糠味噌の唄

猫枕

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  昭和60年。

  黒田 町子、小学6年生12才。

 彼女の暮らす若葉団地は今風の戸建てが立ち並ぶ新興住宅地だが、幹線道路を一本隔てると戦前にタイムスリップしたかのような黒い瓦葺きの日本家屋や田畑が広がる前時代的な地域である。

 その新興住宅地とて、元は近隣農家の所有する土地であっただろうに、旧住民と新住民の間には軋轢のようなものがあった。

  資金繰りに困って売ったのか、住宅難を解消するために行政から要請があったのか、はたまた農業を続けるのが嫌だったり後継ぎがいなかったりしたのか理由は判らないが、団地開発は彼らの懐を潤したにも関わらず旧住民は新住民を快く思っていないようだった。

 「俺たちから安い金で土地を奪っておいて家を建てて大きな顔しやがって」

 旧住民の年寄りが事あるごとにそんなことを言うのを町子は何度となく聞いた。

 小洒落た洋風の家に住んで都市部に働きに行くというスタイルが年寄りには癪に障るし、嫁姑問題とは無縁の核家族のお気楽さが旧地区の奥さん達にとっては妬みの種であった。

 「あっち行くと肥やしの臭いがするもんな」

 よせばいいのに新住民の中にも旧住民を刺激する者がいる。

 トイレが水洗化されている団地と違って未だにバキュームカーが来る旧地区。
 旧住民が新住民を目の敵にする一番の理由はその辺にあったかのかもしれない。

 大人同士はお互いを  
 
 『あっちの人達』

 と呼んだ。

 旧住民は新住民が団地内だけで自治会を作ったのが気に食わないし、かといって新住民が旧地区の自治会に入りたいと言ったとしてもよそ者を入れてやるつもりもなかったし、旧地区の祭りには絶対に新住民の参加を許さなかった。

 祭りに参加できない子供達を不憫に思った親たちが団地の子供会で夏祭りを開催すると、それがまた旧地区の住民の神経を逆撫でする。

 そんな具合で大人は互いを避けていたが、子供同士はそうでもなかった。

 どっちの地区に住んでいても行く学校は同じなのだから、一緒の時間を過ごしていれば次第に仲良くなるのが普通だと思う。


 町子が育ったのはそういう環境の土地だった。

 
 「町子ちゃんはいいよね」

「なんで?」

「だって、お母さんが『あっち』の人なんでしょ?
 だから町子ちゃんは、どっちの人とも仲良くできるじゃない。
 私、タカシ君と仲良くしたいけどタカシ君は『こっち』の子とは話してくんないもん」

 大抵の子供達は波風立てずに過ごしているのだが、中には親に感化された子もいて、そういう子は敵愾心をむき出しにしてくる。

「え~、りっちゃんタカシ君が好きなの?」

 「誰にも言わないでよ!」

「わかった。約束する」

「タカシ君って、チェッ◯ーズのフミヤンに似てるよね?」

「・・・そうかな?」


 タカシは確かに顔は良いかも知れないが、旧地区を体現したような排他的な言動の目立つ子だ。

『りっちゃん趣味悪っ』

と心の声が漏れそうになる。


 町子の母 久子は『あっち』の出身だ。
 そのお陰で町子がどっちの人とも比較的良好な関係を持てているのは事実だ。

 しかし、一方で『あっち』の人の中には久子を裏切り者のように扱う人達もいて内情は少々複雑だ。
 

 まあ、そんなことをりっちゃんに言っても仕方がないので、

「じゃ、また明日ね」

 と分かれ道で手を振る。

「ウチで遊んでいけばいいのに」

「手伝いしないと叱られるから」

 町子はパートで働く母の代わりに洗濯物を取り込んで畳むのと米を研いで炊飯器にセットしておくこと、そして風呂掃除をしておかなければいけない。
 
  二人いる弟たちは手伝いなんて何もしなくても怒られないのに、母が戻って来た時に弟たちが茶の間を散らかしていたりすると理不尽に怒られるのは町子だ。
 


 「ただいま」

 首からぶら下げた鍵で家に入ると、玄関にランドセルが2つ投げてある。

 弟たちは遊びに行ったみたいだ。

 町子は手を洗うと台所を物色する。

 食べ盛りですぐにお腹がすくのに、今日の給食は町子がどうしても苦手で食べられない鶏肉の焼いたやつだった。

 お菓子も何にもない。

 きっと弟たちが町子の分まで食べてしまったのだろう。
 いつものことだ。

 戸棚に冷やご飯が丼に入れてあるのを見つける。

 海苔もふりかけも無い。

 あ、そうだ。

 糠漬け食べよう。

 気の短い母に怒鳴られながらやらされている家事全般が嫌いな町子だったが、母が糠漬けをつける様子を見るのだけは好きだった。

 粘土でもこねているみたいで面白そうだった。

 私もやりたい!そう言ったが母はやらせてくれなかった。

 子供の汚い手で触ると糠味噌が腐るというのだ。

 町子は石鹸を使って念入りに手を洗ってから糠床の入った壺を流し台の下から引き摺り出した。

 蓋を開けると左官屋さんがコテで塗った壁みたいにピチーと表面が滑らかに整えられた糠味噌が出てきた。

 町子は恐る恐る手を差し入れる。

 なんともいえない気持ち良い感触。

 キュウリ一本くらいならバレないだろう。

 そう思ってグイと突っ込んだ手に、妙な感覚が伝わる。

 野菜の類いとは明らかに違う異物感。

 なんだろう?

 引き上げた物体は糠味噌が付着して塊になっている。

 糠味噌を拭い取ってみると、町子の目に入ってきたのは変色した爪のついた人間の指だった。
 
町子が握っているのは手首だった。


 口から心臓が飛び出す、という表現があるが町子が感じたのは正にそれだった。

  町子は叫び出したくなるのを必死にこらえて取り出した物を元に戻した。

 糠床の奧に押し込むと急いで糠味噌で覆った。

 そして震えながら元通りに見えるようにピチーと糠味噌の表面を整えた。

 隠さなければいけない。
 気づかなかったフリをしなければいけない。

 町子には直感的に分かっていた。

 そうしなければこの平穏な日常はあっという間に崩れ去ってしまうのだと。


 町子は風呂場に行った。

 掃除をしながら何度も襲ってくる吐き気と戦った。

 普通にしなければ、普通にしなければ。

 何度も自分に言い聞かせる。

 私は何も見なかった。

 

  パートから帰って来た母がいつもと変わらない様子で夕食を作る。

 ずっと帰りが遅くてこのところ碌に姿を見たこともなかった父が、最近は早く帰って来るようになった。

 そしていつもイライラしていた母の機嫌も良い。

「旨いな」

 父が糠漬けのキュウリをポリポリと噛む音が茶の間に響いていた。
 
 


 
 
 
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