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本編
ラベンダーと雨 1
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「目を見ますね」
下まぶたをひっぱられて、眼球や粘膜の様子を確かめられる。俺はどこを見ていればいいんだろう。寝室の中はしんと静まり返っている。
せっかく先生が往診に来てくれていたので、俺も診察してもらっていた。
「息を吸って、吐いて」
さらに聴診器を当てられて、くすぐったい感触を堪える。
音を確かめてから、マイルズ先生は姿勢を戻した。
「異常はありませんね。薬を変えましたが、効果はいかがです?」
「あ……例の運命の番の相手と目が合うと、まだ引き寄せられるような感覚が……。ヒートにも軽くなりかけてしまったり」
「そうですか……やはりその方がロイス様の運命の番と考えた方がいいでしょう」
「……はい」
初めて診断されたときと違って、自分でももう認めていた。
薬を使っても毎回反応してしまうなら、彼は運命の番で確定なのだろう。
「体のだるさや吐き気はありませんか?」
「あ、はい」
「嗅覚が鈍磨していますが、食事はきちんと召し上がられておられますか?」
「はい。仕事上お腹がすくので」
「問題なさそうですね。これ以上薬を強くすることはお勧めしませんので、このまま薬は同じものを使いましょう。ヒートになりかけたときだけ緊急のお薬を飲んでください」
「はい……」
何だか綱渡りしているような心地だった。
運命には抗えない、という言葉を思い出す。
するとマイルズ先生が真摯な眼差しで言った。
「ロイス様。運命という言葉にあまり惑わされないようになさってくださいね」
「え?」
「運命の番の衝動というのは、フェロモンの相性が良いアルファとオメガが出会った場合に起こるという報告があります。運命という言葉はただの後付けの意味であり、運命の糸のようなロマンチックな力があるわけではありません。出会ったのは偶然です。意味をこめたのは人間なのです」
「…………はい」
俺は頷いたけれど、半分納得で半分疑問だった。
神の導きや運命の糸などはなかったとしても、相性の良い者同士が巡り合ったのだとしたら、それはやっぱり運命なんじゃないだろうか。
「頻繁にヒートが起きていらっしゃるのであれば、心身に負担がかかっておられるでしょう。やはり、お仕事はできれば休んだ方がよろしいかと」
「それは……考えているんですが、ミカエルもマーキングしてくれたので」
すると先生は途端に厳しい気配になった。
「ロイス様。ローデリック様のマーキングの件については、私は反対いたします」
「え?」
そういえばさっきミカエルと険悪なムードになっていた気がする。
ジョシュアの件が気がかりでそれどころでなくすっかり忘れていた。
先生は親身な口調で言う。
「あの方は一度に何人もの女性と交際されていたと聞いております……。その交際相手が黒髪と青い目ばかりということも偶然ではないでしょう。あの方は、ロイス様を交際相手の女性と同じように認識されておられるのではないでしょうか」
俺は仰天した。
「っあの、ミカエルは友人です。ミカエルもそう言ってくれていて」
「ロイス様……。マーキングは本来、性欲と執着の伴う相手に施すものなのです。ジョシュア様の場合はロイス様に傾倒されておられますし、添い寝で済ませられておられたので状況はわかります。しかし、それは異例のことなのです」
「その……っ。本当に変なことはしていませんし、汗をかいたまま抱き締めてもらっただけで」
性欲はあったかもしれないけれど、お互いに生理現象だ。
「私には今後エスカレートしていくと思えてなりません。そして浮気性のあの方とお付き合いしたとき、ロイス様は幸せにはなれないでしょう。知っていて見過ごすことはできません。これでも娘を持つ身ですから」
そんな風に将来まで見越して想像されていたとは。
そして俺は、幼い娘さんと同じように分類されていたのか……。
未婚のオメガと考えれば、確かに同じような存在かもしれない。
「あの方のお気持ちは、本当に友情なのでしょうか」
「それは……」
マーキングのとき、確かに艶めいた雰囲気はあった。
けれど最後までいやらしいことはされなかった。大事にされていると感じた。
いや、誰に対してもそうなのかもしれない……。誰のこともそういう風に大事にできるから、ミカエルはすごくモテるのかもしれない。学生時代の正門前の修羅場を思い出す。
でも、と思う。ミカエルに勇気づけられてきたことは真実だ。騎士を続けることも応援してくれている。俺たちは親友だという信頼がある。
「マイルズ先生。ミカエルは俺の尊敬する友人です。女性遍歴がよくないことは知っています。ですが……俺は彼に何度も助けてもらったんです。先生が心配なさっているようなことは起こりません」
「………そうですか」
納得する言葉とは裏腹に、マイルズ先生は無念な様子だった。
「一線を引くように注意だけはなさってください。それと――ジョシュア様の治療についてですが」
「あ、はい」
話題が変わって、頭が切り替わる。
「ラット誘発剤の治療は負担になりますので、週に一度ずつ行う予定です」
「……わかりました」
「ええ。それではまた来週お伺いさせて頂きます」
「よろしくお願いします」
マイルズ先生が帽子をかぶる。俺は玄関ホールへ向かって見送った。
応接間に行けばミカエルが待ってくれていて、ジョシュアの治療の話などを伝えた。
ミカエルはしっかり話を聞いてくれて、不安な気持ちを軽くしてくれる。
浮気性なのも確かだけれど、それでも女性にも男性にもすごく慕われていて、俺にとっては憧れの友人だと実感する。
*
翌朝、更衣室で白のスカーフをチェックしていると、ミカエルが現れた。
目が合った途端、幸せを噛みしめるような顔をする。
「……おはよう、ロイス」
「ああ、おはよう」
こんなに顔は初めて見たなと思った。
そして何故か、ミカエルの好みのタイプの話を思い出した。黒髪に青目。鏡に映っているのも黒髪に青目だ。これに意味があるのだろうか。
小さな窓から見える風景は薄暗く、小雨が降り出していた。
「あれ、ロイスさん雰囲気変わりました?」
「落ち着いたっていうか」
後輩たちがやってきて言う。
意味がわからず首を傾けていたけれど、ふと自分の匂いが香って気付いた。
ミカエルのムスクとウッディの香りは、ジョシュアよりも大人びた男性的な香りだ。その違いかもしれない。
「補佐官の貫禄ですかね?」
笑顔で言うのは後輩のフレデリックだ。俺は曖昧に微笑んで濁した。
みんなとなるべく距離を取った方が良さそうだ。しかし、この天気だと室内での稽古になるだろう。
雨の匂いでフェロモンの匂いもまぎれることを祈りながら、俺たちは更衣室を出た。
下まぶたをひっぱられて、眼球や粘膜の様子を確かめられる。俺はどこを見ていればいいんだろう。寝室の中はしんと静まり返っている。
せっかく先生が往診に来てくれていたので、俺も診察してもらっていた。
「息を吸って、吐いて」
さらに聴診器を当てられて、くすぐったい感触を堪える。
音を確かめてから、マイルズ先生は姿勢を戻した。
「異常はありませんね。薬を変えましたが、効果はいかがです?」
「あ……例の運命の番の相手と目が合うと、まだ引き寄せられるような感覚が……。ヒートにも軽くなりかけてしまったり」
「そうですか……やはりその方がロイス様の運命の番と考えた方がいいでしょう」
「……はい」
初めて診断されたときと違って、自分でももう認めていた。
薬を使っても毎回反応してしまうなら、彼は運命の番で確定なのだろう。
「体のだるさや吐き気はありませんか?」
「あ、はい」
「嗅覚が鈍磨していますが、食事はきちんと召し上がられておられますか?」
「はい。仕事上お腹がすくので」
「問題なさそうですね。これ以上薬を強くすることはお勧めしませんので、このまま薬は同じものを使いましょう。ヒートになりかけたときだけ緊急のお薬を飲んでください」
「はい……」
何だか綱渡りしているような心地だった。
運命には抗えない、という言葉を思い出す。
するとマイルズ先生が真摯な眼差しで言った。
「ロイス様。運命という言葉にあまり惑わされないようになさってくださいね」
「え?」
「運命の番の衝動というのは、フェロモンの相性が良いアルファとオメガが出会った場合に起こるという報告があります。運命という言葉はただの後付けの意味であり、運命の糸のようなロマンチックな力があるわけではありません。出会ったのは偶然です。意味をこめたのは人間なのです」
「…………はい」
俺は頷いたけれど、半分納得で半分疑問だった。
神の導きや運命の糸などはなかったとしても、相性の良い者同士が巡り合ったのだとしたら、それはやっぱり運命なんじゃないだろうか。
「頻繁にヒートが起きていらっしゃるのであれば、心身に負担がかかっておられるでしょう。やはり、お仕事はできれば休んだ方がよろしいかと」
「それは……考えているんですが、ミカエルもマーキングしてくれたので」
すると先生は途端に厳しい気配になった。
「ロイス様。ローデリック様のマーキングの件については、私は反対いたします」
「え?」
そういえばさっきミカエルと険悪なムードになっていた気がする。
ジョシュアの件が気がかりでそれどころでなくすっかり忘れていた。
先生は親身な口調で言う。
「あの方は一度に何人もの女性と交際されていたと聞いております……。その交際相手が黒髪と青い目ばかりということも偶然ではないでしょう。あの方は、ロイス様を交際相手の女性と同じように認識されておられるのではないでしょうか」
俺は仰天した。
「っあの、ミカエルは友人です。ミカエルもそう言ってくれていて」
「ロイス様……。マーキングは本来、性欲と執着の伴う相手に施すものなのです。ジョシュア様の場合はロイス様に傾倒されておられますし、添い寝で済ませられておられたので状況はわかります。しかし、それは異例のことなのです」
「その……っ。本当に変なことはしていませんし、汗をかいたまま抱き締めてもらっただけで」
性欲はあったかもしれないけれど、お互いに生理現象だ。
「私には今後エスカレートしていくと思えてなりません。そして浮気性のあの方とお付き合いしたとき、ロイス様は幸せにはなれないでしょう。知っていて見過ごすことはできません。これでも娘を持つ身ですから」
そんな風に将来まで見越して想像されていたとは。
そして俺は、幼い娘さんと同じように分類されていたのか……。
未婚のオメガと考えれば、確かに同じような存在かもしれない。
「あの方のお気持ちは、本当に友情なのでしょうか」
「それは……」
マーキングのとき、確かに艶めいた雰囲気はあった。
けれど最後までいやらしいことはされなかった。大事にされていると感じた。
いや、誰に対してもそうなのかもしれない……。誰のこともそういう風に大事にできるから、ミカエルはすごくモテるのかもしれない。学生時代の正門前の修羅場を思い出す。
でも、と思う。ミカエルに勇気づけられてきたことは真実だ。騎士を続けることも応援してくれている。俺たちは親友だという信頼がある。
「マイルズ先生。ミカエルは俺の尊敬する友人です。女性遍歴がよくないことは知っています。ですが……俺は彼に何度も助けてもらったんです。先生が心配なさっているようなことは起こりません」
「………そうですか」
納得する言葉とは裏腹に、マイルズ先生は無念な様子だった。
「一線を引くように注意だけはなさってください。それと――ジョシュア様の治療についてですが」
「あ、はい」
話題が変わって、頭が切り替わる。
「ラット誘発剤の治療は負担になりますので、週に一度ずつ行う予定です」
「……わかりました」
「ええ。それではまた来週お伺いさせて頂きます」
「よろしくお願いします」
マイルズ先生が帽子をかぶる。俺は玄関ホールへ向かって見送った。
応接間に行けばミカエルが待ってくれていて、ジョシュアの治療の話などを伝えた。
ミカエルはしっかり話を聞いてくれて、不安な気持ちを軽くしてくれる。
浮気性なのも確かだけれど、それでも女性にも男性にもすごく慕われていて、俺にとっては憧れの友人だと実感する。
*
翌朝、更衣室で白のスカーフをチェックしていると、ミカエルが現れた。
目が合った途端、幸せを噛みしめるような顔をする。
「……おはよう、ロイス」
「ああ、おはよう」
こんなに顔は初めて見たなと思った。
そして何故か、ミカエルの好みのタイプの話を思い出した。黒髪に青目。鏡に映っているのも黒髪に青目だ。これに意味があるのだろうか。
小さな窓から見える風景は薄暗く、小雨が降り出していた。
「あれ、ロイスさん雰囲気変わりました?」
「落ち着いたっていうか」
後輩たちがやってきて言う。
意味がわからず首を傾けていたけれど、ふと自分の匂いが香って気付いた。
ミカエルのムスクとウッディの香りは、ジョシュアよりも大人びた男性的な香りだ。その違いかもしれない。
「補佐官の貫禄ですかね?」
笑顔で言うのは後輩のフレデリックだ。俺は曖昧に微笑んで濁した。
みんなとなるべく距離を取った方が良さそうだ。しかし、この天気だと室内での稽古になるだろう。
雨の匂いでフェロモンの匂いもまぎれることを祈りながら、俺たちは更衣室を出た。
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