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虹の卵編
第二十五話/センダンが休んだ日(後編)
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三月は、献立に少しばかり苦労する時期である。
旬の魚介類は、決して少なくはない。
アサリにハマグリ、ヤリイカ、ニシンにマダイに、サワラ等も美味しい時期だ。
問題なのは、パンチ力。
宿の料理のメインディッシュとして食べるには、味はともかく、満足度に欠ける魚が多いのである。
結果として、この時期はマダイを取り扱う事が多い。
今日の宿泊客は、全員初めての客なので、過去の料理との重複を気にする必要はなかった。
それに、ヒロも扱い慣れている魚の為、調理にそれ程時間を要さないという利点もある。
この日は瑞々しい野菜も多く手に入った為に、鯛の柚子鍋をこしらえる事にした。
無論、まだ陽も暮れていないうちに煮るわけにもいかないので、今できる事は食材の準備が主だ。
まずは野菜を全部刻んでしまう。
長ネギ、青ネギ、春菊、白菜、ニンジン、シイタケ、エノキダケ。それから忘れず柚子。
まな板で台所の音を奏でながら、何の問題もなく全部切ってしまう。
鯛の柚子鍋の本番は、この次だ。
「ヒロ。鯛はお前が捌くか?」
同じく野菜を切り終えたウメエがそう聞いてくる。
ウメエが捌いた方が早いし、綺麗に切れる。
それでもそう聞いてくるのは、せっかくなので経験しておくか、という事だろう。
過去にも何度か作った事がある料理だが、だからといって完全に自分のものにしたわけではない。
ヒロが頷いて返事をすると、ウメエは真鯛が入ったザルを寄越し、自分は海老やハマグリの調理に取り掛かった。
「さてと」
一つ大きな息を吐いて、眼下の鯛を見る。
鱗は事前にゴウの店で削られているので、一番面倒な作業はせずに済む。
まずはエラを切り落とし、次に腹に包丁を入れた。
透き通るような身を見ていると、思わず、鍋の中で煮立つ切り身を連想してしまった。
食材を芯まで暖めるくつくつという音。
鼻を突き抜けるような柚子の香り。
鍋の中に隙間なく詰められた新鮮な食材。
そして、それを囲む人々と賑やかな食卓。
昼食を食べて間もないのに、腹が減り始めた気さえする。
「……おっと」
思わず、空いている手で自分の頬を叩いて正気に戻った。
調理は、時としてこれがあるから困る。
気を取り直して、腹の中から丁寧に内臓を取り出せば、もう後はそれ程難しくはない。
頭と尾がちぎれないように三枚におろして、ひと段落である。
後は味をつけて、身を食べやすい大きさに切るだけ。
それを三組分、すなわち三匹捌けば、鯛の調理は終了となる。
「そっちはどうだ?」
ウメエが様子を見に来た。
答える前にウメエの調理台を覗いてみれば、腸が除かれた海老と、砂出しの最中であるハマグリが置かれている。
ヒロが一匹片付けないうちに、自身の作業を殆ど終えているのだ。
内心では舌を巻きながら、ヒロは肩を竦めてみせる。
「まだまだ、これからだよ」
「そうかい」
自分で聞いておきながら、ウメエは興味がなさそうに鼻息を漏らした。
付近にある椅子にどっしりと腰を下ろし、珍しく温和な表情でヒロを見上げてくる。
「なあ、ヒロ」
「うん?」
「最近、仕事は順調か?」
「順調だと思うよ。昨年の竜伐祭から、お客様は増えているし」
「いやぁ、そういう事ではない」
ウメエがゆっくりと告げる。
普段から早口気味の祖母にしては、随分と落ち着いた口ぶりだ。
ヒロは包丁をまな板に置いて、ウメエに向き直った。
「じゃあ、どういう事? 鯛の事ならまだまだだよ」
「その事でもない。お前の気持ちの事だ」
「気持ち……?」
ウメエの言葉を繰り返しながら、言葉の意味を考える。
要するに、仕事には慣れたか、楽しいか、という事を聞かれているのだろうか。
だとしたら、随分と珍しい質問だ。
これまでウメエから、仕事に対する個人的な感想を聞かれた事はなかった。
これでも、自分の事を気にかけてくれているのだろうか。
そうであれば、幸せな事だ。
普段から聞かれない事等、どうでも良い。
今、こうして聞かれているだけで、ヒロは胸が暖かくなった。
「……うん。楽しいよ」
ヒロは本音を口にした。
「たとえ一日限りのお客様でも、充実した時間を過ごしてもらえるように取り組む仕事は、やり甲斐があるよ」
「ふむ」
「職場環境も良いしね。ゴウ君のお店は良い魚を提供してくれるし、
ベラミさんのいるギルドとも、観光面で連携が取れている。
困った時には、今日みたいにお婆ちゃんや周りの人が助けてくれる。
お給料は、ちょっとばかり少ないけれどね」
「まあ、そうじゃな」
「それに……センダンさんがいる」
そう言って、センダンの顔を思い出す。
浮かんできた顔は、腹痛に歪む顔だったが、とにかく思い出す。
「自分でも正反対な性格だと思うけれど、センダンさんとは不思議と馬が合うよ。
それに、一緒に働いていると、元気を分けて貰っている気がする。
一緒に長く暮らしているからかな。家族みたいな気さえするよ」
それも、本音だった。
彼女の存在は、いつの間にか、自然なものにさえ感じられる。
こうして口にするのは少々恥ずかしいが、それでも胸を張って言えた。
「……そうじゃな。ワシもあの子の近くにいると、若返った気がする」
ウメエが、口の端をにやりと歪ませる。
ウメエとセンダンが、好印象を抱きあっているのは、なんだか嬉しかった。
「楽しい事が好きな人だから、無意識のうちに、その楽しさを周囲にも振りまいているんだろうね」
「まあ、そんな所じゃろうな」
ウメエはそう言って立ち上がった。
緩慢な動きで、壁の向こうにあるセンダンの部屋の方をまた向く。
五秒か、十秒か、それなりの時間、祖母はそうしてセンダンがいる方を見続けた。
早く元気になってほしい、とでも思っているのだろうか。
その気持ちは、ヒロも同様である。
センダンの無駄な元気は、自分にとっては、無駄だけれども必要な元気になっていた。
そう感じるようになったのは、いつ頃からだろうか。
「……ヒロ。魚はよ捌かんかい」
ヒロの方を見ずに、背中越しにウメエが言う。
「あ、うん」
ヒロは、癖になっている間の抜けた返事を返した。
◇
夕食の配膳を終えたヒロは、フロントで待機する事にした。
夜の仕事は、フロント業務の他にも、共有区画の掃除、食器の回収と皿洗い、それに朝食の仕込みが残っている。
だが、夕食を作り終えたウメエが祖父の介護で帰宅した為に、普段同様に残りの仕事を簡単に捌くのは困難だ。
とりあえずは人が欠かせないフロントに就いて、この後の仕事の順序をノート上で整理する。
「ええと……食器の回収は不可欠だけれど……
皿洗いと仕込みは、時間をずらしてフロント受付終了後にすればなんとかなるか」
ぶつぶつと呟きながら、リストアップした作業の横に時刻を刻む。
「掃除は……騒がしくなるかもしれないし、明日早起きしてやろうかな。
ただ、僕が夕食を食べる時間はないか。
センダンさんがいないと、随分としんどくなるなあ」
「あ。やっぱりセンダンさん、休んでるのか」
「!?」
突然、男の声がした。
びっくりしたヒロが顔を上げると、予想もしていなかった者が三名、そこにはいた。
サヨコとベラミ、そして声の主のゴウである。
皆、土間で靴を脱いでフロントの中にまで入ってきている。
ヒロはそれに全く気がつかなかった。
「皆、いつの間に入ってきたの?」
「土間から何度も声かけたぞ。お前が熱心に書き物していて気がつかなかっただけだ」
ゴウがそう言うと、左右のベラミとサヨコも同調して頷く。
ヒロは酷く赤面しながら、ノートを畳んで受付台の隅に移した。
「えっと……こんばんわ」
「おう」
「で、三人揃って、一体どうしたの?」
「どうって、センダンさんの様子を見に来たんだよ。体を壊したんだろ?」
「そうだけれど……」
ヒロはきょとんとした表情で、三人の顔を見回す。
ゴウの店で魚を買った時にはその事を話していないし、他の二人とは今日は顔も合わせていない。
どうしてその事を知っているのだろうと不思議に思っていると、意を察したのか、サヨコが一歩前に出た。
「ウメエさんが、ついさっき、私達の家に来て教えてくれたのよ」
「お婆ちゃんが?」
意外な名前が出てきた。
帰宅する途中で、寄り道して伝えてくれたのだろう。
「で、センダンさんの様子はどうなの?」
「センダンさんが休んでいると、お前も大変だろうしな……」
「海桶屋さんも活気がなくなっちゃうよねぇー。それどころか、ただ店員さんが怖いだけのお宿になっちゃうよー」
「………」
ヒロはもう一度、今度は三人をしっかりと観察するつもりで顔を見回す。
サヨコは、不安の色を明確に浮かばせていた。
ゴウも、サヨコ程はっきりと心配はしていないが、真剣な目付きをしている。
ベラミだけは、いつも通りの眠そうな顔付きだ。
でも、彼の猫耳は、過敏に店奥の音を聞き取ろうとしている。
皆、そこまでセンダンの事を心配してくれていたのだ。
まるで自分が心配してもらったかのように、ヒロは嬉しくなった。
「……皆、ありがとう。
花粉症はどうしようもないけれど、腹痛はもうじき治るんじゃないかな。
今日はお客様もいるから、私用で中に入ってもらうのはまずいけれど、皆が来てくれた事は伝えておくよ」
「そうかい。それじゃー……」
ヒロの言葉に反応したのはベラミだった。
よく見れば、彼は手に紙袋を持っていた。
片手でも持てるサイズの紙袋だったが、彼がそれを受付台の上に置くと、ドスン、という鈍い音がした。
中身は、それなりに重い物のようである。
「これ、僕達からのお見舞いの品だよー」
「お前からセンダンさんに渡しといてくれよ」
「急だったから、家にあるような物しか持ってこられなかったわ。ごめんね」
「お見舞いまで……わざわざありがとう」
三人に深々と頭を下げる。
感謝の度合いを示すように、長く下げ続けた頭をゆっくりと起こすと、眼前に紙袋がもう一つ増えていた。
「……こっちは?」
「これはヒロちゃんに。自分のご飯を用意する暇もないだろうと思って。
菓子パンしか用意できなかったけれど、それでも良ければ」
サヨコが、そう言って小さく微笑んだ。
何から何まで、痛み入るという他ない。
改めて感謝の言葉を述べようと、ヒロは口を開きかける。
ぐぎゅ~~~っ
だが、それよりも一瞬早く、ヒロの胃袋が返事をした。
四人とも、思わず、狐につままれるような表情を浮かべる。
一瞬の沈黙。
その沈黙が、誰からともなく立てた笑い声によって破られるのは、ほんの数秒後の事であった。
◇
フロント受付終了後、ヒロは残務に移る前にセンダンの部屋をノックした。
入室許可の言葉が聞こえてきたので中に入ると、どてらを纏ったセンダンが布団から抜け出そうとしていた。
「ああ、無理しないで大丈夫ですよ」
手を前に突き出してそれを制する。
センダンは小難しい表情をしたが、結局は立ち上がらずに、上半身を起こすに留めてくれた。
彼女の顔色は少々マシになっているが、口にはマスクを付けている。
やはり、花粉症は短期間で治せるものではないようだ。
これは、もう暫くウメエに助けてもらわないといけないかもしれない。
そんな事を考えながら、センダンの傍で、足を広げ気味で正座する。
「ヒロ君、今日はごめんね」
先にセンダンが謝ってきた。
「何言ってるんですか。体調を崩した時くらい、しっかり休まないと」
「でもさあ」
「それに、今更しおらしくなるなんて、ガラじゃないでしょうに」
「むぅー。でもヒロ君だって大変でしょう?」
「……家族みたいなものなんですから、こういう時くらい、頼って下さい」
言っている途中で恥ずかしくなって、視線をつい外してしまう。
だが、それを言葉にせずにはいられなかった。
ウメエや、ゴウらと話した事で、センダンの掛け替えのなさを再認識したからかもしれない。
「……そうね。そうさせてもらうわ」
センダンの返事は、どこか弾んでいるように聞こえた。
彼女から視線を外しているので、その表情まで読み取る事はできない。
だが、気分を害したような事はなさそうである。
「ところで、病気の調子はどうですか?」
先程の発言を誤魔化すように尋ねる。
「腹痛は、もう大分良くなったかな。一晩眠れば完治すると思うわ」
センダンは淡々と言う。
どうやら、無理はしていないようだ。
「花粉症の方は」
「そっちは相変わらずねえ。仕事、どうしようかしら」
「無理だけはしないで下さいね。食欲は?」
「多少はあるけれど、今日は物食べるの止めとくわ」
それが無難だろう。
サヨコから貰った菓子パンを、センダン用にと一つ残していたが、それを勧めるのは止める。
その代わりに、三人から貰った見舞いの品入りの紙袋を差し出した。
「あら、これは何?」
「ゴウ君と、サヨちゃん、あとベラミさんがお見舞いに来たんです。
これはそのお見舞いだそうですよ」
「へぇー。治ったらお礼しなくちゃね。早速開けてみるわ」
センダンは嬉しそうにそう言って紙袋を開封し、中に手を入れた。
ヒロは、中には何が入っているのか見ていないし、聞いてもいない。
中身はヒロも気になっていたので、身を乗り出すようにして紙袋を覗く。
「まずは……ああ。ああ」
センダンの声が途端に曇る。
中から取り出されたのは、パック詰めの餅だった。
誰からのお見舞いなのか、一目瞭然の一品である。
「……治ったら、食べたらどうです?」
「まあ、味は悪くないからねえ」
乾いた笑いを浮かべながら、彼女は餅パックを畳の上に置いた。
「今度は……あ。これは助かるわ」
次に取り出されたのは、花粉症薬のラベルが貼られた小瓶だった。
開封済みの市販薬だが、中身はまだ十分入っている。
「これは、ゴウ君かな。それともサヨちゃんでしょうかね」
「この現実的なチョイスはゴウ君じゃないかなあ」
「そう言われれば、そうかもしれませんね」
「薬を買いに行ってもらう暇のなかったし、助かるわ。寝る前に飲んでおこっと」
餅パックの隣に、小瓶が置かれる。
「それじゃ、残るはサヨコちゃんからの品ね」
センダンがそう言いながら紙袋に手を入れるが、すぐに怪訝な顔つきになった。
すぐに手を戻して中身を覗き込んでいるが、ヒロからは中が見えない。
ヒロに見えるのはセンダンの表情だけだが、その表情はすぐに笑顔に満ち溢れていった。
「センダンさん、何が入っていたんですか?」
「重いと思ったら、どうりでどうりで。これよ。こーれ」
センダンがまた手を入れて、中身を取り出す。
出てきたのは、手のひらサイズの鉢に植えられた二輪のタンポポだった。
茎は緩やかな弧を描いて、力強く天を目指している。
花びらは鮮やかな色合いで、存在を主張するように精一杯横へと広がっていた。
「タンポポ……」
「外に出られない分、目を楽しませようという心遣いなんでしょうね。
私が駄目なのはスギだから、タンポポなら問題ないし」
「なるほど。可愛らしくて良いですね」
そう言いながら、ふと、ヒロは思う。
いつまでも続くような気さえしていた寒風の季節は、もう間もなく終わる。
そして、この花が咲く季節が訪れつつある。
センダンの花粉症も、見方を変えればその兆しといえるかもしれない。
「……もうすぐだね」
センダンが明るい声で呟いた。
どうやら、同じ事を考えていたようである。
ヒロは何も言わずに、こっくりと頷いて笑った。
――もうじき。
春は、もうじきやってくる。
旬の魚介類は、決して少なくはない。
アサリにハマグリ、ヤリイカ、ニシンにマダイに、サワラ等も美味しい時期だ。
問題なのは、パンチ力。
宿の料理のメインディッシュとして食べるには、味はともかく、満足度に欠ける魚が多いのである。
結果として、この時期はマダイを取り扱う事が多い。
今日の宿泊客は、全員初めての客なので、過去の料理との重複を気にする必要はなかった。
それに、ヒロも扱い慣れている魚の為、調理にそれ程時間を要さないという利点もある。
この日は瑞々しい野菜も多く手に入った為に、鯛の柚子鍋をこしらえる事にした。
無論、まだ陽も暮れていないうちに煮るわけにもいかないので、今できる事は食材の準備が主だ。
まずは野菜を全部刻んでしまう。
長ネギ、青ネギ、春菊、白菜、ニンジン、シイタケ、エノキダケ。それから忘れず柚子。
まな板で台所の音を奏でながら、何の問題もなく全部切ってしまう。
鯛の柚子鍋の本番は、この次だ。
「ヒロ。鯛はお前が捌くか?」
同じく野菜を切り終えたウメエがそう聞いてくる。
ウメエが捌いた方が早いし、綺麗に切れる。
それでもそう聞いてくるのは、せっかくなので経験しておくか、という事だろう。
過去にも何度か作った事がある料理だが、だからといって完全に自分のものにしたわけではない。
ヒロが頷いて返事をすると、ウメエは真鯛が入ったザルを寄越し、自分は海老やハマグリの調理に取り掛かった。
「さてと」
一つ大きな息を吐いて、眼下の鯛を見る。
鱗は事前にゴウの店で削られているので、一番面倒な作業はせずに済む。
まずはエラを切り落とし、次に腹に包丁を入れた。
透き通るような身を見ていると、思わず、鍋の中で煮立つ切り身を連想してしまった。
食材を芯まで暖めるくつくつという音。
鼻を突き抜けるような柚子の香り。
鍋の中に隙間なく詰められた新鮮な食材。
そして、それを囲む人々と賑やかな食卓。
昼食を食べて間もないのに、腹が減り始めた気さえする。
「……おっと」
思わず、空いている手で自分の頬を叩いて正気に戻った。
調理は、時としてこれがあるから困る。
気を取り直して、腹の中から丁寧に内臓を取り出せば、もう後はそれ程難しくはない。
頭と尾がちぎれないように三枚におろして、ひと段落である。
後は味をつけて、身を食べやすい大きさに切るだけ。
それを三組分、すなわち三匹捌けば、鯛の調理は終了となる。
「そっちはどうだ?」
ウメエが様子を見に来た。
答える前にウメエの調理台を覗いてみれば、腸が除かれた海老と、砂出しの最中であるハマグリが置かれている。
ヒロが一匹片付けないうちに、自身の作業を殆ど終えているのだ。
内心では舌を巻きながら、ヒロは肩を竦めてみせる。
「まだまだ、これからだよ」
「そうかい」
自分で聞いておきながら、ウメエは興味がなさそうに鼻息を漏らした。
付近にある椅子にどっしりと腰を下ろし、珍しく温和な表情でヒロを見上げてくる。
「なあ、ヒロ」
「うん?」
「最近、仕事は順調か?」
「順調だと思うよ。昨年の竜伐祭から、お客様は増えているし」
「いやぁ、そういう事ではない」
ウメエがゆっくりと告げる。
普段から早口気味の祖母にしては、随分と落ち着いた口ぶりだ。
ヒロは包丁をまな板に置いて、ウメエに向き直った。
「じゃあ、どういう事? 鯛の事ならまだまだだよ」
「その事でもない。お前の気持ちの事だ」
「気持ち……?」
ウメエの言葉を繰り返しながら、言葉の意味を考える。
要するに、仕事には慣れたか、楽しいか、という事を聞かれているのだろうか。
だとしたら、随分と珍しい質問だ。
これまでウメエから、仕事に対する個人的な感想を聞かれた事はなかった。
これでも、自分の事を気にかけてくれているのだろうか。
そうであれば、幸せな事だ。
普段から聞かれない事等、どうでも良い。
今、こうして聞かれているだけで、ヒロは胸が暖かくなった。
「……うん。楽しいよ」
ヒロは本音を口にした。
「たとえ一日限りのお客様でも、充実した時間を過ごしてもらえるように取り組む仕事は、やり甲斐があるよ」
「ふむ」
「職場環境も良いしね。ゴウ君のお店は良い魚を提供してくれるし、
ベラミさんのいるギルドとも、観光面で連携が取れている。
困った時には、今日みたいにお婆ちゃんや周りの人が助けてくれる。
お給料は、ちょっとばかり少ないけれどね」
「まあ、そうじゃな」
「それに……センダンさんがいる」
そう言って、センダンの顔を思い出す。
浮かんできた顔は、腹痛に歪む顔だったが、とにかく思い出す。
「自分でも正反対な性格だと思うけれど、センダンさんとは不思議と馬が合うよ。
それに、一緒に働いていると、元気を分けて貰っている気がする。
一緒に長く暮らしているからかな。家族みたいな気さえするよ」
それも、本音だった。
彼女の存在は、いつの間にか、自然なものにさえ感じられる。
こうして口にするのは少々恥ずかしいが、それでも胸を張って言えた。
「……そうじゃな。ワシもあの子の近くにいると、若返った気がする」
ウメエが、口の端をにやりと歪ませる。
ウメエとセンダンが、好印象を抱きあっているのは、なんだか嬉しかった。
「楽しい事が好きな人だから、無意識のうちに、その楽しさを周囲にも振りまいているんだろうね」
「まあ、そんな所じゃろうな」
ウメエはそう言って立ち上がった。
緩慢な動きで、壁の向こうにあるセンダンの部屋の方をまた向く。
五秒か、十秒か、それなりの時間、祖母はそうしてセンダンがいる方を見続けた。
早く元気になってほしい、とでも思っているのだろうか。
その気持ちは、ヒロも同様である。
センダンの無駄な元気は、自分にとっては、無駄だけれども必要な元気になっていた。
そう感じるようになったのは、いつ頃からだろうか。
「……ヒロ。魚はよ捌かんかい」
ヒロの方を見ずに、背中越しにウメエが言う。
「あ、うん」
ヒロは、癖になっている間の抜けた返事を返した。
◇
夕食の配膳を終えたヒロは、フロントで待機する事にした。
夜の仕事は、フロント業務の他にも、共有区画の掃除、食器の回収と皿洗い、それに朝食の仕込みが残っている。
だが、夕食を作り終えたウメエが祖父の介護で帰宅した為に、普段同様に残りの仕事を簡単に捌くのは困難だ。
とりあえずは人が欠かせないフロントに就いて、この後の仕事の順序をノート上で整理する。
「ええと……食器の回収は不可欠だけれど……
皿洗いと仕込みは、時間をずらしてフロント受付終了後にすればなんとかなるか」
ぶつぶつと呟きながら、リストアップした作業の横に時刻を刻む。
「掃除は……騒がしくなるかもしれないし、明日早起きしてやろうかな。
ただ、僕が夕食を食べる時間はないか。
センダンさんがいないと、随分としんどくなるなあ」
「あ。やっぱりセンダンさん、休んでるのか」
「!?」
突然、男の声がした。
びっくりしたヒロが顔を上げると、予想もしていなかった者が三名、そこにはいた。
サヨコとベラミ、そして声の主のゴウである。
皆、土間で靴を脱いでフロントの中にまで入ってきている。
ヒロはそれに全く気がつかなかった。
「皆、いつの間に入ってきたの?」
「土間から何度も声かけたぞ。お前が熱心に書き物していて気がつかなかっただけだ」
ゴウがそう言うと、左右のベラミとサヨコも同調して頷く。
ヒロは酷く赤面しながら、ノートを畳んで受付台の隅に移した。
「えっと……こんばんわ」
「おう」
「で、三人揃って、一体どうしたの?」
「どうって、センダンさんの様子を見に来たんだよ。体を壊したんだろ?」
「そうだけれど……」
ヒロはきょとんとした表情で、三人の顔を見回す。
ゴウの店で魚を買った時にはその事を話していないし、他の二人とは今日は顔も合わせていない。
どうしてその事を知っているのだろうと不思議に思っていると、意を察したのか、サヨコが一歩前に出た。
「ウメエさんが、ついさっき、私達の家に来て教えてくれたのよ」
「お婆ちゃんが?」
意外な名前が出てきた。
帰宅する途中で、寄り道して伝えてくれたのだろう。
「で、センダンさんの様子はどうなの?」
「センダンさんが休んでいると、お前も大変だろうしな……」
「海桶屋さんも活気がなくなっちゃうよねぇー。それどころか、ただ店員さんが怖いだけのお宿になっちゃうよー」
「………」
ヒロはもう一度、今度は三人をしっかりと観察するつもりで顔を見回す。
サヨコは、不安の色を明確に浮かばせていた。
ゴウも、サヨコ程はっきりと心配はしていないが、真剣な目付きをしている。
ベラミだけは、いつも通りの眠そうな顔付きだ。
でも、彼の猫耳は、過敏に店奥の音を聞き取ろうとしている。
皆、そこまでセンダンの事を心配してくれていたのだ。
まるで自分が心配してもらったかのように、ヒロは嬉しくなった。
「……皆、ありがとう。
花粉症はどうしようもないけれど、腹痛はもうじき治るんじゃないかな。
今日はお客様もいるから、私用で中に入ってもらうのはまずいけれど、皆が来てくれた事は伝えておくよ」
「そうかい。それじゃー……」
ヒロの言葉に反応したのはベラミだった。
よく見れば、彼は手に紙袋を持っていた。
片手でも持てるサイズの紙袋だったが、彼がそれを受付台の上に置くと、ドスン、という鈍い音がした。
中身は、それなりに重い物のようである。
「これ、僕達からのお見舞いの品だよー」
「お前からセンダンさんに渡しといてくれよ」
「急だったから、家にあるような物しか持ってこられなかったわ。ごめんね」
「お見舞いまで……わざわざありがとう」
三人に深々と頭を下げる。
感謝の度合いを示すように、長く下げ続けた頭をゆっくりと起こすと、眼前に紙袋がもう一つ増えていた。
「……こっちは?」
「これはヒロちゃんに。自分のご飯を用意する暇もないだろうと思って。
菓子パンしか用意できなかったけれど、それでも良ければ」
サヨコが、そう言って小さく微笑んだ。
何から何まで、痛み入るという他ない。
改めて感謝の言葉を述べようと、ヒロは口を開きかける。
ぐぎゅ~~~っ
だが、それよりも一瞬早く、ヒロの胃袋が返事をした。
四人とも、思わず、狐につままれるような表情を浮かべる。
一瞬の沈黙。
その沈黙が、誰からともなく立てた笑い声によって破られるのは、ほんの数秒後の事であった。
◇
フロント受付終了後、ヒロは残務に移る前にセンダンの部屋をノックした。
入室許可の言葉が聞こえてきたので中に入ると、どてらを纏ったセンダンが布団から抜け出そうとしていた。
「ああ、無理しないで大丈夫ですよ」
手を前に突き出してそれを制する。
センダンは小難しい表情をしたが、結局は立ち上がらずに、上半身を起こすに留めてくれた。
彼女の顔色は少々マシになっているが、口にはマスクを付けている。
やはり、花粉症は短期間で治せるものではないようだ。
これは、もう暫くウメエに助けてもらわないといけないかもしれない。
そんな事を考えながら、センダンの傍で、足を広げ気味で正座する。
「ヒロ君、今日はごめんね」
先にセンダンが謝ってきた。
「何言ってるんですか。体調を崩した時くらい、しっかり休まないと」
「でもさあ」
「それに、今更しおらしくなるなんて、ガラじゃないでしょうに」
「むぅー。でもヒロ君だって大変でしょう?」
「……家族みたいなものなんですから、こういう時くらい、頼って下さい」
言っている途中で恥ずかしくなって、視線をつい外してしまう。
だが、それを言葉にせずにはいられなかった。
ウメエや、ゴウらと話した事で、センダンの掛け替えのなさを再認識したからかもしれない。
「……そうね。そうさせてもらうわ」
センダンの返事は、どこか弾んでいるように聞こえた。
彼女から視線を外しているので、その表情まで読み取る事はできない。
だが、気分を害したような事はなさそうである。
「ところで、病気の調子はどうですか?」
先程の発言を誤魔化すように尋ねる。
「腹痛は、もう大分良くなったかな。一晩眠れば完治すると思うわ」
センダンは淡々と言う。
どうやら、無理はしていないようだ。
「花粉症の方は」
「そっちは相変わらずねえ。仕事、どうしようかしら」
「無理だけはしないで下さいね。食欲は?」
「多少はあるけれど、今日は物食べるの止めとくわ」
それが無難だろう。
サヨコから貰った菓子パンを、センダン用にと一つ残していたが、それを勧めるのは止める。
その代わりに、三人から貰った見舞いの品入りの紙袋を差し出した。
「あら、これは何?」
「ゴウ君と、サヨちゃん、あとベラミさんがお見舞いに来たんです。
これはそのお見舞いだそうですよ」
「へぇー。治ったらお礼しなくちゃね。早速開けてみるわ」
センダンは嬉しそうにそう言って紙袋を開封し、中に手を入れた。
ヒロは、中には何が入っているのか見ていないし、聞いてもいない。
中身はヒロも気になっていたので、身を乗り出すようにして紙袋を覗く。
「まずは……ああ。ああ」
センダンの声が途端に曇る。
中から取り出されたのは、パック詰めの餅だった。
誰からのお見舞いなのか、一目瞭然の一品である。
「……治ったら、食べたらどうです?」
「まあ、味は悪くないからねえ」
乾いた笑いを浮かべながら、彼女は餅パックを畳の上に置いた。
「今度は……あ。これは助かるわ」
次に取り出されたのは、花粉症薬のラベルが貼られた小瓶だった。
開封済みの市販薬だが、中身はまだ十分入っている。
「これは、ゴウ君かな。それともサヨちゃんでしょうかね」
「この現実的なチョイスはゴウ君じゃないかなあ」
「そう言われれば、そうかもしれませんね」
「薬を買いに行ってもらう暇のなかったし、助かるわ。寝る前に飲んでおこっと」
餅パックの隣に、小瓶が置かれる。
「それじゃ、残るはサヨコちゃんからの品ね」
センダンがそう言いながら紙袋に手を入れるが、すぐに怪訝な顔つきになった。
すぐに手を戻して中身を覗き込んでいるが、ヒロからは中が見えない。
ヒロに見えるのはセンダンの表情だけだが、その表情はすぐに笑顔に満ち溢れていった。
「センダンさん、何が入っていたんですか?」
「重いと思ったら、どうりでどうりで。これよ。こーれ」
センダンがまた手を入れて、中身を取り出す。
出てきたのは、手のひらサイズの鉢に植えられた二輪のタンポポだった。
茎は緩やかな弧を描いて、力強く天を目指している。
花びらは鮮やかな色合いで、存在を主張するように精一杯横へと広がっていた。
「タンポポ……」
「外に出られない分、目を楽しませようという心遣いなんでしょうね。
私が駄目なのはスギだから、タンポポなら問題ないし」
「なるほど。可愛らしくて良いですね」
そう言いながら、ふと、ヒロは思う。
いつまでも続くような気さえしていた寒風の季節は、もう間もなく終わる。
そして、この花が咲く季節が訪れつつある。
センダンの花粉症も、見方を変えればその兆しといえるかもしれない。
「……もうすぐだね」
センダンが明るい声で呟いた。
どうやら、同じ事を考えていたようである。
ヒロは何も言わずに、こっくりと頷いて笑った。
――もうじき。
春は、もうじきやってくる。
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