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17.暗雲低迷
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表彰されるからと言って仕事は減らない。子供が風邪を引いたと今週はリモートワークに切り替えていた部下が、親子もろともダウンしてしまった。
一人当たりの負担が大きい部署なので他の人員でリカバリーするときは大変だ。システム導入が進めば保守などの単純作業は自動化しようと考えているが、まだ人の手で調整が必要な部分も多い。
「はぁっ、はぁっ。ギリギリだった……」
終電一時間前。予約をする暇もなく、柊は店まで来てしまった。ガラスの扉に書かれた『ヘッドマッサージ雲上の楽園~ふわふわタイム~』という文字の目の前で、エレベーターの中でも整わなかった息を整える。
夕里が今日出勤だというのは、数日前に店のホームページで確認してあった。しかし予約が空いているかどうかはわからない。疲れ切った頭で会社を出て、この時間なら間に合うかもと走ってきたのだ。
ガラス越しに見えた受付には人がいなかったため何度かそこで深呼吸をしたものの、心臓はずっとバクバク音を立てて拍動している。これが走ってきたからなのか、夕里に会うことへの緊張からなのかは判断がつかない。
最後に大きく息を吐いて、受付の呼び鈴を鳴らす。リーン!と思いのほか大きな音が鳴って焦っていると、不機嫌そうな表情の若い女性が奥から出てきた。
従業員はそれほど多くないのか、何度か見たことのある顔だ。きっと忙しいのだろう。柊が予約をしていないことを告げると、予約でいっぱいだと素気なく断られてしまった。
「あのぉ、ゆりさんは……」
「施術中です」
なんだろう。いつも夕里にしか接客されていないから気づかなかったが、リラクゼーションを売りにしている店とは思えない態度だ。
仕方ない。予約して来なかった自分が悪いのだと踵を返したそのとき、受付の奥から自分の名前を呼ばれるのが聞こえた。この、声は……
「柊さん!」
「ゆりくん……施術中だったんじゃ?」
柊が訊ねると、夕里は困ったように眉を下げながら同じユニフォームを着ている女性に視線を投げかけ、だが女性はなにも言わずにサッと奥の部屋へと戻っていってしまった。
え。嘘だったのか……?
「もう終電近いですよね。ショートコースでいいですか?」
「あっ。う、うん」
「ごめんなさい今日立て込んでて……柊さんも忙しかったんですよね。短時間でも癒やしてみせます!」
やっぱり忙しいことには変わりないようだ。薄暗い照明では分かりづらいが、夕里の顔もなんか疲れている気がする。
それでも支払いのときにニカッと太陽みたいな笑みを向けられて、ドックンと心臓が妙な音を立てた。笑顔の周りにキラキラとエフェクトが掛かって見える。
ん……?なんだ、これ?
いつもの部屋に案内され、着替えて待っているとすぐに夕里がやってくる。部屋の外からカーテンが開かれたのを感じた瞬間、「うぇ!?」と間の抜けた声が降ってきた。
「この前はごめんなさい!」
「ひっ、ひいらぎさん!謝るのはこっちの方ですってー!」
土下座の体勢で待っていた柊は、珍しく大きな声を出した夕里によってすぐ身体を起こされてしまった。
他の部屋から男性のイビキが聞こえてきて、慌ててカーテンを閉じる。たちまち部屋の外の音が遠ざかって、カーテンにも防音効果があることに今さらながら気付いた。
間接照明のみの部屋。二人はマットの上に正座で膝を突き合わせて向かい合い、こそこそ声で会話している。
「あんな、なにも言わずに帰るなんて失礼だったよな。僕、いっぱいいっぱいで……」
「俺が!……俺が、酔ってる柊さんに酷いことをしたんです。気持ち悪かったですよね。すみませんでした……」
相手を怒らせてしまったかもしれないと考えると、柊はどうにも気が弱くなって萎縮してしまう。スーツを脱いでいるときは特に。
目元に滲んだ涙を指先でごまかすように払えば、慌てた素振りで夕里は身を乗り出してきた。しかし……思ったよりも二人の距離が近いことに気付いて、お互いにさり気なく背筋を正した。
「あのな……ゆりくん。アレは確かに驚いたけど、気持ち悪いとか嫌だとは思わなかった。だから気にしないで、これまで通りの関係でいてほしい。友達?ってのとはちょっと違うと思うけど……」
整理できていない感情をありのまま差し出す。いまの柊にできるのはこれが精一杯だった。
せめて夕里がここを辞めたあとも、何らかの形で繋がりを持ち続けたいと感じているくらいには、自分は彼に好意を抱いている。
今度は恥ずかしくなって目線を落とし自分の膝を見つめていると、突然向かい側からガバっと抱きしめられた。勢いがすごくて、そのまま仰向けにバランスを崩してしまう。
「柊さん!」
「ひゃぁっ。うわ!?」
興奮したリリーを思い出させる飛びつき方だが、マットに背中を打ち付けないよう腕で優しくガードされている。首元に顔をうずめられているのも物理的に擽ったかったけど、彼の尻あたりにブンブンと動く尻尾が見えたので我慢した。
「柊さん。俺、ちゃんとしたいです。すぐに受け入れてもらえるとは思ってないですけど、話したいことがあるので……今度、またプライベートで会ってもらえますか?帰りにSNSのID渡します」
「うん……ゆりくんの話、聞かせてほしい」
よかった、変な空気感のまま別れることにはならなさそうだ。ホッと身体から力を抜いていると、夕里は「はっ。吸ってる場合じゃなかった!」と起き上がり柊の頭を枕の方へ移動させた。
猫じゃないんだから……まさか、一日働いたあと走ってきたおじさんの匂いなんて嗅いで、ないよね?
胸の内に小さな不安が生まれようとしたものの、マッサージの開始とともに頭に手を添えられてしまえば、一瞬で思考は霧散する。
「ふ、ぁ~……きもちー、ぃ……」
「ふふ、よかったです」
一人当たりの負担が大きい部署なので他の人員でリカバリーするときは大変だ。システム導入が進めば保守などの単純作業は自動化しようと考えているが、まだ人の手で調整が必要な部分も多い。
「はぁっ、はぁっ。ギリギリだった……」
終電一時間前。予約をする暇もなく、柊は店まで来てしまった。ガラスの扉に書かれた『ヘッドマッサージ雲上の楽園~ふわふわタイム~』という文字の目の前で、エレベーターの中でも整わなかった息を整える。
夕里が今日出勤だというのは、数日前に店のホームページで確認してあった。しかし予約が空いているかどうかはわからない。疲れ切った頭で会社を出て、この時間なら間に合うかもと走ってきたのだ。
ガラス越しに見えた受付には人がいなかったため何度かそこで深呼吸をしたものの、心臓はずっとバクバク音を立てて拍動している。これが走ってきたからなのか、夕里に会うことへの緊張からなのかは判断がつかない。
最後に大きく息を吐いて、受付の呼び鈴を鳴らす。リーン!と思いのほか大きな音が鳴って焦っていると、不機嫌そうな表情の若い女性が奥から出てきた。
従業員はそれほど多くないのか、何度か見たことのある顔だ。きっと忙しいのだろう。柊が予約をしていないことを告げると、予約でいっぱいだと素気なく断られてしまった。
「あのぉ、ゆりさんは……」
「施術中です」
なんだろう。いつも夕里にしか接客されていないから気づかなかったが、リラクゼーションを売りにしている店とは思えない態度だ。
仕方ない。予約して来なかった自分が悪いのだと踵を返したそのとき、受付の奥から自分の名前を呼ばれるのが聞こえた。この、声は……
「柊さん!」
「ゆりくん……施術中だったんじゃ?」
柊が訊ねると、夕里は困ったように眉を下げながら同じユニフォームを着ている女性に視線を投げかけ、だが女性はなにも言わずにサッと奥の部屋へと戻っていってしまった。
え。嘘だったのか……?
「もう終電近いですよね。ショートコースでいいですか?」
「あっ。う、うん」
「ごめんなさい今日立て込んでて……柊さんも忙しかったんですよね。短時間でも癒やしてみせます!」
やっぱり忙しいことには変わりないようだ。薄暗い照明では分かりづらいが、夕里の顔もなんか疲れている気がする。
それでも支払いのときにニカッと太陽みたいな笑みを向けられて、ドックンと心臓が妙な音を立てた。笑顔の周りにキラキラとエフェクトが掛かって見える。
ん……?なんだ、これ?
いつもの部屋に案内され、着替えて待っているとすぐに夕里がやってくる。部屋の外からカーテンが開かれたのを感じた瞬間、「うぇ!?」と間の抜けた声が降ってきた。
「この前はごめんなさい!」
「ひっ、ひいらぎさん!謝るのはこっちの方ですってー!」
土下座の体勢で待っていた柊は、珍しく大きな声を出した夕里によってすぐ身体を起こされてしまった。
他の部屋から男性のイビキが聞こえてきて、慌ててカーテンを閉じる。たちまち部屋の外の音が遠ざかって、カーテンにも防音効果があることに今さらながら気付いた。
間接照明のみの部屋。二人はマットの上に正座で膝を突き合わせて向かい合い、こそこそ声で会話している。
「あんな、なにも言わずに帰るなんて失礼だったよな。僕、いっぱいいっぱいで……」
「俺が!……俺が、酔ってる柊さんに酷いことをしたんです。気持ち悪かったですよね。すみませんでした……」
相手を怒らせてしまったかもしれないと考えると、柊はどうにも気が弱くなって萎縮してしまう。スーツを脱いでいるときは特に。
目元に滲んだ涙を指先でごまかすように払えば、慌てた素振りで夕里は身を乗り出してきた。しかし……思ったよりも二人の距離が近いことに気付いて、お互いにさり気なく背筋を正した。
「あのな……ゆりくん。アレは確かに驚いたけど、気持ち悪いとか嫌だとは思わなかった。だから気にしないで、これまで通りの関係でいてほしい。友達?ってのとはちょっと違うと思うけど……」
整理できていない感情をありのまま差し出す。いまの柊にできるのはこれが精一杯だった。
せめて夕里がここを辞めたあとも、何らかの形で繋がりを持ち続けたいと感じているくらいには、自分は彼に好意を抱いている。
今度は恥ずかしくなって目線を落とし自分の膝を見つめていると、突然向かい側からガバっと抱きしめられた。勢いがすごくて、そのまま仰向けにバランスを崩してしまう。
「柊さん!」
「ひゃぁっ。うわ!?」
興奮したリリーを思い出させる飛びつき方だが、マットに背中を打ち付けないよう腕で優しくガードされている。首元に顔をうずめられているのも物理的に擽ったかったけど、彼の尻あたりにブンブンと動く尻尾が見えたので我慢した。
「柊さん。俺、ちゃんとしたいです。すぐに受け入れてもらえるとは思ってないですけど、話したいことがあるので……今度、またプライベートで会ってもらえますか?帰りにSNSのID渡します」
「うん……ゆりくんの話、聞かせてほしい」
よかった、変な空気感のまま別れることにはならなさそうだ。ホッと身体から力を抜いていると、夕里は「はっ。吸ってる場合じゃなかった!」と起き上がり柊の頭を枕の方へ移動させた。
猫じゃないんだから……まさか、一日働いたあと走ってきたおじさんの匂いなんて嗅いで、ないよね?
胸の内に小さな不安が生まれようとしたものの、マッサージの開始とともに頭に手を添えられてしまえば、一瞬で思考は霧散する。
「ふ、ぁ~……きもちー、ぃ……」
「ふふ、よかったです」
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