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本編
ムスクと甘い時間 6
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先生は静かに首を横に振るった。
俺は一気に意気消沈していた。
「お力になれず、申し訳ありません。薬を変えて再度治療する予定です」
「そ……う、ですか。ありがとうございます。よろしくお願いします……」
「……どうかお気を落とさないでください、ロイス様。ジョシュア様の年代ですとホルモンバランスが安定していませんし、一時的にフェロモンが消えることも時折あるのです。他にもストレスが原因の場合もありますので、自宅療養や湯治などで回復する可能性もあります」
希望が見えると同時に、ストレス、と聞いて身が引き絞られる思いがした。
痩せた状態で家に引き取られてきて、剣の稽古を祖父と俺にみっちり受けてきたのだ。社交界だって窮屈だっただろう。
不意に執事のノーマンが言った。
「貴族として暮らすだけでも気苦労でしょうに。家督を継ぐとなればさぞ重荷だったことでしょう……」
一瞬理解できなかったけれど、胸の中で反芻してから気付いた。
そうか、屋敷で日々の生活をしているだけでも弟にはつらかったのかもしれない。物心ついた頃から俺はこの暮らしをしていたけれど、弟には未知の世界だ。
いきなり生活が変わって、その上で重責を背負ったのだ。どれだけストレスだっただろう。
家督は権利だと思っていたけれど、弟には負担だったかもしれない。
ノーマンを見れば、労わるような様子だ。
当主として弟がふさわしくない、というような事を話していたけれど、それは弟を切り捨てたのではなく、背景を知った上での発言だったんじゃないか。
早計だったのは俺の方だったんじゃないか。弟と話がしたい。顔を見たい。
俺は先生を見上げた。
「ジョシュアは……今どういう状況でしょうか」
「お疲れになられて休んでおられます」
「顔を見て来ても?」
「ええ、お声をかけてみてください」
ふと強い視線を感じて、先生の背後にいるミカエルと目が合った。
俺を案じている様子なので、大丈夫と頷く。
弟のいる客間に行ってノックをすると、少し掠れた声で「はい」と返事があった。
「俺だ。具合はどうだ?」
「ん……平気だよ」
「顔が見たい。開けて良いか?」
「…………うん、どうぞ」
ドアノブを回せば、やつれた顔でベッドの端に座っていた。
ぐしゃぐしゃになったハンカチがあって、注目した瞬間、弟はそれを背中に隠した。
ハンカチの状態が弟の状態を表しているようでつらくなる。
どうにか勇気付けるように笑顔で言った。
「体に異常がなくてよかったよ。学校は休んでていいからな」
弟はふと真顔になった。
「――あれ、兄さん」
「ん?」
「なんでアルファのフェロモンなんて付けてるの」
その瞬間だった。
ゾッ……とするような圧力が放たれて、自分の喉から「ぁ、」と引きつった音が漏れた。
「これ……もしかして、ミカエルさんのフェロモンかな?」
「えっ……」
「兄さん、いやな目にあったんじゃない?」
「えっ……?」
「何? そんな顔して。ミカエルさんのフェロモンでしょう?」
「そう、だけど」
「つらいことされたんでしょう? がんばったね、兄さん。騎士を続けたいんだね……」
「いや、あの。何もされてない」
「どうして嘘つくの。あの人が兄さんに手を出さないわけがない」
「本当に何も」
「勤務が終わってからマーキングしてきたんでしょう? 短時間でこんなに濃い匂いはつかないよ。それとも……いやじゃなかったってこと?」
「あ……」
後ずさりかけて、口から咄嗟に言葉が溢れていた。
「仕事帰りだから。汗をかいてたから。だから早く済んだだけで――」
ただの出まかせだ。帰る時は、シャワー室で汗を流していた。
けれど弟は信じてくれたらしく、その瞬間力を抜いて虚脱した。
「ああ、そっか。うん……。安心した」
「……ジョシュア?」
「うん、大丈夫ならいいんだ」
上げられた顔は笑顔だったが、目が笑っていない。
「騎士も続けられるね。良かったね。本当に」
「……あの、ジョシュア。それより、無理して治療しなくてもいいんだからな」
「え?」
「家督も……その、いやだったら継がなくていいし……」
弟は疲れきった様子で首を横に振る。
「いやじゃないよ。それにちゃんと治療したいと思ってる」
「……うん」
そうだ、フェロモンが出ないままなんてつらいだろう。
力になってあげたいのに、俺はミカエルの匂いが気になって近寄れなかった。
ラットの作用で8時間も苦しんだみたいだけれど、客室には弟のバニラの香りは一切しなかった。
***
4/12幕完結です。
読んで下さりありがとうございます……!
お気に入りや感想で応援してくれると嬉しいです!
執筆のモチベーションになります!
よろしくお願いします!
俺は一気に意気消沈していた。
「お力になれず、申し訳ありません。薬を変えて再度治療する予定です」
「そ……う、ですか。ありがとうございます。よろしくお願いします……」
「……どうかお気を落とさないでください、ロイス様。ジョシュア様の年代ですとホルモンバランスが安定していませんし、一時的にフェロモンが消えることも時折あるのです。他にもストレスが原因の場合もありますので、自宅療養や湯治などで回復する可能性もあります」
希望が見えると同時に、ストレス、と聞いて身が引き絞られる思いがした。
痩せた状態で家に引き取られてきて、剣の稽古を祖父と俺にみっちり受けてきたのだ。社交界だって窮屈だっただろう。
不意に執事のノーマンが言った。
「貴族として暮らすだけでも気苦労でしょうに。家督を継ぐとなればさぞ重荷だったことでしょう……」
一瞬理解できなかったけれど、胸の中で反芻してから気付いた。
そうか、屋敷で日々の生活をしているだけでも弟にはつらかったのかもしれない。物心ついた頃から俺はこの暮らしをしていたけれど、弟には未知の世界だ。
いきなり生活が変わって、その上で重責を背負ったのだ。どれだけストレスだっただろう。
家督は権利だと思っていたけれど、弟には負担だったかもしれない。
ノーマンを見れば、労わるような様子だ。
当主として弟がふさわしくない、というような事を話していたけれど、それは弟を切り捨てたのではなく、背景を知った上での発言だったんじゃないか。
早計だったのは俺の方だったんじゃないか。弟と話がしたい。顔を見たい。
俺は先生を見上げた。
「ジョシュアは……今どういう状況でしょうか」
「お疲れになられて休んでおられます」
「顔を見て来ても?」
「ええ、お声をかけてみてください」
ふと強い視線を感じて、先生の背後にいるミカエルと目が合った。
俺を案じている様子なので、大丈夫と頷く。
弟のいる客間に行ってノックをすると、少し掠れた声で「はい」と返事があった。
「俺だ。具合はどうだ?」
「ん……平気だよ」
「顔が見たい。開けて良いか?」
「…………うん、どうぞ」
ドアノブを回せば、やつれた顔でベッドの端に座っていた。
ぐしゃぐしゃになったハンカチがあって、注目した瞬間、弟はそれを背中に隠した。
ハンカチの状態が弟の状態を表しているようでつらくなる。
どうにか勇気付けるように笑顔で言った。
「体に異常がなくてよかったよ。学校は休んでていいからな」
弟はふと真顔になった。
「――あれ、兄さん」
「ん?」
「なんでアルファのフェロモンなんて付けてるの」
その瞬間だった。
ゾッ……とするような圧力が放たれて、自分の喉から「ぁ、」と引きつった音が漏れた。
「これ……もしかして、ミカエルさんのフェロモンかな?」
「えっ……」
「兄さん、いやな目にあったんじゃない?」
「えっ……?」
「何? そんな顔して。ミカエルさんのフェロモンでしょう?」
「そう、だけど」
「つらいことされたんでしょう? がんばったね、兄さん。騎士を続けたいんだね……」
「いや、あの。何もされてない」
「どうして嘘つくの。あの人が兄さんに手を出さないわけがない」
「本当に何も」
「勤務が終わってからマーキングしてきたんでしょう? 短時間でこんなに濃い匂いはつかないよ。それとも……いやじゃなかったってこと?」
「あ……」
後ずさりかけて、口から咄嗟に言葉が溢れていた。
「仕事帰りだから。汗をかいてたから。だから早く済んだだけで――」
ただの出まかせだ。帰る時は、シャワー室で汗を流していた。
けれど弟は信じてくれたらしく、その瞬間力を抜いて虚脱した。
「ああ、そっか。うん……。安心した」
「……ジョシュア?」
「うん、大丈夫ならいいんだ」
上げられた顔は笑顔だったが、目が笑っていない。
「騎士も続けられるね。良かったね。本当に」
「……あの、ジョシュア。それより、無理して治療しなくてもいいんだからな」
「え?」
「家督も……その、いやだったら継がなくていいし……」
弟は疲れきった様子で首を横に振る。
「いやじゃないよ。それにちゃんと治療したいと思ってる」
「……うん」
そうだ、フェロモンが出ないままなんてつらいだろう。
力になってあげたいのに、俺はミカエルの匂いが気になって近寄れなかった。
ラットの作用で8時間も苦しんだみたいだけれど、客室には弟のバニラの香りは一切しなかった。
***
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