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1巻

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 亜耶はを『死亡フラグ』と呼んでいる。
 ゲームやアニメなどに、ストーリーが確定する条件という意味をもつ『フラグ』という言葉があるが、亜耶が『フラグ』と呼んでいるは、見逃せば親しい人が死亡する印だ。
 この『フラグ』が見える能力は、亜耶が物心ついた頃には発現していた。だから本人は不思議には思っていない。
 亜耶の実家は今でこそ普通のサラリーマン家庭だが、もともとの血筋をたどると、地元で大きな神社を任されていて、霊能力者を多く輩出していたらしい。
 嘘か本当か謎だけれども、中には霊体を違う場所に飛ばしたり時をさかのぼったりする能力がある人までいたそうだ。
 その家系のせいなのか、亜耶には他人の死の予兆が見える。死期が近い人がいると実際の景色に、その人物が死亡する時の情景が重なって見えるのだ。
 小さな頃はそれがよく分からなくて、周りの人たちをずいぶんとおびえさせた。そんな亜耶の唯一の理解者は祖母だ。亜耶は祖母にこう訴えかけた。

「見える風景が緑っぽい時は大丈夫なの。でも赤い時はダメ。どうしても絶対に死んじゃうの」

 見える景色には二種類ある。緑がかった景色と、赤がかった景色だ。
 緑のフィルターが掛かっている時は、その未来は確定していないらしく、亜耶のアドバイスで死を回避することができる。
 だが赤い景色の時は、どうやっても変えることができなかった。
 赤い景色の中にいた優しい曾祖父が亡くなった際、泣きじゃくる幼い亜耶を抱きしめて、祖母はなぐさめてくれた。
 その後、祖母の死亡フラグが見えた時は緑で、映像で原因が分かったので、早めに病院で診察を受けてことなきを得たという経験もある。

「だから、亜耶ちゃんの能力は悪いものじゃないの。きっと結婚して赤ちゃんを産む頃にはなくなるはずよ。ばあちゃんの亡くなった姉ちゃんがそうだったからね」

 病室の祖母は、子供の頃と同じように亜耶の頭をでてくれたのだ。
 そしてその後、フラグを見ることはあまりなくなった。


 ところが、今、久しぶりにフラグを見ている。
 それは緑のフィルターが掛かった景色だ。
 深夜、街灯のほとんどない細い道を歩く恭介。そんな時間に誰も歩いているわけがないと思っていたのであろう、中型トラックがすごいスピードで突っこんで恭介をね飛ばした。慌ててブレーキを掛けるトラック。だが、十数メートル飛んだ恭介は頭からアスファルトにたたきつけられて……

(でも、緑……だよね)

 見える映像は怖いし、このままだと課長は死んでしまう。
 けれど緑のフラグなら、その状況を回避できるのだ。

(課長が……いなくなるなんて絶対嫌。何があってもあの死亡フラグは折らなくちゃ。朝になるまで足止めしたら、あれは実現しないんだよね……だから……)

 そう冷静に判断したつもりだったが、実際は酔っぱらいである。亜耶はその状態で、シャワーを浴びている彼のもとにフラフラと向かったのだった。


     ***


 ──ぴぴぴ。ぴぴぴ……
 いつもどおりの時間にアラームが鳴り、亜耶は目を開けた。次の瞬間、布団の中の自らの格好に目をみはる。

「……なんで私、裸なの?」

 必死に働かない頭を動かす。
 昨日は確か、課内の飲み会だった。

(私……昨日、何をしたっけ?)

 ゆっくりと昨日のことを思い出す。
 そう、飲み会で運よく荻原課長の隣の席に座ることになり、それが嬉しくて随分飲んでしまった記憶がある。
 挙句の果てに酔っぱらった亜耶を心配した恭介が、タクシーで送ってくれたのだけど……

「うわああああああ!」

 そこまで思い出すと、亜耶は布団をかぶり頭を抱えた。
 その夜の記憶は、それこそ快楽に呑みこまれて朦朧もうろうとしている。だが、経緯は理解できた。
 恭介に立った死亡フラグを見て、酔った勢いでなんとか止めようと決意し、彼がシャワーを浴びている浴室に乱入した。そしてとにかく外に出させまいと、あんな恥ずかしいことやこんな乱れまくりなことをしてしまったのだ。

「あ……あの、か……課長?」

 慌ててあたりを見渡しても、恭介の姿はない。
 裸の自分が恥ずかしく、タオルケットで体を隠しながらベッドを出ると、昨日一晩を一緒に(しかも激しく!)、過ごしたはずの人を探した。

(てか、あんなはしたないことしちゃって……私、嫌われた、よね?)

 よりによって全裸の恭介を襲ったのだ。痴女ちじょだと非難されても文句は言えない。

「あああ……」

 後悔に満ちたため息をこぼした瞬間、テーブルの上にメモを見つけた。

『昨日はすみませんでした。私が汚してしまった藤野さんの服は後でクリーニングに出してください。代金はこちらで払います。よく寝ているようだったので、申し訳ありませんがこのまま失礼します』

 几帳面な文字で書かれた丁寧な言葉。課長の文字だ、と思うと、ぎゅっと抱きしめたくなる。
 けれど、メモだけ残して姿が見当たらないのって……もしかして、あんまりいい兆候じゃないのかも。

「あああ、もう……なんであんなことしちゃったかなあ、私」

 ──ぴぴぴ。
 その瞬間、二度目のアラームが鳴り、亜耶ははっとした。

「やば、仕事に行かないとっ」

 慌てて着替えを済ませて化粧もほどほどに、部屋を飛び出す。

(課長は……確か支社に直行で、今朝はオフィスには来ないはず……)

 それが少しだけ救いだ。あんなことがあった後、どんな顔をして彼の前に出たらいいのか分からない。
 とりあえず現時点でできることは、可能な限り早く、普段のモードを取り戻すこと。
 ちゃんと「送っていただいてありがとうございました」と恭介にお礼を言って、何もなかった顔をする。
 それだけを心に誓って亜耶は出社したのだった。


     ***


「亜耶ぁ。昨日大丈夫だった?」

 目立たないようにこっそりと席に着こうと思ったのに、出社直後、亜耶はさっそく早苗に捕まった。

「あ……うん。ちょっと飲みすぎちゃったけど、大丈夫」
「そっかあ。まあ課長が送っていくって言ったから、みんなはあんまり心配してなかったけど。あ、課長は今朝こっちに来ないのね」

 行動予定が書かれたホワイトボードを確認すると、早苗はくるっと回転して、再び亜耶の耳に唇を寄せる。

「で? 課長と何か進展はあった? 部屋に誘っちゃったりとか、課長に誘われてホテル行っちゃったり……とか?」

 その言葉に、亜耶は思わず目を見開く。

「……ってそんなこと、初心うぶな亜耶にできるなら、こんなに苦労してないよね~。でもって課長もそういう無茶しそうなタイプじゃないし」

 早苗に頭をポンポンとでられたのを幸いに、慌てて下を向いてごまかす。

(いや……そう! 本来ならできないはず。なんだけど……)

 送り狼ならぬ送られ狼ばりに、憧れの人を浴室に連れこんであんなことしちゃったとか……仲の良い同僚でもとても言えない。
 しかも相手は、堅物で真面目な荻原総務課長だしっ。

「あ、私、メールチェックしないと……」

 ぼそぼそとつぶやきながら亜耶はパソコンを起動して、メールチェックをするふりをした。

「課長も……亜耶のこと、相当気に入っていると思うんだけどなあ……」

 肩をすくめた早苗は、そうつぶやくと自分の席に戻っていく。
 メールを見つつも物思いにふけっていた亜耶には、そのつぶやきは聞こえなかった。


 数分後。ふと顔を上げ、亜耶はあたりを確認した。すでに早苗も業務を開始している。
 ざわざわと人が会話する声と、コーヒーの匂い。いつもどおりの朝だ。

(もう、昨夜のあの映像は浮かばない。ちゃんと課長の緑のフラグは折れたはず。だから大丈夫)

 離席し、届いた新聞をラックに整理しながら、さりげなく三面記事を確認した。当然のことながら恭介の事故の記事はない。
 でもあのまま帰宅すれば、彼は今朝には亡くなって、この新聞の三面記事に死亡事故の被害者として載っているはずだったのだ。その風景まで亜耶は見ていた。
 だから必死になったのだけど……

(といっても……なんであんなことになっちゃったのかな。もっと穏当な止め方があったはずなのに。でも……昨日の、課長すごかった……気がする。私、途中から、記憶飛んじゃってるけど……)

 浴室でした後は、服を脱がされて、そのままベッドに押し倒された。普段穏やかで優しい人なのに、ああいう時はちょっとSっぽくて、すっごく激しくて……

『……藤野さんがこんなにエロいとは思っていませんでした』

 欲望で熱っぽくかすれた声が脳裏によみがえり、ゾクリと身を震わせる。
 乱れる呼吸。可愛いと何度もささやいてくれた声。かすかに香るハーバルノート。大きな体に四肢を組み敷かれて、何度も達してしまったこと。

(……人のこと、エロいとかって……っ。エロいのは課長の方、ですからあああああ)

 自分の経験値が高くないことを、亜耶は自覚している。
 だから、あれほど感じさせられたこと自体、青天の霹靂へきれき、空前絶後の事態だ。

(というか……課長ってば、仕事もできるけど、ベッドでもできる人なんですかっ)

 いっぱいされて……すごく気持ちよか……。って、あぁ、何、馬鹿なコト思い出してるの。落ちつけ。自分。
 一度トイレに行って顔を洗おうと深呼吸する。
 昨日のことを一瞬思い出しただけで、平常心ではいられない。思い出しただけで体がうずいて……ぞわぞわした。

(でも課長……本当に大丈夫だった、んだよね?)

 トイレに向かう途中で、昨日バスルームに入る前に見えた光景を思い出し、亜耶はふるっと体を震わせた。
 あんな怖い映像を見た後だから、大丈夫だと分かっていても不安だ。
 今日、恭介は支社に直行し、社内環境改善のためのヒアリングを行っている。日帰り出張だから戻ってくるのは夕方だろう。
 明日には先日行った社内アンケートの結果を恭介に確認してもらわないといけない。
 洗面所に行ったものの化粧後の顔を洗うわけにもいかず、亜耶は冷たい水で手を洗う。

(ちゃんと……普通に顔合わせられるのかな……)

 鏡に映る自分は顔が赤い以外は、いつもと変わらないように見える。あんなみだらな夜を過ごしたとはとても思えない。

(よし、あれは私の妄想。私の夢。……なかったことにしよう)

 パシンと顔を両手でたたいて気合を入れる。

「だけど課長、緑でよかったな……」

 色々と恥ずかしいことになってしまったけれど、今朝も恭介が生きていてくれることが何よりも嬉しい。片思いでも、本当に大好きな人だから……
 きっとフラグのことを伝えれば気味悪いと思われる。今までだって身内以外に信じてもらえたためしはない。しかも昨夜はあんなことになってしまったため、今更説明しても嘘だと思われるだろう。逆にもう絶対に言えなくなった気がする。
 他に適当な理由をつけてごまかさないといけない。
 真面目な恭介のことだ、部下と不適切な関係になったことをきっと申し訳ないと考えている。これ以上、彼に負担を掛けたくない。
 というか、恥ずかしくて自分もいたたまれないし……

「とりあえず、笑顔で乗り切る!」

 冷え切った両手で頬をぎゅっと包み赤みが引くのを確認してから、亜耶はトイレを出たのだった。


 ……冷静に考えれば、部下とのあやまちを申し訳なく思うような人は、場所をベッドに移してからもなお、何度も抱いたりしないだろうことに……経験値が低くて迂闊うかつな亜耶は全く気づいていなかったのだった。


     ***


「課長……アンケートの集計結果なんですが」

 翌日。恭介は忙しく社内を動き回っていて、なかなかコンタクトを取れなかった。ようやく顔を合わせることができたのは夕方だ。

「あ、ああ。藤野さんに頼んでいたんでしたね。はい、拝見させていただきます」

 一瞬の間があったものの、いつもどおりふわりと笑みを浮かべた恭介に、亜耶はほっと息をつく。

「はい。確認お願いします。何か問題があれば、声を掛けてください」

 それだけ言うと会釈えしゃくをして、そそくさと自分の席に戻る。それから視線を上げ、真剣な顔で書類を確認する恭介の様子を盗み見た。

(よかった……いつもどおりの課長だ……)

 あんなことをした自分にどういう態度を取るだろうかと心配したけれど、少なくとも表面上は今までと変わらない。そう思ってホッと安堵あんどのため息をこぼした瞬間、顔を上げた恭介と視線が合ってしまった。

「藤野さん?」

 呼ばれて慌てて席を立つ。

「何か問題がありましたか?」
「いえ、書類は問題ありません。ありがとうございました。それでこの後、少し付き合っていただけませんか? 役員会議のために会議室の準備をしないといけないので。あ、もちろん、お忙しいなら他の人に頼みますが」

 恭介に申し訳なさそうにたずねられて、亜耶は顔を左右に振った。

「大丈夫です。お手伝いします」
「そう、よかった。じゃあよろしくお願いします」

 立ち上がった彼の少し猫背な背中を追いかけて、亜耶は歩きはじめたのだった。


「――机の配置はこれでいいですね」

 本来なら、恭介自らがするような仕事ではないのに、退社時間ギリギリだったせいだろう、恭介自身がほとんどの机の移動をやってしまった。
 亜耶は椅子の移動を手伝い、ファイリングされていた書類を机に一つずつ置き、ペットボトルのお茶を準備したくらいだ。

「朝一の会議でしたので、今日のうちに準備をしておきたかったのです。手伝っていただいてありがとうございました」

 丁寧に礼を言われて、小さく笑みを浮かべる。

「いえ全然」
「それに……」

 すると恭介はゆっくりと亜耶の側に歩み寄ってきて、彼女の顔を見下ろした。

「この間は……」

 そう言いかけて軽く握った手を口元に運び、もう一度目を細める。亜耶は、来た、とばかりに身構えた。

「この間はすみませんでした……」

 彼女の緊張に気づいているのかいないのか、恭介は深々と頭を下げる。亜耶は咄嗟とっさになんと返していいのか迷った。

(謝ったってことは……やっぱり、アレはなかったことにしたいんだよね、きっと)

 そう判断すると、シミュレーションどおり、緩く首をかしげる。

「この間って……私、ひどく酔っぱらっていたみたいで。何か……しでかしましたか? あの……こちらこそ送っていただいて、すみませんでした」

 できる限り間の抜けた顔をしてから、パッと頭を下げてみせる。
 いや、本当は心の底から謝りたい気持ちでいっぱいなのだ。その思いで、つい九十度近く頭を下げる。すると恭介は、亜耶の肩を押して顔を上げさせた。

「あの……何も覚えてないんですか?」

 亜耶の顔を覗きこんで、驚愕きょうがくしたようにたずねる。
 でもここは絶対認めちゃダメなところだ。

(認めたら課長を困らせてしまうし……。自分も色々困ってしまう)

 亜耶は必死の笑みを浮かべてうなずいた。

「全然。あの……何か、私、やらかしましたか?」

 恭介は一瞬何かを言いかけて、口を閉じる。

「……そうですか。こちらこそご迷惑を掛けたようで。いえ、いいんです。それならそれで……」

 どこか困惑したような笑みを浮かべて小さく息をはいた後、時計を見上げた。

「ああ、もう退社時間を過ぎてしまいましたね。手伝っていただいてありがとうございます。それではお気をつけて」
「は、はい。お疲れさまでした。お先に失礼します」

 それだけ言うと、亜耶は小走りに会議室を出ていく。走りながら、恭介が謝るために会議室に連れてきたのだ、と気づいた。

(私ってダメだな。課長に……気遣いばっかりさせちゃって……)

 だから。これ以上気を遣わせないためにも、これでよかったのだ、と自分に言い聞かせる。
 だが亜耶は、あの日の夜をまるでなかったことにしたことを、どうしようもなく切なく感じていたのだった。



   第二章 フラグを折ろうと思ったらキスされて……


 それから数日は特に問題なく過ぎていった。
 恭介は今までと全く変わらない様子で業務を取り仕切り、亜耶も何事もなかったように振る舞い続けている。

(あの夜のことの方が、夢でも見てたみたい)

 亜耶はいつもどおりの生活が続くことにホッとしていたが、一方で、ふとあの夜のことを思い出すとゾワゾワと不思議な震えを覚える。加えて、あの夜の出来事が何もなくなってしまったことが切なかった。


「――ちぃ~す。今日から担当が代わります。俺、とうなおって言います。よろしくお願いしま~す」

 明るい声が響き渡り、亜耶が見ている前で、青年がペコリと頭を下げた。
 総務課にあいさつに来たのは、宅配業者の青年だ。茶色がかったゆるいウェーブの髪。長い睫毛まつげでぱっちりとした瞳。愛嬌あいきょうある笑顔。
 スタイルが良くて可愛い青年だ。きっとモテるだろう。

(うーん、さわやかだなあ。身長は課長と変わらないくらいあるかな……)

 亜耶は目の前の男性を、無意識に恭介と比べる。その途端、青年と視線が合ってにっこり笑いかけられた。慌ててぎこちなく笑みを返す。

「ナオトくんか、よろしくね。てか、さっそくで悪いけど、発送したい荷物があるんだ。亜耶、それ、よろしく」
「あ、これね。はい。じゃあ佐藤さん、お願いします」
「あざーっす。了解っす」

 早苗に言われて亜耶が荷物を出そうとすると、尚登はウインクを飛ばしてきた。

「亜耶さんっていうんですか、可愛いっすね~。めっちゃ好みです」
(か……軽い)

 思わず亜耶はぱちくりとまばたきする。尚登はニヤッと笑みを浮かべた。ペコリと頭を下げ、重そうな荷物をひょいと持ち上げる。
 手足が長くて細く見えるのに、意外と筋力はあるらしい。

「でも亜耶さん、きっと彼氏とかいますよね」
「……いや、いませんけど」
「じゃあ、今度デートしてくださいよ~」
「えっと……お断りします」
「即答っすか? マジで? ……ショックうぅぅ。俺、フラれました」

 次の瞬間、まさにしょんぼりといった様子で落ちこむ彼を見て、亜耶はフォローをすべきか迷う。その時――

「ま、明日も来ますんで、りずにまた口説くどきま~す。亜耶さん、またね~」

 片手で荷物をかつぎ上げもう一方の手をひらひらと振ると、尚登は総務課ブースを出ていく。

「ナオトくん、イケメンじゃない? 年下も悪くないかもよ? 一度ぐらいデートしてあげたら?」

 呆然と彼を見送っていた亜耶の横腹を、早苗がひじでつついた。

「……うーん」
「でも、課長とは真逆のタイプだもんね。好みじゃないんでしょ?」

 耳元で小さく聞かれて、亜耶は真っ赤になりながらコクコクとうなずく。
 一瞬視線を感じて顔を上げると、こちらを見ていた恭介と目が合った。

高橋たかはしさん、藤野さん、資料室の整理、お願いしてもいいですか? 今朝届いた資料を開封して、棚に並べてもらいたいんです」

 時計を見ると退社時間まであと一時間だ。

「はい、分かりました。亜耶、今、いける?」
「うん、大丈夫。早苗、今日デートだったよね、ダッシュで済ませた方がよさそうだね」

 そうささやき合うと、亜耶達は鍵を取り、資料室へ向かう。
 その二人の背中、主に亜耶の背中を恭介が鋭い瞳で見ていたことに亜耶は気づいていなかった。


「――てかさ、結局うちの会社、ペーパーレス進んでないよね。データでいいじゃん、データで。結局何かあると紙の資料が届いてさ。上層部もなんだかんだと、年寄り多いし。何年か前に来た役員、元銀行のお偉いさんなんだって。ああいう人が紙じゃないとって、言ってそうじゃない?」
「まあ……仕方ないよ。さくっと片付けちゃおう」

 なだめるように言ったものの、資料室に積んであった大量の書籍資料に亜耶もうんざりする。

「これ、全部パソコンに登録して整理してたら、就業時間内に終わらないよね。私、後やっておくからさ、終業時間になったら、早苗、先に帰りなよ」

 そう告げると、早苗は顔の前で祈るみたいに手を合わせた。

「マジで? ありがと。遅れるとアイツ、機嫌悪いし。今度埋め合わせする」

 さっき文句を言っていたのは、彼氏とのデートに遅れたくないだけなのだ。
 普段はしっかり者で情報通の早苗にはお世話になりっぱなしだし、と亜耶は資料を手に取る。そして、資料室のデータ管理用のパソコンを立ち上げた。


     ***


「――結構かかったなあ……」

 仕事を終えて時計を見上げると、すでに七時を回っていた。
 その時、資料室の扉が控えめにノックされる。はい、と答えるとドアが開いた。
 そこにいたのは資料整理を亜耶に頼んだ恭介だ。

「藤野さん、まだ……残ってたんですか。すみません、って高橋さんは……」
「あ、早苗は今日、用事があったので、私が残りをやっておくことにして先に帰ってもらいました」
「……そうだったんですね。気づかなくてすみません。しかも整理だけでなく登録まで……」

 綺麗に並べた資料を見て、恭介は感心したように声を上げる。そのことが嬉しくて、亜耶はにっこりと笑みを浮かべた。

「いえ、もう終わりましたから。課長こそ、今日も遅いんですね」
「いえ、私ももう、帰るところです」

 恭介がそう言って机にあった鍵を手に取りきびすを返そうとした瞬間。

(──なんで?)

 その後ろ姿に二重写しのように見えたのは、緑のフィルターにいろどられた景色だ。
 駅のホームに立っている恭介に、ふざけた学生たちがぶつかる。彼は押されてふらつきホームから落ちて、構内に入りこんできた電車の前に……

「ダメです。今、帰っちゃ……」

 彼がホームから落ちないようにと思った亜耶は、とっに恭介の背中に抱きつく。ビクンとその背中がかすかに震え、ゆっくりと彼が振り向いた。

「……なんで、ですか?」

 亜耶は一節一節を区切り、言葉をつむぐ。

「あ、あの……ダメ、なんです」

 なんて言えばいいんだろうか。このまま帰ったら電車にかれて死んじゃうからとは、当然言えない。

「……藤野さん、震えていますね……」

 そう言われて気づく。
 確かに彼のスーツの背中をつかんだこぶしが、震えていた。

「……課長に……このまま、帰ってほしくない……んです」

 亜耶の言葉に、彼はふぅっと深いため息をつく。ゆっくりと振り向き、亜耶と対峙たいじした。


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