9 / 38
二章 イザベラ・コンラート
9話 慣れ
しおりを挟む
「こっちだ。こっちへ来い」
語りかけてくる男の声。
とても小さな声だ。周囲を見回してみても誰もおらず、ともすれば空耳、あるいは単なる妄想とも思えてくる。
耳を澄ます。
こっちへ来い、こっちへ来いと、壊れたテープレコーダーのように同じフレーズを繰り返している。
不思議と不気味さは感じない。それどころか、どこか懐かしくさえ思えてくる。
そうだ、この声には聞き覚えがある。ずっと頭の中で響いていたものだ。
いつからであろうか……
そっと、まぶたを開く。
目に映ったのは、スチール製の棚にベビーベッド。そして、奥にある小さなキッチンカウンター。
ここで己がソファーで寝ていたことを思い出す。
今のは夢か。
しかし、夢であるが夢ではない。
過去の記憶が掘り起こされていたのだ。
スノーグローブ。あれを手にしたときからずっと、男の声は頭の中に響いていた。今では幻聴などではなかったと確信できる。なぜなら、こうして、ここにいるのだから。
ソファーから立ち上がり、顔を洗う。
それからブラシでブロンドの髪をすきながら、鏡に映る己の姿を見た。
青いドレスに赤いスカーフ、ふっくらした唇に大きめの瞳。
血色もよく、目の周りにあったクマもない。
イザベラだ。昨日対峙したときより、ずいぶん健康的に見える。腹いっぱい食べ、しっかりと睡眠をとったからだろう。
――これが新しい自分。
体をぼぐし、違和感を確かめる。
女の体は久方ぶりだ。感覚の違いに注意せねばならない。
特に生理現象からくる差異は無視できないだろう。
でもまあ、それもすぐ慣れる。車を乗り換えたようなものだ。運転手は変わらない。私は私、変わりようがない。
カービン銃を手にすると扉の開閉ボタンを押した。
もうこの部屋には用がない。
背負った鞄には最低限の水と食料、腰にはクロスボウと矢。そして胸には、しっかりと抱っこ紐で固定された愛しい我が子。
これで十分。持ち切れない食料に未練はない。
周囲に目を配りながら歩く。
ショッピングモールは隠れる場所が多く、気が抜けない。特に狙撃には注意しなければならない。
これから目指すのは潜水艇ドッグに類する場所。わが子アダムの為にも脱出経路の確保は最優先だから。
でもそれだけじゃ駄目。都市の機能を制御するコントロールルーム、通信を行うであろう管制室、いずれかを見つける必要がある。
私の最終目的は、このおかしな世界から抜け出して元の世界へと帰ること。
潜水艇に乗り、海底都市から脱出するだけじゃ問題は解決しない。
そもそもこの海底都市の外がどうなっているか分からない。透明の壁が周囲を覆っている可能性だってあるんだから。
でも私を呼んだあの声。どうやったか分からないけども、元の世界との通信手段があるのは確実。なんとしてでも見つけないと。
長く連なる店舗を横目に進むうち、やがて、光源のない薄暗い通路へと辿り着いた。多分、ここが区画のつなぎ目。ショッピングはもう終わり。
暗い通路へと足を踏み入れると、闇に身を潜めるように気配を殺し進んでいく。
どのくらい進んだだろう。ネオン管による光源もなくなり、自分の足さえも見えなくなる。
今度の通路はやけに長い。これ以上は危険。罠があったら目も当てられない。
マッチを擦ると足元を照らした。
すると、チチチと音を立てて小さい何かが走り去っていった。
ネズミ? 一瞬で分からなかったけど多分そう。
あんまり好きじゃないけど、これで少し安心した。罠があったらネズミの方が先に引っ掛かるだろうから。
それでも再びマッチを擦り、シュルリと外したスカーフに火を付けた。
真っ暗な通路が明るく照らし出される。
至って普通の通路。パッと見罠もなさそうで、暗いことを除けばこれまでと変わらない。
――いえ、よく見れば床の模様が変化してる。大きい長方形の石畳を張り合わせたものから、菱形のタイルを隙間なく詰めたものへと。
材質も石から金属へと変わっているみたい。
どうも、すでに次の区画へと足を踏み入れていたようね。注意して進まないと。
クロスボウの矢に火のついたスカーフを軽く巻きつけると、落とさないよう松明代わりにして進んでいった。
スカーフはとうに燃え尽き、追加した布も灰となって飛び散ったころ、ふと前方に立ち塞がる、光る文字が描かれた壁を見た。
行き止まり? 違う、左右の壁に隙間が見える。T字路ね。
書かれている文字と矢印によると右がマーケニアガーデン、左がパペットシアター。どちらに向かうべきか、しばし悩む。
……結局左へと曲がることにした。特に理由はない。しいていえば勘?
少し進むとシアターの文字通り、壁に貼られた幾つものポスターが目に付くようになってきた。
一番近くのものへと目を向ける。
帽子をかぶった女の絵かな? なんとなく図柄は読み取れる。でも細部まではハッキリ分からない。
だって通路は薄暗いままだったから。
ほんとなら、それぞれポスターに向けられたスポットライトがある程度の明るさを保っていたのでしょうね。でも、今、光を放っているライトは一つだけ。
それも叩かれたのかライトが産み出す光の輪は、ポスター中央ではなく、やや右上にずれているし。
その時、視界の隅で何かが動いた! それは壁際でうずくまる黒い塊。
素早くカービン銃を構え、引き金をしぼる。
タン! という発砲音と共に弾丸は、黒い塊へと着弾する。
ザザザザ。
黒い塊は大きくはじける。そして幾つもの小さな塊に分かれると、波うちながら通路の奥へと散っていった。
ネズミ! あれはネズミの集団。
黒い塊があった場所へと近づく。すると、食い荒らされた人の死骸が残されていることに気付いた。
人だけじゃない。ネズミも飢えているのね。
でも、あんな死に方は御免。ネズミさん、どうか私を襲わないでね。私はエサになるより、エサを作る方が得意だから。
残された残骸に目ぼしい物がないことを確認すると、更に先へと進む。
道はやがて、いくつにも分岐し、壁にはところどころ扉が張り付きはじめる。
全部調べるのは面倒。扉なんか無視して一番広い通路を進んでいけばいい。
それに、あの二つは調べなくても分かる。
左手に並ぶ細い二つの通路、壁に飾られた青く輝くネオン管が奥に何があるかを物語っていた。
ひとつは丸の下に三角形、もうひとつは丸の下に逆三角形。
○ ○
△ ▽
トイレね。さて私はどちらに入ればいいのかしら?
語りかけてくる男の声。
とても小さな声だ。周囲を見回してみても誰もおらず、ともすれば空耳、あるいは単なる妄想とも思えてくる。
耳を澄ます。
こっちへ来い、こっちへ来いと、壊れたテープレコーダーのように同じフレーズを繰り返している。
不思議と不気味さは感じない。それどころか、どこか懐かしくさえ思えてくる。
そうだ、この声には聞き覚えがある。ずっと頭の中で響いていたものだ。
いつからであろうか……
そっと、まぶたを開く。
目に映ったのは、スチール製の棚にベビーベッド。そして、奥にある小さなキッチンカウンター。
ここで己がソファーで寝ていたことを思い出す。
今のは夢か。
しかし、夢であるが夢ではない。
過去の記憶が掘り起こされていたのだ。
スノーグローブ。あれを手にしたときからずっと、男の声は頭の中に響いていた。今では幻聴などではなかったと確信できる。なぜなら、こうして、ここにいるのだから。
ソファーから立ち上がり、顔を洗う。
それからブラシでブロンドの髪をすきながら、鏡に映る己の姿を見た。
青いドレスに赤いスカーフ、ふっくらした唇に大きめの瞳。
血色もよく、目の周りにあったクマもない。
イザベラだ。昨日対峙したときより、ずいぶん健康的に見える。腹いっぱい食べ、しっかりと睡眠をとったからだろう。
――これが新しい自分。
体をぼぐし、違和感を確かめる。
女の体は久方ぶりだ。感覚の違いに注意せねばならない。
特に生理現象からくる差異は無視できないだろう。
でもまあ、それもすぐ慣れる。車を乗り換えたようなものだ。運転手は変わらない。私は私、変わりようがない。
カービン銃を手にすると扉の開閉ボタンを押した。
もうこの部屋には用がない。
背負った鞄には最低限の水と食料、腰にはクロスボウと矢。そして胸には、しっかりと抱っこ紐で固定された愛しい我が子。
これで十分。持ち切れない食料に未練はない。
周囲に目を配りながら歩く。
ショッピングモールは隠れる場所が多く、気が抜けない。特に狙撃には注意しなければならない。
これから目指すのは潜水艇ドッグに類する場所。わが子アダムの為にも脱出経路の確保は最優先だから。
でもそれだけじゃ駄目。都市の機能を制御するコントロールルーム、通信を行うであろう管制室、いずれかを見つける必要がある。
私の最終目的は、このおかしな世界から抜け出して元の世界へと帰ること。
潜水艇に乗り、海底都市から脱出するだけじゃ問題は解決しない。
そもそもこの海底都市の外がどうなっているか分からない。透明の壁が周囲を覆っている可能性だってあるんだから。
でも私を呼んだあの声。どうやったか分からないけども、元の世界との通信手段があるのは確実。なんとしてでも見つけないと。
長く連なる店舗を横目に進むうち、やがて、光源のない薄暗い通路へと辿り着いた。多分、ここが区画のつなぎ目。ショッピングはもう終わり。
暗い通路へと足を踏み入れると、闇に身を潜めるように気配を殺し進んでいく。
どのくらい進んだだろう。ネオン管による光源もなくなり、自分の足さえも見えなくなる。
今度の通路はやけに長い。これ以上は危険。罠があったら目も当てられない。
マッチを擦ると足元を照らした。
すると、チチチと音を立てて小さい何かが走り去っていった。
ネズミ? 一瞬で分からなかったけど多分そう。
あんまり好きじゃないけど、これで少し安心した。罠があったらネズミの方が先に引っ掛かるだろうから。
それでも再びマッチを擦り、シュルリと外したスカーフに火を付けた。
真っ暗な通路が明るく照らし出される。
至って普通の通路。パッと見罠もなさそうで、暗いことを除けばこれまでと変わらない。
――いえ、よく見れば床の模様が変化してる。大きい長方形の石畳を張り合わせたものから、菱形のタイルを隙間なく詰めたものへと。
材質も石から金属へと変わっているみたい。
どうも、すでに次の区画へと足を踏み入れていたようね。注意して進まないと。
クロスボウの矢に火のついたスカーフを軽く巻きつけると、落とさないよう松明代わりにして進んでいった。
スカーフはとうに燃え尽き、追加した布も灰となって飛び散ったころ、ふと前方に立ち塞がる、光る文字が描かれた壁を見た。
行き止まり? 違う、左右の壁に隙間が見える。T字路ね。
書かれている文字と矢印によると右がマーケニアガーデン、左がパペットシアター。どちらに向かうべきか、しばし悩む。
……結局左へと曲がることにした。特に理由はない。しいていえば勘?
少し進むとシアターの文字通り、壁に貼られた幾つものポスターが目に付くようになってきた。
一番近くのものへと目を向ける。
帽子をかぶった女の絵かな? なんとなく図柄は読み取れる。でも細部まではハッキリ分からない。
だって通路は薄暗いままだったから。
ほんとなら、それぞれポスターに向けられたスポットライトがある程度の明るさを保っていたのでしょうね。でも、今、光を放っているライトは一つだけ。
それも叩かれたのかライトが産み出す光の輪は、ポスター中央ではなく、やや右上にずれているし。
その時、視界の隅で何かが動いた! それは壁際でうずくまる黒い塊。
素早くカービン銃を構え、引き金をしぼる。
タン! という発砲音と共に弾丸は、黒い塊へと着弾する。
ザザザザ。
黒い塊は大きくはじける。そして幾つもの小さな塊に分かれると、波うちながら通路の奥へと散っていった。
ネズミ! あれはネズミの集団。
黒い塊があった場所へと近づく。すると、食い荒らされた人の死骸が残されていることに気付いた。
人だけじゃない。ネズミも飢えているのね。
でも、あんな死に方は御免。ネズミさん、どうか私を襲わないでね。私はエサになるより、エサを作る方が得意だから。
残された残骸に目ぼしい物がないことを確認すると、更に先へと進む。
道はやがて、いくつにも分岐し、壁にはところどころ扉が張り付きはじめる。
全部調べるのは面倒。扉なんか無視して一番広い通路を進んでいけばいい。
それに、あの二つは調べなくても分かる。
左手に並ぶ細い二つの通路、壁に飾られた青く輝くネオン管が奥に何があるかを物語っていた。
ひとつは丸の下に三角形、もうひとつは丸の下に逆三角形。
○ ○
△ ▽
トイレね。さて私はどちらに入ればいいのかしら?
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
まったく知らない世界に転生したようです
吉川 箱
ファンタジー
おっとりヲタク男子二十五歳成人。チート能力なし?
まったく知らない世界に転生したようです。
何のヒントもないこの世界で、破滅フラグや地雷を踏まずに生き残れるか?!
頼れるのは己のみ、みたいです……?
※BLですがBがLな話は出て来ません。全年齢です。
私自身は全年齢の主人公ハーレムものBLだと思って書いてるけど、全く健全なファンタジー小説だとも言い張れるように書いております。つまり健全なお嬢さんの癖を歪めて火のないところへ煙を感じてほしい。
111話までは毎日更新。
それ以降は毎週金曜日20時に更新します。
カクヨムの方が文字数が多く、更新も先です。
RIGHT MEMORIZE 〜僕らを轢いてくソラ
neonevi
ファンタジー
運命に連れられるのはいつも望まない場所で、僕たちに解るのは引力みたいな君との今だけ。
※この作品は小説家になろうにも掲載されています

異世界だろうがソロキャンだろう!? one more camp!
ちゃりネコ
ファンタジー
ソロキャン命。そして異世界で手に入れた能力は…Awazonで買い物!?
夢の大学でキャンパスライフを送るはずだった主人公、四万十 葦拿。
しかし、運悪く世界的感染症によって殆ど大学に通えず、彼女にまでフラれて鬱屈とした日々を過ごす毎日。
うまくいかないプライベートによって押し潰されそうになっていた彼を救ったのはキャンプだった。
次第にキャンプ沼へのめり込んでいった彼は、全国のキャンプ場を制覇する程のヘビーユーザーとなり、着実に経験を積み重ねていく。
そして、知らん内に異世界にすっ飛ばされたが、どっぷりハマっていたアウトドア経験を駆使して、なんだかんだ未知のフィールドを楽しむようになっていく。
遭難をソロキャンと言い張る男、四万十 葦拿の異世界キャンプ物語。
別に要らんけど異世界なんでスマホからネットショッピングする能力をゲット。
Awazonの商品は3億5371万品目以上もあるんだって!
すごいよね。
―――――――――
以前公開していた小説のセルフリメイクです。
アルファポリス様で掲載していたのは同名のリメイク前の作品となります。
基本的には同じですが、リメイクするにあたって展開をかなり変えているので御注意を。
1話2000~3000文字で毎日更新してます。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。


夢幻の錬金術師 ~【異空間収納】【錬金術】【鑑定】【スキル剥奪&付与】を兼ね備えたチートスキル【錬金工房】で最強の錬金術師として成り上がる~
青山 有
ファンタジー
女神の助手として異世界に召喚された厨二病少年・神薙拓光。
彼が手にしたユニークスキルは【錬金工房】。
ただでさえ、魔法があり魔物がはびこる危険な世界。そこを生産職の助手と巡るのかと、女神も頭を抱えたのだが……。
彼の持つ【錬金工房】は、レアスキルである【異空間収納】【錬金術】【鑑定】の上位互換機能を合わせ持ってるだけでなく、スキルの【剥奪】【付与】まで行えるという、女神の想像を遥かに超えたチートスキルだった。
これは一人の少年が異世界で伝説の錬金術師として成り上がっていく物語。
※カクヨムにも投稿しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる