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虹の卵編
第十九話/ミクリと兄花島(後編)
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「婆ちゃん、今日の昼はまだかの?」
「三時間前に食ったじゃろがー」
「婆ちゃん、三時間前に食ったのは何だったかの?」
「肉じゃがだったろうが! まったく、この爺さんは……」
ウメエの夫にしてヒロの祖父、ダイゴローの声が、家の奥から聞こえてくる。
土間まで降りてきたウメエは、そのダイゴローの声に対して、怒鳴るように返事をした。
最近、ごく軽微ではあるが痴呆が入るようになったダイゴローは、ウメエの手間を煩わせる事が多い。
しかし、奇妙な事にダイゴローが忘れるのは、大抵が食事に関する事であった。
「お、お婆ちゃん、取り込み中なら出直すけれど……?」
「いや、構わん。痴呆の爺さんを本気で相手にする気はないわい」
「あ、そう」
この所ヒロは、店が忙しくて祖父母の様子を見に来れていない。
そういう立場で『そんな事を言ったらかわいそうだ』というわけにもいかず、ヒロはそれ以上口を挟まなかった。
「で……そこのお嬢ちゃんが、竜伐祭の事を聞きたいんだったかの?」
「宜しくお願いしたい」
「変わった喋り方の子じゃの」
ウメエが口を三日月状に開いて、かはっ、と咳き込むような笑いを浮かべる。
「祭りの由来や内容といった、基本的な事は知っているんだ。
普段表に出ないような伝承や出来事……特に精霊絡みで何かあれば、教えて頂きたい」
「ふむ!」
ウメエが土間に通じている床にどっかりと腰を下ろした。
ヒロとは異なり大きな瞳の浮かぶ目を、爬虫類のようにぎょろりと開いて二人を一瞥する。
それから彼女は、右手の人差し指をそっと突き立ててみせた。
「こういう出来事なら聞いた事がある」
「「………」」
ヒロとミクリは、無言で顔を見合わせあった。
その顔をすぐにウメエに向けると、ウメエは話を続ける。
「およそ三百年程前……正確な年代までは伝わっておらんが……うむ、精霊戦争頃の出来事じゃな。
確かあれば竜伐祭の翌日……フタナノ海へと漁に出た漁船が、大嵐に遭遇してしもうての」
ウメエがとつとつと語る。
どことなく歯切れが悪いのは、思い出しては口にしており、単純に間ができているからのようだった。
「当然、当時は救助体勢なんか整っておらん。
船の方も嵐を避けて出そうとはしているが、いざ遭遇してしまったら打つ手なしの状態じゃ」
「……全滅は必至」
ミクリが小声で呟く。
「現実的に考えればそういう事じゃ。だが……」
ウメエが溜めを作る。
「……そうはならなかった。翌朝、全員が兄花島の浜辺に打ち上げられておった。
それも、皆息のある状態での」
「それはどうして?」
「分からん。誰も何も覚えておらんかったからの。
……だが、前日の竜伐祭で精霊に祈りを捧げておった。
結果、この事は精霊が起こした奇跡という事で落ち着いた。
それが、伝承という程大したものではないが、細々と語り継がれておるというわけじゃ」
「なるほど……」
ミクリは興味深そうに頷いた。
ウメエの話が一段落したようなので、筆記用具を取り出して、早速その話を簡単に取りまとめている。
この話については、ミクリも関心する所があったようである。
そして、それはヒロも同様であった。
(……サヨちゃんの出来事に似てるな)
以前サヨコから聞いた、一人で海に飛び出して、精霊に助けられたという話に似通っている。
両者の話が共通する事で、それぞれに信憑性が増す。
やはりサヨコは精霊とコミュニケーションを取ったのだ、と思うと、ヒロの胸は強く高鳴った。
「婆ちゃん、昼の肉じゃがは少し味が薄かったのお。
昨日のサンマも一昨日のしょうが焼きも薄かったし、最近味を変えとるのか?」
「このジジイは、ちゃんと覚えとるでないかい!!」
また、家の奥からダイゴローの声が聞こえ、ウメエがそれに怒鳴る。
真剣な話の後のやり取りに、かくり、と力が抜けるヒロであった。
◇
この所、海桶屋の囲炉裏部屋では、毎晩のように火が炊かれている。
季節柄、鍋料理は客に受けが良く、また板前のヒロとしても簡単に準備できる為に、
フタナノ海で取れた魚介類を中心とした鍋は、この時期の定番メニューとなっていた。
それはこの日も例外ではなく、唯一の客であるミクリの前では、海老をメインにした『三人分』の海鮮鍋が煮立っていた。
「ミクリちゃん、おかわりいるでしょ? 海老? お魚?」
「あ……いや……」
「あ、両方ね! おっけおっけ!」
「……どうも」
センダンが、遠慮しようとするミクリを押し切って、彼女の器におかわりを盛る。
今日の客はミクリ一人という事と、彼女がヒロの知人という事もあり、
こうして食事の場に、店の者が同席するのを提案したのは、センダンだった。
その時といい、こうしておかわりを盛る時といい、ミクリはその勢いに飲まれるようにして承諾している。
ミクリは遠慮しているのであって、嫌がってはいない為に、ヒロはセンダンを咎めはしなかった。
(……色々と気になる事もあるし、こうして一緒にご飯を食べれば、分かる事もあるかもしれないしなあ)
お猪口で酒をちびちびと煽りながら、ヒロはセンダンとミクリを眺める。
ミクリは、どうして変な喋り方なのか。
魔法とは、それ程までに世間で嫌われているのか。
スラムの人々の優しさを理解できない理由は何なのか。
そして……何故この少女は笑わないのか。
いずれも、答えは出ない。
ゴウの店で買った魚が味わい深く、本気で考えられないだけかもしれない。
「あ、そうだ! ミクリちゃん、せっかくだから後で舞でも見てみる?」
「や……そこまでサービスされては申し訳ない」
「いいのいいの! 全然いいのよ!」
「センダンさん、それくらいで……」
さすがに困惑するミクリを見かねて、ヒロが助け舟を出す。
「あはは、ごめんごめん」
たしなめられたセンダンは、後頭部を掻きながら舌を出して笑ってみせた。
それから、居住まいを正してミクリに向き直ると、口を大きく開けて歯を見せる、お得意の笑みを浮かべる。
「でもね、私、ミクリちゃんの事を応援したいのよ」
「応援……?」
ミクリが箸を置く。
「そう! こんなにちっちゃいのに、魔法の再現だなんて大研究に取り組んでるんだもん。尊敬しちゃうなあ」
「……魔法は、そう立派なものではない」
「立派よ、大立派! 自信持って良いわよ!」
膝を突き立てて体を起こすと、ミクリの肩を大げさに二度叩く。
ミクリは、無表情でされるがままにされていた。
「それに、ヒロ君の貴重な友達だしね。応援せずにはいられないってもんよ」
「友達?」
ミクリがオウム返しに言う。
「そう、友達」
「そうなのか?」
淡々と言う。
「え? そうじゃないの?」
センダンはきょとんとしながら、ヒロとミクリを交互に見る。
見られても、困る。
というより、急にそんな話を振られては困る。
確かに、ヒロはそのつもりであった。
だが、彼女の人間関係には容易には踏み込み難い所だった。
「いやあ……マナとか精霊の話が出来る人がいるのは、嬉しいですよ」
結局、ヒロは曖昧な返事でお茶を濁した。
それと同時に、顔色を伺うようにそっとミクリを見る。
視界の端に映るミクリは、真剣な表情で俯いていた。
「……私には、良く分からない」
ミクリの声は、小さかった。
◇
兄花島の冬の夜は静かである。
夏とは違い、虫はそれ程活発ではない為に、その鳴き声はあまり聞こえてこない。
外を出歩く者も少なく、人が集まる所も少ない為に、賑やかな声で溢れているのは居酒屋ちとせの周囲位である。
海桶屋の客室に届く音は、殆ど波の音だけ。
そんな静かな夜に、ミクリは客室で机に向き合っていた。
「……こんな所か」
三十分ほどペンを走らせたミクリは、肩を鳴らしながら頭を起こした。
卓上には、今日島を回った時に取ったメモと、それを清書した紙とペン、
それに加えて、日中にコヨリから貰った蜜柑が置かれていた。
「………」
その蜜柑が視界に入ったミクリは、暫く蜜柑を眺めた。
それから、おもむろにその蜜柑を手にすると、皮を剥いて、実を一粒口にする。
酸味を感じたのか、微かに口を窄めながら立ち上がり、彼女は窓の外を眺めた。
「ヒロの祖母の話には、可能性を感じる。
もう暫く、この島を調べてみるか」
窓の外を眺めたままで、独り言を呟く。
今夜は雲が多く差しており、月や星の多くは雲に覆われていた。
だが、雲よりも低い所に浮かんでいるマナは、はっきりと見る事ができる。
「……しかし」
先程剥いた蜜柑を一瞥する。
「……皆、どうしてああも親身に接してくれるのだ。スラムの人々とそっくりではないか。
いや……スラムであれば、まだ生活上助け合うのは分かる。
だけれど、私はよそ者ではないか……」
ミクリの声は、どこまでも疑問に満ち溢れていた。
碧い瞳で、じっと蜜柑を見つめながら考え込む。
どれほどの間、そうしていただろうか。
ふと、ミクリは閃いた。
「友達とは……そういう事なのか……?」
「ミクリちゃん、良いかな」
ちょうど、その時だった。
部屋の外からヒロの声が聞こえてきた。
ミクリは体を反転させ、部屋の扉の前に向かう。
一呼吸おいて、そっと開けると、そこには強面がいた。
先刻、センダンが友達と呼んだ男だった。
「ごめんね、言い忘れていた事があって。もう寝てた?」
ヒロは小さく頭を下げる。
申し訳なさそうな仕草である。
「いや、まだだ」
「なら良かった。フロントを閉める時間になったけれど、
何か用事があったら、僕達の部屋は一階隅にあるから、
僕にでもセンダンさんにでも、どちらにでも声をかけてね」
「分かった」
「それじゃあ、おやすみ」
「あ……少し待ってくれ」
ミクリが手を前に出しながらヒロを呼び止める。
扉を閉めようと腕を上げていたヒロは、その腕を静止させて呼び止めに応えた。
「なにか困った事があった?」
「いや……魔法の研究の事だが、この島の言い伝えをもう少し調べたい。
今後、ここにもちょくちょく泊まりに来たいのだが、構わないだろうか?」
「あ、何か見つかりそうなんだ! それは良かった!」
ヒロがにっこりと微笑む。
笑っても怖いが、とにかく微笑む。
「もちろん大歓迎だよ。
安くしておくから、いつでも泊まりに来てね」
「それは助かる」
「いやいや、お得意様には当然だよ」
「……あと、な」
ミクリの言葉はまだ続いた。
「……私、ヒロの友達で良いのだろうか」
「……ふむ?」
ミクリの頬は微かに紅潮していた。
眉は不安そうに垂れ下がっていて、その下には上目遣いの綺麗な瞳が浮かんでいる。
ヒロの返事は、一つしかなかった。
「もちろんだよ。友達だ」
「……そう、か」
「僕だけじゃない。今日一日の交流だけど、ゴウ君やサヨちゃん、センダンさんも、同じ事を思っているはずだよ」
「……そうか」
ミクリの声は小さかった。
相変わらず、笑ってもいなかった。
だが、彼女は頷いてくれた。
「そろそろ休むよ。おやすみ」
「うん。おやすみ、ミクリちゃん」
挨拶をかわして、ミクリが扉に手をかける。
ぱたん、と気持ちの良い音を立てて扉が閉まりきるのを確認して、ヒロは部屋の前を離れた。
「三時間前に食ったじゃろがー」
「婆ちゃん、三時間前に食ったのは何だったかの?」
「肉じゃがだったろうが! まったく、この爺さんは……」
ウメエの夫にしてヒロの祖父、ダイゴローの声が、家の奥から聞こえてくる。
土間まで降りてきたウメエは、そのダイゴローの声に対して、怒鳴るように返事をした。
最近、ごく軽微ではあるが痴呆が入るようになったダイゴローは、ウメエの手間を煩わせる事が多い。
しかし、奇妙な事にダイゴローが忘れるのは、大抵が食事に関する事であった。
「お、お婆ちゃん、取り込み中なら出直すけれど……?」
「いや、構わん。痴呆の爺さんを本気で相手にする気はないわい」
「あ、そう」
この所ヒロは、店が忙しくて祖父母の様子を見に来れていない。
そういう立場で『そんな事を言ったらかわいそうだ』というわけにもいかず、ヒロはそれ以上口を挟まなかった。
「で……そこのお嬢ちゃんが、竜伐祭の事を聞きたいんだったかの?」
「宜しくお願いしたい」
「変わった喋り方の子じゃの」
ウメエが口を三日月状に開いて、かはっ、と咳き込むような笑いを浮かべる。
「祭りの由来や内容といった、基本的な事は知っているんだ。
普段表に出ないような伝承や出来事……特に精霊絡みで何かあれば、教えて頂きたい」
「ふむ!」
ウメエが土間に通じている床にどっかりと腰を下ろした。
ヒロとは異なり大きな瞳の浮かぶ目を、爬虫類のようにぎょろりと開いて二人を一瞥する。
それから彼女は、右手の人差し指をそっと突き立ててみせた。
「こういう出来事なら聞いた事がある」
「「………」」
ヒロとミクリは、無言で顔を見合わせあった。
その顔をすぐにウメエに向けると、ウメエは話を続ける。
「およそ三百年程前……正確な年代までは伝わっておらんが……うむ、精霊戦争頃の出来事じゃな。
確かあれば竜伐祭の翌日……フタナノ海へと漁に出た漁船が、大嵐に遭遇してしもうての」
ウメエがとつとつと語る。
どことなく歯切れが悪いのは、思い出しては口にしており、単純に間ができているからのようだった。
「当然、当時は救助体勢なんか整っておらん。
船の方も嵐を避けて出そうとはしているが、いざ遭遇してしまったら打つ手なしの状態じゃ」
「……全滅は必至」
ミクリが小声で呟く。
「現実的に考えればそういう事じゃ。だが……」
ウメエが溜めを作る。
「……そうはならなかった。翌朝、全員が兄花島の浜辺に打ち上げられておった。
それも、皆息のある状態での」
「それはどうして?」
「分からん。誰も何も覚えておらんかったからの。
……だが、前日の竜伐祭で精霊に祈りを捧げておった。
結果、この事は精霊が起こした奇跡という事で落ち着いた。
それが、伝承という程大したものではないが、細々と語り継がれておるというわけじゃ」
「なるほど……」
ミクリは興味深そうに頷いた。
ウメエの話が一段落したようなので、筆記用具を取り出して、早速その話を簡単に取りまとめている。
この話については、ミクリも関心する所があったようである。
そして、それはヒロも同様であった。
(……サヨちゃんの出来事に似てるな)
以前サヨコから聞いた、一人で海に飛び出して、精霊に助けられたという話に似通っている。
両者の話が共通する事で、それぞれに信憑性が増す。
やはりサヨコは精霊とコミュニケーションを取ったのだ、と思うと、ヒロの胸は強く高鳴った。
「婆ちゃん、昼の肉じゃがは少し味が薄かったのお。
昨日のサンマも一昨日のしょうが焼きも薄かったし、最近味を変えとるのか?」
「このジジイは、ちゃんと覚えとるでないかい!!」
また、家の奥からダイゴローの声が聞こえ、ウメエがそれに怒鳴る。
真剣な話の後のやり取りに、かくり、と力が抜けるヒロであった。
◇
この所、海桶屋の囲炉裏部屋では、毎晩のように火が炊かれている。
季節柄、鍋料理は客に受けが良く、また板前のヒロとしても簡単に準備できる為に、
フタナノ海で取れた魚介類を中心とした鍋は、この時期の定番メニューとなっていた。
それはこの日も例外ではなく、唯一の客であるミクリの前では、海老をメインにした『三人分』の海鮮鍋が煮立っていた。
「ミクリちゃん、おかわりいるでしょ? 海老? お魚?」
「あ……いや……」
「あ、両方ね! おっけおっけ!」
「……どうも」
センダンが、遠慮しようとするミクリを押し切って、彼女の器におかわりを盛る。
今日の客はミクリ一人という事と、彼女がヒロの知人という事もあり、
こうして食事の場に、店の者が同席するのを提案したのは、センダンだった。
その時といい、こうしておかわりを盛る時といい、ミクリはその勢いに飲まれるようにして承諾している。
ミクリは遠慮しているのであって、嫌がってはいない為に、ヒロはセンダンを咎めはしなかった。
(……色々と気になる事もあるし、こうして一緒にご飯を食べれば、分かる事もあるかもしれないしなあ)
お猪口で酒をちびちびと煽りながら、ヒロはセンダンとミクリを眺める。
ミクリは、どうして変な喋り方なのか。
魔法とは、それ程までに世間で嫌われているのか。
スラムの人々の優しさを理解できない理由は何なのか。
そして……何故この少女は笑わないのか。
いずれも、答えは出ない。
ゴウの店で買った魚が味わい深く、本気で考えられないだけかもしれない。
「あ、そうだ! ミクリちゃん、せっかくだから後で舞でも見てみる?」
「や……そこまでサービスされては申し訳ない」
「いいのいいの! 全然いいのよ!」
「センダンさん、それくらいで……」
さすがに困惑するミクリを見かねて、ヒロが助け舟を出す。
「あはは、ごめんごめん」
たしなめられたセンダンは、後頭部を掻きながら舌を出して笑ってみせた。
それから、居住まいを正してミクリに向き直ると、口を大きく開けて歯を見せる、お得意の笑みを浮かべる。
「でもね、私、ミクリちゃんの事を応援したいのよ」
「応援……?」
ミクリが箸を置く。
「そう! こんなにちっちゃいのに、魔法の再現だなんて大研究に取り組んでるんだもん。尊敬しちゃうなあ」
「……魔法は、そう立派なものではない」
「立派よ、大立派! 自信持って良いわよ!」
膝を突き立てて体を起こすと、ミクリの肩を大げさに二度叩く。
ミクリは、無表情でされるがままにされていた。
「それに、ヒロ君の貴重な友達だしね。応援せずにはいられないってもんよ」
「友達?」
ミクリがオウム返しに言う。
「そう、友達」
「そうなのか?」
淡々と言う。
「え? そうじゃないの?」
センダンはきょとんとしながら、ヒロとミクリを交互に見る。
見られても、困る。
というより、急にそんな話を振られては困る。
確かに、ヒロはそのつもりであった。
だが、彼女の人間関係には容易には踏み込み難い所だった。
「いやあ……マナとか精霊の話が出来る人がいるのは、嬉しいですよ」
結局、ヒロは曖昧な返事でお茶を濁した。
それと同時に、顔色を伺うようにそっとミクリを見る。
視界の端に映るミクリは、真剣な表情で俯いていた。
「……私には、良く分からない」
ミクリの声は、小さかった。
◇
兄花島の冬の夜は静かである。
夏とは違い、虫はそれ程活発ではない為に、その鳴き声はあまり聞こえてこない。
外を出歩く者も少なく、人が集まる所も少ない為に、賑やかな声で溢れているのは居酒屋ちとせの周囲位である。
海桶屋の客室に届く音は、殆ど波の音だけ。
そんな静かな夜に、ミクリは客室で机に向き合っていた。
「……こんな所か」
三十分ほどペンを走らせたミクリは、肩を鳴らしながら頭を起こした。
卓上には、今日島を回った時に取ったメモと、それを清書した紙とペン、
それに加えて、日中にコヨリから貰った蜜柑が置かれていた。
「………」
その蜜柑が視界に入ったミクリは、暫く蜜柑を眺めた。
それから、おもむろにその蜜柑を手にすると、皮を剥いて、実を一粒口にする。
酸味を感じたのか、微かに口を窄めながら立ち上がり、彼女は窓の外を眺めた。
「ヒロの祖母の話には、可能性を感じる。
もう暫く、この島を調べてみるか」
窓の外を眺めたままで、独り言を呟く。
今夜は雲が多く差しており、月や星の多くは雲に覆われていた。
だが、雲よりも低い所に浮かんでいるマナは、はっきりと見る事ができる。
「……しかし」
先程剥いた蜜柑を一瞥する。
「……皆、どうしてああも親身に接してくれるのだ。スラムの人々とそっくりではないか。
いや……スラムであれば、まだ生活上助け合うのは分かる。
だけれど、私はよそ者ではないか……」
ミクリの声は、どこまでも疑問に満ち溢れていた。
碧い瞳で、じっと蜜柑を見つめながら考え込む。
どれほどの間、そうしていただろうか。
ふと、ミクリは閃いた。
「友達とは……そういう事なのか……?」
「ミクリちゃん、良いかな」
ちょうど、その時だった。
部屋の外からヒロの声が聞こえてきた。
ミクリは体を反転させ、部屋の扉の前に向かう。
一呼吸おいて、そっと開けると、そこには強面がいた。
先刻、センダンが友達と呼んだ男だった。
「ごめんね、言い忘れていた事があって。もう寝てた?」
ヒロは小さく頭を下げる。
申し訳なさそうな仕草である。
「いや、まだだ」
「なら良かった。フロントを閉める時間になったけれど、
何か用事があったら、僕達の部屋は一階隅にあるから、
僕にでもセンダンさんにでも、どちらにでも声をかけてね」
「分かった」
「それじゃあ、おやすみ」
「あ……少し待ってくれ」
ミクリが手を前に出しながらヒロを呼び止める。
扉を閉めようと腕を上げていたヒロは、その腕を静止させて呼び止めに応えた。
「なにか困った事があった?」
「いや……魔法の研究の事だが、この島の言い伝えをもう少し調べたい。
今後、ここにもちょくちょく泊まりに来たいのだが、構わないだろうか?」
「あ、何か見つかりそうなんだ! それは良かった!」
ヒロがにっこりと微笑む。
笑っても怖いが、とにかく微笑む。
「もちろん大歓迎だよ。
安くしておくから、いつでも泊まりに来てね」
「それは助かる」
「いやいや、お得意様には当然だよ」
「……あと、な」
ミクリの言葉はまだ続いた。
「……私、ヒロの友達で良いのだろうか」
「……ふむ?」
ミクリの頬は微かに紅潮していた。
眉は不安そうに垂れ下がっていて、その下には上目遣いの綺麗な瞳が浮かんでいる。
ヒロの返事は、一つしかなかった。
「もちろんだよ。友達だ」
「……そう、か」
「僕だけじゃない。今日一日の交流だけど、ゴウ君やサヨちゃん、センダンさんも、同じ事を思っているはずだよ」
「……そうか」
ミクリの声は小さかった。
相変わらず、笑ってもいなかった。
だが、彼女は頷いてくれた。
「そろそろ休むよ。おやすみ」
「うん。おやすみ、ミクリちゃん」
挨拶をかわして、ミクリが扉に手をかける。
ぱたん、と気持ちの良い音を立てて扉が閉まりきるのを確認して、ヒロは部屋の前を離れた。
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