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「来てしまった……」
目の前に、薄らと見覚えのあるアパートがある。あの日は酔っ払っていたし、夕里について行っただけだから道順なんて全然覚えていなかった。
しかし『楽華亭』の名前は覚えていたおかげで、調べてそこまで辿り着くことができたのだ。彼の家はそこからほんとうにすぐだった。
周囲は一軒家より集合住宅ばかりで、たまに小さな飲食店やラブホテルが混じっている。家々の窓から漏れる光も少なく、夜に働く人たちが住む街なのかなとぼんやり考えた。
子どもが通うような学校は周囲になかったはずだし、駅からはそれなりに歩く。古い建物が多いものの、その分家賃は抑えられているだろう。駅前の繁華街で働く人たちには打ってつけの場所だ。
古い蛍光灯に照らされた階段を登って最初のドア、二〇一と書かれた素っ気無い表札を見る。ついに……来てしまった。
都会の集合住宅で表札に名前を書く習慣なんてほぼない。外からは夕里の家だという証拠も全く見当たらず、柊は途端に不安が胸の内を覆うのを感じた。
せめてアパートの反対側に回って、窓の光が見えるかどうか確認すればよかった。彼は他にも仕事を持っているみたいだったから、いま家にいる確率は低い。
ここでドアに耳をつけて生活音を確認すれば……いやいやそれは変質者すぎる。ええいっ、考えても仕方ない。
――ピン、ポーン
どこか懐かしいインターホンの音が、思いのほか大きく響いた。どきどきと、自分の心臓の音が聞こえる。
誰も出てくる気配がないと気づいてからきっちり十秒数えて、詰めていた息を吐いた。
「……そりゃそうだよな」
緊張が解け安心したけれど、やはり残念さが勝つ。会いたくないと思われていることが怖くても、やっぱり顔が見たかった。
会いさえすれば、いつもみたいに太陽の笑みを浮かべて『柊さん!』と嬉しそうに戯れてくるんじゃないかと……小さく期待していたのだ。
途方に暮れてしばらくそこで突っ立っていたが、他の居住者に見られるのもいただけない。最後にもう一度だけインターホンを押し反応がないことを確認してから、階段を降りた。実は寝ているだけってこともなさそうだ。
とぼとぼと歩き、ふと思いついて楽華亭に入った。店内は以前来たときよりも賑わっていて、カウンターに並ぶ人たちの隙間に入れてもらう。
終電間際に人の家を訪問するのは駄目だろうと、いつもよりかなり早めに会社を出てきているから、ちょうど夕飯時だ。
「いらっしゃいませー!ご注文はお決まりですか?」
「中華そばのAセットで」
Aセットは餃子と白米が中華そばにつく。無性に脂質と炭水化物のコラボレーションをガツンと胃に迎え入れたい気分だった。
勇気を出しても空回り。そんな簡単に行くはずないことが分かっていても、取っ掛かりさえ得られなかったのはけっこう堪える。
ポストに手紙でも入れてこればよかったか?う~ん何を書けばいいのか分からないし、やっぱり最初は会って話すのが一番だと思う。
「うんうん、そーだねぇ」
「はぁ。そもそも、会えれば……だよなぁ」
「ふーん、誰に?」
「ゆり……って、え!誰!?︎」
自然な相槌につい話を続けそうになって、挙動不審に左右を見渡した。カウンターの向こうから出来立ての餃子と白米を手渡されて、慌てて両手で受け取る。
こういう店はなんでも出てくるのが早い。左に座っていたスーツ姿のサラリーマンが「ご馳走様」とお代をカウンターに置いて帰っていく。
「お兄さん、今日は飲まないの?」
「お前は……あのときの!」
ニヤニヤと右隣から顔を覗き込んできていたのは、ついこの間の週末に深夜のバーで声をかけてきた男性。――レンだった。
目の前に、薄らと見覚えのあるアパートがある。あの日は酔っ払っていたし、夕里について行っただけだから道順なんて全然覚えていなかった。
しかし『楽華亭』の名前は覚えていたおかげで、調べてそこまで辿り着くことができたのだ。彼の家はそこからほんとうにすぐだった。
周囲は一軒家より集合住宅ばかりで、たまに小さな飲食店やラブホテルが混じっている。家々の窓から漏れる光も少なく、夜に働く人たちが住む街なのかなとぼんやり考えた。
子どもが通うような学校は周囲になかったはずだし、駅からはそれなりに歩く。古い建物が多いものの、その分家賃は抑えられているだろう。駅前の繁華街で働く人たちには打ってつけの場所だ。
古い蛍光灯に照らされた階段を登って最初のドア、二〇一と書かれた素っ気無い表札を見る。ついに……来てしまった。
都会の集合住宅で表札に名前を書く習慣なんてほぼない。外からは夕里の家だという証拠も全く見当たらず、柊は途端に不安が胸の内を覆うのを感じた。
せめてアパートの反対側に回って、窓の光が見えるかどうか確認すればよかった。彼は他にも仕事を持っているみたいだったから、いま家にいる確率は低い。
ここでドアに耳をつけて生活音を確認すれば……いやいやそれは変質者すぎる。ええいっ、考えても仕方ない。
――ピン、ポーン
どこか懐かしいインターホンの音が、思いのほか大きく響いた。どきどきと、自分の心臓の音が聞こえる。
誰も出てくる気配がないと気づいてからきっちり十秒数えて、詰めていた息を吐いた。
「……そりゃそうだよな」
緊張が解け安心したけれど、やはり残念さが勝つ。会いたくないと思われていることが怖くても、やっぱり顔が見たかった。
会いさえすれば、いつもみたいに太陽の笑みを浮かべて『柊さん!』と嬉しそうに戯れてくるんじゃないかと……小さく期待していたのだ。
途方に暮れてしばらくそこで突っ立っていたが、他の居住者に見られるのもいただけない。最後にもう一度だけインターホンを押し反応がないことを確認してから、階段を降りた。実は寝ているだけってこともなさそうだ。
とぼとぼと歩き、ふと思いついて楽華亭に入った。店内は以前来たときよりも賑わっていて、カウンターに並ぶ人たちの隙間に入れてもらう。
終電間際に人の家を訪問するのは駄目だろうと、いつもよりかなり早めに会社を出てきているから、ちょうど夕飯時だ。
「いらっしゃいませー!ご注文はお決まりですか?」
「中華そばのAセットで」
Aセットは餃子と白米が中華そばにつく。無性に脂質と炭水化物のコラボレーションをガツンと胃に迎え入れたい気分だった。
勇気を出しても空回り。そんな簡単に行くはずないことが分かっていても、取っ掛かりさえ得られなかったのはけっこう堪える。
ポストに手紙でも入れてこればよかったか?う~ん何を書けばいいのか分からないし、やっぱり最初は会って話すのが一番だと思う。
「うんうん、そーだねぇ」
「はぁ。そもそも、会えれば……だよなぁ」
「ふーん、誰に?」
「ゆり……って、え!誰!?︎」
自然な相槌につい話を続けそうになって、挙動不審に左右を見渡した。カウンターの向こうから出来立ての餃子と白米を手渡されて、慌てて両手で受け取る。
こういう店はなんでも出てくるのが早い。左に座っていたスーツ姿のサラリーマンが「ご馳走様」とお代をカウンターに置いて帰っていく。
「お兄さん、今日は飲まないの?」
「お前は……あのときの!」
ニヤニヤと右隣から顔を覗き込んできていたのは、ついこの間の週末に深夜のバーで声をかけてきた男性。――レンだった。
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