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本編
ムスクと甘い時間 1
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早朝の屋敷は、静謐な空気に包まれていた。
弟のいる客室の扉をノックしようとして、俺は一瞬躊躇した。
昨日の気まずい空気がよみがえる。
でも仕事へ行く前にしっかりと話をしておきたい。いま一番不安なのは弟なのだ。
手首を動かせばコンコン、とノックの音が響いた。
「はい」
起きていたらしく、芯のある声が返ってきた。
「――ジョシュア。話をしておきたくて」
「どうぞ」
もしかしたら昨日のことを怒っているかもしれない。
緊張しながら扉を開けば、弟は少し困ったような優しい微笑を浮かべていた。
「昨日はごめんね、兄さん」
「え」
「やつ当たりするような言い方をしちゃったでしょう」
俺は慌ててぶんぶん首を振った。
「いやっ、俺のほうこそ配慮がなくて……!」
「そんなことない。僕が悪かった。だから……気にしないでほしい。いつも通りにしてくれると嬉しいな」
「いつも通り」
ドキッと胸が鳴った。添い寝の件も赦してくれるのだろうか。
「うん、マーキングはできないけど、他はいつも通りに」
「……ああ」
内心でつい落胆した。だが弟が笑顔でいられるなら十分だ。
そして予定についても話す。
「マイルズ先生が診察に来てくれるから、学校は休んでいいぞ」
「ああ……主治医の」
「いい先生だよ」
弟は頷く。
「うん。そうだね。学校は休んで診てもらう。兄さんは仕事に行くの?」
「休む訳にはいかないから……。すまない、こんな時なのに」
「それはいいよ。騎士は兄さんの目標だもんね」
目標――その通りだ。でも弟を無下にしているようで気が引ける。
返答に詰まっていると、弟が思案気にする。
「でも……マーキングができてないし、周りに怪しまれるんじゃないかな」
「う、ん……だが補佐官になったところだし、休むと迷惑になるだろう。ユリウス隊長と距離を取ればフェロモンが漏れる事もないし、他の者とも距離をひらくようにして気を付ければいいかと……」
「……そっか。うん。気を付けてね」
「あと、白いスカーフを巻けば多少は誤魔化せるんじゃないか。匂いがしみ込んでるから」
「うん。そうだね。使って」
「じゃあ俺は仕事の用意をするから。朝食は一緒に食べられるか?」
「もちろん」
健気な微笑をされて、きゅっと胸が痛くなってくる。
ふと、サイドテーブルに置いてあるハンカチが目に留まった。
誕生日プレゼントとして贈ったときのまま丁寧に畳まれている。
匂いをつけて渡す、という約束の話を思い出したけれど、また昨夜の二の舞のように拒まれてしまうのが怖くて、口をつぐんだ。
*
玄関ホールを通ると、執事のノーマンが振り子時計のフタを開いていた。
「おはよう、ノーマン」
「おはようございます。今朝はお早いですね」
「ああ……それ、ネジ巻きか」
「ええ。古い時計ですので、毎朝こうしてネジを巻かないと時間が狂ってしまうんです」
「そうか」
ノーマンはフタを閉めると、温和に微笑んだ。
「朝食のご用意をいたします」
「うん、ありがとう」
「……あの、ロイス様」
ノーマンはわずかにためらった様子だった。
「どうした?」
「前当主様はご立派な方であらせられました」
「……うん、そうだな」
「戦の前線で戦っておられたので、大変な実力主義でございました」
「ああ」
「……しかし、血筋の存続も望んでおられたのです」
「――!」
それは初耳だった。
血筋を継ぐのは、俺だ。しかし遺言には弟に家督を相続すると書いてあった。
つまり祖父は、俺と弟の結婚を望んでいた、ということ……? 許嫁だったということなのか。
「ジョシュア様が家督を継ぎ、ロイス様がお支えになる。それが理想だったのでしょう」
「……」
「ですが、相続に条件をお付けになられました。それはつまり――ジョシュア様が条件を守れなかった場合、よりふさわしいアルファのお相手を婿に迎えられるようにお計らいなさった、ということです」
話を聞きながら、俺は胸騒ぎを覚えていた。
「ノーマン……。お前は……」
唾を飲んでから問うた。
「ジョシュア以外の者を婿に選べと、俺に言っているのか……?」
ノーマンは目を伏せる。
「……。フェロモンが出なくなるような事態を予期されていらっしゃれば、それも条件に書き加えられたのではないでしょうか」
「……フェロモンがなければ、当主になるべきじゃないと言っているのか」
「差し出がましいことを申し上げました」
ノーマンは深々と頭を下げた。
弟を切り捨てるような考えは許せない。
しかし初老の執事を咎める気にはなれず、俺はショックを覚えながら部屋に着替えにもどった。
弟のいる客室の扉をノックしようとして、俺は一瞬躊躇した。
昨日の気まずい空気がよみがえる。
でも仕事へ行く前にしっかりと話をしておきたい。いま一番不安なのは弟なのだ。
手首を動かせばコンコン、とノックの音が響いた。
「はい」
起きていたらしく、芯のある声が返ってきた。
「――ジョシュア。話をしておきたくて」
「どうぞ」
もしかしたら昨日のことを怒っているかもしれない。
緊張しながら扉を開けば、弟は少し困ったような優しい微笑を浮かべていた。
「昨日はごめんね、兄さん」
「え」
「やつ当たりするような言い方をしちゃったでしょう」
俺は慌ててぶんぶん首を振った。
「いやっ、俺のほうこそ配慮がなくて……!」
「そんなことない。僕が悪かった。だから……気にしないでほしい。いつも通りにしてくれると嬉しいな」
「いつも通り」
ドキッと胸が鳴った。添い寝の件も赦してくれるのだろうか。
「うん、マーキングはできないけど、他はいつも通りに」
「……ああ」
内心でつい落胆した。だが弟が笑顔でいられるなら十分だ。
そして予定についても話す。
「マイルズ先生が診察に来てくれるから、学校は休んでいいぞ」
「ああ……主治医の」
「いい先生だよ」
弟は頷く。
「うん。そうだね。学校は休んで診てもらう。兄さんは仕事に行くの?」
「休む訳にはいかないから……。すまない、こんな時なのに」
「それはいいよ。騎士は兄さんの目標だもんね」
目標――その通りだ。でも弟を無下にしているようで気が引ける。
返答に詰まっていると、弟が思案気にする。
「でも……マーキングができてないし、周りに怪しまれるんじゃないかな」
「う、ん……だが補佐官になったところだし、休むと迷惑になるだろう。ユリウス隊長と距離を取ればフェロモンが漏れる事もないし、他の者とも距離をひらくようにして気を付ければいいかと……」
「……そっか。うん。気を付けてね」
「あと、白いスカーフを巻けば多少は誤魔化せるんじゃないか。匂いがしみ込んでるから」
「うん。そうだね。使って」
「じゃあ俺は仕事の用意をするから。朝食は一緒に食べられるか?」
「もちろん」
健気な微笑をされて、きゅっと胸が痛くなってくる。
ふと、サイドテーブルに置いてあるハンカチが目に留まった。
誕生日プレゼントとして贈ったときのまま丁寧に畳まれている。
匂いをつけて渡す、という約束の話を思い出したけれど、また昨夜の二の舞のように拒まれてしまうのが怖くて、口をつぐんだ。
*
玄関ホールを通ると、執事のノーマンが振り子時計のフタを開いていた。
「おはよう、ノーマン」
「おはようございます。今朝はお早いですね」
「ああ……それ、ネジ巻きか」
「ええ。古い時計ですので、毎朝こうしてネジを巻かないと時間が狂ってしまうんです」
「そうか」
ノーマンはフタを閉めると、温和に微笑んだ。
「朝食のご用意をいたします」
「うん、ありがとう」
「……あの、ロイス様」
ノーマンはわずかにためらった様子だった。
「どうした?」
「前当主様はご立派な方であらせられました」
「……うん、そうだな」
「戦の前線で戦っておられたので、大変な実力主義でございました」
「ああ」
「……しかし、血筋の存続も望んでおられたのです」
「――!」
それは初耳だった。
血筋を継ぐのは、俺だ。しかし遺言には弟に家督を相続すると書いてあった。
つまり祖父は、俺と弟の結婚を望んでいた、ということ……? 許嫁だったということなのか。
「ジョシュア様が家督を継ぎ、ロイス様がお支えになる。それが理想だったのでしょう」
「……」
「ですが、相続に条件をお付けになられました。それはつまり――ジョシュア様が条件を守れなかった場合、よりふさわしいアルファのお相手を婿に迎えられるようにお計らいなさった、ということです」
話を聞きながら、俺は胸騒ぎを覚えていた。
「ノーマン……。お前は……」
唾を飲んでから問うた。
「ジョシュア以外の者を婿に選べと、俺に言っているのか……?」
ノーマンは目を伏せる。
「……。フェロモンが出なくなるような事態を予期されていらっしゃれば、それも条件に書き加えられたのではないでしょうか」
「……フェロモンがなければ、当主になるべきじゃないと言っているのか」
「差し出がましいことを申し上げました」
ノーマンは深々と頭を下げた。
弟を切り捨てるような考えは許せない。
しかし初老の執事を咎める気にはなれず、俺はショックを覚えながら部屋に着替えにもどった。
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