23 / 54
竜伐祭編
第十二話/山頂銭湯(前編)
しおりを挟む
「ふぁ~あぁ~あ……」
フロントの受付台で、ヒロは頬杖をつきながら大きな欠伸をする。
ヒロの一日の中で、もっとも暇な時間が、正午から夕方にかけての時間である。
この時間は、食材の仕入れや、客の確認、備品確認等の雑用に割り当てているのだが、
食材の仕入れに少々時間を要するだけで、他の仕事はそれ程手間ではなく、すぐにやる事はなくなるのである。
だが、やる事がないからと言って遊び呆けていては、万が一予約なしの客が来た時に体裁が悪い。
その為、ヒロはこの時間を受付台の前で過ごしている。
「……まだ、外は暑そうだなあ」
海側に面している、開け放たれた窓の外を眺める。
季節はもう九月だが、差し込んでくる太陽の日差しはまだまだ暑く、そして眩い。
中年の男性が外を歩いていたが、衣服は外の暑さを表すように丈が短く、そこから覗いている四肢は浅黒く日焼けしている。
耳には、蝉の鳴き声が微かに届く。
それでも、八月に比べれば鳴き声も大分弱まっている辺り、夏は少しずつ終わりに近づいているのだろう。
その蝉の鳴き声の中に、元気な足音が混じりだした。
付近を駆けているような足音が、海桶屋の前で止まる。
足音の主を察したヒロは腰を上げると、隣接する厨房からよく冷えた麦茶を取り出した。
コップに注いでフロントに戻ってくると、案の定、海桶屋の土間でセンダンが靴を脱いでいた。
ヒロと同じく正午以降が暇であるセンダンは、この時間にウメエの所に料理修行に行く事が多い。
この日も彼女はウメエの所に料理修行に出かけていたのであった。
「た~だいま~! う~暑いよぉ~……」
「お疲れ様です。麦茶用意しましたよ」
「おっ、気が利くじゃないの!」
受付台の上に麦茶を置くと、餌に飛びつく犬のように、センダンがフロントに上がってきた。
彼女は喉を鳴らしながら、麦茶を一気に飲み干してしまう。
見ていて気持ちの良い飲みっぷりだった。
「ぷはあっ! ご馳走様~」
「いえいえ。……で、修行の方はどうでしたか?」
ヒロはあまり期待を込めずに尋ねた。
「うん、バッチリ! 今日のお客様に出す夕食の準備、手伝うから!」
「いや、間に合ってます」
即答する。
突っぱねても食い下がるのがセンダンだが、突っぱねなければ、なお乗り気になる。
「あそ。まあ良いわ」
だが、この日のセンダンは違った。
あっさりと引き下がると、肩にかけていたバッグを漁りだす。
「……何かあるんです?」
「うん、何かあるのよ」
そう告げて、センダンがバッグから小瓶を取り出した。
コルクの蓋がしてある小瓶で、中には茶色い粒が詰まっている。
なにやら文字が書かれた紙が貼ってあるのだが、相当古いもののようで、
紙は薄茶色に変色していて、文字も擦れて読み難い。
「これ、温泉の素!」
センダンが小瓶を受付台に置く。
「はあ……」
「ウメエさんが蔵を掃除していたら出てきた物を貰ったの。
思い出せない位昔の物らしいけれど、ただの温泉の素じゃないのよ!
マナの力が篭っていて、ぽこぽこ泡が吹き出るんだって!」
「………」
ヒロは何も言わずに眉をひそめる。
海桶屋の風呂は、温泉ではない。
そもそも兄花島には源泉がなく、温泉の引き様がないのである。
浴場に張られるのは、ただのお湯なのである。
すなわち……温泉の素は有効なのだが、まともな品に限った話だ。
(そんな古い物、絶対怪しいって……)
いぶかしみに満ちた表情でセンダンを見れば、彼女は楽しげに小瓶を回している。
温泉の素に夢中になって、ヒロの事はあまり気にしていないようだ。
逃げよう。
瞬時に、その言葉がヒロの脳裏に浮かび上がる。
物音を立てないよう、ゆっくりと立ち上がった……その時である。
「ねえヒロ君、良い事思いついたんだけど!」
「そらきた……」
先にそう言われては、そのまま逃げるわけにもいかなかった。
額に手を当て、浮かした腰を下ろす。
一方のセンダンは、肩を交互に揺らして、ヒロが腰を据えるのを待ち構えていた。
「そらきた、とは分かってるじゃない」
「いや、そういう意味じゃありませんが……で、今回は何を思いついたんですか?」
大方の予想はできているが、一応尋ねる。
「もちろん、この温泉の素を使ってみるのよ!」
「駄目です。危ないですよ、それ。
得体が知れないし、使用期限だって絶対切れていますよ!」
「大丈夫、大丈夫だって!」
「大丈夫な根拠、何もないじゃないですか! 水道代だって馬鹿になりませんよ!」
「安い、安いって!」
「安くありません!!」
センダンと押し問答を繰り広げる。
だが、そうしてセンダンの言葉を突っぱねながらも、ヒロにはうっすらと結果が見えていた。
センダンの『良い事』を説き伏せるのは、なかなかに難しいものなのである。
燦燦さんぽ日和
第十二話/山頂銭湯
海桶屋の入浴施設は小さい。
四畳程の更衣室と六畳程の浴場があるだけで、当然ながら五人も十人も同時に入る事ができる程のものではない。
その為、チェックインの際に入浴希望時間を確認し、団体毎に時間を決めて使用してもらっていた。
小さい上に温泉ではない事は経営側も気にしており、せめて見た目だけでも風情があるものにしようと、
更衣室は侘びた木製部屋に仕上がっており、浴槽も、直径三十センチ程の大きさの石を並べて作ってある。
チェックインと同時に入浴したいという客も少なくない為、大抵は午前中のうちにセンダンが浴槽の掃除を終えている。
この日も既に掃除を終えており、湯を溜めるだけですぐに入浴できる状態であった。
……センダンに提案を押し切られてから、約一時間後。
湯気が立つ浴槽の前には、バスタオルを腰に巻いただけのヒロと、衣服を纏っているセンダンの姿があった。
「……で、温泉の素を使うのに、なんでお風呂に入らなきゃいけないんです?」
ヒロは腕を組みながら、隣にいるセンダンに問う。
バスタオルを巻いているとはいえ、それ以外は何も纏っていない状態はさすがに恥ずかしい。
その動揺を誤魔化す為に、ヒロはわざと、怒ったような声を出していた。
「だって、効能を確かめなきゃいけないじゃない」
センダンはあっけらかんとした口調で答える。
「確かめてどうするんです?」
「もちろん、お客様に提供するのよ。今日は女性三人組の予約があるし、ちょうど良いわ」
「じゃあ、自分で入れば良いじゃないですか」
「あら~? ヒロ君、私と一緒にお風呂に入りたかったの?」
「……む、むう」
突然の言葉に、ヒロは動揺を隠すように唸り声を漏らす。
センダンは、愉快そうに目を細めて、そんなヒロの反応を見ていた。
いつも通り、からかわれただけである。
「……それより早い所済ませましょう。温泉の素、入れて下さい」
「はいはいっと。ええと……一つまみで十分効果があるみたいね」
ヒロに急かされたセンダンが、小瓶の掠れた文字を読んでから、コルクの蓋を捻る。
小気味良い音がして蓋は開き、ほのかにビャクダンのような甘い香りが漂ってきた。
中の粒を一つまみ浴槽に注ぐと、注がれた箇所が茶色く変色する。
「ぽこぽこ~」
「なんですかそれ」
「温泉の素の歌。ぽこぽこ~」
センダンが聞いた事もない鼻歌を歌いながら、掻き棒でお湯をかき混ぜる。
変色は瞬く間に浴槽全体に浸透し、それと同時に、湯の中から無数の大きな気泡が浮かび上がるようになった。
湯面は気泡で大いに波立ち、センダンの鼻歌通りに、ぽこぽこと間の抜けた音が浴室に響き渡る。
「あれ……意外と、普通に使えそう……?」
浴槽に手を掛けて湯面を覗き込みながら、ヒロが言う。
試しに湯を手ですくってみたが、特に痛かったり痒かったりする事はなかった。
「ほらね。言った通りでしょ? 大丈夫なんだって」
「ふむ……それじゃあ……」
センダンの言葉に背中を押されて、思い切って浴槽に脚を入れる。
湯はやや温めにしていたが、それでも熱が急激に伝わってきて脚が瞬時に温まる。
脚を振って湯をかき混ぜつつ腰を下ろす事で、その熱気が全身に行き渡った。
「ふむ……」
湯に漬かりながら、両手で湯をすくって顔を近づける。
色のみならず、ビャクダンの香りもしっかりと湯に浸透している。
体に吹き上げてくる気泡の感触も良かった。
「ヒロ君、ど~お?」
センダンが中腰になり、間延びした口調で尋ねる。
「気持ち良いですよ。ちゃんと温泉っぽくなってます」
ヒロは正直に答える。
「おぉー、まさか本当に大丈夫だったとは」
「センダンさん……?」
「あ、いやいや、気にしないで良いわ。それより、これならお客様が入浴する時にも使えそう?」
「……まあ、良いか。ええ、使えると思いますよ。喜んで貰えるでしょうし、早速今日から使ってみましょう」
「よーし、きーまりっ!」
センダンがガッツポーズを取る。
それが良くなかった。
勢いが付きすぎたのか、彼女の手に握られていた小瓶がすり抜けてしまい、浴槽の中へ飛び込んでしまう。
「「………」」
二人して、沈みゆく小瓶を見る。
小瓶の中の粒はすぐに解けてしまった。
「……一つまみで良いんでしたよね?」
「うん。……全部、入っちゃったね……」
薄茶色の湯の色は濃茶色へと変色する。
気泡の量も、じわじわと増え始めた。
量だけではない。浮かび上がる速度もより早く、サイズもより大きくなっている。
気泡が弾ける音が、ポコポコという可愛らしい音から、ボコボコという不気味な音へ変わる。
そのボコボコが、ボボボ、と地鳴りのような音に変わるまでには、そう時間を要しなかった。
「……センダンさん」
「……ヒロ君」
顔を見合わせあう二人。
次の瞬間、二人は弾き出されるように立ち上がる。
「「逃げろ~~っ!!!」」
内部に凄まじい熱膨張が発生した湯が、強烈な炸裂音を立てて浴槽の一部を破壊するのは、
彼らが更衣室に逃げ込んだ、まさにその瞬間であった。
◇
兄花島の中央には、標高百メートル程の小さな山がある。
見目麗しい樹木が植えられているわけでもなければ、珍しい生物が生息しているわけでもない、
生態系としては取り立てるべき点がない普通の山なのだが、夕方から夜にかけて山を登る者は多い。
それというのも、山頂に銭湯が建っている為である。
海桶屋同様に温泉ではないが、兄花島全体を見渡す事の出来る展望露天風呂の評判が良い。
観光客のみならず、島民にも人気のある銭湯なのである。
この日の夜、ヒロはその銭湯に向かう馬車を操っていた。
複数名が乗り込める幌を引いた照明付きの馬車で、ギルドから借りたものである。
幌付きで馬の疲労も大きい為に、貸し出し料は馬鹿にならないのだが、借りざるを得なかった。
日中の温泉の素騒ぎで、海桶屋の浴槽が壊れたのである。
幸いな事にヒロもセンダンも怪我はしていないが、積まれていた石の幾つかが吹き飛んだ。
そこから湯が洩れてしまう為に、ロビンから業者を呼ばなくては直す事が出来ない状態だ。
当然、その日の予約客が使用する事はできない。
自分達も汗を流す事ができない。
そこでヒロらは、客に事情を説明して同意を得た上で、急遽ギルドから馬車を借りて、山頂銭湯に案内する事にしたのである。
(こういう時はセンダンさんがいると助かるなあ……)
馬車の手綱を握りながら、ちらと幌の中を振り返る。
中では、この日の宿泊客である若い三人の女性客とセンダンが、早くも打ち解けて雑談に興じていた。
長々とよそ見をするわけにもいかないのですぐに前を向くが、耳に届く声によれば、
どうやら女性客らが、海桶屋の仕事について質問しており、それにセンダンが回答しているようである。
はっきりとは聞こえないが、時折笑い声も漏れる辺り、センダンが砕けた話題を提供しているのだろう。
自分では、こうはいかない。
案の定、この女性客らにも、初対面の際には大いに怖がられてしまった。
仮に怖がられなかったとしても、センダン程に客と打ち解けられる自信はない。
時たまドジを踏むのが玉に傷、今回は風呂にまで傷が入ってしまったが、それでも彼女は海桶屋にとって欠かせない人物である。
「それでね、ヒロ君がまた子供を泣かせちゃったんですよー!」
一際大きな声が聞こえてくる。
本当に欠かせないのか、改めて考えるヒロであった。
フロントの受付台で、ヒロは頬杖をつきながら大きな欠伸をする。
ヒロの一日の中で、もっとも暇な時間が、正午から夕方にかけての時間である。
この時間は、食材の仕入れや、客の確認、備品確認等の雑用に割り当てているのだが、
食材の仕入れに少々時間を要するだけで、他の仕事はそれ程手間ではなく、すぐにやる事はなくなるのである。
だが、やる事がないからと言って遊び呆けていては、万が一予約なしの客が来た時に体裁が悪い。
その為、ヒロはこの時間を受付台の前で過ごしている。
「……まだ、外は暑そうだなあ」
海側に面している、開け放たれた窓の外を眺める。
季節はもう九月だが、差し込んでくる太陽の日差しはまだまだ暑く、そして眩い。
中年の男性が外を歩いていたが、衣服は外の暑さを表すように丈が短く、そこから覗いている四肢は浅黒く日焼けしている。
耳には、蝉の鳴き声が微かに届く。
それでも、八月に比べれば鳴き声も大分弱まっている辺り、夏は少しずつ終わりに近づいているのだろう。
その蝉の鳴き声の中に、元気な足音が混じりだした。
付近を駆けているような足音が、海桶屋の前で止まる。
足音の主を察したヒロは腰を上げると、隣接する厨房からよく冷えた麦茶を取り出した。
コップに注いでフロントに戻ってくると、案の定、海桶屋の土間でセンダンが靴を脱いでいた。
ヒロと同じく正午以降が暇であるセンダンは、この時間にウメエの所に料理修行に行く事が多い。
この日も彼女はウメエの所に料理修行に出かけていたのであった。
「た~だいま~! う~暑いよぉ~……」
「お疲れ様です。麦茶用意しましたよ」
「おっ、気が利くじゃないの!」
受付台の上に麦茶を置くと、餌に飛びつく犬のように、センダンがフロントに上がってきた。
彼女は喉を鳴らしながら、麦茶を一気に飲み干してしまう。
見ていて気持ちの良い飲みっぷりだった。
「ぷはあっ! ご馳走様~」
「いえいえ。……で、修行の方はどうでしたか?」
ヒロはあまり期待を込めずに尋ねた。
「うん、バッチリ! 今日のお客様に出す夕食の準備、手伝うから!」
「いや、間に合ってます」
即答する。
突っぱねても食い下がるのがセンダンだが、突っぱねなければ、なお乗り気になる。
「あそ。まあ良いわ」
だが、この日のセンダンは違った。
あっさりと引き下がると、肩にかけていたバッグを漁りだす。
「……何かあるんです?」
「うん、何かあるのよ」
そう告げて、センダンがバッグから小瓶を取り出した。
コルクの蓋がしてある小瓶で、中には茶色い粒が詰まっている。
なにやら文字が書かれた紙が貼ってあるのだが、相当古いもののようで、
紙は薄茶色に変色していて、文字も擦れて読み難い。
「これ、温泉の素!」
センダンが小瓶を受付台に置く。
「はあ……」
「ウメエさんが蔵を掃除していたら出てきた物を貰ったの。
思い出せない位昔の物らしいけれど、ただの温泉の素じゃないのよ!
マナの力が篭っていて、ぽこぽこ泡が吹き出るんだって!」
「………」
ヒロは何も言わずに眉をひそめる。
海桶屋の風呂は、温泉ではない。
そもそも兄花島には源泉がなく、温泉の引き様がないのである。
浴場に張られるのは、ただのお湯なのである。
すなわち……温泉の素は有効なのだが、まともな品に限った話だ。
(そんな古い物、絶対怪しいって……)
いぶかしみに満ちた表情でセンダンを見れば、彼女は楽しげに小瓶を回している。
温泉の素に夢中になって、ヒロの事はあまり気にしていないようだ。
逃げよう。
瞬時に、その言葉がヒロの脳裏に浮かび上がる。
物音を立てないよう、ゆっくりと立ち上がった……その時である。
「ねえヒロ君、良い事思いついたんだけど!」
「そらきた……」
先にそう言われては、そのまま逃げるわけにもいかなかった。
額に手を当て、浮かした腰を下ろす。
一方のセンダンは、肩を交互に揺らして、ヒロが腰を据えるのを待ち構えていた。
「そらきた、とは分かってるじゃない」
「いや、そういう意味じゃありませんが……で、今回は何を思いついたんですか?」
大方の予想はできているが、一応尋ねる。
「もちろん、この温泉の素を使ってみるのよ!」
「駄目です。危ないですよ、それ。
得体が知れないし、使用期限だって絶対切れていますよ!」
「大丈夫、大丈夫だって!」
「大丈夫な根拠、何もないじゃないですか! 水道代だって馬鹿になりませんよ!」
「安い、安いって!」
「安くありません!!」
センダンと押し問答を繰り広げる。
だが、そうしてセンダンの言葉を突っぱねながらも、ヒロにはうっすらと結果が見えていた。
センダンの『良い事』を説き伏せるのは、なかなかに難しいものなのである。
燦燦さんぽ日和
第十二話/山頂銭湯
海桶屋の入浴施設は小さい。
四畳程の更衣室と六畳程の浴場があるだけで、当然ながら五人も十人も同時に入る事ができる程のものではない。
その為、チェックインの際に入浴希望時間を確認し、団体毎に時間を決めて使用してもらっていた。
小さい上に温泉ではない事は経営側も気にしており、せめて見た目だけでも風情があるものにしようと、
更衣室は侘びた木製部屋に仕上がっており、浴槽も、直径三十センチ程の大きさの石を並べて作ってある。
チェックインと同時に入浴したいという客も少なくない為、大抵は午前中のうちにセンダンが浴槽の掃除を終えている。
この日も既に掃除を終えており、湯を溜めるだけですぐに入浴できる状態であった。
……センダンに提案を押し切られてから、約一時間後。
湯気が立つ浴槽の前には、バスタオルを腰に巻いただけのヒロと、衣服を纏っているセンダンの姿があった。
「……で、温泉の素を使うのに、なんでお風呂に入らなきゃいけないんです?」
ヒロは腕を組みながら、隣にいるセンダンに問う。
バスタオルを巻いているとはいえ、それ以外は何も纏っていない状態はさすがに恥ずかしい。
その動揺を誤魔化す為に、ヒロはわざと、怒ったような声を出していた。
「だって、効能を確かめなきゃいけないじゃない」
センダンはあっけらかんとした口調で答える。
「確かめてどうするんです?」
「もちろん、お客様に提供するのよ。今日は女性三人組の予約があるし、ちょうど良いわ」
「じゃあ、自分で入れば良いじゃないですか」
「あら~? ヒロ君、私と一緒にお風呂に入りたかったの?」
「……む、むう」
突然の言葉に、ヒロは動揺を隠すように唸り声を漏らす。
センダンは、愉快そうに目を細めて、そんなヒロの反応を見ていた。
いつも通り、からかわれただけである。
「……それより早い所済ませましょう。温泉の素、入れて下さい」
「はいはいっと。ええと……一つまみで十分効果があるみたいね」
ヒロに急かされたセンダンが、小瓶の掠れた文字を読んでから、コルクの蓋を捻る。
小気味良い音がして蓋は開き、ほのかにビャクダンのような甘い香りが漂ってきた。
中の粒を一つまみ浴槽に注ぐと、注がれた箇所が茶色く変色する。
「ぽこぽこ~」
「なんですかそれ」
「温泉の素の歌。ぽこぽこ~」
センダンが聞いた事もない鼻歌を歌いながら、掻き棒でお湯をかき混ぜる。
変色は瞬く間に浴槽全体に浸透し、それと同時に、湯の中から無数の大きな気泡が浮かび上がるようになった。
湯面は気泡で大いに波立ち、センダンの鼻歌通りに、ぽこぽこと間の抜けた音が浴室に響き渡る。
「あれ……意外と、普通に使えそう……?」
浴槽に手を掛けて湯面を覗き込みながら、ヒロが言う。
試しに湯を手ですくってみたが、特に痛かったり痒かったりする事はなかった。
「ほらね。言った通りでしょ? 大丈夫なんだって」
「ふむ……それじゃあ……」
センダンの言葉に背中を押されて、思い切って浴槽に脚を入れる。
湯はやや温めにしていたが、それでも熱が急激に伝わってきて脚が瞬時に温まる。
脚を振って湯をかき混ぜつつ腰を下ろす事で、その熱気が全身に行き渡った。
「ふむ……」
湯に漬かりながら、両手で湯をすくって顔を近づける。
色のみならず、ビャクダンの香りもしっかりと湯に浸透している。
体に吹き上げてくる気泡の感触も良かった。
「ヒロ君、ど~お?」
センダンが中腰になり、間延びした口調で尋ねる。
「気持ち良いですよ。ちゃんと温泉っぽくなってます」
ヒロは正直に答える。
「おぉー、まさか本当に大丈夫だったとは」
「センダンさん……?」
「あ、いやいや、気にしないで良いわ。それより、これならお客様が入浴する時にも使えそう?」
「……まあ、良いか。ええ、使えると思いますよ。喜んで貰えるでしょうし、早速今日から使ってみましょう」
「よーし、きーまりっ!」
センダンがガッツポーズを取る。
それが良くなかった。
勢いが付きすぎたのか、彼女の手に握られていた小瓶がすり抜けてしまい、浴槽の中へ飛び込んでしまう。
「「………」」
二人して、沈みゆく小瓶を見る。
小瓶の中の粒はすぐに解けてしまった。
「……一つまみで良いんでしたよね?」
「うん。……全部、入っちゃったね……」
薄茶色の湯の色は濃茶色へと変色する。
気泡の量も、じわじわと増え始めた。
量だけではない。浮かび上がる速度もより早く、サイズもより大きくなっている。
気泡が弾ける音が、ポコポコという可愛らしい音から、ボコボコという不気味な音へ変わる。
そのボコボコが、ボボボ、と地鳴りのような音に変わるまでには、そう時間を要しなかった。
「……センダンさん」
「……ヒロ君」
顔を見合わせあう二人。
次の瞬間、二人は弾き出されるように立ち上がる。
「「逃げろ~~っ!!!」」
内部に凄まじい熱膨張が発生した湯が、強烈な炸裂音を立てて浴槽の一部を破壊するのは、
彼らが更衣室に逃げ込んだ、まさにその瞬間であった。
◇
兄花島の中央には、標高百メートル程の小さな山がある。
見目麗しい樹木が植えられているわけでもなければ、珍しい生物が生息しているわけでもない、
生態系としては取り立てるべき点がない普通の山なのだが、夕方から夜にかけて山を登る者は多い。
それというのも、山頂に銭湯が建っている為である。
海桶屋同様に温泉ではないが、兄花島全体を見渡す事の出来る展望露天風呂の評判が良い。
観光客のみならず、島民にも人気のある銭湯なのである。
この日の夜、ヒロはその銭湯に向かう馬車を操っていた。
複数名が乗り込める幌を引いた照明付きの馬車で、ギルドから借りたものである。
幌付きで馬の疲労も大きい為に、貸し出し料は馬鹿にならないのだが、借りざるを得なかった。
日中の温泉の素騒ぎで、海桶屋の浴槽が壊れたのである。
幸いな事にヒロもセンダンも怪我はしていないが、積まれていた石の幾つかが吹き飛んだ。
そこから湯が洩れてしまう為に、ロビンから業者を呼ばなくては直す事が出来ない状態だ。
当然、その日の予約客が使用する事はできない。
自分達も汗を流す事ができない。
そこでヒロらは、客に事情を説明して同意を得た上で、急遽ギルドから馬車を借りて、山頂銭湯に案内する事にしたのである。
(こういう時はセンダンさんがいると助かるなあ……)
馬車の手綱を握りながら、ちらと幌の中を振り返る。
中では、この日の宿泊客である若い三人の女性客とセンダンが、早くも打ち解けて雑談に興じていた。
長々とよそ見をするわけにもいかないのですぐに前を向くが、耳に届く声によれば、
どうやら女性客らが、海桶屋の仕事について質問しており、それにセンダンが回答しているようである。
はっきりとは聞こえないが、時折笑い声も漏れる辺り、センダンが砕けた話題を提供しているのだろう。
自分では、こうはいかない。
案の定、この女性客らにも、初対面の際には大いに怖がられてしまった。
仮に怖がられなかったとしても、センダン程に客と打ち解けられる自信はない。
時たまドジを踏むのが玉に傷、今回は風呂にまで傷が入ってしまったが、それでも彼女は海桶屋にとって欠かせない人物である。
「それでね、ヒロ君がまた子供を泣かせちゃったんですよー!」
一際大きな声が聞こえてくる。
本当に欠かせないのか、改めて考えるヒロであった。
0
身内の者に描いてもらっています。
お気に入りに追加
49
あなたにおすすめの小説
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。

【完結】愛も信頼も壊れて消えた
miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」
王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。
無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。
だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。
婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。
私は彼の事が好きだった。
優しい人だと思っていた。
だけど───。
彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。
※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。

【完結】転生7年!ぼっち脱出して王宮ライフ満喫してたら王国の動乱に巻き込まれた少女戦記 〜愛でたいアイカは救国の姫になる
三矢さくら
ファンタジー
【完結しました】異世界からの召喚に応じて6歳児に転生したアイカは、護ってくれる結界に逆に閉じ込められた結果、山奥でサバイバル生活を始める。
こんなはずじゃなかった!
異世界の山奥で過ごすこと7年。ようやく結界が解けて、山を下りたアイカは王都ヴィアナで【天衣無縫の無頼姫】の異名をとる第3王女リティアと出会う。
珍しい物好きの王女に気に入られたアイカは、なんと侍女に取り立てられて王宮に!
やっと始まった異世界生活は、美男美女ぞろいの王宮生活!
右を見ても左を見ても「愛でたい」美人に美少女! 美男子に美少年ばかり!
アイカとリティア、まだまだ幼い侍女と王女が数奇な運命をたどる異世界王宮ファンタジー戦記。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる