燦燦さんぽ日和

加藤泰幸

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虹の卵編

最終話/卵の中身(前編)

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 嵐が、段々と酷くなっているような気がする。
 風雨の吹き荒れる兄花島を、センダン、ミクリと共に歩くヒロは、度々そのような事を考えていた。
 つぶての如く降り注ぐ雨は痛いし、気を抜けば風に足元をすくわれて転びそうだ。
 それが酷くなっているというのは錯覚かもしれない。
 長時間、嵐の中に身を晒しているから、体力の減少を嵐の悪化のように感じているのかもしれない。
 だが、嵐が酷くなろうと、体力が減少していようと、同じ事。
 いずれにしても、好ましい状態ではない。
 特に、まだ十六歳のミクリにとっては過酷な状況だ。


「ミクリちゃん」
 前を歩くミクリの名を短く呼ぶ。
 僅かに速度を緩めながら振り向く彼女の表情には、未だに気力が満ちている。
 とはいえ、懸念している事は聞かなくてはならない。
「辛かったら、少し休んでも構わないからね」
「ううん。まだいける」
 予想通りの返事。
「無理をしてミクリちゃんまで怪我をしたら、元も子もないよ。本当にいける?」
「うん。辛くなったらちゃんと言うから。ありがとう、ヒロ」
 覇気のある声でそう告げたミクリは、口の端を上げてみせた。
 その笑顔に安堵を覚え、同時に少々の違和感も感じる。
 この信念を持った純粋な顔が、本当のミクリだとは思う。
 だが、ヒロには未だに、笑わないミクリのイメージが残っている。



(まあ、そのうち慣れるか。それより今は……)

 気を取り直して、前を向く。
 まだ歩き出して三十分で、観光地区を出たばかり。
 周囲からは民家が姿を消し、その代わりに左手には林が視界の限界まで延びている。
 ヒロ達は林沿いに歩いている為に、林は雨よけとして役には立っているのだが、風が木々の葉をざわめかせる度に、不安に煽られてしまう。
 右手に延々と広がっている荒れ狂う海や、空一面を覆う黒い雨雲も、同じようにヒロの心中を荒立ててくる。
 無事に、居住地区まで辿り着けるだろうか。
 着いたとして、医者を呼んでくる事ができるだろうか。
 ミクリの父は、命に別状はないと言っていたが、本当に大丈夫なのだろうか。
 考えれば考えるほど、マイナス要素が湧き出てくる。
 それを必死に、思考の隅に追いやりながら、ヒロは歩き続けた。
 今は、とにかく歩くしかない。
 サヨコの為に、歩き続けるしかないのだ。



「わわっ!」
 不意に、ミクリが慌てた声を出した。
 反射的にミクリを見ると、足を滑らせたのだろうか、彼女が後方へと転倒しようとしていた。
 後頭部を打つ。
 その一言が脳裏をよぎった。
 だが、その瞬間にはもう、ミクリの体は大きく傾いていた。
 今から手を差し伸べても、間に合わない。
 瞬間、駆け巡った戦慄に体を震わせる事しかできなかったが……ミクリの体は、倒れなかった。
 ヒロとミクリの間を歩いていたセンダンの手が、しっかりとミクリを抑えていた。


「ミクリちゃん、怪我は!?」
 抱きかかえたままで、センダンが慌てて尋ねる。
「滑っただけだよ。捻ったりしてないから大丈夫」
「でも……」
「本当に大丈夫だよ。ありがとう」
 明るくそう言って、ミクリは体を起こした。
 その様子にヒロは胸を撫で下ろしたが、すぐに、その安堵に次への保障がない事に気がつく。




「嵐が酷くなったのか、僕達が疲れているのか……。
 どちらにしても、ちょっと危なくなってきましたね」
「うん。そうね……」
 センダンも相槌を打ち、表情を曇らせながら周囲を眺める。
 それでも、前に進むしかない。
 それが分かっているだけに、やり場のない不安は一層募る。

 センダンとミクリを見れば、当然ながらずぶ濡れで、髪がぺたりと肌に張り付いていた。
 尋常ではない事をしていると、今更ながらに自覚する。
 体を打つ雨が、また強くなったような気がした。
 この先、大丈夫なのだろうか……。


「大丈夫だよ!」
 ミクリが大きな声を出した。
 心中を読んだかのような一言にはっとして、ミクリの顔を見る。
 彼女もまた、まっすぐにヒロとセンダンを見つめていた。
 吐かれる吐息は、少しだけ荒いような気がする。

「大丈夫。気をつければ、絶対大丈夫。
 だから行こう。サヨコを助けないと」
「………」
 少女の気持ちに、ヒロとセンダンは暫し言葉を失う。
 気をつければ、絶対大丈夫。
 脆弱な根拠の上に立つ保障だ。
 その保障に背中を押されるだけで、この少女は歩く事ができる。
 それだけ、ミクリにとってサヨコは大事な存在なのだろう。
 ならば。
 ヒロの答えは一つしかない。
 やはり、歩くしかない。
 自分はともかく、センダンとミクリが怪我をする事のないよう、細心の注意を払って歩くしかない。
 それが、ヒロのミクリに対する想いであり、もちろんサヨコに対する想いでもある。



「……行くしかないわね」
 センダンがにやりと笑った。
 おそらくは、似たような事を考えたのだろう。
 ヒロもしっかりと頷いてみせると、ミクリは顔を輝かせた。

「……ありがとう。二人とも」
「何言ってるのよ。ほら、もう転ばないようにね」
「疲れていなくても、途中途中で休憩を挟んでいこう。確実に行こうね」
 二人の言葉に、ミクリは力強く頷いた。
 それから、前を向いて、また先行して歩き出す。
 その足取りを頼もしそうに眺めながら、ヒロ達も続いて歩いた。

 ……だが、前を行くそのミクリの足は、すぐに止まってしまった。





「どうしたの、ミクリちゃん」
 立ち止まったミクリに、ヒロが声を掛ける。
 だが、ミクリは何も言わない。
 口をつぐんで、自分達の行く先を見つめている。
 彼女の視線を追うと、その先に進むべき足場は……見えなかった。
 暗闇に隠れていて、見えないのではない。

 川を跨ぐ木製の橋が、落ちていた。










 燦燦さんぽ日和

 最終話/卵の中身










「橋が、落ちてるの……?」
 最初に口を開いたのは、センダンだった。
 先の足元に視線を向けながら、やっと捻り出したその声には、微かに震えが感じられる。

 川幅20メートルのこの場所には、木製の橋がかかっていたはずだった。
 そう古い橋ではなく、馬車で通過しても不安を覚えるような事はない、しっかりとした作りの桁橋。
 だが、その感覚は誤りだったのだろう。
 今、眼前には、あるべきはずの橋がない。
 正確には、橋台や、手前と奥の主桁は少々残っているものの、主桁の中央の大部分が折れたように抜けている。
 その抜け幅は10メートル強といった所だろうか。
 言うまでもなく、跳躍して越えられる距離ではない。
 視線を更に下に向ければ、増水した川が海同様に激しくうねっている。
 泳ぐのもまた自殺行為に等しい。
 風の音が、はっきりと聞こえてくる。
 橋は、この風でやられてしまったのだろう。
 絶望。
 その言葉が、浮かび上がってきた。

「迂回はできる?」
 ミクリが一歩前に踏み出ながら呟いた。
「山を通れば……多分三時間オーバー位になるわね」
 ミクリの言葉にはセンダンが答えた。
 だが、教えてしまえば、ミクリが次に言い出す事に予測はつく。
 ヒロは、慌ててセンダンの言葉に補足をした。

「でも、駄目だよ。この嵐の中じゃ危険すぎる。
 島の北側から大きく歩道を迂回すれば、少しは危険性も減るけれど……」
「……二人とも、ありがとう。
 北側から迂回すれば、十時間位かかりそうで、流石に厳しいね。
 山も絶対に駄目なら、答えは一つか……」
 ミクリが、また一歩前に足を踏み出す。
 ヒロは、すかさずその前に回りこんで、力強くミクリの両肩を握った。


「ミクリちゃん、駄目だ!」
「駄目って、何が」
「泳いででも渡るつもりだろう!? 絶対に駄目だ!!」
「なんで駄目なの!?」
 ミクリは、叫んだ。
 強引にヒロの両手を振り解き、物怖じせずにヒロに突っかかってくる。
 目には、めいいっぱい涙を溜めていた。

 それだけ、この少女にとってサヨコは大事な友人だったのだ。
 その涙に、胸が熱くなるのを覚える。
 それでもミクリを行かせるわけにはいかなかった。
 サヨコの事も、心配だ。
 だが、まずはミクリを落ち着かせなくてはならない。



「決まってるじゃないか! 嵐の川なんか泳いだら、絶対に溺れる!」
 ヒロも、ミクリを強く見据えながら答える。
「そんなの、やってみなくちゃ……」
「ミクリちゃん!!」
 ヒロは声を張り上げた。
 もはや、怒鳴り声と言って良い位かもしれない。

「う、うあ……」
 その声が、引き金になったのだろう。
 ミクリの目からとうとう涙が零れ落ちた。
 ぽろぽろと、止め処なく大粒の涙が溢れている。
 彼女はその涙も拭わず、それでもイヤイヤと言わんばかりに、頭を左右に振った。


「えっぐ……でも、でも、サヨコが……サヨコがぁ……!」
「それは分かってるわ」
 センダンが、ミクリの傍に近寄ってきた。
 背後から、そっと包み込むようにしてミクリを抱きしめる。
 ミクリを包んで交差したセンダンの腕は、激しく震えている。
 その震えを押さえつけるように、センダンは、抱きしめたミクリを強く引き寄せた。

「でも、ミクリちゃんが川に流されちゃったら元も子もないの!」
「……セン、ダン……」
「お願いだから、ミクリちゃん……その先は駄目……!」
「………」
 ミクリは、口を噤んだ。
 自分を抱きしめるセンダンの手に、そっと触れる。
 顔を伏せて、暫くそのままで動こうとしなかった。
 そうしている間にも、風雨は容赦なくヒロらに襲い掛かる。
 遠い海上からは、鋭い雷鳴が聞こえてきた。
 絶望の二文字が、また浮かび上がる。
 一体、どうすれば……。




「……家族、なんだ」
 ミクリが沈黙を破った。
 センダンの腕をそっと外しながら、小さな声で呟く。
 耳を澄まさなければ、嵐の音に掻き消されてしまう声だった。


「……ヒロとセンダンは、他人同士なのに、互いを家族のように思っている。
 それって……とても素敵な事だと思う……」
「………」
 まだ俯きながら、ミクリは言葉を続ける。
 ヒロとセンダンは、黙ってその言葉を聞いた。

「その事に気がついた時、世界が明るくなったんだ……。
 私にも、同じような人が沢山いる。
 お爺ちゃんに、スラムの人達、兄花島の人達……。
 もちろん、ヒロやセンダンだって、それには含まれている」
「………」
「そして、サヨコも。
 だから……私にとって、サヨコは家族みたいなものなんだ……。
 だから……だから……」

 ミクリが、顔を上げた。
 真っ赤に泣き腫らした顔を、恥じる事もなくヒロ達に向かって晒す。
 ヒロは、酷く狼狽した。
 この少女は。
 この少女の心中には。
 これ程までに。
 これ程までに熱い感情が宿っていたのだ。


「だから、絶対にサヨコを助けないといけないの!!
 サヨコーーーーーーーーーーっ!!!」
 ミクリが咆哮する。
 やり場のない感情を、爆発させる。


 ――その時だった。

 ミクリのポケットが輝いたのは。







 ◇







「え……?」
「なに、これ?」
 ヒロが、センダンが、目を丸くする。
 そして、その二人よりもミクリ自身が、言葉を失って自分のポケットを見下ろす。

 ポケットの輝きは、眩さを感じる程のものではない。
 だがその代わりに、光が届く範囲は広く、ヒロやセンダンの周囲までが明るく照らされた。
 暗い嵐の中に咲いた一輪の花のような輝き。
 不安な心に暖かさをもたらしてくれるような輝き。
 一体、これは何なのだろうか。
 そう思うのと同時に、その光源が、ひとりでに浮遊してポケットから出てくる。
 流石に直視すると目が眩むが、それでもその光源の正体を視認する事が出来た。



「……!」
 ヒロは、一瞬、呼吸を忘れる。
 光源の正体は、虹の卵だった。
 卵は、ヒロでも手の届かない高さまで浮かび上がると、唐突に左右に振動を始めた。
 何かを引っ掻いたような音が聞こえ、卵の表面には小さなひびが浮かび上がる。
 次第に、その震動とひび割れは大きくなっていった。
 
「ヒ、ヒロ君、これって……」
 同じく卵に視線を奪われたセンダンが狼狽した口調で言う。
 ヒロは、卵から視線を切らずにただ頷いた。

 卵が、孵る。

 ずっと正体が分からなかった卵が、今、孵ろうとしている。
 何故、このタイミングで。
 その疑問を反芻する暇もなく、卵のほぼ全体がひびで覆われた。
 そのひびからは、一層強い光が飛び出す。
 直視が難しくなってきたが、それでも卵を見上げ続けた。
 殻がはげ落ち、光は増し、
 そして……
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