、今までは」
「そのわりに、落ち着いていますね」
「――怖くて言葉にならないだけだ」
本音だった。恐ろしい。怖い。強がるほどの余裕さえない。近づくなと本能が警鐘を鳴らしている。鼓動が早鐘を打っている。見てはいけない。そう告げているのに、足は一歩、一歩と進んで行く。
「あれが――幽霊か」
「あれではありません。彼女です」
「そんなこと言ってる場合かよ――」
「あなたは友達を友人Aと呼びますか?」
亡くなったからといって人間の尊厳まで失うわけではありませんよ――鈴鹿は冷静に、冷たい声でそう言った。
些事なことではない、そう言いたいのだろう。名前というのは、人間という個体そのものを表す、いわば尊厳なのだと。
そこに立っていた影は、まだ小さかった。小学一年生くらいだろうか。スカートを履いているから、女の子だろう。だろう、というのは一見だけでは判断がつかないからだ。
首は右に百八十度折れ曲がり、目は見開かれて、口はぽっかりと開いている。枯れ枝ほどの左腕は肘関節からねじれて、右は骨がむき出しのまま神経でかろうじて繋がっている。
左の膝から下――つま先までは背中側へ。右の膝は真横に折れて地面についている。真っ直ぐに立っていない。右半身が地面に沈み込んでいるような形で、それでも無表情でこちらを見ている。
俺は目を凝らすと、シャツとスカートは泥か渇いた血か判然としないほどに黒ずんでいて、頬はこけて垢まみれ、歯はボロボロだった。
見開かれた目の下には大きなくま。鼻骨が折れているのかへしゃげていて、動く気配がない。動けないのだろう。
「目的を――訊いてなかったな」
「守秘義務がありますからね。依頼があった、とだけ」
言いながら鈴鹿は彼女へと近づいていく。俺も怖々とその後ろをついていく。
金髪にピアスにタトゥーというなりで情けない話だが、こればかりは恐怖の種類が違う。チンピラと喧嘩する方がよほどマシだ。なにせ相手はもう――
――この世のものではないのだ。
「あなた、お名前は」
しかし鈴鹿は彼女の前でかがみこんで、優しい口調で問いかけた。しかし返事はなく、鈴鹿はそれでも話しかけている。
「あなたをここに連れてきた人を覚えていますか」
連れてきた人? どういう意味だ、それは。問いかけようにも、俺は鈴鹿の隣り、その一歩後ろで立ちすくんでいるだけで言葉にはならなかった。
「あなたはどうしてここにいるのか、覚えていますか」
再三にわたり、何度か同じ質問を繰り返していくのを、ただ眺めていることしかできなかった。
しかし、俺は幽霊である彼女と目が合ったような気がした。
そのとき、パチリ、と静電気のようなものが頭の中に響いたことに驚いて、声さえ洩らさなかったものの一歩後ろへと下がる。
「どうかしましたか」
鈴鹿が振り返り、俺に問いかけるが、かぶりを振ることで精いっぱいだった。それよりも、一刻も早くここを立ち去りたい気持ちがせり上がってきていたのだ。
それでもそうしなかったのは、俺のかすかに残っていた理性が鈴鹿を置いて逃げ出すことを許さなかったからだろう。
一瞬だけ目を閉じると、女の子の幽霊は消えていた。
「さあ、行きましょうか」
そう告げてパンプスを返してきた道を戻り始める。もういいのかと訊くと、
「ええ。申し訳ありません。怖かったでしょう?」
少しだけ微笑んでいたが、その目は笑っていなかった。
「あ、ああ。でも、俺は今まで幽霊なんて見たことなかった。なんで今日は見えたんだ」
「おそらくですが、ルリさんにはもともと霊感があったのでしょう。意識していなかった、というより、自覚がなかったというだけです」
「自覚のありなしで見えるもんなのか」
「この場所に来るまで、私と話をしていたでしょう。私との会話に同調したことで、あなたの中の霊感と呼べるものが鋭敏になってしまった。それは私の落ち度です」
鈴鹿は足を止めて頭を下げた。俺の中に霊感があった、なんて急に言われても返答に困る。そんなことを伝えると、
「霊感は誰もがかつて持ち合わせていたものです。ただ、普通なら大人になる過程で不必要と判断され、その能力は切り捨てられます。ですから会話程度で見えたりすることなどは稀有で、ルリさんはその点でいえば、眠っていた霊感が目を覚ましたということです」
どういう意味だろうか。できれば眠ったままでいて欲しかった。
キスもされていないのに起きてしまうなんて、ひどい話だ。恐怖心をごまかすようにそんなことを考えていると、鈴鹿が続けた。
「感覚的な話になりますが、ルリさんの霊感が目を覚ましたこともさることながら、反応し、適応し、順応するまでが異常に早かった。こればかりは私にとっても想定外でした。まさかこうなるとは予想外です。申し訳ありません」
「すまん、もう少し簡単に説明してもらえるか」
そう言うと鈴鹿は目を伏せて、
「あなたは初めて自転車を乗っている人を見た瞬間にその扱い方を理解していた、とでも言えばいいのでしょうか。説明や練習を必要とせずに、ただ見ただけで自転車に乗ることができる人だった、ということです」
「分かるような気もするけど、しっくりこないな」
「でしたら、センスがあったといえば分かりやすいでしょうか」
口元に人差し指をつけて、首をかしげる。相変わらず気品のあるお嬢さま然としているのに、どこかあどけなさを残した少女のようでもある。
さっきのことがあったばかりだというのに、恐怖など微塵も感じていない様子だった。
「それで、あの子を見てどうするんだ。消えちまったけど、終わったのか」
「いいえ。むしろこれからです。原因を探って幽世へ送ります。本当なら、私の友人の方が向いているのでしょうが、彼女は荒っぽいので。それに依頼を請けたのは私ですから、解決して彼女の呪縛を解いてあげないといけません」
「かくりよ? 解決? どういうことだよ」
「幽世は俗にあの世と呼ばれています。あと、原因を探ること――その依頼に関しては先ほどもお伝えしましたが守秘義務がございます。詳細はお教えできないので、ご了承ください」
「だったら、ひとつだけ教えてくれ」
沿線にそって歩きながら、俺は悲しそうに目を伏せたままの彼女に声をかけた。
「なんでしょう」
「その依頼は、簡単なのか。あんたひとりで解決できるものなのか」
「二つになっていますよ」
「なら、二つだけ教えてくれ」
俺が食い下がると、困ったような表情になった。美人の困り顔は卑怯だ。どんなに無力でろくでもない俺でも、なんとかしたいと思ってしまう。
「簡単とは言えません。ひとりで解決まで持っていくには、少しばかり時間が必要です。それに、想定外のことも起こっているので、少々、難儀になるかもしれませんね」
「それなら――」
俺はその夜、どうかしていたのだろう。どうして、そんなことを言ったのか。
もしかしたら不可思議な世界に踏み込んだ恐怖でイカれていたのかもしれない。いわゆる躁状態に近いものがあったのかもしれない。
後悔すると分かっていながら、不安を感じながら――それでも衝動に背を押されて言わなくていいことを、やらなくてもいいことを、ついついこちらから提案してしまう。
分岐点で安全か危険という簡単な標識があるというのに、安全を無視してわざわざ危険を冒そうとする、そんな青臭くてバカげた感情のままに口走る、そんな衝動に、急かされていた。
「――手伝わせてくれないか、俺にも」
俺はその夜、安全という標識を蹴り飛ばした。
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