浮世絵綺譚 さまよえるオランダ人絵師

日向空海

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浮世絵綺譚 さまよえるオランダ人絵師

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さまよえるオランダ人絵師
日向 空海



 十九世紀中期のアイルランド人流行作家、ジョゼフ・シェリダン・レ・ファニュはいわゆる「視える」人だった。この世の中に存在しないはずのもの、常人の視覚では捉えることのかなわないものが彼の目にはありありと「視える」というのだ。
 生涯にこの作家が書きつづった物語は長編小説十五編と短編八十編以上、時世の流行によく応えて、犯罪、陰謀、醜聞を売り物とする大長編センセーション・ノベルの書き手としてウィルキー・コリンズに並べられるほどの高い評価と読者の支持を獲得してみせたけれども、一方で短編小説の場となると悪事の追究や秘密の暴露にまして、怪奇と幻想に満ちたゴースト・ストーリーの創造にその精魂を傾けた。
 伝えられるところでは彼の執筆生活は何とも風変わりなもので、殊更に怪奇小説のためにペンを執るのはいつも夜暗くなってから。照明といえば蠟燭の灯ばかり、寝台の中から紙片をつかみ取るとそれからは心の赴くまま、作中の場面の描写をばらばらに書きつけていく。こうして書き溜めたものを後から一輯の物語に繋ぎ合わせたということである。
 このジャンルにおけるレ・ファニュの作風の傾向として、不穏な出来事の描写に終始して、謎の解明がほとんどなされないので、最後まで何事が起こったかが不明瞭のままに終わりがちだという点、前後の展開にしばしば矛盾が見られる点、モチーフやプロットの重複が目立つという点などで批判の声が少なからずあるようだ。それらの欠点も、作家自身の想像力や文章技術の欠如というより、多分に彼のそうした執筆の習慣に起因するように見受けられる。それというのも、この作家の怪奇小説のいくらかは頭の中でこしらえたものではなくて、現実に彼自身の目に「視える」幻視した場景を――多少の脚色はあったにせよ――そのまま物語の中に書き起こしたためではなかっただろうか。

「信じがたい話だなあ。ねえ、ブラム。いったい、そいつは確かな話なのかい?」
 深い嘆息と共に確かめた男はドイル。祖父の代からアイルランドの首都ダブリンを離れてロンドンへ移住したという家系の出自で、彼自身はポーツマス郊外で開業医として暮らしていたが、これがいっこうに流行らなくて、近頃は小銭稼ぎに始めたはずの大衆小説の執筆の方が本業のようになっている。
「まさかわたしを疑うのかい、アーサー? 作り話で君をからかっているとでも」
 苦笑いを返した連れはストーカーといって、こちらは彼自身がダブリンから出てきて十年余りになる生っ粋のアイルランド男。ロンドン有数の高名な舞台俳優のマネージャーとして働く傍ら、自らの物語の創造に執心して、オカルト色の強い冒険小説を書き続けていた。
 年齢はストーカーの方が十二歳年上だったが、どちらもアイルランドにルーツを持つ者同士、作風にも似たところがあり、流行りの神秘学、心霊主義への憧憬を共有するということで二人の新進作家は仲がよい。この時は二人して展覧会を見物した帰路だった。
「ブラム、僕は何も君のことを法螺吹きなのだと疑ってやしないよ。でも、君の人柄が信用できることと、どこかで君が聞き知った風説を信用できるかはまた別の話だろう」
 ドイルが食い下がると、ストーカーは大げさに両手を広げてみせた。
「忘れてもらっては困るね。わたしはダブリンで生まれ、ダブリン大学のトリニティ・カレッジに十六歳で進学して、二十三歳の年、一八七〇年まで在学していた。そして、かのレ・ファニュは一八六一年から一八六九年までの八年間、『ダブリン・ユニバーシティ・マガジン』のオーナーであり、同時に編集主幹の席にあったのだ。『サイラス叔父』『墓畔の家』『ワイルダーの手』……長編のセンセーション・ノベルがどんどん出版されて、流行作家の地位を彼が得たのがちょうどこの時期だった。当時のトリニティ・カレッジに通っていたのだから、もちろん、彼の雑誌と彼自身の評判を耳にする機会はしょちゅうだったのさ」
「へーえ! その話は初耳だったよ。では、レ・ファニュとは面識があったのかい?」
「いいや……残念だが、その頃は流行作家の噂話を面白がっていただけだ。それは、一、二度くらいは、構内のどこかで見かけたかもしれないが、大衆文学にまだ関心が薄かったからね。まさか、三文小説ペニー・ドレッドフルのたぐいを自分が書くようになるとは夢にも思わなかった」
 素直な感嘆と羨望をたたえた瞳を年下の友人から向けられて、ストーカーはくすぐったさに小鼻をうごめかした。
「礼賛ばかりではなくて、悪い噂もたびたび耳にした。『ダブリン・ユニバーシティ・マガジン』をレ・ファニュが手放した理由は健康を損なったからだが、身体というより、心を悪くしたせいだというのが当時の評判だった。毎日のように悪い夢に魘されて、ろくに眠れなかったらしい。恐ろしい物語ばかりを書いてきたせいで、物語の中の怪異に呪われてしまったのだろう……そんな風にあげつらう野次馬連中も大勢いたっけ。その夢の中ではね、いかにも彼好みのすっかり荒廃して、しいんと静かな、古びた大きな屋敷の中に気がつくと一人きりで取り残されていて、そのうちにがらがらと音を立てて、頭の上から建物が崩壊してくるところで、いつも自分が上げた悲鳴のせいで目が覚めるというありさまだった。雑誌の出版から手を引いた頃にはもう言動がおかしくて、現実と夢の境目が何だか怪しくなっている感じだったようだ。鏡を通して見るように朦朧としてIn a Glass Darkly、というわけだな」
「鏡を通して見るように……?」
「最後の作品集のタイトルだよ。『緑茶』や『カーミラ』が収められている。その本が出版されてからしばらくして、レ・ファニュは死んでしまった。その頃には僕は大学を卒業していたが、当時に聞いた風説では彼の主治医は駆けつけるなり、死に顔を覗き込み、ああ、夢の中で崩れた屋敷の下敷きになってしまったか――と口走ったともいわれている。夢を通して、生前から自分の死にざまを幻視したとも受け取れるな。結局、彼の死因は心臓麻痺ということで処理された」
「気味が悪い話だ。自分で書いた怪談に呪われるなんて……」
 にわかに寒気を覚えて、ドイルがぶるっと身震いをする。
「ところで、レ・ファニュが手がけた短編小説の中の一編に、オランダのゴドフリ・シャルケンが若い時分に描いた肖像画の逸話があることを知っているかい? さっきの展覧会でも、それとは別のものだが、シャルケン画伯の作品が展示されていただろう――」
 ストーカーが発した問いにドイルははてなと首を捻らされた。
「僕には心当たりがないが、その小説の展開もレ・ファニュが目にしたままだったと?」
「どこまでが事実なのかは知らないが、シャルケン遺作の件の肖像画を実際にレ・ファニュは見ていたという話だよ。よほどに感銘を受けたのだろう。彼のシャルケン贔屓は有名で、その時の印象をまわりに話すことがよくあったらしい」
 そんな前置きをして、同郷の偉人の奇怪な体験をストーカーは語り始めた。

 ゴドフリ・シャルケン――一般には「ゴドフリート・スカルッケンGodfried Schalcken」の表記が用いられるけれども、本来の発音は「シャルケン」に近いようだし、レ・ファニュ作品の読者にはやはりこの方が馴染みは深いから、ここでは「シャルケン」の表記を採用したい。彼は十七世紀後半に活躍したオランダ人画家で、レンブラント・ファン・レイン門下のゲルアルド・ドウから絵画技術を学び、肖像画、風俗画の制作で成功を収めた。
 いったいにレンブラント一門は絵画上の光と闇の処理に熟通したが、わけてもこの画家には強いこだわりがあったようだ。闇深い、黒々とした暗がりから、蠟燭やランタンの灯に照らされた人物の風貌が幻想的に浮かび上がるという場景を彼は好んで描いた。
 そんなシャルケンの初期の傑作に、ゲルアルド・ドウの姪である、ローゼ・ヴェルデルカウスト嬢の肖像がある。
 前景には白い寛衣を着た令嬢の姿形が描かれていて、彼女は燭台を片手に持ち、悪戯っぽい笑みを浮かべた顔と上半身だけが赤い灯火に照らされている。背景は暖炉の火の他は暗い影が覆って、その中に男が一人、剣の柄に手をかけたまま立ち尽くしているといった図像だ。レ・ファニュの作中にいわく――「シャルケンのこの一風変わった絵にも、どこかに実際にあったことの再現だということを標示しているところがある」。
 件の短編小説は、フランシス・パーセル牧師の聞き書きという体裁を取っており、語り手の曾祖父がシャルケンとの間に親交があり、肖像画にまつわる怪談を画家自身の口から打ち明けられ、絵画そのものも彼自身から譲られたように由来を説明するが、実のところここには作中の脚色がいくらかまぎれ込んでいて、実際の肖像画の所蔵者はトリニティ・カレッジ在学当時のレ・ファニュの学友の一人だったという。
 肖像画は恩師ゲルアルド・ドウの養女であり、シャルケンの初恋の人であり、生涯にただ一人恋慕した女性の姿形を描いたもの――といったロマンティックな挿話にしても所蔵者の家の家伝のたぐいだから、事実か、空想か、本当のところは分からない。そして、物語の前半におけるローゼ・ヴェルデルカウスト嬢の失踪の顛末は確かにその家伝の通りなのだが、後半の展開となるとまったく創作で、肖像画を実見したレ・ファニュ自身の心象から想を得たものだということだった。
 当時、レ・ファニュは二十代のまだ前半。ローゼ・ヴェルデルカウスト嬢の肖像画をひと目見るなり、たちまちに彼は強い衝撃に打たれた。
 初めはローゼの姿形に目を惹きつけられた。陰惨な怪談の当事者に似合わず、彼女は悲しむようでも怯えるようでもなくて、不思議に表情は戯れるようだった。
 そのうちに背景の暗がりがだんだん奥行きを持ち、目が慣れるにつれて、黄金期のオランダ絵画に描かれたような古い屋敷のたたずまいが浮かんできた。その場所は寝室のようで、部屋の中いっぱいが贅沢な家具や装飾品に埋まっている。いくら立派な装いに見えても、ひとすじの光も射さない寝室の様子は陰気でレ・ファニュに地下の納骨堂を連想させた。空気は重く澱み、カビと埃が混ざった匂いがする。長い石段を下りて、狭い通路を歩いてきたような、記憶の中に存在するはずのない場景すらまざまざと目に浮かんだ。
 寝室の奥をうかがうと、天蓋から厚手の黒い帳を垂らした、豪奢な寝台が据えられている。レ・ファニュの目にはそれが大きい棺のように見えた。いつの間にか寝台の横にローゼがたたずんで、彼を振り返ると悪戯めいた仕草で手招いた。
 誘われるまま、そちらへ向かってレ・ファニュは踏み出した。
 寝台の前まで近づいたところで、ローゼが空いている手で黒い帳をさっと引く。同時にもう一方の手が燭台を差し入れ、寝台の中を赤々と照らした。
 反射的に覗き見た格好のレ・ファニュは、そこに土気色の顔をした年配の、立派な身なりの男の姿を認めると身の毛がよだつような戦慄を覚えた。その人物は両目を見開き、上半身を起こしていたが、まるで死人のようにじっと動か……ないでいるのだった。
「ジョゼフ、どうかしたのかい?」
 傍の学友から声をかけられて、その瞬間、現実の中にレ・ファニュは引き戻された。
 彼の前には額に飾られた肖像画があるだけで、まわりを見まわしても寝台のたぐいはない。絵の中のローゼは先までと変わらず、例の悪戯っぽい微笑をたたえていた。
 それまでも何度も覚えがあったから、いまの出来事の意味がレ・ファニュにはただちに理解できた。
 目の前の肖像画を描いた画家の記憶、あるいは描くという行為に宿された情念の凄まじさが「視え」てしまったのだ。それがシャルケンの実際の体験だったか、それとも心象のたぐいだったのか、そこまではさすがに判断がつかない。
 シャルケンという画家の遺作から幻視した場景はここまでだったが、しかし、この体験はそれからもしばらくの間、レ・ファニュの生活の上で尾を曳いた。
 例の肖像画を見てからというもの、絵を描かずにはいられなくなったのである。
 後に生まれる長男ブリンスリーが職業画家になっているくらいで、シェリダン・レ・ファニュ家は芸術家の家系であって、彼自身、若い頃から絵を描くことは得意だったが、それが気がつくと木炭やペンを握って、人物画や静物画、時には風景画のデッサンに取りかかっている。それらの仕上がりを見れば、線描の巧みさはとうてい自分が描いたものとは思えず、明暗の描写には視線を引き込まずにはおかない凄みがあった。素人画家が手遊びに描けるものではない。遺作に残された画家の魂、画家の情念にどうやら感化されたらしい、と彼は得心した。デッサンを描いたのは彼自身ではない。自発的に彼が描いたというより、得体の知れない衝動に動かされて、自己の意思とは別に彼の手が描いていたとしかいいようがなかった。
 昔の画家の情念に対抗してレ・ファニュが取った行動は、いかにも現役の物語作家らしいものだった。
 つまり、若き日のシャルケンの物語を書き始めたのである。
 冒頭は肖像画の外見的描写から書き起こし、シャルケンの恋人を襲った悲劇を詳述するためにペンを進め、それから後日談という形で、先日に幻視した場景をシャルケン自身の実体験のように脚色すると物語の結末部分に置いた。執筆を進める間も、一方では絵を描くという衝動は依然として抑えがたかった。物語を書く合間に絵を描いたのか、絵を描く合間に物語を書いたのか、どちらともつかない毎日がそうして続いた。
 心を砕き、魂を削るような苦闘の果て、どうにかレ・ファニュは物語を書き上げることができた。その日を境にして、あれほど彼を悩ました絵画への衝動はふつりとやんだのである。
 物語を完結させたことで画家の情念からはひとまず解放されたようだった。レ・ファニュはそのように判断して、自分自身を納得させた。シャルケン画伯の短い物語は、いくらかの改稿を加えた後、『ダブリン・ユニバーシティ・マガジン』誌面に掲載された。
 こんなことがあってから、数奇な画家の生涯への興味は晩年まで尽きることなく続いたものの、レ・ファニュが再び、奇怪な体験の端緒となった肖像画を見ることはなかった。

「死んだ画家の魂が絵の中に留まり、百年以上の歳月を超えて、生ける者を動かして絵を描く。恐い話には違いないが、わたしのような野次馬にはほんの少しだけ、もったいないことをしたようにも思えるよ。何といっても、稀有な天才画家の業績にまっさらな新作が追加される機会だったのだからね。シャルケンの絵を見るたび、わたしはレ・ファニュが書き残した物語と彼の奇妙な体験を思い出す。そして、こんなことを考えるんだ。シャルケンの遺作はいまもあちらこちらに残されている。恋人の肖像画一点が特別の存在だったとは誰にもいい切れない。それらの絵を目にして、レ・ファニュのように彼の魂に感応した人たちは他にもきっと存在したことだろう。彼らもやはり、絵を描くことへの強い衝動に駆られたはずだ。それこそ、現在も世界のどこかで、シャルケン画伯の魂に魅入られた誰かの手によって、新しい彼の絵が描かれつつあるかもしれない、といったことをね……」
 そこまで話したところでストーカーは、ふと口をつぐみ、傍らのドイルの表情をしげしげとうかがった。
「どうしたんだい、アーサー? 君の顔は真っ青じゃないか」
「ああ……」
 明るい陽光の下でもドイルは顔色を失い、茫然の態だった。震える手で顔中の汗をぬぐうと、虚ろな目をして彼はストーカーを見返した。
「心配をかけて済まないね。実をいえば、いまのブラムの話にとてもよく似た出来事を僕は知っていたんだ。そのことを思い出してしまった」
「何だって! すると君の知り合いの誰かが、やはりシャルケンの絵をどこかで見て、それから調子がおかしくなったというのかい?」
「いや、彼の絵ではなかった。東洋人の知らない画家が描いたものさ。あれを見てからはしばらくの間、まるで憑かれたようになって風変わりな絵ばかりを描いていたんだ。もとから風変わりな絵ばかりを描く人だったといわれるとそれまでだが――」
 わずかに躊躇い、そして、ドイルは囁き声で打ち明けたのだった。
「そんなことが起こったのは僕の父だった」

 彼の父親、チャールズ・ドイルはやはり「視える」人だったという。
 元来、ドイル一族は芸術家の家系である。アイルランドから出てきた祖父、ジョン・ドイルは風刺画家として大きな成功を収めた人物だった。彼の息子たちもそれぞれの道を進んで、長男ジェームズは歴史家、次男リチャードは挿絵画家、三男ヘンリーは美術鑑定家として地位と名声を得ていた。そんな中で、一人、末っ子のチャールズばかりは画家として成功をつかめず、スコットランド労務局に測量技師の職を得ることはできたものの、いっこうに仕事に意欲を持てないまま酒に溺れて、不遇の生涯を送った。
 ドイルが十七歳の年、父のチャールズは重度のアルコール依存症のために職を失い、それからは療養所や精神病院へ送られたり、また帰ってきたりということを繰り返した。エジンバラ大学へドイルは進学したが、当時の生活は困窮を強いられたという。
 チャールズに連れられ、地元の画廊をドイルが訪れたのはその頃の出来事である。
 開催中の展示会では、偶像、器物、刀剣、甲冑、服飾……東洋から輸入したエキゾチックな美術工芸品が所狭しと並んでおり、来場者の目をそれらは存分に楽しませた。展示の数からいえば絵画のたぐい、中でも派手な色彩の風俗画が多かった。
 山岳の神秘的な美しさ。街の賑わい。物語の中に登場するらしい英雄。愛くるしい女子供たちのたたずまい。異国の風俗が珍しくて、ドイル父子は目を輝かせて見てまわった。
 やがて、チャールズは一点の絵の前で立ち止まった。
 これは東洋人の男を描いた肖像画である。真っ黒に塗り潰された背景がきらきらと光沢を帯びて、その中から浮かび上がるように彼の半身像が大きく描き出されていた。
 癖の強い、生々しい表情の描写にはユーモラスな味わいと身震いするほどの迫力が二つながらに備わっている。その肖像画は油彩画やリトグラフとは異なり、彼らの目には馴染みがない木版画ということだった。
 ひと目見るなりチャールズは何かしら異様な衝撃に打たれたようで、長い間、呆けたような顔つきで東洋人の肖像画を眺めていた。不審を覚えてドイルが声をかけても、息子の声はまるで聞こえていないようだった。
 その日から、突然の熱に浮かされるようにチャールズの様子がおかしくなった。
 悪癖の飲酒どころか食事や眠ることまで忘れ果てて、朝といわず夜といわず、ひたすらに絵を描くことに打ち込んでいる。傍にいたドイルの目から見ても、この時の父の姿は、鬼気迫る、としかいいようがないものだった。
 もとより画家の道には未練があって、細々と描くくらいは続けていた父である。妖精や小鬼、幻獣の姿をチャールズは好んで描いた。彼自身によると「視える」ものをそのまま描いたということになるが、牧歌的で素朴な描写は当世の大衆の嗜好には合わず、どうしても時代遅れの感が強かった。
 そんなチャールズの画風がいまや一変して、やはり妖精たちを描くことは変わらなかったが、深淵のような闇の中で彼らが戯れるさまは、そのまま見る者の魂をあちらの側へ連れていくかの奇怪な迫力をたたえているのだった。
 一ヶ月もそうした状態が続き、ある日、突然憑き物が落ちたようにチャールズは描くことをやめた。
「描けない! 描くことができない!」
 そういってチャールズはペンを投げ出し、描きかけのデッサンを引き裂くと、そのまま頭を抱えてうずくまった。ほとんど泣き声になって、彼はいつまでも繰り返していた。
「行ってしまった。ああ、わたしを残して、どこかへは行ってしまった。どうしてなんだ、どうしてわたしも連れていってくれないんだ……」

「そうだったのか。君の家ではそんなことが起きていたなんて」
 友人の短い話が終わって、ストーカーは溜め息を吐き出した。
 ドイルは無言で頷き、そのまましばらく、二人の間に沈黙が落ちた。
「展示会で君たち親子が見たという、例の東洋人の肖像画……それはシナの画家が描いたものだったのかい?」
 ストーカーの質問にドイルは首を横に動かした。
「いや、違う。ニッポンだ。このところ流行りのウキヨエというやつだよ、ウキヨエシが描いた」
「ウキヨエ?」
 首を捻った友人に向かい、ドイルは詳しく語った。
「ニッポンという国は、ほんの二、三十年前までは極東の島の中に閉じ籠って、渡航も貿易も禁じていたという話だが、ヨーロッパではただ一国、オランダ王国との間では細々と交流を続けていたんだ。オランダの美術品――それこそシャルケンが描いた肖像画が、海を越えてニッポンへ渡るという機会もあっただろう。こいつはさっきのブラムの話からの想像だが、もしかすると例の肖像画を描いたウキヨエシは、ニッポンのどこかでシャルケンの遺作を見る機会があったのかもしれない。僕の父やレ・ファニュの場合と同じく、絵画の中の情念に感応する力が彼にもあったのだとしたら……」
「――――」
「この半世紀で世の中の情勢は大きく変わって、地球はすっかり狭くなった。シャルケンの魂が描いた絵がまわりまわって、はるばるヨーロッパまで戻ってくるということも起こったかもしれない。そして、僕の父はその絵を見てしまった――そんなことを僕は考えたのだよ」
「話の筋道はいちおう通っているね」
 ストーカーは顎をつまみ、思案に沈んだ。
「君たちが見た肖像画を描いた画家は、いったい何という名前だったんだい?」
 とストーカーは訊いた。
「画家の名前は……そう、確か、シャラクといったはずだ。ウキヨエシのシャラク」
 記憶を探ってドイルは伝えた。
「シャルケン、シャラク、シャルケン、シャラク、シャルケン、シャラク……なるほどねえ。言語が違う東洋人の耳には、確かにそんな風に聞こえるかもしれないな」
 口の中で何度となく呟いた後、ストーカーは得心した様子で大きく頷いてみせた。
「極東の島国のシャルケン、というわけだ」

参考文献
『吸血鬼カーミラ』レ・ファニュ著/平井貞一訳 創元推理文庫
『ドラキュラ誕生』仁賀克雄著 講談社現代新書
『コナン・ドイル――ホームズ・SF・心霊主義』河村幹夫著 講談社現代新書
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