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魔女見習いはじめました(6)

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「――まだ寝てるのかニャ! 起きろゴシュジン! 朝だニャ!!」

 眠りの縁から叩き起こされ、かぶっていた掛け布団を奪われ、いつのまにか全開になったカーテンから差す陽光が瞼の上から目を焼いた。

「ギャー溶けるー!」

 吸血鬼よろしく。無駄になった薄い本だがかなりの読み応えで見事に寝不足になった体には、朝の光は残酷なほど痛い。容赦のない日差しから逃げるように枕の下に頭を突っ込んだ。

 完全に時差ボケだ。六時間のズレのある生活だけに、睡眠時間を調節するつもりでネムの部屋から本を持ってきたのに、それが思った以上に食指が動いた。

『それ、ただの夜ふかしでは』

「もう八時ニャ! 今日からは通常業務ニャ!」

 平日に聞きたくない言葉のトップテンに入るのではなかろうか。神ワズゴーン。

『ただの夜ふかしなのに騒々しいですね。女性の朝は分刻みですよ。キリキリ動いた。ほら、顔洗って』

「顔洗って目覚ましてくるニャ。すぐ朝食ニャ」

 お前らはオカンか。慌ただしくベッドから降ろされ、クマが懸垂しているまぶたをこすりながら朝の準備をするために寝室を後にした。

///

 ――エントランスの柱時計が十時を告げる。始業の合図ってのは、どこの世界でも世知辛く現実を突きつけてくるものだ。

 なんたってハートマン軍曹の罵詈雑言並みに容赦がない。残酷にも、万人に平等に施すからだ。

「今日は予約がある三件あるニャ」

 なんと、奉仕担当のマタタビは秘書的な仕事まで引き受けていた。使い魔使いに容赦がない魔女もいたものだ。

『そのための使い魔ですから』

「これとこれとこれ。昨日みたいな失態は最後にしてほしいニャ」

 マタタビはいくつかの書類カルテをテーブルに置き、また奥の部屋へと下がっていった。

「……とにかく、目だけでも通しておくか」

///

 二つの書類に目を通してる間に時間は過ぎ、一人目の予約者が到着するのを待つ運びになった。

「しまった。三つ目が一人目だったか」

 完全に手順を間違えた。予約の定刻まであと数十秒なだけに、下準備をする余裕はない。

「まあいい。どうにかなるだろう。えっと……名前は、ん? オルクス?」

 昨日の今日で、話題になった人物が現れるとは。いや、昨日のアルブが予約外だったからそっちがイレギュラーか。

 定刻を少し過ぎた頃に扉をノックする音が聞こえた。その力強さはさすがオークと言ったところか。完全に偏見だが。

「どうぞ」

「お邪魔するよ。ああ、先生。薬を貰いに来たよ」

 中に入ってきたオルクスは、――筋骨隆々で、薄い緑色の肌に下顎から発達した牙が特徴的な大男だった。

「どうぞこちらへ。昨日はアルブさんがお世話になりました」

『コラ。個人情報を他人に言わない』

 あ。軽率だったか。アルブの内容がオルクスの愚痴だっただけに、オルクス本人はアルブの訪問は知らなかったのかも知れない。

「……なあ先生、――アルブ……って誰のことだ?」

「……は?」

 何言ってるんだ? 自分の恋人だろ? 聞き間違えたのか?

「アルブ……アル……ああ! アルブか! いやあ、面目ない。最近ど忘れが多くてな。先日もそれでアルブと喧嘩してしまったんだよ。誕生日を忘れちまうなんて、いやあ恥ずかしい限りだ」

 オルクスが気恥ずかしそうに頭をかく。

 ど忘れってレベルじゃねーぞ。仮にも恋人……家族のようなものじゃないのか。あまりのことで言葉が失ってしまった。

「えっと、今日は何しに来たんだっけ。なあ……」

 オルクスがこちらを見て、何故か言葉を濁した。まずい、表情に出てしまったか。

『一度、彼を帰してください。目的は持病の腰痛の薬だけです。薬なら後ろの棚に用意していたのが残っているはずです』

 マリアの指示通り、診察台の後ろにある棚から薬を見つける。腰痛の薬だっていうが、それ以上なことがあるとしか思えない。それなのに、一度家に帰すという指示はどうにも納得できないが、今の俺にできることはこの薬を渡すくらいしかない。

『いいですか。一つだけ、彼に課題を出します。それはーー』

「オルクスさん、今日の目的はでしたっけ」

「あ、ああ。そうだ。ったかな」

「この薬を朝昼晩、食後にお飲みください。一日三回です。決して、それ以上飲まないようにお願いします。お薬は、用法用量を守ることが大事ですから」

「ああ、わかったよ。……先生」

 目の前の相手が"先生"ということは思い出したようだ。やはり、どこか変だ。腰痛の薬を貰いに来たはずなのに、関節の薬と言ってもそのまま受け入れている。

 薬を受け取ったオルクスは、お代を置いて席を後にした。帰り際にーー

「オルクスさん。アルブさんに、今日の夕方にでも来てくださいと、お伝え下さい」

「アルブ? ああ、わかったよ先生」

 了承の返事をしてオルクスは去っていった。

///

 その後の仕事は滞りなく終了し、やはり気掛かりなのはオルクスのことだ。

 初対面――俺にとってはだが――ではあるが、明らかに様子がおかしいことはみてとれる。

 彼女であるアルブのこと、自分の行動のこと、目の前にいるマリアのこと、全てが変だ。

 記憶や認知に関して問題が――

「認知……認知症、みたいだ」

 医療に関して詳しくなくても、これくらいのことならわかる。なんせ、長寿の国だった日本での認知症は社会全体の共通問題として取り上げられるほどだ。

 医療の発展により寿命は伸びても、それに反比例して増えた社会問題。身近には患者がいなかったが、それが目の前にいたとなれば話は変わる。


「たしか……、ネムの蔵書にそれ関係の本があったはず」

 大量に埋蔵されている本の中で、『認知と痴呆』と銘打たれたものがあったはずだ。そこになにかヒントがあるかもしれない。

 夕飯までの幾分か時間がある。素人の俺にできることはわずかかもしれないが、参考になるものがあるのなら縋ってみよう。

///

「後発的な脳の不可逆的な器質的障害、か……」

 オルクスの症状がどれくらいの状態で、回復が可能かと希望を探るために本を開いたが、読めば読むほど気分が暗くない。

 あれがオルクスの性格で、ただ単に忘れっぽい抜けたものだったらまだいい。そこは理解さえすれば折り合いがつく。

 けど、それが病気だったとすれば、俺にできることは何があるだろうか。

 魔女マリアがどれほどのものかは知らないが、俺は医者ではない。何の資格もなく、技術もなく、人に頼られることも助けることもない人生を歩んでいた。

 それを、いざ目の前に困った人がいたときに、俺にできることはそう多くない。

『認識障害は加齢による必然的な症状の一つです。けど、それはヒト種でのはなし。それが亜人種で見られたことは私の知見の中でもありません。非常に稀なことですね』

 亜人とはオークやエルフのようなヒトと似た肉体構造をしながら、ヒト以上の身体的特徴を持つ種族の統括名称のようで、寿命やかかりやすい病気、種族的に得意不得意がはっきりと分かれているらしい。

 その中でもオーク種は、強い肉体を持ち、病気にも強いとされているようだ。

「ヒト種でなら、認知症に効く薬とかはあるのか?」

『ないですね。基本的に脳は他の臓器と違って不可逆的な性質を持ちます。傷つけば修復できないし、欠損すれば補えない。外部からできることは痛みをとこることぐらいでしょうが、それが物理的になれば何らかな障害はセットです』

「んんん。やっぱ難しいか……ん。なにか騒がしいな」

 エントランスの方から誰かの叫び声が聞こえる。今日の仕事は終わったはずだが、マタタビが暴れているのか? ロックスタイルの掃除でもしているのだろうか。

 様子だけでも見てこよう。もしかしたら俺を探しているのかもしれない。

///

「――先生! マリア先生! オルクス知りませんか!?」

「落ち着くニャ! オルクスは診療が終わったら帰ったニャ!」

 エントランスに到着すれば、血相を変えたアルブが大声を出していた。

「まだ戻ってないの! オルクス、アー、オルクスどこ!?」

「落ち着いてください、アルブさん。マタタビの言う通り、オルクスさんは予約時間にこちらに来て、薬を受け取って帰られました。何があったんですか」

 アルブの様子を見るからに、あの後オルクスと合流はしていない。彼女がオルクスの話を聞いて来たのなら予定通りだが、どうやらそうではないらしい。

「わかりません! けど、どこにもいないんです! 家にも行きつけの酒場にも、どこにもですよ!」

 オルクスが帰ってからすでに六時間以上経過している。彼の住居までの距離は知らないが、アルブの様子では帰路に着いていればすでに到着していてもおかしくないようだ。

 それのはずなのに、行方の知れない状態。それが意味するところは。

「まさか、――徘徊?」

 認知症の症状の中で社会問題として取り上げられていたことは、行き先のない徘徊による行方不明や事故に巻き込まれることだ。

 本人は認知症ということを認識していない、もしくはそれすらも忘却し、どこかに向かうという行動すら途中で忘れる。忘れているからこそ動く。

 子供の迷子がわかりやすい。道に迷い、その迷いを払拭するために動く。そしてより迷う。

 子供ならば感情が出やすく、周りも気付きやすいが、それが大人ならどうだ。誰も彼もが、大人なら各個人に責任があると認識している。だからこそ、自分から迷っていることを助けてほしいと懇願しなければ、誰も迷っていることすら気付かない。気付かないから、より迷う。

 困っている人がいたら助けましょうと、幼少期の教育で習っていたとしても、それは身体に障害があるときしかわからない――心の病は、外からは見えないものだからだ。

 そのことを踏まえれば、――六時間という時間はあまりにも長い。数キロ、いや、数十キロになっている可能性すらある。

 オルクスが向かった先がヒトのいる方向ならまだ救いはあるだろうが、この建物の周辺は。広い草原の中に、ポツリと一軒だけある屋敷だ。

 ヒトの目のない方向に進んでしまっているとすれば、それはすでに遭難の域なのではないか。

「探しましょう。人手は足りませんが、できるだけ早く。マタタビ、ここの周辺の地図はある?」

「た、確か倉庫ニャ。探してくるニャ」

「お願い。アルブさんはこちらへ座って。一度落ち着いて、一緒にオルクスさんを捜索しましょう」

「落ち着いてだなんて、そんな無責任な! そうしている間に、オルクスがもっと離れちゃう! 先生は、そんなことが言えるんです!」

 他人事だから――その言葉は、たしかに的を射ている。

 俺はいつだって、誰かにとっての他人だった。悩んでいる人に共感できず、喜んでいる人を疎ましく思っていた。

 誰もかもが他人だったからこそ、俺は昨日のような失態をした。いままでそれをたしなめてくれる人がいなかった分、俺は存分に間違え続けいたのだろう。

 だからこそ、――今日の言葉は、昨日とは気持ちが違う。



「アルブさん、あなたの言う通り、確かに俺はあなたにとって他人です。それであなたを傷つけたことも自覚している。けれど、――」

 けれど、――今この気持だけは、きっと本物だ。

「けれど、今のあなたのように、オルクスさんを心配している気持ちに嘘はないです」

 美麗ながら、表情を歪めていたエルフの目が変わる。さっきまでいた焦りは、驚きに上書きされていた。

「先程オルクスさんがいらっしゃったときに、わずかですが違和感がありました。腰痛の薬を受け取りに来たのに、膝の薬と言っても疑問に思わなかった。そのことで帰り際にアルブさんにこちらに来てもらうように頼みましたが、思った以上に症状が進んでいる。彼は、おそらく認知症です」

「認知症、って。それはヒト種の病気でしょう? なんで、彼が……」

「それは今はわかりません。けど、アルブさんのお話も、今日のオルクスさんの様子も、今の状況がそれを物語っています。だからこそ、最悪の状況を打破するために、今できることを全力でします」

「地図、見つけたニャ!」

 ロール状になった巨大な紙を持ったマタタビが作業台に広げる。昨日この世界に誕生した俺にとっては初めての地図だが、世界が変わっても見方に大差はなさそうだ。

「西側と南側は、……集落は遠くない。東側に山、北側は小さな湖、か」

 南向きの屋敷から、昨日はアルブを追いかけて南側に走った。位置的には、その十倍ぐらいの先に集落が点在してある。西側も同様で、人の目は行き届く。

 北側の湖は、避暑地としての用途もあるようだ。人の気配がする場所なら保護してもらえる可能性は高まる。なら、問題があるとすれば東側の森だ。

 時刻は十八時を過ぎている。数時間もすれば日が暮れる。森の中に入っていたら、流石にこの時間からは探しに行けない。ミイラ取りがミイラになることだけはあってはいけない。

 けど、朝まで待てばそれこそ命取りになりかねない。通常の人なら、夜が深くなるなら無闇に動くことはないだろう。

 それが、認知症の可能性があればどうだ。常人のような判断能力が欠如した状態で、同じような判断をするとは考えにくい。その時の最悪は、きっと必然となる。

「近場の集落や町に連絡をとって、オルクスさんらしきオーク種の保護を要請しましょう。捜索は東側の森を重点的に展開すれば、森の外側くらいなら日が暮れても動けるかも知れません」

「わ、わたしが町まで走ります! 急げば数分で到着できるし、自警隊の駐屯地も近いです!」

「アルブさん、お願いします。けど、決して一人で先に進まないでください」

 気が揉めている彼女が、すぐに動いた。冷静さをなくさないようにと声をかけたが、果たして今の俺は冷静だろうか。

 一刻を争う状況ではあるが、判断を間違えれば後悔ではすまない。それは彼女がではなく、俺自身がだ。

 走って去っていくアルブの背を見送った。つられて外に出たが、風のような速さで、どんどん小さくなっていく。

「……マリア、俺にできることは他にあるか。できることがあるなら全部しておきたい」

 裡にいる魔女に語りかける。行方知らずを探すことの困難さは、日頃のニュースなどでもよく耳にしていた。

 山に入ったきり帰ってこない老人、川に遊びに行って流された子供、数秒目を離した隙に姿を消した女。それらの捜索で、最悪の結果になることもよくあるが、割と近くにいてじっとしていたこともある。終わりの見えないかくれんぼをいち早く終わらせるための手段は多いほうがいい。

『……私にできることはありません』

「おい、こんな状況だぞ。力を貸せ」

『いえ。立場として、としてできることは助言だけです。このような状況で私自身が出向いたことはないので、さすがにこれ以上のことは知らないんです。知らないことはできませんから』

 だったら黙って見とけってことかよ。ふざけるな。乗りかかった船じゃないが、危険性を摘み取れなかった俺たちにも責任はあるだろう。

「マタタビ! 東の森に行ってくる! 捜索隊が集まるまでに近場だけでも探してくる!」

 建物の中にいるにマタタビに声をかけ、東の森へと向かうために敷地の外に出る。遠くに見える鬱蒼とした森に不安の心が揺さぶられた。

『ちょっと! 話聞いてました!?』

「うるせー! 何もしないなら引っ込んでろ!」

「待つニャ! ゴシュジン一人は危険だから、ニャ―も一緒に行くニャ!」

 箒を手にしたマタタビが外に飛び出してきた。背中には、何かを摘めた鞄を背負っている。

「ありがとう、マタタビ。急ごう」

『あーもう! わかりました、わかりましたよ! マタタビから箒を借りてください!』

 しびれを切らしたマリアの声を聞き、何に使うかわからない箒を受け取った。

「これで何をするんだ。まさか、これで空を飛べってか?」

『それで見つかるなら苦労しません。私の言うとおりに、箒の柄で線を書いてください』

 マリアの指示で地面に描いた線は――円の上部を並列した二つの三角形が貫く形となっていた。

 どこか、猫の耳にも見えるその模様だが、線を繋いだ瞬間にまばゆい光とともに、――

「ニャ―」
「ンニャ」
「ニャ」
「シャー」
「ムニャ」

 数十匹の黒い子猫が出現した。

「何だこりゃ!?」

「ニャ―たち! 東の森に向かうニャ! 先に状況を確認ニャ!」

『あまり使いたくはないんですけどね。臨時仕様ですが、この子達も使い魔です。司令系統をマタタビに統合しているので、――』

「なんだ、それなら安心――」

『あ! 触っちゃダメ!』

「フシャー!!」

「イテッ!!」

 黒猫の一匹に思いっきり威嚇以上の感情で引っかかれた。それと同時に、すべての黒猫たちが、こちらに対して毛を逆立てている。

「マリアはこの子達に嫌われているニャ」

 遠慮のない猫パンチ(爪付き)がそれを物語っている。手をざっくり切りつけられたくらいの出血だ。マジで痛い。

「なんで!? 自分の使い魔だろ!?」

『いやぁ、面目ない。ちなみにマタタビも私のこと嫌いだよ』

「お前、前世で猫でも殺したの!?」

「だから司令塔はニャ―にしてるニャ。ニャ―たち、ゴシュジンはマリアじゃにゃいニャ! さっさと森に向かうニャ!」

 マタタビの号令に従い、黒猫たちがニャーニャーと鳴きながら森の方向へと走っていった。黒い影が帯状となり、深い森へと消えていく。

「ゴシュジンはとりあえず止血ニャ」

『猫の爪ってバイキンだらけなので、下手したら壊死しますよ』

「こわっ! 猫こわっ!!」

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