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二人の先輩
しおりを挟む触られた衣服などの検査が終わると、警察署に迎えにきてくれたユースの保護者の車で寮に帰った。
寮のロビーに入るとチームの監督が待っていて、ほっとした顔で「無事で良かったよ」と声をかけてくれる。アズサも別の意味でほっとした。多分、そこまで大事にはなっていない。
母とは電話で話して、「心配かけないでよ、アンタ大丈夫なの」と心労のにじんだ声を聞いた。「ごめん、おれは何ともないよ」と笑顔で繰り返したけれど、優しい声を聞くと何故か胸が張り裂けそうになってしまって、震えそうになる声を抑えようと必死になった。
翌日、警察署で詳しい事情聴取を行った。
その後も弁護士との面会などがあって、落ち着かない日々が続いていく。
けれど一週間もすれば、サッカー漬けの日々が戻ってきた。
先輩の橘はあれから、事件について徹底的に触れてこない。ポジションが近くて自主練に付き合ってくれる事もあるのに、意図的に話題を避けているかのようだった。
腫れ物扱いってこういう感じなのかな、と思う。
かたや栗原はプロ入りに向けて忙しい様子で、同じ寮で暮らしていてもほとんど関りがなく、アズサは安堵していた。
「眠れないのか?」
不意に声をかけられて、アズサはソファに座ったまま小さく飛び跳ねた。廊下に立っているのは栗原だ。
深夜の談話室は消灯済みで、唯一光源になっている自動販売機がヴーンと音を立てている。栗原はミネラルウォーターを買うと、軽く口をつけてから改めてアズサの顔を眺めた。
「目の下、隈ができてる」
それは、思ったことをありのまま述べただけのようだった。淡々としていて変に気遣う様子がないのはありがたいけれど、眠れない理由には踏み込まれたくなくて、アズサは口をつぐんだ。
あの日以来、深夜に悪夢を見て飛び起きることがある。
うなされて同室の相手にも迷惑をかけてしまっている。
寝不足で練習にも集中できず、誰かと接触するたびに恐怖が肌を這いあがってくる。
そして今も、眠りにつくのが怖い――。
「事件が原因だろ。カウンセリングは受けてないのか?」
問題があればプロフェッショナルに相談するという考えは、いかにも彼らしかった。未来の遠くを見通している彼は、その能力に長けていたからこそプロ入りをもぎ取ったのだ。
しかしアズサは、力なく微笑みながら首を横に振った。
「そんなのしなくても平気です」
被害者向けのカウンセリングがあることは知らされているけれど、実家が母子家庭で使えるお金が無い。それに、これ以上事を大袈裟にしたくも無かった。
すると栗原の目が冷えていく。
「おまえ、こんなことで潰れる気か?」
「まさか。潰れないっすよ」
小さく笑えば、栗原は低く言った。
「時間の無駄だな」
瞬間、見切りをつけられたような気がして、アズサの胸は鋭く痛みを放った。
悲しさがあるけれど、早くこの話題から解放されたい気持ちもある。話は終わりだ。
しかし、そういうアズサの予想に反して、栗原は視線を遠くして述べた。
「こういうトラウマって。確か、慣らしていけばいいんだっけ……」
「え?」
「ネズミの恐怖症の人がさ。オモチャのネズミを撫でていくうちに慣れたって言ってたんだ、テレビで」
「……はぁ」
栗原はどこまでもマイペースだった。「試してみるか」と言って歩み寄って来ると、飲み物をテーブルに置き、ソファの真横に座ってくる。
何をする気なのかわからず見ていると、「やらないのか?」と促してくる。
「あ、あの?」
「慣れればいいんだろ? ハグしてみればいい」
腕を大きく開げ、実行しないほうがおかしいという顔をする。アズサはその提案にも、栗原がハグの役を買って出てくれたことにも驚いた。
拒否する上手い理由も思いつかなくて、しばし困惑する。栗原は両腕を開いたまま待っている。仕方なく、戸惑いつつ腕を回してみた。
すると同じタイミングで栗原に抱き返されて、「ッ」と腰が引けかける。
「怖いか?」
「へ……平気、です」
本当は怖いけれど、我慢できる範囲だ。
「続ければ慣れてくだろ、多分」
「う……ん」
体はぎくしゃくと強ばっていて、一分・二分と経ってもアズサの心拍は上がったままだった。本当に慣れるのかな、と不安に思ってしまう。
そうして5分ほど経った頃だろうか。すう、すうと穏やかな吐息が聞こえてきて、アズサはぎょっとした。まさかだけれど、この状況で彼は眠ってしまったらしい。寝息は規則的で、体温は温かくて心地いい。
だんだんアズサは、緊張している自分がバカらしくなってきた。
「あの。栗原さん、寝るんなら部屋に戻った方がいいですよ」
ポンポンと背中を叩けば、目を覚ました栗原が「あ」とやらかしたような顔をしていて少し面白かった。
◇
その日から人目をしのいで抱きしめてもらうようになり、効果は徐々に表れてきた。
夢の中であの日を再現するように襲われる事があるけれど、すぐに優しい温もりが助けに来てくれる。練習の紅白戦中、集団でせり合いになってもほとんどたじろがなくなった。寝不足もかなり解消している。
「――戻ってきたな」
河原で自主練している最中、指導してくれていた橘がふと呟いた。何の話? と思って顔をあおげば、「余計なことを口にした」と言わんばかりに顔を背けてしまう。
そこで、アズサはピンと来た。
「戻りますよ。サッカーやりたいもん」
心に余裕ができてきたようで、この話題をされてももう揺らがない。心配してくれてたんだなぁと素直に思えるし、怯えていた気持ちも受け止められる。
満面の笑顔を向ければ、橘は居心地悪そうに眉を寄せた。
「……今日はもうやめだ」
「えっ?! まだ少ししかやってないじゃないですか!」
「味方のスカウティングでもしてろ」
取り付くしまもなく歩き出してしまい、急いで追いかける。けれど「戻ってきた」とお墨付きももらったおかげで、足取りは軽い。
ぴょこぴょこと小走りしながら、調子が良くなってきた実感を噛みしめる。
そしてアズサという人間は、目的のためなら手段を問わない人種だった。
「あの! 橘さん、俺のことハグしてくれませんかっ?」
「……あ”?」
「最近、栗原さんにハグしてもらってるんですよ。そしたら調子良くなってきて。だから、みんなにハグしてもらったら、もっと良くなるかなって!」
そこで、橘の足がピタリと止まった。
「え、橘さん?」
橘は無言のまま凄味のある顔をしている。かと思えば大股で歩き出してしまい、アズサは「ちょ、ちょっと待って!」と慌てて追いかけた。
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