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本編
45.現実と真実 side.Silva
しおりを挟む「よか、ったぁ……」
囁くように小さな声でそう告げたノーナは、静かに目を閉じた。その顔は、死人のように血の気がない。
当たり前だ。肩にはまだ槍が刺さっているし、血も流れ続けている。小さな身体を貫通する異物が、あまりにも憎い。
傷口を不用意に広げないため、戦場でもない限り体内に入った異物は医師が取り除くのが騎士の中では基本となっている。
その身に染みついたルールがシルヴァを押し留めていたが、正直、何をどうすればよいのか分からなかった。
目の前で起きた出来事が衝撃的すぎて、理解が追いつかない。混乱、動揺、怒り。あらゆる感情が頭の中を駆け巡っている。
いったい何が起きた? ――結果だけが目の前に横たわっている。
「医務官を呼べ!」
誰かが叫んでいる。そうだ……医務官。なによりもノーナを医務官に診せることが先決だ。
シルヴァは刺さったランスを支えながらノーナを抱き上げ、立ち上がった。流れ出した血が手にべったりと付いて滑りそうだ。
彼はこんなにも軽かっただろうか?
よく見ると、王都で会ったときより痩せ細っている。どうして。昨日は怒りとショックでなにも気づかなかった。
「シルヴァ!! 早く行こう。クウィリーに医務官を待機させた。――あぁ、ノーナ……」
「モルタ辺境伯……俺には、何がなんだか……」
「すぐに分かるさ。おい! 犯人は地下牢へ連れて行ってくれ」
ランスでノーナを刺した男が拘束されている。いや……男はシルヴァを狙っていたのだ。同じ騎士が……。
彼を見ると憎悪の感情が湧き上がってきたが、グッと抑える。いまはノーナより優先すべきことなどなかった。
なるべく振動を与えないよう速歩きで、辺境伯に付いて砦内へと向かう。
「ノーナ!!」
砦に入ると、階段を駆け下りてきたパテルが叫ぶ。彼も王都から来た騎士団の事務官だ。
ぐったりとしたノーナの姿を視認すると目を見開き、「そんな……」と絶望的な声で呟いた。
昨日も二人は一緒にいたはずだが、彼とノーナの接点は思い当たらなかった。シルヴァはノーナのことを何も知らない。
急ぐシルヴァとモルタ辺境伯に、パテルは付いてきた。騒ぎが起きてから窓の外を見て、事件を知ったようだ。
パテルはノーナの怪我の経緯を知りたがり、辺境伯が質問に答える。彼女は直前までノーナと一緒にいたらしい。
ノーナが辺境伯の秘書として働いていたことさえも、シルヴァは知らなかった。
医務室へ到着し、詳しい話は後にしてノーナを医務官へ託す。騎士団が常駐しているため、この砦には医務官も雇われているのだ。
老年の男性は怪我をしたのが騎士だと思っていたらしく、ノーナの姿を見て目を見張った。
「まずはこれを抜きましょう。私と助手は肩と腕を押さえますのであなた方は足を押さえて下さい。あなたはまっすぐ、ただまっすぐとこれを抜いて下さい」
医務官は痛みを鈍らせる効果があるという水状の液体を患部に掛け、舌を噛まないようノーナの口に布を噛ませる。その場に居た全員に、ノーナの身体を押さえるよう指示した。
シルヴァは自分がランスを抜くように言われて、束の間逡巡した。彼の行った準備は全て、抜く瞬間の痛みが相当な衝撃をノーナに与えることを意味している。
だが、抜かないと治療を始められないのだ。シルヴァはノーナの生気のない顔を見遣って、覚悟を決めた。
「行くぞ。三、二、一……」
「ッ!!」
まっすぐ、一瞬で抜けたと思う。
しかしランスを抜いた瞬間……ノーナは大きく身体をのけ反らせ、目を見開いた。
エメラルドグリーンの瞳に、血まみれのランスを持ったシルヴァが映ったように見えた。
ノーナはどう思っただろう……それを知る手段もなく、彼は眉間に深く皺を寄せたまま、またすぐに目を閉じてしまう。
医務官と助手が慌ただしく治療を始める。シルヴァたちはもうお役御免で、邪魔になるため部屋を追い出されてしまった。
医務室の前で、そこにいた全員が鎮痛な面持ちをしている。
モルタ辺境伯がパン、パン! と気持ちを切り替えるように手を叩き、号令をかけた。
「医務官とノーナを信じよう。とりあえず、情報共有だ。――シルヴァは着替えてきてくれ」
執務室に集まるよう言われて、シルヴァは自室として使っている部屋へと向かった。部屋の手前に共同の水場があり、そこで手を洗う。
手についた血が赤黒く乾き始めていた。水をかけると鮮やかな色になって流れてゆくのを、ただ見つめる。
これはノーナの血だ。彼が、シルヴァの為に流した。
(どうしてこんなことに……。ノーナは奔放で、ずるい人じゃなかったのか?)
ノーナは不思議な存在だ。シルヴァのことを好きだと告白したその口で、次の週には他の男に乗り換えたと言う。
童顔で色事とは無関係に見えるのに、男の寝所に忍び込んだり、連れ込み宿で人と会おうとする。
彼のイメージとは正反対に奔放で、積極的なのだ。それなのに、会って話しているとどうしても、純粋で可愛い人だとしか思えなくて……
意外性に溢れたノーナを、気付けば好きになっていた。だからこそ、噂になったときは自分が彼を守らなければいけないと思ったのだ。
あのとき、待っていてくれと言ったらノーナは頷いてくれたから……気持ちが通じ合ったのだと、柄にもなく浮かれた。
タイミングの悪い遠征に、初めて『行きたくない』と思ったくらいだ。
それが昨日聞いてしまった話で全て崩れ落ちる。惚れ薬なんて眉唾ものの話だと思いたいのに、ふたりの様子は真剣だった。
シルヴァ自身どうしてこんなにもノーナに惹かれるのか分からなくて、魔法みたいだと思っていたのだ。長年、恋愛という意味で人を好きになれないと思っていた自分が、急に男を好きになるなんて思うか?
だから……惚れ薬を使われたと聞いて腑に落ちた。
やっぱりシルヴァは他人を愛することができない。ノーナも、他人の心を弄びたかっただけなのだと。
部屋に戻って着替えると、胸の辺りに小さな傷ができていた。騎士服には血が染み込み、その中心に穴が開いている。
ノーナが身を呈さなければ、あのランスはシルヴァの胸を貫いていたのだろう。
脱いだ服を強く握りしめる。自分の不甲斐なさを、痛いほどに感じていた。
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