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5.敏腕リーマンの変化
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職場のフロアに定時の音楽が鳴る。仕事を終えて、あるいは用事のために帰っていく人を尻目に、柊は自販機のある休憩エリアへと足を向けた。
「あ、ひいちゃんお疲れー」
「……お疲れ。千尋も残業か?子どものお迎えはいいのかよ」
ちょうど通りかかった部下が二度見していく。
千尋は同時期に転職してきた同い年の女性で、転職者向けにあった二日間の研修で仲良くなった。当時は柊も怖がられていなかったし、千尋は人見知り相手でもグイグイ他人と距離を縮めるタイプの人間だったからだ。そんな存在は滅多にいなくて、正直ありがたい。
「めっちゃ見られてたよ。『あの怖い喜多さんがひいちゃん!?』って。ウケる」
「そう呼ぶのは千尋だけだろ。で、まだ残ってる理由は?」
「定例会の準備~。今日は旦那が行ってくれるからいいの」
ふーんと相槌を打ちながら、自販機の前でなにを飲むか考える。いつもはブラックコーヒーかエナジードリンクだけど……なんとなく、百パーセント果汁のオレンジジュースを選んだ。
「えっ珍しい。やっと健康志向になった?てゆーか、今日なんか顔色良くない?久しぶりに元気そうな顔見たよ」
「千尋……あのな。ヘッドマッサージって、知ってるか?」
いつもはさっと目的のものを買いさっと部署へと戻る。そんな柊が今日はなぜか立ち去らず、さらには雑談しはじめたことで千尋はさらに意外そうに目を見開いた。
柊はどうしても昨日の体験をだれかに話したかったのだ。完全に自業自得だが、部下たちに話せるような部署の雰囲気でもない。
「知ってるよ~最近お店増えてきたもんね。ひいちゃんマッサージとか行くタイプだったっけ?」
「いや、昨日初めて行ってさ……すごい寝れてびっくりした」
あ~わかるわかる!と手を叩いた千尋はヘッドマッサージ専門店こそ行ったことはないが、整体に近いマッサージはたまに行くのだという。全身の施術のあいだに頭をマッサージされることがあって、それが思いのほか気持ちいいのだと同意してくれる。
肩や腰ほどの自覚はないものの、頭皮も凝ったりしているのだろうか。
「それはよかったね。マッサージも違和感しかなかったりすることあるし、同じ店でも担当によって違うし……腕もあるけどけっこう相性によるよね」
「相性……やっぱりそうなのか!」
「あーん私も行きたい。定例会終わって子どもを見てもらえる日って……いったいいつ……?」
「千尋……がんばれよ」
家庭のある人は大変だ。柊は自分が独身で自由にマッサージでも何でも行けることに、心のなかで感謝した。まぁ旦那さんや可愛い子どもと生活することは、独身者に分からない格別の幸せがあるだろう。
どちらも大変で、どちらも違った良さがある。柊は自分が誰かと暮らすことなんて、いまは全く想像がつかない。
――あぁ、でも夕里なら一家に一台レベルでほしいな。
二頭身の猫型ロボットを思い浮かべながら、柊はポケットに手をやる。財布に入れた夕里の名刺を千尋に見せて紹介しようかと考えて、しかし寸前で思いとどまってしまった。
人に勧めたい気持ちと、自分だけが知っていたい気持ちがせめぎ合う。柊はけっこう我がままな性格なのかもしれない。ごめん、と内心千尋に手を合わせて、ポケットから手を離してオレンジジュースをずずっと吸い込んだ。
だって、もう辞めるって言ってたし……
長く雑談している暇は互いにないため千尋とはそこで分かれ、部署へと戻る。同時に休憩から戻ってきた男の部下とドアの前でかち合い、「お疲れ」と声をかける。
「ひっ。お、お疲れさまです……」
自分に向けられた小さな悲鳴が嘆かわしい。多少顔色が良くなろうと、たとえば柊がにっこりと笑いかけたとしても怖いのだろう。普段の行いが悪いからだと分かっているが、実はちょっと落ち込む。
マッサージで身体が軽くなって、気分も上昇して、なにもかも上手くいく気がしていたのは一瞬だ。
実際夕方までは目が霞むこともなく、いつも以上のスピードで仕事を片付けることができた。どことなく機嫌のいい上司を不審に思いつつも、みんな今日は早く帰れそうだと表情も明るかった気がする。
しかし定時間際に飛び込んできたシステムのバグは、今日も残業が長引くことを決定づけたのだった。
胃の中にはいつものカフェインじゃなく、ビタミンCたっぷりのジュース。もしかしたら、今日はそれで頑張れるかもしれない。油断すると霞みそうになる目をぎゅぎゅっと瞬きで叱咤し、肩を回す。
ボキッと関節が鳴って気持ちいい。いつもデスクではモニターを睨みつけているだけの上司がストレッチなんて始めたらまた怖がられそうだが、身体のいい状態を少しでも長引かせたかった。
これから数日は定例会に向けた資料の準備もある。ふた月に一度、管理職が集まって部署の状況報告をし、さまざまなトピックについて話し合うのだ。
定例会には事業本部の本部長というお偉いさんが参加するし、気まぐれに社長も顔を見せたりする。そのためみんな必死かつ慎重に、事実を精査した見やすい資料をつくるという訳だ。
柊のように管理職が自分で資料を作る部署もあれば、千尋のところのように部下に資料を作らせる部署もある。余裕ができたら人に任せよう……と思いつつ、何ヶ月経っても余裕ができないのが現状だ。
余裕ってどこに売ってますか?あー、猫の手でも借りたい。あわよくば猫型ロボットの。
人員増員の申請はどうなったのだろうか。残業ができない人でもいい。単純作業しかできなくてもいいから、誰か助けに来てほしい。
部下たちの負担を減らして、柊も恐れられることなく……飲み会という名の慰労会でもできたらいいのに。会社の飲み会なんて面倒くさくて大嫌いだったけど、いまはあの無意味な集まりさえも夢のまた夢で、ちょっと恋しい。
この新部署が開設した日にみんなで飲みに行ったのが、もう何年も前のことのように思えてくる。最初で最後、唯一のあの日だけは、気安く部下と交流できた。歳だってみんなそう離れていないのだ。
誰かの上司という立場は、重い。呼ばれたら参加するかしないか悩むだけだった飲み会も、部下のために企画すべきか頭を悩ませる。
きっと必要なんだろう。いや、上司の柊はいないほうが盛り上がる可能性は高いけど……どこかで発散してやらないと、いつか不満が爆発してしまうのではないかと不安になった。
文句は甘んじて受けよう。その前に、溜まった仕事がなくなる日はくるのだろうか――
◇
「あ、ひいちゃんお疲れー」
「……お疲れ。千尋も残業か?子どものお迎えはいいのかよ」
ちょうど通りかかった部下が二度見していく。
千尋は同時期に転職してきた同い年の女性で、転職者向けにあった二日間の研修で仲良くなった。当時は柊も怖がられていなかったし、千尋は人見知り相手でもグイグイ他人と距離を縮めるタイプの人間だったからだ。そんな存在は滅多にいなくて、正直ありがたい。
「めっちゃ見られてたよ。『あの怖い喜多さんがひいちゃん!?』って。ウケる」
「そう呼ぶのは千尋だけだろ。で、まだ残ってる理由は?」
「定例会の準備~。今日は旦那が行ってくれるからいいの」
ふーんと相槌を打ちながら、自販機の前でなにを飲むか考える。いつもはブラックコーヒーかエナジードリンクだけど……なんとなく、百パーセント果汁のオレンジジュースを選んだ。
「えっ珍しい。やっと健康志向になった?てゆーか、今日なんか顔色良くない?久しぶりに元気そうな顔見たよ」
「千尋……あのな。ヘッドマッサージって、知ってるか?」
いつもはさっと目的のものを買いさっと部署へと戻る。そんな柊が今日はなぜか立ち去らず、さらには雑談しはじめたことで千尋はさらに意外そうに目を見開いた。
柊はどうしても昨日の体験をだれかに話したかったのだ。完全に自業自得だが、部下たちに話せるような部署の雰囲気でもない。
「知ってるよ~最近お店増えてきたもんね。ひいちゃんマッサージとか行くタイプだったっけ?」
「いや、昨日初めて行ってさ……すごい寝れてびっくりした」
あ~わかるわかる!と手を叩いた千尋はヘッドマッサージ専門店こそ行ったことはないが、整体に近いマッサージはたまに行くのだという。全身の施術のあいだに頭をマッサージされることがあって、それが思いのほか気持ちいいのだと同意してくれる。
肩や腰ほどの自覚はないものの、頭皮も凝ったりしているのだろうか。
「それはよかったね。マッサージも違和感しかなかったりすることあるし、同じ店でも担当によって違うし……腕もあるけどけっこう相性によるよね」
「相性……やっぱりそうなのか!」
「あーん私も行きたい。定例会終わって子どもを見てもらえる日って……いったいいつ……?」
「千尋……がんばれよ」
家庭のある人は大変だ。柊は自分が独身で自由にマッサージでも何でも行けることに、心のなかで感謝した。まぁ旦那さんや可愛い子どもと生活することは、独身者に分からない格別の幸せがあるだろう。
どちらも大変で、どちらも違った良さがある。柊は自分が誰かと暮らすことなんて、いまは全く想像がつかない。
――あぁ、でも夕里なら一家に一台レベルでほしいな。
二頭身の猫型ロボットを思い浮かべながら、柊はポケットに手をやる。財布に入れた夕里の名刺を千尋に見せて紹介しようかと考えて、しかし寸前で思いとどまってしまった。
人に勧めたい気持ちと、自分だけが知っていたい気持ちがせめぎ合う。柊はけっこう我がままな性格なのかもしれない。ごめん、と内心千尋に手を合わせて、ポケットから手を離してオレンジジュースをずずっと吸い込んだ。
だって、もう辞めるって言ってたし……
長く雑談している暇は互いにないため千尋とはそこで分かれ、部署へと戻る。同時に休憩から戻ってきた男の部下とドアの前でかち合い、「お疲れ」と声をかける。
「ひっ。お、お疲れさまです……」
自分に向けられた小さな悲鳴が嘆かわしい。多少顔色が良くなろうと、たとえば柊がにっこりと笑いかけたとしても怖いのだろう。普段の行いが悪いからだと分かっているが、実はちょっと落ち込む。
マッサージで身体が軽くなって、気分も上昇して、なにもかも上手くいく気がしていたのは一瞬だ。
実際夕方までは目が霞むこともなく、いつも以上のスピードで仕事を片付けることができた。どことなく機嫌のいい上司を不審に思いつつも、みんな今日は早く帰れそうだと表情も明るかった気がする。
しかし定時間際に飛び込んできたシステムのバグは、今日も残業が長引くことを決定づけたのだった。
胃の中にはいつものカフェインじゃなく、ビタミンCたっぷりのジュース。もしかしたら、今日はそれで頑張れるかもしれない。油断すると霞みそうになる目をぎゅぎゅっと瞬きで叱咤し、肩を回す。
ボキッと関節が鳴って気持ちいい。いつもデスクではモニターを睨みつけているだけの上司がストレッチなんて始めたらまた怖がられそうだが、身体のいい状態を少しでも長引かせたかった。
これから数日は定例会に向けた資料の準備もある。ふた月に一度、管理職が集まって部署の状況報告をし、さまざまなトピックについて話し合うのだ。
定例会には事業本部の本部長というお偉いさんが参加するし、気まぐれに社長も顔を見せたりする。そのためみんな必死かつ慎重に、事実を精査した見やすい資料をつくるという訳だ。
柊のように管理職が自分で資料を作る部署もあれば、千尋のところのように部下に資料を作らせる部署もある。余裕ができたら人に任せよう……と思いつつ、何ヶ月経っても余裕ができないのが現状だ。
余裕ってどこに売ってますか?あー、猫の手でも借りたい。あわよくば猫型ロボットの。
人員増員の申請はどうなったのだろうか。残業ができない人でもいい。単純作業しかできなくてもいいから、誰か助けに来てほしい。
部下たちの負担を減らして、柊も恐れられることなく……飲み会という名の慰労会でもできたらいいのに。会社の飲み会なんて面倒くさくて大嫌いだったけど、いまはあの無意味な集まりさえも夢のまた夢で、ちょっと恋しい。
この新部署が開設した日にみんなで飲みに行ったのが、もう何年も前のことのように思えてくる。最初で最後、唯一のあの日だけは、気安く部下と交流できた。歳だってみんなそう離れていないのだ。
誰かの上司という立場は、重い。呼ばれたら参加するかしないか悩むだけだった飲み会も、部下のために企画すべきか頭を悩ませる。
きっと必要なんだろう。いや、上司の柊はいないほうが盛り上がる可能性は高いけど……どこかで発散してやらないと、いつか不満が爆発してしまうのではないかと不安になった。
文句は甘んじて受けよう。その前に、溜まった仕事がなくなる日はくるのだろうか――
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