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二章 イザベラ・コンラート
9話 慣れ
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「こっちだ。こっちへ来い」
語りかけてくる男の声。
とても小さな声だ。周囲を見回してみても誰もおらず、ともすれば空耳、あるいは単なる妄想とも思えてくる。
耳を澄ます。
こっちへ来い、こっちへ来いと、壊れたテープレコーダーのように同じフレーズを繰り返している。
不思議と不気味さは感じない。それどころか、どこか懐かしくさえ思えてくる。
そうだ、この声には聞き覚えがある。ずっと頭の中で響いていたものだ。
いつからであろうか……
そっと、まぶたを開く。
目に映ったのは、スチール製の棚にベビーベッド。そして、奥にある小さなキッチンカウンター。
ここで己がソファーで寝ていたことを思い出す。
今のは夢か。
しかし、夢であるが夢ではない。
過去の記憶が掘り起こされていたのだ。
スノーグローブ。あれを手にしたときからずっと、男の声は頭の中に響いていた。今では幻聴などではなかったと確信できる。なぜなら、こうして、ここにいるのだから。
ソファーから立ち上がり、顔を洗う。
それからブラシでブロンドの髪をすきながら、鏡に映る己の姿を見た。
青いドレスに赤いスカーフ、ふっくらした唇に大きめの瞳。
血色もよく、目の周りにあったクマもない。
イザベラだ。昨日対峙したときより、ずいぶん健康的に見える。腹いっぱい食べ、しっかりと睡眠をとったからだろう。
――これが新しい自分。
体をぼぐし、違和感を確かめる。
女の体は久方ぶりだ。感覚の違いに注意せねばならない。
特に生理現象からくる差異は無視できないだろう。
でもまあ、それもすぐ慣れる。車を乗り換えたようなものだ。運転手は変わらない。私は私、変わりようがない。
カービン銃を手にすると扉の開閉ボタンを押した。
もうこの部屋には用がない。
背負った鞄には最低限の水と食料、腰にはクロスボウと矢。そして胸には、しっかりと抱っこ紐で固定された愛しい我が子。
これで十分。持ち切れない食料に未練はない。
周囲に目を配りながら歩く。
ショッピングモールは隠れる場所が多く、気が抜けない。特に狙撃には注意しなければならない。
これから目指すのは潜水艇ドッグに類する場所。わが子アダムの為にも脱出経路の確保は最優先だから。
でもそれだけじゃ駄目。都市の機能を制御するコントロールルーム、通信を行うであろう管制室、いずれかを見つける必要がある。
私の最終目的は、このおかしな世界から抜け出して元の世界へと帰ること。
潜水艇に乗り、海底都市から脱出するだけじゃ問題は解決しない。
そもそもこの海底都市の外がどうなっているか分からない。透明の壁が周囲を覆っている可能性だってあるんだから。
でも私を呼んだあの声。どうやったか分からないけども、元の世界との通信手段があるのは確実。なんとしてでも見つけないと。
長く連なる店舗を横目に進むうち、やがて、光源のない薄暗い通路へと辿り着いた。多分、ここが区画のつなぎ目。ショッピングはもう終わり。
暗い通路へと足を踏み入れると、闇に身を潜めるように気配を殺し進んでいく。
どのくらい進んだだろう。ネオン管による光源もなくなり、自分の足さえも見えなくなる。
今度の通路はやけに長い。これ以上は危険。罠があったら目も当てられない。
マッチを擦ると足元を照らした。
すると、チチチと音を立てて小さい何かが走り去っていった。
ネズミ? 一瞬で分からなかったけど多分そう。
あんまり好きじゃないけど、これで少し安心した。罠があったらネズミの方が先に引っ掛かるだろうから。
それでも再びマッチを擦り、シュルリと外したスカーフに火を付けた。
真っ暗な通路が明るく照らし出される。
至って普通の通路。パッと見罠もなさそうで、暗いことを除けばこれまでと変わらない。
――いえ、よく見れば床の模様が変化してる。大きい長方形の石畳を張り合わせたものから、菱形のタイルを隙間なく詰めたものへと。
材質も石から金属へと変わっているみたい。
どうも、すでに次の区画へと足を踏み入れていたようね。注意して進まないと。
クロスボウの矢に火のついたスカーフを軽く巻きつけると、落とさないよう松明代わりにして進んでいった。
スカーフはとうに燃え尽き、追加した布も灰となって飛び散ったころ、ふと前方に立ち塞がる、光る文字が描かれた壁を見た。
行き止まり? 違う、左右の壁に隙間が見える。T字路ね。
書かれている文字と矢印によると右がマーケニアガーデン、左がパペットシアター。どちらに向かうべきか、しばし悩む。
……結局左へと曲がることにした。特に理由はない。しいていえば勘?
少し進むとシアターの文字通り、壁に貼られた幾つものポスターが目に付くようになってきた。
一番近くのものへと目を向ける。
帽子をかぶった女の絵かな? なんとなく図柄は読み取れる。でも細部まではハッキリ分からない。
だって通路は薄暗いままだったから。
ほんとなら、それぞれポスターに向けられたスポットライトがある程度の明るさを保っていたのでしょうね。でも、今、光を放っているライトは一つだけ。
それも叩かれたのかライトが産み出す光の輪は、ポスター中央ではなく、やや右上にずれているし。
その時、視界の隅で何かが動いた! それは壁際でうずくまる黒い塊。
素早くカービン銃を構え、引き金をしぼる。
タン! という発砲音と共に弾丸は、黒い塊へと着弾する。
ザザザザ。
黒い塊は大きくはじける。そして幾つもの小さな塊に分かれると、波うちながら通路の奥へと散っていった。
ネズミ! あれはネズミの集団。
黒い塊があった場所へと近づく。すると、食い荒らされた人の死骸が残されていることに気付いた。
人だけじゃない。ネズミも飢えているのね。
でも、あんな死に方は御免。ネズミさん、どうか私を襲わないでね。私はエサになるより、エサを作る方が得意だから。
残された残骸に目ぼしい物がないことを確認すると、更に先へと進む。
道はやがて、いくつにも分岐し、壁にはところどころ扉が張り付きはじめる。
全部調べるのは面倒。扉なんか無視して一番広い通路を進んでいけばいい。
それに、あの二つは調べなくても分かる。
左手に並ぶ細い二つの通路、壁に飾られた青く輝くネオン管が奥に何があるかを物語っていた。
ひとつは丸の下に三角形、もうひとつは丸の下に逆三角形。
○ ○
△ ▽
トイレね。さて私はどちらに入ればいいのかしら?
語りかけてくる男の声。
とても小さな声だ。周囲を見回してみても誰もおらず、ともすれば空耳、あるいは単なる妄想とも思えてくる。
耳を澄ます。
こっちへ来い、こっちへ来いと、壊れたテープレコーダーのように同じフレーズを繰り返している。
不思議と不気味さは感じない。それどころか、どこか懐かしくさえ思えてくる。
そうだ、この声には聞き覚えがある。ずっと頭の中で響いていたものだ。
いつからであろうか……
そっと、まぶたを開く。
目に映ったのは、スチール製の棚にベビーベッド。そして、奥にある小さなキッチンカウンター。
ここで己がソファーで寝ていたことを思い出す。
今のは夢か。
しかし、夢であるが夢ではない。
過去の記憶が掘り起こされていたのだ。
スノーグローブ。あれを手にしたときからずっと、男の声は頭の中に響いていた。今では幻聴などではなかったと確信できる。なぜなら、こうして、ここにいるのだから。
ソファーから立ち上がり、顔を洗う。
それからブラシでブロンドの髪をすきながら、鏡に映る己の姿を見た。
青いドレスに赤いスカーフ、ふっくらした唇に大きめの瞳。
血色もよく、目の周りにあったクマもない。
イザベラだ。昨日対峙したときより、ずいぶん健康的に見える。腹いっぱい食べ、しっかりと睡眠をとったからだろう。
――これが新しい自分。
体をぼぐし、違和感を確かめる。
女の体は久方ぶりだ。感覚の違いに注意せねばならない。
特に生理現象からくる差異は無視できないだろう。
でもまあ、それもすぐ慣れる。車を乗り換えたようなものだ。運転手は変わらない。私は私、変わりようがない。
カービン銃を手にすると扉の開閉ボタンを押した。
もうこの部屋には用がない。
背負った鞄には最低限の水と食料、腰にはクロスボウと矢。そして胸には、しっかりと抱っこ紐で固定された愛しい我が子。
これで十分。持ち切れない食料に未練はない。
周囲に目を配りながら歩く。
ショッピングモールは隠れる場所が多く、気が抜けない。特に狙撃には注意しなければならない。
これから目指すのは潜水艇ドッグに類する場所。わが子アダムの為にも脱出経路の確保は最優先だから。
でもそれだけじゃ駄目。都市の機能を制御するコントロールルーム、通信を行うであろう管制室、いずれかを見つける必要がある。
私の最終目的は、このおかしな世界から抜け出して元の世界へと帰ること。
潜水艇に乗り、海底都市から脱出するだけじゃ問題は解決しない。
そもそもこの海底都市の外がどうなっているか分からない。透明の壁が周囲を覆っている可能性だってあるんだから。
でも私を呼んだあの声。どうやったか分からないけども、元の世界との通信手段があるのは確実。なんとしてでも見つけないと。
長く連なる店舗を横目に進むうち、やがて、光源のない薄暗い通路へと辿り着いた。多分、ここが区画のつなぎ目。ショッピングはもう終わり。
暗い通路へと足を踏み入れると、闇に身を潜めるように気配を殺し進んでいく。
どのくらい進んだだろう。ネオン管による光源もなくなり、自分の足さえも見えなくなる。
今度の通路はやけに長い。これ以上は危険。罠があったら目も当てられない。
マッチを擦ると足元を照らした。
すると、チチチと音を立てて小さい何かが走り去っていった。
ネズミ? 一瞬で分からなかったけど多分そう。
あんまり好きじゃないけど、これで少し安心した。罠があったらネズミの方が先に引っ掛かるだろうから。
それでも再びマッチを擦り、シュルリと外したスカーフに火を付けた。
真っ暗な通路が明るく照らし出される。
至って普通の通路。パッと見罠もなさそうで、暗いことを除けばこれまでと変わらない。
――いえ、よく見れば床の模様が変化してる。大きい長方形の石畳を張り合わせたものから、菱形のタイルを隙間なく詰めたものへと。
材質も石から金属へと変わっているみたい。
どうも、すでに次の区画へと足を踏み入れていたようね。注意して進まないと。
クロスボウの矢に火のついたスカーフを軽く巻きつけると、落とさないよう松明代わりにして進んでいった。
スカーフはとうに燃え尽き、追加した布も灰となって飛び散ったころ、ふと前方に立ち塞がる、光る文字が描かれた壁を見た。
行き止まり? 違う、左右の壁に隙間が見える。T字路ね。
書かれている文字と矢印によると右がマーケニアガーデン、左がパペットシアター。どちらに向かうべきか、しばし悩む。
……結局左へと曲がることにした。特に理由はない。しいていえば勘?
少し進むとシアターの文字通り、壁に貼られた幾つものポスターが目に付くようになってきた。
一番近くのものへと目を向ける。
帽子をかぶった女の絵かな? なんとなく図柄は読み取れる。でも細部まではハッキリ分からない。
だって通路は薄暗いままだったから。
ほんとなら、それぞれポスターに向けられたスポットライトがある程度の明るさを保っていたのでしょうね。でも、今、光を放っているライトは一つだけ。
それも叩かれたのかライトが産み出す光の輪は、ポスター中央ではなく、やや右上にずれているし。
その時、視界の隅で何かが動いた! それは壁際でうずくまる黒い塊。
素早くカービン銃を構え、引き金をしぼる。
タン! という発砲音と共に弾丸は、黒い塊へと着弾する。
ザザザザ。
黒い塊は大きくはじける。そして幾つもの小さな塊に分かれると、波うちながら通路の奥へと散っていった。
ネズミ! あれはネズミの集団。
黒い塊があった場所へと近づく。すると、食い荒らされた人の死骸が残されていることに気付いた。
人だけじゃない。ネズミも飢えているのね。
でも、あんな死に方は御免。ネズミさん、どうか私を襲わないでね。私はエサになるより、エサを作る方が得意だから。
残された残骸に目ぼしい物がないことを確認すると、更に先へと進む。
道はやがて、いくつにも分岐し、壁にはところどころ扉が張り付きはじめる。
全部調べるのは面倒。扉なんか無視して一番広い通路を進んでいけばいい。
それに、あの二つは調べなくても分かる。
左手に並ぶ細い二つの通路、壁に飾られた青く輝くネオン管が奥に何があるかを物語っていた。
ひとつは丸の下に三角形、もうひとつは丸の下に逆三角形。
○ ○
△ ▽
トイレね。さて私はどちらに入ればいいのかしら?
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