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本編
20.まことの心
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「うーん……」
家で晩酌しながら魔女からもらった瓶を見つめ、ノーナは悩んでいた。惚れ薬はあと三個。
効果は間違いないが、もう使わないほうがいいというのは分かっている。けど……惚れ薬がほしいと願った、当初の目的をまったく達成できていないことがずっと心のなかで引っかかっていた。
トゥルヌスさんに使ってみたい。彼の態度がどんなふうに変わるのか、期待する気持ちと怖いもの見たさが混じりあってトン、とノーナの背中を押す。
三回目の魔法の効果は四十分だ。時間に関しては怪しいけど、それくらいなら……ちょっとだけなら。
『強い気持ちは残る』と魔女は言っていた。もう二回もシルヴァに使ってしまったから、これ以上彼に惚れ薬を使うと本当に惚れられてしまうかもしれない。
あの、ノーナのことを好きな彼がずっと見られるというのは……少し、心惹かれるけれど。
危ない思考にハッとして、ノーナは首をブンブン振る。グラスに注いだレモン色のリキュールを煽って、カン!とグラスをテーブルに叩きつけた。だめだめ! 自分に言い聞かせる。
それだけは駄目。あの優しく純粋な人の心を魔法で歪めてしまうのは、超えてはいけない一線だ。
もう間違いは許されない。ちょうどいいことに来週はトゥルヌスさんと一緒に参加する会議があった。月に一度の会議はいつも長引いて、定時を過ぎたころに終わる。
そのあと一緒に局へと戻ると同僚は帰ってしまっているはずだから、トゥルヌスさんと二人きりになるチャンスは充分にある。ノーナにお誘いがかかる機会もその日が多くて、以前は楽しみに待ち望んでいたっけ。
今回は……そういう雰囲気になってもお断りしなければならない。魔法の時間が短すぎるし、効果が切れてしまったタイミングで一緒にいると混乱をきたしかねないから、その前に別れたいのだ。
少しだけ会話を楽しんで、それで終わり。それで満足するべきだ。作ってくれた魔女には悪いけれど、トゥルヌスさんを最後にもう惚れ薬は捨ててしまおう。
先に残る二個を出して捨てようと瓶の蓋を開きかけて、ノーナは手を止めた。
「と、とりあえず三回目を使ってから……」
◆
会議を終えて、トゥルヌスさんと長い廊下を歩いていた。
「いや~、今回も長かったね。お疲れさま。ノーナは優秀で助かるよ」
「いえ……お役に立ててよかったです」
「そういえば、あの申請書類はどこにやったんだっけ? 忘れてきたかな?」
「国土保全局に一旦お返ししたんですよ。治水の予算に関して、見直しをお願いする旨を先ほど伝えたので」
「あれ、そうだったか」
もう忘れたんですか? という言葉はぐっと飲み込む。
トゥルヌスさんは会議の中で、ノーナが作った資料を使って説明し、質問にはノーナが耳打ちした内容をそのまま答えていた。彼は仕事の中身を把握していないが、ノーナが説明や回答をすると周囲からまともに取り合ってもらえないので、やっぱり必要な存在だ。
自分は数字を取り扱ういまの仕事が楽しいと思うし、想像もつかないほどの大金を管理する業務にはやりがいも感じている。
でも後ろ盾でも飛び込んでこない限りは、あと何十年勤めたってこれ以上の出世は難しいだろう。いま文官になれているのが奇跡的なくらいなのだから。
悶々と考えていると、意外なことが起きた。
局に到着する直前、廊下でシルヴァとすれ違ったのだ。王宮内で偶然会うことなんてそうそう無いから、街でかち合ってノーナの家に来て以来、はじめてだ。
彼も一人ではなく、年上にみえる騎士たちに囲まれて歩いている。騎士の集団には将軍として有名な人も混じっていた。みんな体格が良くそれなりの身長だが、シルヴァだけがノーナには輝いて見える。
ノーナはシルヴァと一瞬目が合った気がしたものの、すぐに視線を逸らされてしまった。当然だ。彼の記憶では、先日街中でぶつかったのと、ひと月前に騎士団本部の廊下で会話しただけの存在なのだから。
あのときは振られて、名前を訊かれたんだっけ。素の状態の彼に名前を呼ばれたことが嬉しかったけど、もうシルヴァは忘れてるかもなぁ。
「王宮の真ん中を歩かれると無駄に存在感あるよねぇ。早く戦地に行ってくれないかな」
「えっ……次の遠征も彼らが?」
トゥルヌスさんの言い方にチクリとしたものを感じたが、それ以上にシルヴァの動向が気になった。
そうだった……彼は国王軍で、王宮内に留まり続けることはほとんどない。王族を守る近衛騎士もいるけど、彼はそうじゃないのだ。
今日の会議でも次の南方への遠征について報告があった。会議の最中はその内容とシルヴァが結びついていなかったが、遠征メンバーに彼が選ばれるだろうことは、有り得る話だ。
ノーナは彼が王都を離れて戦いに行ってしまうと思うだけで、急激に寂しさが湧いてくるのを感じた。
いつも自分は取り残される側だ。自分の居場所はここにしかない。
ノーナの中でシルヴァの存在は大きくなりつつあるとはいえ、彼の中でノーナは一言二言交わしたことがあるだけの変人だろう。勝手に寂しいと感じるなんて、我ながら残念な男だ。
局に到着すると、案の定もう誰も残っていなかった。ノーナはポケットに入れていた惚れ薬を手のひらに置く。トゥルヌスさんは帰る準備をするため局長室に入っていったので、いまは一人だ。
以前は局の外で惚れ薬を飲んでしまったから、シルヴァが来ていたことに気づけなかった。だから今回はこの場で飲めば間違いがない。
心の中では複雑な思いが渦巻いていた。自分だって大人なのだから、もっとちゃんと考えて行動しなければいけないのかもしれない。大人ってなんだろう。正しい選択をできる人のことだとしたら、自分はずっと大人になれない。
これがおそらく正しくないことだと分かっていても、ノーナは誘惑に勝てなかった。
大きな飴玉状の薬を口に含み、ゴクッと飲み込む。違和感はもう慣れたものだ。
「ぅぐ」
……緊張しながら局長室へと足を向けたところで、向こうからドアが開いた。
「もう帰るよ。ノーナ、お疲れさま」
「お疲れさまです……トゥルヌス局長」
声を掛けたつぎの瞬間、トゥルヌスさんの表情がまるきり変わるのがわかった。焦げ茶色の目が愛おしいものを見つけたように細められる。
彼はノーナへ数歩の距離を詰め、正面から腰に腕を回してくる。久しぶりの距離感に、ノーナの心臓はドキッと鳴った。
やっと……成功だ。
家で晩酌しながら魔女からもらった瓶を見つめ、ノーナは悩んでいた。惚れ薬はあと三個。
効果は間違いないが、もう使わないほうがいいというのは分かっている。けど……惚れ薬がほしいと願った、当初の目的をまったく達成できていないことがずっと心のなかで引っかかっていた。
トゥルヌスさんに使ってみたい。彼の態度がどんなふうに変わるのか、期待する気持ちと怖いもの見たさが混じりあってトン、とノーナの背中を押す。
三回目の魔法の効果は四十分だ。時間に関しては怪しいけど、それくらいなら……ちょっとだけなら。
『強い気持ちは残る』と魔女は言っていた。もう二回もシルヴァに使ってしまったから、これ以上彼に惚れ薬を使うと本当に惚れられてしまうかもしれない。
あの、ノーナのことを好きな彼がずっと見られるというのは……少し、心惹かれるけれど。
危ない思考にハッとして、ノーナは首をブンブン振る。グラスに注いだレモン色のリキュールを煽って、カン!とグラスをテーブルに叩きつけた。だめだめ! 自分に言い聞かせる。
それだけは駄目。あの優しく純粋な人の心を魔法で歪めてしまうのは、超えてはいけない一線だ。
もう間違いは許されない。ちょうどいいことに来週はトゥルヌスさんと一緒に参加する会議があった。月に一度の会議はいつも長引いて、定時を過ぎたころに終わる。
そのあと一緒に局へと戻ると同僚は帰ってしまっているはずだから、トゥルヌスさんと二人きりになるチャンスは充分にある。ノーナにお誘いがかかる機会もその日が多くて、以前は楽しみに待ち望んでいたっけ。
今回は……そういう雰囲気になってもお断りしなければならない。魔法の時間が短すぎるし、効果が切れてしまったタイミングで一緒にいると混乱をきたしかねないから、その前に別れたいのだ。
少しだけ会話を楽しんで、それで終わり。それで満足するべきだ。作ってくれた魔女には悪いけれど、トゥルヌスさんを最後にもう惚れ薬は捨ててしまおう。
先に残る二個を出して捨てようと瓶の蓋を開きかけて、ノーナは手を止めた。
「と、とりあえず三回目を使ってから……」
◆
会議を終えて、トゥルヌスさんと長い廊下を歩いていた。
「いや~、今回も長かったね。お疲れさま。ノーナは優秀で助かるよ」
「いえ……お役に立ててよかったです」
「そういえば、あの申請書類はどこにやったんだっけ? 忘れてきたかな?」
「国土保全局に一旦お返ししたんですよ。治水の予算に関して、見直しをお願いする旨を先ほど伝えたので」
「あれ、そうだったか」
もう忘れたんですか? という言葉はぐっと飲み込む。
トゥルヌスさんは会議の中で、ノーナが作った資料を使って説明し、質問にはノーナが耳打ちした内容をそのまま答えていた。彼は仕事の中身を把握していないが、ノーナが説明や回答をすると周囲からまともに取り合ってもらえないので、やっぱり必要な存在だ。
自分は数字を取り扱ういまの仕事が楽しいと思うし、想像もつかないほどの大金を管理する業務にはやりがいも感じている。
でも後ろ盾でも飛び込んでこない限りは、あと何十年勤めたってこれ以上の出世は難しいだろう。いま文官になれているのが奇跡的なくらいなのだから。
悶々と考えていると、意外なことが起きた。
局に到着する直前、廊下でシルヴァとすれ違ったのだ。王宮内で偶然会うことなんてそうそう無いから、街でかち合ってノーナの家に来て以来、はじめてだ。
彼も一人ではなく、年上にみえる騎士たちに囲まれて歩いている。騎士の集団には将軍として有名な人も混じっていた。みんな体格が良くそれなりの身長だが、シルヴァだけがノーナには輝いて見える。
ノーナはシルヴァと一瞬目が合った気がしたものの、すぐに視線を逸らされてしまった。当然だ。彼の記憶では、先日街中でぶつかったのと、ひと月前に騎士団本部の廊下で会話しただけの存在なのだから。
あのときは振られて、名前を訊かれたんだっけ。素の状態の彼に名前を呼ばれたことが嬉しかったけど、もうシルヴァは忘れてるかもなぁ。
「王宮の真ん中を歩かれると無駄に存在感あるよねぇ。早く戦地に行ってくれないかな」
「えっ……次の遠征も彼らが?」
トゥルヌスさんの言い方にチクリとしたものを感じたが、それ以上にシルヴァの動向が気になった。
そうだった……彼は国王軍で、王宮内に留まり続けることはほとんどない。王族を守る近衛騎士もいるけど、彼はそうじゃないのだ。
今日の会議でも次の南方への遠征について報告があった。会議の最中はその内容とシルヴァが結びついていなかったが、遠征メンバーに彼が選ばれるだろうことは、有り得る話だ。
ノーナは彼が王都を離れて戦いに行ってしまうと思うだけで、急激に寂しさが湧いてくるのを感じた。
いつも自分は取り残される側だ。自分の居場所はここにしかない。
ノーナの中でシルヴァの存在は大きくなりつつあるとはいえ、彼の中でノーナは一言二言交わしたことがあるだけの変人だろう。勝手に寂しいと感じるなんて、我ながら残念な男だ。
局に到着すると、案の定もう誰も残っていなかった。ノーナはポケットに入れていた惚れ薬を手のひらに置く。トゥルヌスさんは帰る準備をするため局長室に入っていったので、いまは一人だ。
以前は局の外で惚れ薬を飲んでしまったから、シルヴァが来ていたことに気づけなかった。だから今回はこの場で飲めば間違いがない。
心の中では複雑な思いが渦巻いていた。自分だって大人なのだから、もっとちゃんと考えて行動しなければいけないのかもしれない。大人ってなんだろう。正しい選択をできる人のことだとしたら、自分はずっと大人になれない。
これがおそらく正しくないことだと分かっていても、ノーナは誘惑に勝てなかった。
大きな飴玉状の薬を口に含み、ゴクッと飲み込む。違和感はもう慣れたものだ。
「ぅぐ」
……緊張しながら局長室へと足を向けたところで、向こうからドアが開いた。
「もう帰るよ。ノーナ、お疲れさま」
「お疲れさまです……トゥルヌス局長」
声を掛けたつぎの瞬間、トゥルヌスさんの表情がまるきり変わるのがわかった。焦げ茶色の目が愛おしいものを見つけたように細められる。
彼はノーナへ数歩の距離を詰め、正面から腰に腕を回してくる。久しぶりの距離感に、ノーナの心臓はドキッと鳴った。
やっと……成功だ。
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